日本史の勉強


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001 2010/05/04(火) 21:58:46 ID:ts9QpxmoDk
日本史そのものには特別興味は無かったが、語呂暗記・リズム暗記などの手法に少々凝ったような気がする…

【原始文化】先土器文化は岩宿、縄文文化は大森貝塚

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187 2010/07/17(土) 22:52:15 ID:zGvqOCtUV6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 1】
 
 直轄地としての関東御領は、
 将軍が本家或いは領家として支配した荘園や国衙領で御分国は将軍の知行国である。
 御分国は当初、伊豆・相模・上総・下総・信濃・越後・武蔵・駿河・豊後の9か国であった。

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188 2010/07/17(土) 23:47:48 ID:zGvqOCtUV6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 2】
 
 いずれにせよ、公家政権や平氏政権と本質的な差はなく、武家政権としての不完全さを示している。
 この他、将軍が公家側と交渉して地頭や荘官として御家人を推薦する事の出来る関東御口入地がある。

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189 2010/07/18(日) 23:13:54 ID:bH8PITDjW6
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 3】
 
 また、荘園・国衙領において、将軍が自由に御家人に給与出来る地域を関東進止所領といい、
 たとえば、承久の乱の上皇方没収地もその類である。

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190 2010/07/19(月) 22:24:37 ID:HYu8Y2YTuo
【経済的基盤=関東御領及び関東御分国 4】
 
 さらに、御家人に課した、主として経済的な課役を関東御公事という。
 内裏・院御所・幕府の修造や諸儀式の費用などをさせた。
 尚、ここで使用されている「関東」という言葉は、京都の朝廷に対する鎌倉幕府を意味する。

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191 2010/07/19(月) 22:25:03 ID:HYu8Y2YTuo
【幕府成立の目処】
 
 1183:寿永の宣旨 → 東海・東山両道の実質上の行政権獲得
 1184:公文所・問注所設置 → 三機関揃う
 1185:守護・地頭設置権勅許 → 公的承認
 1192:任征夷大将軍
 
 ※ 1185年において実質ができ、1192年において名実完成とみる

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192 2010/07/20(火) 23:05:45 ID:mi4He64VXs
【源頼朝死後の情勢】
 
 1199:頼朝死。梶原景時離反 → 翌年追伐される
 1203:比企能員の乱。頼家、修繕寺に幽閉される → 翌年謀殺される
 1205:北条時政、畠山重忠を殺す。時政、平賀朝雅の将軍擁立をはかり失敗 → 失脚
 1213:和田義盛挙兵敗死
 1219:実朝殺される → 源氏将軍断絶

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193 2010/07/20(火) 23:06:04 ID:mi4He64VXs
【執権政治の確立 1】
 
 承久の乱で圧勝した幕府は、朝廷方を厳罰に処し、その所領3千余ヵ所を没収し、
 功績のあった将士をこれらの土地の地頭に任じた。
 こうして、朝廷の権威は急速に衰え、
 幕府の勢力範囲はにわかに増大して武家政権の基盤は強固となったが、
 同時に、幕府の実権を握っていた執権北条義時の地位も不動のものとなった。

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194 2010/07/21(水) 22:53:47 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 2】
 
 義時は1223年、国ごとの土地台帳(=大田文)を作らせ、全国にわたる土地支配の基礎を据えた。
 義時の後を継いだ泰時は、執権政治の強化に努め、執権の補佐役として連署を置き、
 ついで重要な政務や裁判を合議によって決するように11人からなる評定衆を設けた。

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195 2010/07/21(水) 22:54:04 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 3】
 
 さらに、1232年、彼は御家人の身分や所領を守り、
 御家人相互の、或いは御家人と荘園領主との間の紛争解決を主な目的に御成敗式目を制定した。

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196 2010/07/21(水) 23:17:58 ID:/InZ04Naak
【執権政治の確立 4】
 
