仏典総合スレ
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華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
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「華厳経」十回向品第二十五の七(八十巻中二十九巻目)読了。
「一切の衆生をして悉く一切の資生の物を捨てて施す心に住せしめん」といいながら、
「菩薩の有する所の資生の具は 種々豊盈にして限億無く〜悉く十法の無量の刹に遍して 普く一切に施して充満せしむ」ともいう。
一見矛盾しているようにも見える両者の記述にも、厳密な整合性が伴っている。
「資生」とは仏語ではなく、「易経」坤卦の彖伝に出てくる陰陽道用語である。
その意味は、「資源」とか「資本」とかいった言葉の言語構造に当てはめて考えてみれば、よく分かる。
資源はモノだし、資本はカネ、一方で資生は命そのものだから、資生こそは資源や資本以上にも根本的なものであるといえる。
その資生を捨ててまでの、施与の志しを菩薩は一切衆生にまで備わらせながら、
自らの有する所の無量なる資生の具をこれまた一切衆生に施して、その際限はどこまでも限りないともいう。
「菩薩の資生が無量なら、その施しを受ける衆生がなぜ自らの資生を捨ててまでの施しを志さねばならないのか」
という疑問を抱かざるを得ないが、そこにもちゃんと、理に適った含蓄があるのである。
ちょうど「資生堂」という化粧品会社が日本にあるので、女の化粧に喩えて説明してみよう。
素が美人である女が化粧によってその美しさを増すこともあれば、素顔は不細工な女が化粧によってそれなりの
見栄えになることもある。巣が美人であれば、美しさを増すための化粧を自分がすることにも一定の余裕が
備わる一方、素顔の不細工さを取り繕うために化粧をやり尽くす所には、全く余裕がない。その余裕の無さが
さらに上質な化粧、さらにさらに上質な化粧といった、化粧への貪りを生むことになる。その貪りは結局、
素顔の不細工さへの諦観が本人に備わらないことには、どこまでも際限がない。化粧への貪りが際限ない
ままの状態でいて、なおかつ本人の、素顔に対する劣等感からなる苦しみもまた、持ち越されたままである。
「一切の衆生をして悉く一切の資生の物を捨てて施す心に住せしめん」といいながら、
「菩薩の有する所の資生の具は 種々豊盈にして限億無く〜悉く十法の無量の刹に遍して 普く一切に施して充満せしむ」ともいう。
一見矛盾しているようにも見える両者の記述にも、厳密な整合性が伴っている。
「資生」とは仏語ではなく、「易経」坤卦の彖伝に出てくる陰陽道用語である。
その意味は、「資源」とか「資本」とかいった言葉の言語構造に当てはめて考えてみれば、よく分かる。
資源はモノだし、資本はカネ、一方で資生は命そのものだから、資生こそは資源や資本以上にも根本的なものであるといえる。
その資生を捨ててまでの、施与の志しを菩薩は一切衆生にまで備わらせながら、
自らの有する所の無量なる資生の具をこれまた一切衆生に施して、その際限はどこまでも限りないともいう。
「菩薩の資生が無量なら、その施しを受ける衆生がなぜ自らの資生を捨ててまでの施しを志さねばならないのか」
という疑問を抱かざるを得ないが、そこにもちゃんと、理に適った含蓄があるのである。
ちょうど「資生堂」という化粧品会社が日本にあるので、女の化粧に喩えて説明してみよう。
素が美人である女が化粧によってその美しさを増すこともあれば、素顔は不細工な女が化粧によってそれなりの
見栄えになることもある。巣が美人であれば、美しさを増すための化粧を自分がすることにも一定の余裕が
備わる一方、素顔の不細工さを取り繕うために化粧をやり尽くす所には、全く余裕がない。その余裕の無さが
さらに上質な化粧、さらにさらに上質な化粧といった、化粧への貪りを生むことになる。その貪りは結局、
素顔の不細工さへの諦観が本人に備わらないことには、どこまでも際限がない。化粧への貪りが際限ない
ままの状態でいて、なおかつ本人の、素顔に対する劣等感からなる苦しみもまた、持ち越されたままである。
だからその、素顔の不細工さに対する劣等感をまず捨てさせる。それはすなわち、自らの生命としての存在価値から
