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聖書 Part12


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001 2013/08/19(月) 13:19:08 ID:TB4y1qACAM
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。

「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。

ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。

四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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002 2013/08/19(月) 13:23:47 ID:TB4y1qACAM
聖書信仰に司どられて来た「西洋2000年のペテンの歴史」は、
儒法に司られて来た「中国4000年の農産奨励の歴史」に脆くも敗れ去る。
いくら王朝が断絶されているとはいえ、4000年の長きに渡って農を尊び商を戒めて来たこと
からなる国力の増強そのものは保たれ続けて、今に至ってのマンパワーでの圧倒ともなっている。

ただ中国も、何もかもをペテンで塗り固めて来た西洋ぐらいには勝てるというだけのことで、
自分たちは自分たちでこれまた深刻な問題を抱え続けている。それが、ここ2783年に渡る
「質よりも量の過度の優先」という問題である。周による治世が決定的に衰えた春秋時代以降、
中国は専ら物的な威力ばかりを蓄えて行くことに邁進し続けて、夏殷周三代の上質な為政を本格的
に復活させることまでは疎かにして来た。周代以降にそれなりに良質な治世を確立していた漢や唐や
南宋といった王朝といえども、すでに相当に低下させられてしまっている中国人民の民度に合わせて、
太古の時代の習俗を完全に復活させることは見送って、当世の習俗こそを興隆させていたのだった。
(「漢書」礼楽志や郊祀志などにも、周代以前の礼法や祭祀の復元を見送った記録がある)

そのようなままでは結局、力で力を圧倒する、聖書圏や蒙古帝国などとも五十歩百歩な存在のまま
でしかいられない。だからこそ、またしもの報復による倒壊すらもが避けられるものではない。

量だけでなく、質の面でも、人類史上最良質の部類にあたる文化文明に立ち戻ることで初めて、
総力戦が終了して後のこの世界が、千年を超えるような泰平や繁栄に与れることもまた見込まれる。
そのためには、殷代や周代の中国文明すらをも、中国本国以上に色濃く受け継いでいる日本の習俗
などをも参考にすべきである。殷の名臣箕子が「洪範九疇」のような為政の秘訣を元手に古代朝鮮で
育んでいた民度の高さなども、もはやこの日本ぐらいにしか保全されていないわけだから、そこは
中国人といえども「より長寿なものに謙る」姿勢で以って見習っていかねばならない部分となっている。
そしてそれはそれで、洪範九疇も収録されている四書五経の秘奥の部分に倣うことともなるのである。

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003 2013/08/19(月) 14:12:33 ID:RZnT1J/MIE:au
「闕党の童子、命を将う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なり(既出)」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)

自分たちではろくに農産にも励まないくせに、人の先ばかりを行こうとして、
不相応にも他者に恵もうなどとしていた古代のイスラエル人やローマ人はさしずめ、
上の童子の如き存在であろう。ただでさえ未熟なくせに、今以上に成長する気もない。

「喪事は進むこと有りて退くこと無し」
「弔事は(冥土へと)進むことはあっても(この世へと)退くことはないのが主旨である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

白人と黒人は、ただただ先へ先へと進みたがる傾向がある一方で、
黄色人種やインド人などは、「進退」に節度を持たせることを重んじたがる。
どちらのほうがより生き急いでいるのかといえば、それは前者のほうなのだ。
実際に、白人と黒人が主体を占めた聖書圏こそは、文化圏として生き急ぐことともなった。

「立春の日、天子は親ら三公、九卿、諸侯、大夫を師いて、以って春を東郊に迎う。還反りて公卿、諸侯、大夫を朝に
於いて賞し、相に命じて徳を布き令を和らげ、慶を行い恵を施し、下は兆民に及ぶ。慶賜遂行して当たらざること毋からしむ」
「立春の日、天子は自ら公卿諸侯大夫を率いて、東郊で春を迎える。帰還すれば公卿諸侯大夫を朝廷で賞し、大尽に命じて
徳治を敷き法令を和らげ、慶事を行って恵みを施し、その功徳は下々の万民にまで及ぶ。慶賜が一人として外れないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六)

君臣候公大夫が足並みを揃えての徳治によってこそ、万人にも恵みが施される。
自分ばかりがさっさと進みたがるような小僧然とした有り方では、到底不可能なことだ。

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004 2013/08/19(月) 14:32:43 ID:TB4y1qACAM
>>1画は、四書五経などの儒学が中国の国学扱いとされ、
「史記」が体系的な書物として纏め上げられて間もなかった
前漢宣帝の代のころの「世界に占める各国GDPの比率」だ。
(世界に占める人口比では、前漢は今の中国とほぼ同等)

漢代や唐代や宋代の中国は、実際とんでもなかった。
儒学がよく尊ばれていた頃の中国は絶大な栄華を誇った一方、
諸侯の権力争いや外国からの征服のために儒学も退けられて
いたような時代にこそ、中国も弱体化してしまっていた。

人口比率でまた世界を圧倒している今ですら、
中国はまだ、弱ったままの状態の部類に入るんだ。何しろ、
儒学教育が共産制によって退けられたままでいるのだから。

儒学を意図的に学ばなくたって、世の中や人々をよくして
行こうとすれば自然と、儒学の教条にも則ることとなるわけだが、
もしも確信的に儒学の教学こそを学び込んでそれに則ろうと
したなら、それこそ、未曾有の繁栄が約束もされるわけだ。

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005 2013/08/20(火) 14:52:26 ID:YlKAq6VfwU
「菩薩は歓喜地に住すれば、多くの歓喜、多くの浄信、多くの愛楽、多くの適悦、
多くの欣慶、多くの踊躍、多くの勇猛、多くの無闘諍、多くの無悩害、多くの無瞋恨を成就す」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)

「諸の凡夫は心邪見に堕し、無明に覆翳せられ、驕慢の高幢を立て、渇愛の網中に入り、
謟誑の稠林を行じ、自ら出ずること能わず、心と慳嫉と相応して捨てず、恒に諸趣の受生の
因縁を造り、貪恚愚癡をもつて諸業を積集し、日夜に増長し、忿恨の風を以って心識の火を
吹きて熾然として息まず、凡そ作す所の業は皆顛倒と相応し、欲流、有流、無明流、見流相続
して心意識の種子を起こし、三界の田中に於いて復苦の芽を生ず、謂わゆる名色共生して離れず、
此の名色増長して六処の聚楽に生じ、中に於いて相対して觸を生ず、觸の故に受を生じ、受によりて
愛を生じ、愛増長するが故に取を生じ、取増長するが故に有を生じ、有生ずるが故に生老病死憂悲苦悩有り」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)

上二つの菩薩と凡夫にまつわる心理描写などは、非常に具体的かつ現実性に即したものとなっている。
これは、「華厳経」の著者にあたる人物が、本当に菩薩や仏の境地にある解脱者であったからこそ把捉できた
ものであり、菩薩こそは、自らの心象と愚夫の心象とのいずれをも客観視することができる証拠となっている。

煩悩愚縛の凡夫の側からは、そのようなことは不可能である。菩薩や仏の境地が理解できないのは
もちろんのこと、上にあるような、愚かしい自分たち自身の心象を自覚的に理解することもできない。
無知蒙昧の闇に暗まされて、汚濁を貪るといった状態を、多少想像する程度のことはできるが、それが
自分たち自身の有り様であるとまでは受け入れられず、まるで他人事のように語ってしまったりするのである。

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006 2013/08/20(火) 14:55:26 ID:YlKAq6VfwU
そういう人間は、自分たち自身の心象を具体的に描写することにかけては、非常に消極的である。
もちろん、上の菩薩の境地のような清浄さと共に居られているわけでもないから、そんなことを語れば
全くの偽証となってしまう。かといって、汚濁にまみれている自分たちの内心をありのままに説明させられ
たりするのも屈辱なので、「光に満ち溢れている」とか「神に大胆に近づいている」とかいった抽象的な
表現で済ませようとする。それこそ、汚濁にまみれた暗愚な心の正当化や美化そのものであるわけで、
そのような転倒夢想に陥って頑なとなり、濁念の織の中から出て来られなくなることまでもが、
上の「華厳経」における凡夫の心理描写などにおいては精細に説明されているわけである。