 泰時の孫時頼は、有力御家人三浦氏を滅ぼし、幕府権力を一族で独占する体制を作り上げ、
 1249年には評定衆の補佐機関として引付衆を新設し、増加する裁判の公正敏速をはかった。
 執権政治はこうして武家社会の信望をあつめ、その子時宗の代にかけて最も安定する事となった。

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197 2010/07/21(水) 23:18:23 ID:/InZ04Naak
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 1】
 
 頼朝死後の鎌倉側の騒乱は、北条氏を中心とする幕府の再編成の苦しみであり、
 御家人の保護を旨とする幕府の基礎は、むしろ固まっていった。
 この事情を誤算して後鳥羽上皇が討幕の拳に出たのが承久の乱である。
 戦乱は、幕府側の圧勝に終わった。

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198 2010/07/22(木) 23:10:25 ID:/40p4.PZPQ
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 2】
 
 その結果、
  
  1. 後鳥羽→隠岐、土御門→土佐(のち阿波)、順徳→佐渡の配流と天皇の廃立
  2. 所領3千余ヵ所の没収を含む関係者の処分
  3. 京都守護にかわる六波羅探題の設置
  4. 新補地頭の設置
 
 という事になった。

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199 2010/07/22(木) 23:10:49 ID:/40p4.PZPQ
【鎌倉時代の大きな分岐点;承久の乱 3】
 
 《京都守護にかわる六波羅探題の設置》においては、
 朝廷の監視及び京都の警備の他、尾張(のち三河)以西の家人の統轄の権限が加わり、
 いわば、京都支局長の重責を担い、北条氏の一族が任ぜられた。
 
 《新補地頭の設置》においては、11町につき1町の免田の支給が重要。
 免田は、領主への年貢・公事を免除される田地の事をいい、
 わずか11分の1とはいえども、武士が実質的に完全に土地・人民を支配する事を意味し、
 武家領形成に一歩を進めた。
 
 こうして、幕府の権威は確立し、執権政治の展開を齎し、
 武家勢力が公家勢力に対して優位に立つに至った。
 これが、承久の乱の大きな意義である。

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200 2010/07/23(金) 23:02:17 ID:WMNzFbR7zc
【御成敗式目(貞永式目)】
 
 道理に基づき、先例と慣習を成文化した武家法であり、後世への影響が大きい。
 式目制定の意義や目的については、
 泰時が、当時、六波羅探題であった弟の重時に与えた手紙(1232年8月8日付及び9月11日付)
 によく示されており、要約すると…
  
  1. 頼朝以来の先例と慣習を成文化し、裁判の公正を期して基準をたてる
  2. 武家社会の道理に基づく
  3. 誰にも理解出来るように平易を旨とし、周知徹底をはかる
  4. 律令など公家法は否定せず、幕府の管内に施行する
 
 という事になる。
 
 全51条の内容をみると、守護・地頭の権限・訴訟・所領関係などの規定が多く、
 女性の立場が分割相続の慣習と家の存続の面から尊重されている。
 武家法の模範として、分国法などにも大きな影響を与えている。

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201 2010/07/24(土) 23:06:25 ID:PxN2vUykt6
【合議制の確立】
 
 1224:連署設置:執権の補佐(初任;時房)
 1225:評定衆設置:11人の合議に始まる
 1249:引付衆設置:評定衆の補佐と所領関係の訴訟

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202 2010/07/25(日) 23:05:16 ID:/aa9PMw1xk
【武士の荘園侵略 1】
 
 1221年の承久の乱以降、各地で地頭による荘園侵略が活発となり、
 荘園や公領の領主達、つまり、領家との間に紛争が拡大していった。

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203 2010/07/25(日) 23:48:17 ID:/aa9PMw1xk
【武士の荘園侵略 2】
 
 紛争の多くは、領家側が幕府に訴え、地頭の不法行為を阻止しようとするものであった。
 そこで幕府は、土地関係の裁判を公正かつ敏速に処理する為、1249年に引付衆を置いてこの訴訟に対応した。