完全に捨て去れるぐらいの達観を得させるということであり、上記の「資生の物を捨てる」という記述と一致する。
それでこそ、素顔が美人か不細工かであるに関わらず、自らが化粧を行うことにも一定の余裕が備わる。
その余裕が備わった相手に対して、菩薩が施す「資生の具」も、これまた無量であり、「二度と化粧なんかしない」
というような極端への振れ切りも控えさせて、女であるなりの資生の化粧程度は、無量にやらせてやるのである。
「衆生に資生を捨て去る達観を抱かせながら、なおかつ菩薩が衆生に資生の具を施す」という本品の記述の意図する所は、
女の化粧に喩えてみるなら、以上のようだといえる。そして、菩薩が上記のような回向を実現するための行業が
「不動の業」であるとも本品にある。国訳一切経版の注釈には、「毀誉褒貶に動かされざる業」と説明されているが、
仏教教義上の「不動」といえば、必ずしもそればかりのことではない。ただ、この注釈ももちろん間違った「不動」の解釈などではなく、
「毀誉褒貶に動かされない」ということは、上記の女の化粧の喩えの内で、素顔が不細工な女が回りからの中傷などにも
打ちひしがれたりしないことがこの内に入るといえる。毀誉褒貶に動かされないための仏道修行にも色々あるわけだが、
菩薩はそのような修行を通じて、不細工な女が外見への中傷などに惑わされないようになるための手本ともなっていくのである。
春秋戦国時代の悪徳外交家である蘇秦や、暗黒帝国だった秦帝国で宰相として辣腕を振るった李斯など、若「年期に身分の低さに
対する多大なコンプレックスを抱いていた」というエピソードが「史記」の列伝などにもある。そのような上等ともいえない劣等感を
バネにして蘇秦や李斯が社会的に為した行いたるや、笑いものや鼻つまみもの扱いとされるほどにもろくでもないものであり、しかも
二人とも政争に巻き込まれての非業の最期を遂げている。資生を捨て去る志しを持てないが故に、甚だしい劣等感を抱く人間が、実際に
世の中に実害を及ぼす実例ともなっており、菩薩の資生を衆生に捨てさせる回向が、確かに天下の泰平にも寄与するものであることが分かる。
完全に捨て去れるぐらいの達観を得させるということであり、上記の「資生の物を捨てる」という記述と一致する。
それでこそ、素顔が美人か不細工かであるに関わらず、自らが化粧を行うことにも一定の余裕が備わる。
その余裕が備わった相手に対して、菩薩が施す「資生の具」も、これまた無量であり、「二度と化粧なんかしない」
というような極端への振れ切りも控えさせて、女であるなりの資生の化粧程度は、無量にやらせてやるのである。
「衆生に資生を捨て去る達観を抱かせながら、なおかつ菩薩が衆生に資生の具を施す」という本品の記述の意図する所は、
女の化粧に喩えてみるなら、以上のようだといえる。そして、菩薩が上記のような回向を実現するための行業が
「不動の業」であるとも本品にある。国訳一切経版の注釈には、「毀誉褒貶に動かされざる業」と説明されているが、
仏教教義上の「不動」といえば、必ずしもそればかりのことではない。ただ、この注釈ももちろん間違った「不動」の解釈などではなく、
「毀誉褒貶に動かされない」ということは、上記の女の化粧の喩えの内で、素顔が不細工な女が回りからの中傷などにも
打ちひしがれたりしないことがこの内に入るといえる。毀誉褒貶に動かされないための仏道修行にも色々あるわけだが、
菩薩はそのような修行を通じて、不細工な女が外見への中傷などに惑わされないようになるための手本ともなっていくのである。
春秋戦国時代の悪徳外交家である蘇秦や、暗黒帝国だった秦帝国で宰相として辣腕を振るった李斯など、若「年期に身分の低さに
対する多大なコンプレックスを抱いていた」というエピソードが「史記」の列伝などにもある。そのような上等ともいえない劣等感を
バネにして蘇秦や李斯が社会的に為した行いたるや、笑いものや鼻つまみもの扱いとされるほどにもろくでもないものであり、しかも
二人とも政争に巻き込まれての非業の最期を遂げている。資生を捨て去る志しを持てないが故に、甚だしい劣等感を抱く人間が、実際に
世の中に実害を及ぼす実例ともなっており、菩薩の資生を衆生に捨てさせる回向が、確かに天下の泰平にも寄与するものであることが分かる。
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