また、凡夫が凡夫なりに想像してみようとする聖人像なども稚拙なものであり、上の菩薩の心理描写のような
有機性を全く欠いていたりする。とにかく情念全般を完全に押し殺した機械のような心理状態こそは聖人の
それであるなどと決め付けて、少しでも情念を帯びているような人間はそれだけで「聖人ではない」などと
決め付けようとする。自分で捏造した身勝手な尺度で勝手に聖人に相当するような人間を皆無と決めつけ、
全く素性も知れないような何者かのみが聖賢の条件を満たしているかもしれないなどとする、そのような
手順で以って、現実上の人間を一切尊崇の対象としないでいようとするような思い上がりにまみれた凡夫が
帰依の対象とするものとしてこそ、本当は実在しない形而上の超越神なぞが打ってつけともなっている。

煩悩愚縛の凡夫に接せられるというのならば、聖賢といえどもむしろ激情を発するであろう。
いつでも無念無想の仏の境地に至れる上達者といえども、相手となる凡夫を済度するためにこそ、
菩薩程度の立場から激情を帯びたような叱咤を施すこともあるであろう。少なくともそれが、
大通知勝仏の如き大乗仏教の理念に適おうとする聖賢のあり方であるのには違いない。

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007 2013/08/20(火) 14:58:47 ID:5Gnctpd/cQ:au
それは、仏門の聖賢ばかりに限ったことでもない。儒家の聖人である孔子もまた、宰我の如き孝心に欠ける
弟子への怒りを隠さなかった。無闇に腹を立てたりしないでいられるのは、半ば臆病者扱いされる程にも
貞節だった孔子自身の朝廷での振舞いなどからも知れたことであるけれども、弟子を教育することにかけて
の熱心さも半端なものではなかったから、その弟子に失望させられた時の落胆もまた、怒りを隠しきれない
ほどのものだったわけである。それは結局、菩薩の衆生に対する菩提心の発露などとも本質的には似通った
ものであったわけで、決して孔子の度量の小ささなどが露呈した場面だったわけではないのである。

「激情を発したりするような未熟な相手に教わりたくもないし、そうなりたくもない」というのが、
凡夫が向上を拒む上での常套句ともなっている。少しでも本物の向上を志すのであれば、そのような
言い訳による凝り固まりからは脱却して行かねばならない。聖賢は、未だ未熟なままであるおまえの
ためにこそ、わざわざあえて情的でいたりもしてくれるのだから、むしろそれに感謝すらすべきなのだ。

「爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に備わっていることなど
を期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度されることもある。寛容であれば徳も広大となる。
(本物の聖賢には、暗愚頑迷の徒すらをも済度してやろうとする心意気が生ずる。大乗の理念にも通ずる所)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)

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008 2013/08/21(水) 12:56:04 ID:rENfyiaE2.
赤穂浪士討ち入り事件において、浪士たちの諸武家や一般からの人気が
あまりにも大きすぎたために、徳川綱吉も自ら裁決を下すことをためらって、
皇室からの出家者である公弁法親王にその処断の如何を請うた。親王は
直接的には返答をしなかったが、「なにも赦すばかりが仏の慈悲ではない」
ということを暗に示唆して、綱吉に全員切腹の裁決を促したという。

果たして、その奨めがそのまま実行に移されて、江戸大目付、仙石伯耆守の
元に即日自首した赤穂浪士全員の切腹が執行された。当初は人々からの大きな
非難の声が上がり、日本橋付近に常設されていた忠孝を奨励する御布令に泥が
塗りつけられるなどの事件までもが発生したが、まんまと生き延びた場合の
赤穂浪士たちが不行跡を働いて名誉を傷つけるようなこともなくて済まされた
ものだから、浪士たちも永遠の英雄として扱われる資格を得られたのだった。

赤穂浪士たちの行いは、ただ法規に反しているのみならず、普遍的な道義にも
反している面があった。「徒党派閥の私的編制の禁」という当時の法度は、
「論語」衛霊公第十五・二二の「君子は群して党せず」という徳目などにも
反するものであるから、五十人にも迫るような戦闘集団を私的に編制して
私邸に討ち入った赤穂浪士の行いなども、決して道義的に赦されたものではない。
だから、その分だけでも切腹という措置によって罪責を償う必要があった。
それで実際に引責が実行されて、後には「亡き主君を追っての討ち死に」という
美談のみが残ったものだから、浪士たちも永遠の英雄となることができたのである。

罪である部分が赦されなかったからこそ、永遠の英雄ともなることができた。
これこそは、公弁法親王の言われた「赦すばかりではない仏の慈悲」による
計らいからなる果報であったといえる。あえて罪を赦さぬところにある優しさ
というものを知れる者こそは、仏の心を計り知れる者でもあるのだといえる。

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009 2013/08/21(水) 13:00:44 ID:rENfyiaE2.
赤穂浪士討ち入り事件に際しても、江戸大目付の仙石伯耆守のみならず、
多くの目付武士たちが陰に陽に赤穂浪士たちを監視して、厳正な処罰下に置いた。
そういう役職が整備されているのでなければ、そもそも士大夫の切腹などを
公正に執り行う目処も立たない。実際、今の警察などは目付に相当する役職を
廃して、名前だけ似せた「警視」などという役職を、単なる上位の警察官として
設置している。目付はそうではなく、低禄や身分の低さと引き換えに、切腹級
の公務者の引責をも事務的に司っていたわけで、その目付に相当する役職を
なくしてしまった今の警察などでは、実際に引責自殺すら辞すべきでないような
放火殺人級の罪を犯した警察官すらもが、無罪放免にされる事態となっている。

政治家や公務員などの重職に就く人間の罪をあえて赦さないために置かれる
目付の如き公正な監察官の役職が、実権を伴って設置されているときの権力機構
というのは、清廉さを保つことができる。江戸時代の日本の為政の参考とされた
漢代の中国などにおいても、「刺史」や「州牧」と呼ばれる監察官が実権を以って
行政腐敗の予防にも務めていたために、>>1画ほどにも全国規模での経済的繁栄が
実現されていながらも、傾国級の腐敗などを招かずに済ますことができたのだった。

罪をあえて赦さないために置かれる、実権を伴う公正な監察官が、中国で
廃されたのは北宋以降、日本で廃されたのは明治以降のことである。その後も
国家公安委員会や教育委員会の如き検証機関が一応設置されたりはしたが、
それらの機関自体が警察や教職の自浄作用ではなく、保身や身勝手な統制のため
に利用されてしまったものだから、目付のような役割を果たすこともできなかった。

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010 2013/08/21(水) 13:33:21 ID:is8E0Cw7Io:au
それはむしろ、聖書信仰の「監視する神への崇拝」などにも感化されて、監察者
というものが神聖化されてしまったからこそ来たしてしまった不祥事でもある。
むしろ、監察者などは卑しい存在であり、卑しいながらに必要悪として介在する
ものと捉えられたほうが、目付の如き節度を保った公正な監視の指針ともなる。
残念ながら放任状態では腐敗を来たさざるを得ない世の中を、これまた「お目汚し」
というさして気品があるとも言えないような手段によって防腐して行く必要悪。
監視行為が聖域の行いなどとして扱われなくなればこそ、そうでいられるのである。

「大の小に適くに五美有り。其の罪戻を宥し、其の過失を赦し、
其の災患を救い、其の徳刑を賞し、其の及ばざるを教う」
「偉大な相手が卑小な相手に接する上で適した美徳というものがおよそ五つある。
その罪を許し、過ちを赦し、災難を救い、自分たちでの道義に適った刑罰を褒め、
至らない部分を教導してやる、この五つである。(卑小とされる信者たち同士での
赦し合いを促すエホバの態度は、偉大な者としての美徳に適ったものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)

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011 2013/08/22(木) 14:18:31 ID:bkNVm6PPK2
「白痴」とは、「明白な痴人」という意味であり、差別用語として言葉狩りに遭う以前は、真性の知的障害者を
指したり、頭のおかしげな人間を比喩的に形容したりするために用いられて来た言葉である。「明白な」という
語義を「真性の」という意味合いで用いることもできれば、「極端にひどい」という意味合いで用いる
こともできるから、上二つの語法が並立して用いられて来たのである。