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204 2010/07/25(日) 23:48:29 ID:/aa9PMw1xk
【武士の荘園侵略 3】
 
 しかし、同じ荘園で繰り返し紛争が生じる場合も多く、地頭による荘園侵略の勢いをとめられなかった。
 その後、領家側の対応策として、地頭に荘園の管理を一任し、
 定額の年貢の収納を請けおわせる地頭請[所]の契約を結んだりしたが、
 地頭が契約を履行しない事が多かった。

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205 2010/07/26(月) 23:24:58 ID://oGDA4sKg
【武士の荘園侵略 4】
 
 そこで、紛争の永久的解決を目的として、領家と地頭が荘園内の土地を折半し、
 相互に干渉する事なく、各々の土地と農民を支配する制度、つまり、下地中分が行われるようになった。

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206 2010/07/26(月) 23:25:14 ID://oGDA4sKg
【武士の荘園侵略 5】
 
 幕府は裁判の繁雑をきらい、この下地中分を積極的に奨励したが、
 この方法も結局は、和与による契約に過ぎなかった為、
 地頭の荘園侵略を最終的にくい止める事にはならなかった。

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207 2010/07/27(火) 23:07:05 ID:D38Nie0xgE
【鎌倉末期の商業と流通 1】
 
 中世においては、農業生産が増加し、手工業が分化してくると、商業も盛んになり、
 荘園の中心地や交通の要所などに定期市(=ひと月に6回開かれる六斎市…等)が開かれるようになった。

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208 2010/07/27(火) 23:07:22 ID:D38Nie0xgE
【鎌倉末期の商業と流通 2】
 
 市が固定してくると、常設店(=見世棚)もあらわれた。
 また、荘園領主のもとで座(=山城の大山崎離宮八幡宮を本所とする油座…等)が組織され、
 領主の命で生産を行い、一般の注文生産から市場生産にまで発展していった。

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209 2010/07/28(水) 23:13:54 ID:rmsnHoBOoE
【鎌倉末期の商業と流通 3】
 
 また、商品取引は遠隔地間でも行われるようになり、陸運業者(=馬借)が誕生した。
 しかし、大量輸送の為には、水運のほうが便利である故、海上輸送も活発になり、
 淀の津や大津・敦賀などでは、年貢の委託販売・運送・保管にあたる業者(=問丸)があらわれた。

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210 2010/07/29(木) 23:12:46 ID:ZuQc/4BHk6
【鎌倉末期の商業と流通 4】
 
 商品取引が活発になると、輸入された宋銭が市場でも使用されるようになり、
 続いて輸入された明銭の永楽通宝は、最も多く流通し、日本の標準的貨幣となった。

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211 2010/07/30(金) 23:05:37 ID:j7ul1bOE/s
【鎌倉末期の商業と流通 5】
 
 その貨幣にて年貢を納める…という銭納が行われるようになり、
 貨幣経済の発展は、銭を貸して高利をとる金融業者(=借上)を生み出した。

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212 2010/07/30(金) 23:05:57 ID:j7ul1bOE/s
【地頭 1】
 
 鎌倉時代においては、地頭が荘園侵略の先頭に立ち、
 公武の紛争の解決策としての地頭請・下地中分が結果的に侵略を推し進めた。
 
  1. 地頭の補任を通じて、武士は荘園や公領に割り込む。
  2. 幕府を背景とする地頭の力は強く、ともすれば年貢横領等の非法行為をとる。
 
 ここに土地をめぐる紛争が生じ、その解決策としてとられた上記の2つの方法が、
 結果的には、侵略の手段となってしまった。

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213 2010/07/31(土) 23:13:15 ID:oDsuisnUnY
【地頭 2】
 