信者の知的退行を悪用するようなカルト宗教は、その白痴という言葉の持つ「明白な」という意味合いを
「光に満ちた」などと倒錯させることで、信者の白痴常態を正当化する。それは、白痴をidiotなどと呼ぶ
西洋においても本質的には同じことである。知能が低いことや、頭がおかしいことといえども、それが
「明白」ですらあれば、光に満ちているようで素晴らしいとする。それは特に、世の中が「カラマーゾフの兄弟」
におけるイワンの世情描写のような陰惨さにまみれていればいるほど、そう思い込みやすいことでもある。
陰惨な現実にまつわる知識を取り入れれば取り入れるほど、自分自身の脳内までもが汚されたような気分になる、だから、
そのような知識を理解することもできないような「明白」な蒙昧状態こそは光に満ちているなどと思い込むのである。

一方で、カルト宗教が大っぴらに蔓延してしまっているような世の中こそは陰惨さにまみれることとも
なるわけだから、世の中を暗黒状態に陥れることと、その中での白痴状態を「光に満ちている」などと
思い込ませることが一切合切、カルト宗教によるマッチポンプの罪業であるといえる。

正統な宗教によるのであれ、堅実な徳治によるのであれ、現実こそが光輝なる泰平や繁栄に導かれたならば、
そのような世の中にまつわる知識を取り入れたりすることが「闇に呑み込まれる」ようなことになるわけもない。
むしろ、そのような世の中のことをよく学んでいくことのほうが、自らの脳内を光大なる知識によって満たす
こととなるわけだから、正統な宗教や仁徳を旨とする思想によっては、白痴状態で現実から逃避したりする
ことは決してよしとされず、それこそはかえって「暗愚」に苛まれた状態と見なされるのである。

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012 2013/08/22(木) 14:22:55 ID:bkNVm6PPK2
徳治や正統な宗教は、世の中全体から光に満ちさせるものだから、白痴なども暗愚扱いに処することができる一方、
カルト宗教は世の中のほうを暗黒状態に陥れるものだから、白痴状態によって現実逃避する者を「光に満ちている」
などと言いくるめようともする。いずれも、人々の住まう世の中からどうにかしてしまう点が共通していて、
個々の信者や庶民に訴えかけることばかりが独立して存在しているわけではない。徳治が実現された漢代の中国の
繁栄っぷりと、キリスト教が提唱された頃のローマ帝国の窮乏ぶりの対比も>>1画の如くであり、そもそもが
カルトが受け入れられるような環境からしてすでに暗黒状態であることを指し示した好例ともなっている。

だからこそ、社会規模からの公共的な要求に即して、カルトを排して正学正教を重んじていかねばならない
ということがいえるわけだが、カルト教団たるや、自分たちこそが直視し難い暗黒の世の中を招いている
ことに対しては徹底的な否認を決め込み、その真っ暗闇な世の中における現実逃避の手段としての白痴化洗脳を
信者に施してやった結果、信者が光に満ちたような気分になったというその部分ばかりを囃し立てようとする。

そりゃあ、世の中を真っ暗闇に陥れることから自分たちのマッチポンプの一環であることなどを認めたならば、
カルト教団など一日たりとも存続の余地がなくなってしまうわけだから、そうであることを否認し続ける
ことこそは、カルト教団を存続して行く上での肝心要の取り決めでもあるのに違いない。

カルト教団の運営者たち自身からして、現実逃避のための自己洗脳に長けていたりもするものだから、
自分たちこそはマッチポンプ災禍の凶悪犯であるということを自覚させることすらなかなか難しいこととなっている。

せめてでも、カルトの摘発に臨む者たち自身は、カルトこそが暗黒の世をもたらす元凶となっていることを
しっかりとわきまえて、その世の中の内側での白痴化洗脳による信者たちへの救済ごっここそは自分たちの
本業だなどと決め込んでいるカルト教団の欺瞞にたぶらかされないようにすることである。

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013 2013/08/22(木) 14:58:35 ID:SS/46SceC2:au
カルトがあくまで信者への救済を自己正当化の根拠とし、世の中を暗黒へと陥れる元凶となっていることを
否認し続けるようならば、真性の白痴でもあるような累犯障害者を強制入院送りにするようにして、
カルトの親玉を有無を言わさぬ摘発の対象とすることもまた必要となるであろう。いくら救済者じみた修辞を
駆使するのであっても、それが全くの偽善であることを見抜いて、相手にしないようにしなければならない。

「昔武王商に克ち、天下に光有らしむ。〜四方に照臨するを明と曰う」
「昔武王が殷の紂王を放伐し、天下に光を有らしめた。(そのように)四方に照臨することを明という。
(キリスト教徒の光など、ちっとも天下を照臨したりはしない。闇の倒錯でなければ、ちっぽけな光よ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)

あと、脈絡はあまりないが、面白い記事を発見。

「昔有仍氏女を生む。黰にして甚だ美なり。光以て鑑とす可し。名づけて玄妻と曰う」
「昔有仍氏が女子を産んだ時、その娘の髪が漆黒で大変美しかった。その漆黒さの
放つ光輝きこそは鑑となされるべしだということで、娘は玄妻と名づけられた。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)

昔から、黒髪の輝きこそは好まれていたという。しかもただ好まれるだけでなく、模範とされるべきだと。
実際に漆器の黒呂塗りなどにも反映されているようだが、黒いものの輝きこそを尊ぶというところに、
東洋人ならではの慧眼が備わっているように思う。逆に、白人あたりは自分たちの肌の白さこそを
「光の種族」として鼻にかけて来ているわけで、それとも対照的な美意識だといえる。

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014 2013/08/23(金) 14:39:25 ID:fVTrYj4D.Y
理想的な封建制度下においては、それぞれに独立的な才徳を養った臣下が主君の下に結集して、
調和の取れた徳治に励んで行く。堯舜時代の四岳だとか、漢の劉邦の下に集った数多の能臣たち
だとかがその好例である。放伐革命によって王朝を打ち立てた殷の湯王や周の武王のような場合には、
数多の能臣が集うというよりは、伊尹や周公の如き弧臣が突出した能力を発揮してしまう場合の
ほうが多いようだが、(放伐革命自体、突出した能力を持つ臣下に依存してしまう側面があるため)
これとてやはり、才徳ある臣下が自力によって王を輔弼している点では変わりないものである。

正統な封建制が理想とするのは、天下国家に遍き治世の実現であるから、そこで為政に励む臣下たちが
必要とする能力もまた、徳治を実行して行く能力に限られる。鶏鳴狗盗の如き雑多な能力は無益である
のみならず、乱世を呼び込む害力とすらなりかねないものだから、かえってないほうがマシともなる。

すると結局、封建制度下での徳治のために臣下が必要とする能力というのは、その養成の仕方からして
限られて行くこととなる。家や親の名誉に即して養われる能力こそは徳治のためにも有用となる一方、
自分個人の虚栄の実現のために養われる能力などは、かえって有害なものとすらなりかねない。李斯が
虚栄欲を糧として荀子の門下で身に付けた法家的統治の能力なども、確かに秦国を統一中華帝国にのし上げる
ほどもの業績を挙げはしたものの、そこにそれぞれの家譜を重んずるような篤実さが全く備わっていなかった
ものだから、帝室の身内同士での争いを元凶とした秦帝国の早期崩壊に歯止めをかけることもできなかったのだった。

そもそもが秦という国自体、国の繁栄のためというよりは、自分個人が国家利権のおこぼれに与って甘い汁を
吸いたいがために従属したような佞臣ばかりで塗り固められていたものだから、長期の治世を実現できる
見込みなど始めからなかったのだとも言える。始皇帝の実父にして李斯とも並ぶ重臣だった呂不韋からして、
ただ巨根であるだけの男すらをも食客として囲い込んで利用するぐらいのものだったわけだから、まあ、
秦という国の権力構造からして、治世ではなく乱世の誘発こそを本分としていたことが確かだといえる。

返信する

015 2013/08/23(金) 14:41:50 ID:fVTrYj4D.Y
ろくでもないような能力の持ち主でも囲い込んでやろうとするような所にこそ、権力の嵩にかかって
偉ぶりたがるようなろくでなしが集って来るものである。被雇用者が自らの能力によって国家のような
大局社会からの福利厚生に貢献するのではなく、むしろ被雇用者が雇用者からの権力の委譲を受けた結果、
天下国家の公益を損なうような暴慢にすら明け暮れ出す。食客制度やフラタニティのようないかがわしい
雇用制度の元では、そのようなことすらもが黙認されかねないので、やはり徳治のためには、公正な
君臣関係に基づく雇用を主体とした為政に取り組んで行かねばならない。非公式なフラタニティが陰に
寄り添って、正統な国家社禝に基づく為政を形骸化させてしまうようなこともまた決してあってはならない。

純正な君臣関係において、忠孝を主として才徳を養った臣下が、君を尊びつつ己が能力を発揮して行く
というのが、一つの自己完結した健全な政治構造となっている。そこに鶏鳴狗盗な雑能の取り立てだとか、
裏から食客を咬ませての権力の二重構造化だとかの不純物を介在させれば、そのせいで国家による治世も
危ぶまれる上、国に尽くすことではなく、自らが利権を貪ることを第一とするようなならず者ばかりで
権力機構が埋め尽くされることとなってしまう。そうならないためには、忠孝を主とした為政をより強化
する目的で、太古の昔に至るまでの家の先祖たちの、神仏としての崇敬すらをも実施して行くべきだといえる。

私益第一な魂胆や僭越な友愛によって国権すらをも脅かそうとするような者こそは、親への孝行だの
先祖崇拝だのは全くの有害無益だとすら決め付けようとする。それもそのはず、そのような連中が
世の中にのさばることを防ぐためにこそ、親先祖への崇敬もまた篤く営まれて行くべきなのだから、
連中がひどく嫌がる にもかかわらずではなくだからこそ 孝養に励んで行くべきだと言えるのである。

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016 2013/08/23(金) 14:42:21 ID:lM1cg84NfA:au
「公曰く、吾が享祀豊潔なり、神必ず我れに據らん。対えて曰く、
臣之れを聞く、(以下既出)鬼神は人を実に親しむ非ず、惟だ徳に是れ依ると」
「虢公『わしの所での祭祀における神への供物の捧げようはそれはそれは豊かなものだ。きっと神は
我らこそを拠り頼んでくれるに違いない』 宮之奇『臣はこう聞いております。神は特定の相手を
親しんだりすることはなく、ただ仁徳にのみ拠り頼む者だと』(まず神を拠り頼むものではなく、
拠り頼んでもらうものとして扱っている。その上で、財力にものをいわせて供物をつぎ込むような
人間ではなく、仁徳あるものにこそ拠り頼むともしている。本物の神は力と主としない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公五年より)

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017 2013/08/24(土) 14:36:28 ID:ysP/yGcf8o
どんなに身体を鍛えたり、重武装を纏ったりする以上にも、心を強からしめることこそは、
最も根本からの強さを養うこととなるために、最勝たり得るものである。

心の強さを養うための教学として最勝なのは仏教だが、別に仏教とまで行かずとも、儒学によってですら、
洋学や聖書信仰によって精神力を根底まで貶められている現代人などよりは、よっぽど強い心を養えるものである。

天下国家のためとあらば落命すら辞さない仁の心は、未だ劣情にかられる面があるという点では未熟な
ものであるにしたって、何らの志しによっても命を賭すことなど考えられもしないような臆病心よりは
頑強なものであるし、また、ただただ命を危うからしめたりする蛮勇よりも懸命で篤実なものである。

純粋な儒者は武術や兵法を習ったりすることすらないが、そうであっても、天下に泰平を開こうとする
その志しによって、堅甲利兵を擁する戦好きの権力者などを相手に大上段の構えで応じられる所がある。
それは、ある種の素養を身に付けるという手段の先にある目的が、ただただ無闇に武装を強化して
いるような連中の目的などよりも明白に潔癖であるからであるのはもちろんのこと、だからこそ、
そのための儒学の修養という手段によって、自らの心強さを存分に養って来られているからでもある。

儒学の修養者程度の心の強さは、天下万人とまでは行かずとも、全人口の一割程度に相当するような
為政者が総出で養うぐらいのことはできるものである。それにより、そこまでの心強さを自力で持てて
いるわけではないような民衆までもが感化されて、最低でも最悪の悪行にまでは手を出さないようになる。
為政者がみな引責自殺ぐらいはいつでも辞さない覚悟での徳治に励んでいた漢代の中国や江戸時代の
日本などがそうであり、そしてそれらは同時に、中国や日本が世界でも突出した繁栄を築き上げられて
いた時代でもあった。これらの事例こそは確かに、世の中を挙げての心練が社会規模での繁栄を
約束する実例ともなっていて、「引責自殺すら辞さないような精神力など百害あって一利もない」
などという精神薄弱者の反論を完璧に退けるに値する論拠ともなっている。

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018 2013/08/24(土) 14:39:01 ID:ysP/yGcf8o
心の強さが世の中総出で養われていた江戸時代においてこそ、戦国時代に武将のまとう具足として
活躍した甲冑も土蔵の奥深くに仕舞われ、鉄砲や弓矢といった過剰な軍備も軒並み没収されて、
法度で取り決められた範囲の長さの刀を、それぞれの身分に応じて所持することのみが許されること
となった。その刀も、日本独特の湾曲した片刃のもので、切れ味などは上質なものであるにしたって、
その実用には相当な熟練を要するものであった。しかしそれは別に、自分たちの心を養って行く
ことこそを本分としていた江戸時代の武士などにとっては、何ら問題とされるべき所ではなかった。
十分な心練を伴う武道の修練によってのみまともに取り扱うことができるようになる特殊な刀ばかり
が所持を許され続けたことは、かえって自分たちのためになることでもあった。そのような刀の
所持だけは許されたことを以って、全くの去勢状態を強いられることだけは免れたことがかえって、
日本人に見てくればかりに囚われない本物の大勇を養わせる原動力ともなったのだった。

最大級の戦力同士を闘わせる戦争状態ともなれば、具足や盾もそれなりに用意すべきものとなるが、むしろ
そんなものに頼らなくてもいいような所で養われる中心からの強さこそが、戦争での最終的な勝利を決定付ける
要ともなるに違いない。いくら表面だけ完全武装で固めた所で、肝心の心がグニャグニャとなれば、いざ敗戦後
の日本の占領に臨んでみても、吉田茂や白洲次郎に一杯も二杯も食わされたマッカーサーの如くなるのみである。

「壮者は暇日を以って其の孝悌忠信を修め、入りては以て其の父兄に事え、
出でては以て其の長上に事うれば、梃を制して以て秦楚の堅甲利兵を撻たしむべし」
「壮者が暇をみては自らの孝悌忠信の心を養い、家内では父兄を敬い仕え、外では目上の相手を
敬ってよく仕えるようにしたならば、杖程度の簡素な武器一つで、秦楚の如き大国の擁する
完全武装の大軍が相手でも討ち取れることだろう。(篤心の養いはどんな武装をも上回る強さとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・五より)

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019 2013/08/25(日) 13:46:54 ID:rNRPkGg6lg
人間を人間たらしめている最大級の要素の一つが、「言葉」の利用である。
他にも、刃物や器や車輪の如き高度な道具を用いることが、人を猿などの動物と
決定的に分かつ決定的な要素となっているが、人間と言う生き物を、都市社会を
形成する程にも文明的な存在たらしめているものといえば、それは言葉であるといえる。

言葉というものが体系的に形成され始めた起源からして、大規模な社会構造を
秩序化させるための道具として用い始めたことだった。今ですら、国家間で言語が
異なったり、地域間で方言が異なったりすることがいくらでもある。それがさらに
雑多化して、隣町同士や村人同士ですら言語が食い違って意思の疎通もままならない
となれば、ろくに交遊や交易すら覚束なくなるから、大規模な都市社会を形成するに
際して、お互いの約束事としての言語の統一を人々が図ってきた結果、国家規模や
国際規模ですら、ある程度以上に言語が類似するような世界が形成されて来たのである。

その上、日本語と英語のような疎遠な言語同士でも、通訳を介することでそれなりの
意思疎通を図ることができる。片方の言語があまりにも精緻すぎて、その意味を完全には
訳しきれないなどということもあるが、一般生活を司っている程度の基本的な意味構造を
翻訳して相手に伝える程度のことはできる。それもそのはず、人間はみな1.5〜2m程度の
身長と数十Kg程度の体重と、猿の体格をもう少し縦に伸ばして体毛を薄くしたような見た目
を持つといった共通性を帯びているわけだから、そうであることに即して形成されていった
言語も、疎遠なもの同士ですらそれなりに意味が通ずるようになっていったのである。

そういった、形質からの共通性に即して人間が自明に作り上げていった言語構造の内に、
「善い」とか「悪い」とかいった倫理的判断も存在しているわけで、そこに、第一義的な
神秘性などが介在する余地はないのである。「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」
という徳目に神秘性を差し挟む余地が少しもないように、善い悪いといった倫理的な
判断に、根本からの「神の采配」などが差し挟まれる余地もありはしないのである。