 地頭の農民搾取の一例として、
 1275年の紀伊国寂楽寺領の阿氐河荘の百姓の訴状が挙げられる。
 彼らは、非常にたどたどしいカナ文で、
 請所の形で支配していた地頭の湯浅氏非道を訴えている。

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214 2010/07/31(土) 23:14:02 ID:oDsuisnUnY
【鎌倉時代から室町時代にかけて農業・手工業・商業の進展】
 
 鉄製農具や牛馬耕の普及、刈敷・草木灰等の肥料の改良により農業生産は著しく向上した。
 しかし、鎌倉時代においては、
  
  1. 二毛作は近畿・山陽道にとどまり
  2. 専門職人の独立はみられるものの注文生産で、定期市も月3回の三斎市程度であった
 
 つまり、室町時代に比べると、非常に遅れている事が判る(以下参照)。
 
 [二毛作] 諸国の百姓田稲を刈取るの後、其の跡に麦を蒔きて田麦と号す(新編追加)
 [市] かやつ(萱津)の東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて里も響くばかりののしりあへり。けふは市の日に当たりたるとぞ…。(東国紀行)

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215 2011/01/01(土) 19:30:49 ID:DU9FpZW4WI
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216 2011/01/05(水) 15:17:29 ID:/2csUQscsI
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217 2011/01/12(水) 14:11:36 ID:iTp8GYQStE
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218 2011/01/15(土) 15:20:13 ID:zXjjfZ2JYg
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219 2011/02/05(土) 12:58:22 ID:/aa9PMw1xk
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220 2011/02/10(木) 11:29:58 ID:wmYDBXsLvg
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221 2012/03/13(火) 19:13:50 ID:vq7TlaWPTo
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222 2012/07/24(火) 23:14:07 ID:y2FHDCqDxc
1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇
暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す

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223 2012/07/24(火) 23:57:20 ID:VuMC/3J6tU
地頭か領主のどちらかに支配者が定まっていればいいものを、
両者が反目し合っていたがために、両方からの二重搾取に喘いでいたような民がいる。
それが「地頭による虐げ」として伝承されたりしているのは、
領主の側によるプロパガンダ目的があったためと思われる。

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224 2012/12/03(月) 18:04:59 ID:HK5/GDah46
これは・・・高校生が受験用に持ち歩く日本史の豆本みたいですね。
几帳面な書き込み。

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225 2012/12/26(水) 07:31:21 ID:VdwvetVsCE:au



鹿児島の中央町の居酒屋に、
シロクマ電車の報道後、
イノシシが飛び込んだ。

この件は、『蘇我の入鹿』の命名の源と同じ、お知らせ。

入鹿の屋敷に、鹿が、肉食議論の折、
飛び込んだのだろう。

推古。古を推す。

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226 2013/01/01(火) 12:45:49 ID:tKyu4ipVvE
>>224
豆本ですかね?
授業で板書した内容を事細かに記した様に思えます。

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227 2013/01/06(日) 12:42:23 ID:RWZIb7PR1g
>>224,>>226
御厨さん、スブニールさん、お久しぶり。
歴史の勉強って難しいですよね。
私は大変苦労しました。
あの〜 高校生当時の話ですが…
同じクラスに或る男子生徒がおりまして、英・国・数・理において成績が「1」だったのです。誰もが認める学業成績落伍者ですよ。
しかし、社会だけ…特に歴史においてはよく知っていたんですよ。
小学校及び中学校で習う程度であればそこそこ出来ちゃうと思いますが、
高校生で習う課程での百点満点のテストで99点や98点を取って「あぁ〜1問間違っちゃったよ〜」なんて笑っている姿が思い出されます。
こういうふうに或る特別な教科だけ飛び抜けて出来る人って居るんですね。

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228 2013/01/10(木) 13:20:21 ID:kpozICUaS2
>>226
いやいや、「豆本」と書いたのはその几帳面さからでありまして。
授業中における板書内容と言われればそのほうが合ってますね。
しかし、学校を卒業してから… 歴史を語る事、ほとんどありませんね。
語ってところでそれについてきてくれる人が居ないせいですかね?