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020 2013/08/25(日) 13:54:22 ID:rNRPkGg6lg
ただ、そのような自明な道徳倫理を堅く守り通して行く上で、その志しの拠り所を神仏
への崇敬に頼るということは可能である。当該の神仏が、人道上の道徳倫理の自明性を
認める神仏ですらあれば、それも可能なことであり、正統な仏教上の尊格はみなその条件
を満たしているし、妖鬼扱いされないような神道上の神などもその条件を満たしている。

人としての最低限の道徳倫理の自明性にすら異を唱えるような神ともなれば、当然、
そのような条件は満たさない。そんな神などを妄りに信じたりしたならば、人間自身が
構築して来た自明な言語構造上の是非善悪すらもが見失われて、人間社会を秩序立てて
構築して行く上での必須要素としての言語の存在意義にすら綻びが生じてしまうこととなる。
それこそはまさに、「悪性ガン細胞型の言語利用」の元凶にすらなってしまうわけで、
そこでこそ、名辞の乱れに基づく「精神異常」というものが発生してしまうのでもある。

人道の自明性を非とし、人々に間違った言語利用による精神薄弱の深刻化をけしかけた
最原初にして最悪級の邪教である聖書信仰もまた、人道の自明性を厳密にわきまえる
儒学などよりも数百年以上遅くに発生している。人間自身が自明な言語構造を構築
して行った結果として是非善悪の分別も形成されていったというのが真である一方、
神の采配によって是非善悪が取り決められたなどという主張が偽であるからこそ、
聖書信仰などよりも儒学のほうが先に体系化されていったのでもある。後者が真で
前者が偽であるならば、儒学のような自明な人道を把捉する教学が、聖書信仰の
ような人道の自明性を否定する信教よりも先に形成されるはずもなかったのだから。

人道ぐらいは自明であることを認めた上で、そこから人道を超えたものとしての
神道や仏道に邁進して行くのであればいいものを。神仏への崇敬を振りかざして自明なる
人道を無みしようとしたりするものだから、人道の側の言語構造上からの自明性に即して、
それを否定しようとするような神仏信仰の側のお里すらもが知れてしまうのである。

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021 2013/08/25(日) 13:56:52 ID:AdKEElv2ck:au
「天民なる者あり、道天下に行わる可くして、而かる後に之れを
行う者なり。大人なる者あり、己れを正しくして物正しき人なり」
「天民という類いの人間がいる。道が天下に行われればそこに便乗する類いの人間。
(それよりもさらに上等な類いの人間として)大人がいる。自分自身を正すことで
自然と天下万物すらをも正してしまう人間である。(道徳倫理というものは自明なもの
だから、己れを正すことで他者をも正すことができる。ただ、それはなかなか困難な
ことなので、それに次ぐものとして、道ある天下に便乗する天民というものもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一九より)

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022 2013/08/26(月) 15:29:03 ID:UaOutXvpMI
人間の思考自体は、外力に応じて働くものであり、それはコンピューターの論理計算など
とも置き換えようと思えば置き換えられるものである。ただ、一度脳内に蓄えられた情報を
思考として処理する「意」なり「情」なりが、先天後天を織り交ぜた自主性として作用する。
その情意を理性の面から司るものこそは人間自身の純粋精神であり、それは「梵我一如」
などという言葉で示されもする通り、宇宙の真理にすら合致しているものである。

ただ、その宇宙の真理が人格神のような様相を帯びているのかといえば、全くそんな
ことはないのである。それは、本質的には思考からも独立したものであり、いかなる概念
によってでも説明しきれはしないものである。そのため宇宙の真理とすら合致するような
理性によって思考や言行していた人間といえども、その見てくれがいかにも立派らしいとは
限らない。高祖劉邦や家康公のように、見てくれだけならより立派な競争者が多く居た
らしいことが記録としても残されているような人間こそが、見事なまでに理性に根ざした
機転を働かせて、戦国の最終勝利者となることで泰平の世を拓くこともあったのだった。

劉邦や徳川家康自身は、項羽や匈奴や信長や秀吉といった「目の上のたんこぶ」然とした
暴慢の徒に苛まれる人生を送らされていたものだから、それに応じて、本人たちもあまり
格好がいいとも言えないような振る舞いにも及ばされていたのである。その後いくらかの
代を重ねて、七代武帝や八代吉宗あたりの代になってからやっと、環境的にも皇帝や将軍
こそが威厳を以って世に君臨する体裁が確立されて、本人たちも立派な振る舞いを保てる
ようになった。皇帝や征夷大将軍ですらそうなのだから、一般人などはそれ以上にも、
外力に自らの見てくれや振る舞いを容易く左右されてしまわないわけにはいかない。
ちょっとした友人の一言や一挙動に影響されて、自分がいかにも尊ばれそうな風体となったり、
卑しまれるような風体と化してしまったりもするものであり、だからといって、本人自身
が絶対真理にも合致するような理性を保てていないとも、保てているとも知れないのである。

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023 2013/08/26(月) 15:32:30 ID:UaOutXvpMI
絶対真理とも合致する理性に根ざした、正思正言正行を心がけるのであれば、むしろ
眼耳鼻舌身といった感覚器官から取り入れられる、色声香味触といった情報の享受には
素直であった上で、それらの情報を適切に処理する思考や言行こそを心がけるべきである。
「感覚器官から取り入れられた情報以上にも重大な、独立した思考なり言行なりがある」
など思い込んで、珍奇な発想を凝らした思考や言行を志したところで、それで理性に
根ざすなどということもない。むしろカオスにまみれた劣情に情報処理をさせるばかりの
こととなって、過ちにまみれた思考や言行を誘発してしまうばかりのこととなるのである。

情報を適切に処理する理性というものが、実際に人間精神と合致している。そこは尊ぶ
べきところであるが、別にそこに体系構築的な概念構造が備わっているわけでもない。
イデアだのグノーシスだので絶対真理たる理性を把捉することも描写することもできはせず、
ただただそれを自覚的に悟ることによってのみ、理性に根ざした思考や言行を心がける
ことができるようになる。しかもそれは、感覚器官から享受した情報を処理することに
かけては、できる限り適切であるようにするというばかりのこととなるため、ごくごく
真っ当な常識に適った思考や言行を保つことに集約されていくことともなるのである。

もちろん、狂った世の中の狂った常識などではない。正しい世の中の正しい常識である。
「正しい」とか「おかしい」とかいった判断の基準となるのも、>>19-20に書いたような、
人間自身が構築して来た自明な倫理判断上の是非善悪に基づくので、
やはりそこに、神の采配的な背景依存を伴うことはないのである。

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024 2013/08/26(月) 15:34:05 ID:4zFHD3Ujl2:au
「其の股に咸ず、執りて其れ随う、往けば吝かなり。
其の股に咸ずるは、亦た処まらざるなり。志人に隨うに在り、執る所下きなり」
「人体でいえば腿のような低い部分に感化されて、それに従って物事を執り行うようなもの。
何かをすればするほど恥ずべき結果を招く。腿に感化されるような人間こそは、一ところに
止まれないような多動の気を帯びてしまう。志しが自分以外の誰かに従うようなところに
ばかり集約されてしまっているからである。その信条とする所も卑しいというほかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・九三‐象伝より)

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025 2013/08/27(火) 14:24:35 ID:bSWbK5qdDI
「君子は諸れを己れに求め、小人は諸れを人に求む(既出)」
「君子は何事もまず自分自身に要求するが、小人は何事もまず他人に要求する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二一)

君父に仕えるのであれ、神仏を敬うのであれ、まずは自己追求が第一である。
仁義礼智信といった五常のわきまえがあることで初めて、君臣父子夫婦といった
三綱の序列もまた深い意義を持って保たれて行くものであり、まず自分以外の誰かと
どうであるかなどばかりを第一としている以上は、ごっこ遊びの域を出るものでもない。

厳重な自己修養を以って君父に仕えれば、それにより忠孝の気風が養われて、
自修によって得られた素養の実践もまた磐石なものとなる。何らの修養もないままに
(あるいは鶏鳴狗盗の如きいかがわしい芸の素養と共に)君父や主人に仕えたりした所で、
どこまでも中身がカラッポのままであり、仕えることにうまみがないとなれば平気で
相手を裏切って貶めたり、他に寝返ったりしてしまうことともなるのである。

自己の修養も疎かなままに、他者に尽くすことばかりを志すような身の程知らずこそは、
自らのカラッポな中身を無根拠な思い上がりで満たすことともなってしまう。他者に
尽くすからには恭しくいられるのかといえば、決してそんなこともない。面従腹背の
反発意識で、誰にも仕えないでいる場合以上にも深刻な思い上がりを募らせてしまうこと
にすらなる。だからこそ道家の徒のように、絶学無憂の境地と共に誰にも仕えぬ隠遁者
でいることで、伸び伸びとした気風を養っていたほうがまだマシなことともなるのである。

自己の本然からなる誠心誠意を以って他者に仕えるということ自体、それなりの自修が
なければまず不可能なことである。商売人として顧客の前でへつらい顔でいる程度の
ことはできても、君子として天下国家やその代表者たる主君のために全身全霊で
仕事に励んだりすることは、ちょっとやそっとの努力や覚悟でできるものではない。

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026 2013/08/27(火) 14:27:59 ID:bSWbK5qdDI
むしろ、本当に誠心誠意を以って他者に仕えることと、面従腹背の状態のままで他者に
仕えることとは相容れるものですらない。前者のための素養を養っていれば、後者の
ような振る舞いに及ぶことを恥ずべきことだと感じるようになるし、後者のための
素養を養っていれば、前者のような姿勢でいることを暑苦しい、うざったいこととして
忌み避けるようにすらなってしまう。だからこそ、本物の誠心誠意と共に君父に仕える
君子たらんとする者は、表向きだけの媚び諂いで私益を肥やそうとする商売人であるため
の素養などを養っているわけにはいかないし、その逆の場合もまた同様のことが言える
ようになる。君子の素養は自己修養が第一である一方、商売人の素養などは巧言令色で
他者にへつらうことが第一であるわけだから、両者は原理的にも両立できることがない。

紛らわしいのは、金満漬けで飼い殺しにされていたような人間が、その後ろめたさに
駆られて、厚遇してくれていた相手のために捨て身で尽くすような場合があることである。
春秋戦国時代の食客だとか、旧薩摩藩士だとか、西洋産のフラタニティの会員だとかが、
死兵要員として利用されるために厚遇の限りを尽くされて、決死の暗殺活動だとかに従事
させられたりすることがあったが、これは磐石な自己修養と共なる誠心誠意の勤労などとは
似て非なるものであり、ある種の脅迫が潜在している非道行為にすら当たるものである。

誠心誠意他者のために仕えるといえば、そのような食客としての死兵働きがまず思い
浮かんでしまうような人間すらもがいるかも知れないが、決してそんなものを志すべき
ではない。元食客の戦術家だった韓信が、漢帝国の重臣や王侯としては終わりを全う
することができなかったのも、自己修養を第一として君父に仕えるような素養が
かえって、食客としての飼い殺され生活で損なわれてしまっていたからに違いない。

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027 2013/08/27(火) 14:28:17 ID:K/SvUN77jo:au
食客のごとき死兵働きもまた、自己修養ではなく他者に仕えることを第一とするもの
であるから、君子としての振る舞いにはかえって支障を来たすものなのである。他者の
ために尽くすことばかりを第一として、自分自身の中身はカラッポのままでいるから、
食客もまた思い上がりを募らせることがしばしばである。そのため、古代中国の食客制度
などでも、主人と食客は(存命中においては)対等な関係でいることが礼儀とされていたし、
今の西洋産のフラタニティなども、「友愛」の名目で死兵のざっくばらんとした振る舞いが
容認されている。それこそは、奇形の忠信、虚偽の忠義である証拠に他ならないわけだが。

「射は君子に似るところ有り。諸れを正鵠に失えば、諸れを其の身に反り求む。君子の道は、
辟えば遠くに行くに必ず邇き自りするが如く、、辟えば高きを登るに必ず卑き自りするが如し」
「射的は君子の有り方に似ているところがある。もしも的を射損ねれば、(それは完全に
自分自身の落ち度なので)必ず自分自身の有り方を省みて、問題点を追求して行くからだ。
君子の道というのは、遠くに行くためにもまず近くから歩み始め、高所に登るためにもまず
低い所から登り始めるようなもの(であり、まず自分自身に求める所から始めて行くものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)

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028 2013/08/28(水) 14:00:49 ID:O7lizmYt6A
畏れるべき人間とそうでない人間とをよく分別する能力も、優先的な自己修養によってこそ育まれる。

たとえば、「年上である以上は絶対に畏れ敬うべき」なんてのは、随分と稚拙な部類の分別である。
中国春秋諸侯の盟約だとか、西洋の伝統的な教育体制だとか、その両方の流れを汲む今の日本の
体育会系だとかが、そのような絶対的な年功序列を是としているけれども、それは、君臣父子夫婦
といった体系的な序列を重んじて行く儒家においてこそ、拙劣なものと見なされているものでもある。

孔子も「後世畏るべし」と言いながら、「年食ってろくに名も聞こえないような連中は畏るるに足らず」
とも言っていた通り(子罕第九・二三)。時に若人をも畏れ、時に年長者をも畏れぬのがより上等な畏怖に
かけての分別となっている。儒者はそのような畏怖にかけての巧みな分別を利かせられる一方で、せいぜい
年功序列程度の分別しか利かせられないような人間もいるのは、儒者のほうは、君臣父子夫婦といった三綱
の序列のより優先的な尊重によって、家単位でものを考えられる素養が身に付いている一方で、せいぜい
決まった世代に収まっている自分個人の範囲でしかものを考えられないような人間もまたいるからである。

何十代も前から続く家の流れに即してものを考えられたなら、自分個人よりただ年上であるような人間を
無条件に畏れたり、ただ年下であるような人間を無条件に侮ったりするような軽率さが排される一方で、
全ての判断基準が自分個人に集約されたままでいてしまっている以上は、その限りでもない。前者の
ほうがむしろ自己修養を必要とする一方、後者のほうはただただ自分勝手でいれば自然とそうなる
ものだから、より上等な畏怖の分別を利かせるためにこそ自己修養が必要となる一方で、稚拙な分別の
範囲に止まっていたいのならば、そんな修養が全く必要ないこともまた、自明なこととなっている。

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029 2013/08/28(水) 14:03:21 ID:O7lizmYt6A
ただ自己修養が必要となるだけでなく、年功序列ばかりが絶対化されてしまっているような荒廃した
世の中から距離を置いての修養に務めるなどの措置も取らなければ、なかなか難しいことである。
そして、世の中から距離を置くような注意をも働かせたなら自然と、おいそれと悪人に騙されたりしない
でいられるような千里眼が身に付きもする。そのような余裕もないような人間、世の中にべったりと
張り付いたままでしかいられない上に、そのせいで年功序列ていどの上下関係の分別しか働かせられない
ままでいてしまっているような人間こそは、人を恐れ敬った結果、誑かされるような羽目にも陥るのである。

士農工商の四民の序列なども、世に敷かれる以上は、年功序列以上にも徹底されるものとなる。
武家階級の若殿と壮年の商売人であれば、後者が前者に謙らねばならないようになり、それでこそ、
誰しもが末業での私益の貪りばかりに群がった結果、社会経済が破綻してしまうような事態も防がれて行く。
商売人なんてのは、いかに他人を言いくるめて、得したような気分にさせながら自分のほうが利益を
せしめて行くかが仕事の秘訣ともなるわけだから、まさに人を騙すことこそが本分であるわけだけれども、
その商売人が、年長者であっても誰にも敬われるに値しない人種であると規定された結果、人々がその規定
に即して他者を畏れ敬うようになった結果として、誰かに騙されるようなことも無くなって行くのである。

どんなに平等化が徹底された世の中であろうとも、人間に寿命があるからには、年功序列程度の上下関係は
厳然として残存したままであり続ける。その、年功序列ばかりに上下関係が集約されてしまった世の中
においてこそ、ろくでもない年寄りを畏れ敬った結果として、騙されて大損を食らうような羽目にも陥り
かねない。だからこそ、むしろ儒家の教理などにも根ざして、君臣父子夫婦や士農工商といった上下関係の
序列を純正に体系化して行くことで、世の中の序列関係というものをより適正化して行くべきなのでもある。