>>227
私は歴史の成績は4でした。つまり社会科全般ですね。
当時は好きか嫌いかではなく受験科目の一つなので試験のために勉強したという所です。
教科書のゴシック太文字を蛍光ペンで塗りそれを簡単に説明する箇所にアンダーラインを施すといった作業的内容。
こういう作業が勉強なのだと思っておりました。
思い返せば、歴史(日本史)においては近代歴史になる頃に学年末となり、
その部分は試験に出題される事なく過ぎてしまったので、殆ど覚えておらず…
最も大事な部分だったはずなのに。

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229 2013/01/19(土) 13:47:34 ID:RH5sm.UCYM
小学校時代は純粋に歴史が好きだったのですが中学に入ると試験の為の勉強という気になってしまい
好きだから、ではなくて、仕方なく、という気持ちに。
後者の気持ちで取り組むと試験のときだけは通用しますが後々になってからあれ?なんだっけ?という事になりますね。
当たり前ですよね。一時期のみ躍起に勉強した事なんて一時期のみ頭の中に残るだけ。大事なのはずっと続ける事。
英語だって中学・高校と成績は上でも普段喋ったり考えたりしないのでその知識(記憶)は消滅するだけ。
難しい構文の英文でも「This is a pen.」と同じようにずっと繰り返して言っていれば特に考える事なく言えるようになってしまうものです。
だから歴史においても好きという気持ちをずっと持ち続けて試験の為に、なんていう敗北地味た口実を作らずに取り組むべきだったと思いました。
何かを純粋に好きになる、っていうのは一つの才能なんですね。この純粋な気持ちはずっと取り組む姿勢を生むからです。
長々と失礼しました。

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230 2013/01/21(月) 11:25:40 ID:ruqPJlrJCY
素晴らしいスレッドですね!
勉強になります。
自分は歴史が苦手でした。
でも皆様のような考えを参考に再度勉強し直したいと思います。

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231 2013/01/26(土) 13:37:02 ID:RYiM9ZQIOw
>>229
それは仕方ないんじゃないかな?
だってさ、もし試験(ペーパーテスト等)を実施しなかったら生徒達が勉強に取り組むだろうか?
むしろ、そういう試験があるから生徒達が勉強をするという状況にならざるを得なくなる。
決して褒められたものではないと思うけれど、自分からすすんで勉強する者以外には良い効果だと思うよ、個人的に。
俺はそういう試験があったから勉強したほうの生徒だったから。
人生でも同じ事が言えるんじゃないかな?
巡りあった人間が色々と自分自身に助言してくれたほうが自分自身が良い方向に向かう。
どうやら俺は人一倍依頼心が強いようだがそう思う。

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232 2013/01/28(月) 13:50:30 ID:sqoJHPw2jU
>>227
πさん、お久しぶり。
文章中にあるような人物ですが、このような方は結構居ると思います。
或る特定の事柄にのみ異様な興味を示したり、または、その事についてよく知っていたり…
その範疇の一つでしょうね。
つまり、努力してやろう!という奮起を要する事なく、意識することなく自らすすんでやってしまうという才能を持っているのかも知れません。

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233 2013/02/07(木) 19:17:31 ID:1GtAPl6Fa6
歴史を「勉強する」というよりも
旅行や史跡巡りをするように「訪ねる」「辿る」という心持ちで愉しむ感覚。
そんな思いで、ゆっくりと。

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234 2013/02/13(水) 13:58:23 ID:x9LKmY.rEg
>>233
咲さんのことを見習いたいと思います。

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235 2013/02/14(木) 17:32:09 ID:JbjpPzEKyQ
>>233
咲さん、初めまして。
貴殿のように、心のゆとりを持ちたいものです。
ゆとりこそパワーの源ですね。
ゆとりがないと、焦ったり足掻いたり大変ですから。

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