返信する

030 2013/08/28(水) 14:41:54 ID:U.EMDvRcjc:au
「君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。
小人は天命を知らずして畏れず、大人になれ、聖人の言を侮る(既出)」
「君子は天命を畏れ、偉人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を
知らないせいで畏れず、偉人に馴れ馴れしくし、聖人の言葉を嘲る。
(人は天命を知ればこそ畏るべき相手を畏れることができるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・八より)

「或るひと曾西に問うて曰く、吾子と子路とは孰れか賢なるか。
曾西蹴然として曰く、吾が先子も畏るる所なり。曰く、然れば則ち吾子と管仲とでは
孰れか賢なるか。曾西艴然として悦ばず、曰く、爾じ何ぞ曾ち予れを管仲に比する。
管仲は君を得ること彼の如く其れ専らなりて、国政を行うこと彼の如く其れ
久しきなるも、功烈は彼の如く其れ卑しき。爾じ何ぞ曾ち予れを是れに比するか」
「ある人が(孔子の高弟曾子の実子である)曾西に問うた。『あなたと(孔子の高弟の)子路とでは
いずれがより賢いでしょうか』 曾西は途端に畏れ入った態度となって言った。『子路先生は私の
父(曾子)も畏れていた相手です。(どうして私などが敵うでしょうか)』 するとまた問うた。
『では、あなたと(斉の重臣の)管仲とではいずれが賢いでしょうか』 曾西は今度は憮然とした
態度となって不機嫌そうに言った。『どうしてあなたは私を管仲などと比べようとするのですか。
管仲は主君の下での専横をほしいままにし、国政を握る期間もそれはそれは長期にわたりながら、
その功績はといえば(覇道を行うなどの)つまらぬものばかり。どうしてあなたは私をそのような
人間と比べようとするのですか』(比較的近代の人間であり、義侠心はあっても政治的には成功
しなかった子路を畏れ敬う一方で、相当に先代の人間であり、政治的にも成功している一方で、
権謀術数渦巻く覇道に邁進した管仲などを畏れ敬ったりはしない分別を利かせている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

返信する

031 2013/08/29(木) 12:55:36 ID:8PFNpfZen.
お互いに利害が反する者同士にとっての
時宜というのは、これまた相反するものである。

君子が勇躍できる時宜は小人が引っ込まされる時宜となり、
小人がやりたい放題できる時宜は君子が雌伏を強いられる時宜となることが、
「易経」における泰卦と否卦の対照的な境遇描写などからも計り知ることができる。

自分たちにとって都合のいい時宜というものを、人工的に造り上げることができるのは、
むしろ小人のほうである。君子が活躍するに値するような安寧と繁栄に満ちた世の中
というものが、最大級の努力によって何とか保たれたり、それでも保たれなかったり
する一方で、小人がやり放題でいられる乱世のほうは、深刻化させようとすれば
いくらでも深刻化させられるものだから、そこで小人が自らの作為によって
より一層の乱暴を企てることもまた、非常にたやすいこととなるのである。

自分たちの活躍の場である治世において、君子はせいぜい最善の努力を積み重ね続ける
ばかりのことでいるが、乱世こそが活躍の場である小人のほうは、自分たちで活躍の
時宜を盛り立てて、そこで活躍するということを何度も繰り返すことができる。だから、
乱世における小人の活動のほうがむしろ見た目には独立的で、多彩なように思える。
実際には、邪念のくすぶりによって自業自得で来たした精神からの飢渇を、際限のない
快楽の貪りで紛らわすというワンパターンの単調な繰り返しにしかなっていないわけだが、
むしろだからこそ、見た目には真新しいことを繰り返しているかのようにあえて
見せかけようとするし、実際に、自分たちの活躍の場から自分たちで捏造して行く
小人たちにとっては、それこそが自分たちの本領の発揮のようにすら思えるわけである。

小人たちの、自分たちの活躍の時宜から捏造しての暴挙の積み重ねというものが、
実際に、許される限りにおいては繰り返されて行く。春秋戦国時代における中国諸侯の
放辟邪侈なども、そうやって積み重ねられていったものであるし、今の米欧による諸外国
への軍事的経済的な侵略行為の繰り返しなども、同様な乱暴の積み重ねとなっている。

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032 2013/08/29(木) 12:59:40 ID:8PFNpfZen.
一部の君子による忠告なども完全に無視して、どこまでも放辟邪侈を増強させて行く、
それがいつかは許されなくなって、撥乱反正を不可避に強いられる時宜がやって来る。
それも実は、君子よりもむしろ、小人たち自身のほうが自業自得で招く時宜であり、
君子はせいぜい反正後の世の中での事後処理に邁進して行くばかりのこととなる。

もちろん、小人たちはそんなしっぺ返しを食らうような事態を好き好んで招くのではない。
後々の悪因苦果としてのしっぺ返しをも共に招いてしまうような、放辟邪侈による快楽の
貪りのほうに好き好んで専らで居続けた結果、最終的な自滅をも共に招いてしまう。故に、
小人たちが結果的に招いてしまった時宜であるとはいえ、小人が引っ込められて君子が勇躍
し始めるような時宜というものが、天命によって招かれるものであるともいえるのである。

善因楽果悪因苦果の因果応報は、仏門の唯識思想などによってその厳密さが確証されている
ものであるけれども、善悪というのはあくまで世俗に介在するものであるから、そのような
因果応報もあくまで世俗において結実して行く。それは時に人道上の因果応報だったりするし、
天道上や地獄下での因果応報だったりもする。人天の領域の因果応報は概ね善因楽果だが、
その逆を行くことがそのまま地獄での悪因苦果の因果応報にも直結するものだから、
両者は全くの表裏一体であるといえ、人天の善因楽果に与ろうと精進することで自然と、
地獄に通ずるような悪因苦果を招くことも避けられるようになっているのである。

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033 2013/08/29(木) 13:03:10 ID:KRJqgreHyM:au
だから、小人としての悪逆非道などを避けて、君子としての正しい振る舞いに徹するべきだ
ということが言えるが、そのためには上にも書いたような、自分たちの活躍の時宜すら
自分たちででっち上げられて行ける、「小人の道」ならではの魅力からの誘惑を断ち切る
必要がある。小人こそは自分たちで活躍の場を切り拓いて行く楽しみにも与れる一方で、
君子のほうは人事を尽くしつつも天命を待たねばならぬようなじれったさに見舞われる
ことが多々ある。それもまた、透徹した聖賢にとっては逍遥遊の楽しみに与る時宜と
なったりするわけだが、そこまでの境地に至るのもなかなか難しいことだから、自らの
活躍の時宜がなかなか来ないことへの忍耐というものもまた、それなりに必要となる。

君子の道こそは始め暗然として切り拓かれにくい一方、小人の道こそは安易に切り拓かれて
行くものであるわけだから、そのような事情をも無視して、なかなか躍動に移ろうとしない
君子を小人が「いくじなし」としてあざ笑うようなことがあったとしても、決して憤慨したり
すべきではない。小人とは歩んでいる道の性質からして異質なものであることを自らが
固くわきまえて、小人からの挑発などにも耐え抜いて行くようにしなければならない。

「聖人は天地に参じ、鬼神に并び、以って政を治む。〜天は時を生じ、地は財を生ず」
「聖人は天地の化育に馳せ参じ、鬼神にも比肩するような存在となって、政治に臨む。
天は時を生じ、地は財を生じる。(天は時宜に則るものではなく、時宜そのものである。
天地を万物を司る時空として捉えていて、聖人はその法則性に深く合致することで、
自分一身の生死すら超越するという、相当に深淵な超人描写となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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034 2013/08/29(木) 17:40:20 ID:KRJqgreHyM:au
道徳聖書「天は時を生ずる根源的存在である」
犯罪聖書「神の行いは時宜に適っている」

どちらのほうがより根本的なものであるのかが、明らか。

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035 2013/08/30(金) 13:26:40 ID:ha3K6WuttY
聖書信仰や洋学は、人間社会や個々人を司る道徳規範としての価値がゼロ
ないしマイナスなのであって、別に文化的価値の絶対値がゼロなのではない。
儒家や道家や兵家を除く中国諸子百家の異端派が、ある種の文化的な価値を
認められながらも、世の中を司る政治理念としては無益かつ有害なものである
ことが認められて、政治理念として取り入れられることが特定して禁じられた
のと同じように、聖書信仰や洋学もまた、ただの文化としての保存までをも
根絶させられたりする必要はないが、社会的な実用の対象とされることだけは
もう禁止されていかねばならないような部類の文化となっているのである。

純粋に儒学的な見地に即した前漢の正史の編纂を試みた班固も、その自著で
ある「漢書」の芸文志において、異端の諸子百家の問題点をあげつらいつつも、
その長所もまたそれなりに評価して、「問題点をよくわきまえつつその学説の
精査に取り組んだならば、より一層の上達が見込まれるだろう」という風にも
述べている。洋学や聖書信仰もまた、そのような形での保全が取り組まれて
然るべきだし、場合によっては、血清の生成的な目的で、「もしも修行に失敗
して廃人と化してしまったとしても文句は言いません」といった誓約の下で
行われる密教修行の材料になるようなことすらもがあって構わないのである。

聖書信仰や洋学が、特に中国諸子百家のうちの「墨家」と共通している
要素として、国家社稷を軽んじてまでの民衆主権の偏重という要素がある。

聖書信者や洋学者が国を軽んじてまで民衆を偏重するのは、自分たち自身が
商工民だったり、商工業界からの手厚い庇護を受けた食客だったりするから
である。墨家が民業の偏重を謳ったのも、その開祖である墨子が顔面に入れ墨
(墨)を彫られるほどにも卑しい身分だったからという説があるし、また「孟子」
などにもあるとおり、中国の神話伝説上の存在である神農の為政手段に倣おうと
したからという説もある。これはいずれも多少はそうであったのに違いなく、
国を蔑ろにしてまでの民権の偏重を、何らかの神秘的、概念的な存在によって
正当化しようとしていた点もまた、聖書信仰や洋学と共通する部分なのである。

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036 2013/08/30(金) 13:34:47 ID:ha3K6WuttY
国を蔑ろにしてまでの民権の尊重を謳えば、そりゃあ、馬鹿な民ほど悦ぶ。
国家が世の中にとって欠くべからざるものであることをまともな教育によって
教わっている良民ならともかく、ろくな教育も受けられないままで、権力者への
ルサンチマンばかりを募らせているような愚民であれば、世の中の最高権力で
ある(はずの)国の権威が否定されてまで自分たちの権限が(体裁上だけでも)
保障されたりすることを、嬉しがらずにはいられなかったりするのである。

それは、墨家や聖書信仰や洋学のような異端の邪教邪学こそが是とする所で
あるわけだけれども、上に書いたとおり「小道といえども見るべき所あり」で、
とにかく民を喜ばせておく手口の一種としては、看過すべきでもないところである。

国家を蔑ろにしてまでの民衆主権の保障によってこそ、ルサンチマンに駆られた
愚民たちが狂喜乱舞するということがある。それもまた一つの事実であることを
わきまえた上で、そのような事態に陥らないで済むように心がけて行く必要がある。
世の中の健全な営みのためには国権の尊重こそが重要であることを、それが実現
された世の中における治世の実現によって実証し、民たちにも理解させて行く。
ただただバカ喜びしたりする以上の所にある、真なる治世での安楽の価値をも実感
させて行くことで初めて、嫉む以上にも尊ぶべき国権というものを知るであろう。

そのような措置を講じて行く上で、過度の民権偏重によって愚民が狂喜する
場合があるという法則性をわきまえているのとそうでないのとでは、随分と様相が
違ってくる。ただただ民を独裁的な統制下に置いたりするのでは、またそのような
麻薬的中毒状態を民が渇望したりしかねないから、それもなるべく避けるべきだ
と知る。そのようにして、墨家や聖書信仰や洋学が提唱した民権偏重への知悉
もまた、それなりの学術材料としての有用性をこれからも保って行くわけである。

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037 2013/08/30(金) 13:47:04 ID:dY8wtMwpKs:au
「儒に忠信を以て甲胄と為し、礼義を以て干櫓と為し、仁を戴いて行き、
義を抱きて処り、暴政有ると雖も其の所を更めざる有り。其の自立此くの如き者有り」
「儒者には忠信こそをわが甲冑とし、礼儀こそを干戈や要塞とし、仁を戴冠して行き、
義を胸に抱いて居り、暴慢な圧政があろうともその志操堅固にして不変なる者がいる。
まさにこれこそは自立したものの有り方だといえる。(圧政から逃れたがるのは
せいぜい他力本願の小人程度。君子を志す者となれば、圧政をものともしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)

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038 2013/08/30(金) 18:33:40 ID:dY8wtMwpKs:au
自分が徳治を敷く素養の持ち主であるからこそ、
圧政にも敢然と立ち向かうことができる。

そんな素養がないからこそ逃げ惑ったり、
圧政の主導者と化してしまったりする。

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039 2013/08/31(土) 13:42:02 ID:iQhOBuRd4w
「聖人は天地に参じ、鬼神に并び、以って政を治む。
〜天は時を生じ、地は財を生ず(既出)」
(「礼記」礼運第九)

時空を生ずる源たる天と、あらゆる資財を生ずる源たる地とに比肩する存在となり、
鬼神(死没者の霊)とも同格な超越者としてことに臨むのが聖人であるわけだから、
そのような人間を監視による保護の対象としたりすることには、もはや原理的な意味がない。
それは、天地万物全世界を時空を超えた監視下に置くようなものだから、監視下に置いた
からといって、自然のままに任せる以上のどんな改善も期待できるものではない。

聖人のほうもまた、自分が誰かからの監視下に置かれているからといって、最善を尽くす
などということはない。天地に参じ、鬼神に並ぶ者としての業務に務めた結果として自明に
最善が尽くされるわけだから、お節介な監視などは、かえって邪魔にすらなりかねない。

ただ、自らの行いが天地や鬼神に比肩するもの足り得ていない場合の指摘者となる監視者
ぐらいはあっても構わないものであり、それは刺史や目付の如き昔の徳治社会の監察官が
実際にその役割を担っていたものである。そのような監察官に落ち度を指摘されることは
全くの不手際であり、監察官もいるにしたって、全く文句を差し挟む余地もない程に自らが
完璧な業務をこなしていればそれに越したことはなかったわけだから、別に監察官を依存の
対象としたりすることもなく、なるべく口出しさせない女房役でこそいさせていたのである。

自らの過ちを矯正させる監視者程度は君子にもあって構わないが、自らを保護の対象とする
監視者などは、君子ならば全く必要のないものである。頑是無い子供でないのはもちろん
のこと、それなりに成長した大人の内でも、特に天地や鬼神にも比肩するほどの偉大さを
兼ね備えているのが聖賢たる君子であるわけだから、そんな相手を保護のための監視の
対象にしたりすることは、無礼極まりないこととなるる。無礼な上に、上記の
ような万物斉同の必然性に即して、全く意味がないことともなるのである。

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040 2013/08/31(土) 13:45:31 ID:iQhOBuRd4w
監視対象となる人間を積極的な助成の対象とする監視者と、単なる弾劾の対象とする監視者
とでは、本人たちの存在意義に大きな隔絶が生じてくる。被監視者をどこまでも助成して
くれる監視者となれば、そりゃあ「欲しいものを何でも買ってくれる親」とでも言った所で、
わがままな子供の性分をそのまま持ち越してしまっているような、精神的に未熟な大人など
にとっては、超越神として崇めるにも値するような信仰の対象にすらなり得るわけである。
一方、いい年した大人を弾劾の対象とするような監視者などは、そのような未熟な大人に
とってこそ執拗な忌み嫌いの対象になるものだし、別に被監視者がそのような弾劾目的の
監視を嫌がらないとした所で、全くの自力で大業を為す能力を備えているような大丈夫をも
あえて監視の対象にしたりするのだから、やはりその「不躾さ」を恥じねばならぬのである。

だからこそ、一人前の武士たちを職務に即して監視の対象としていた目付役の武士たちも、
あえて自分たち自身の禄高を切り詰めて、人一倍質素倹約を徹底した立場からの監視に
務めたりしていたのである。また、「監視」という行為自体が自分自身の修身を疎かに
してしまいかねないものだから、人一倍武芸の修練にに励むなどの自己義務をも科していた
のだった。(武術の達人にして初代江戸大目付でもあった柳生宗矩などがその実例である)

政府が市民を徹底的な監視下に置いている今のアメリカなどが極めて閉塞的な状況に
追い込まれている一方で、天下を司る為政者こそが、保険目的での監視対象とされて
いた江戸時代の日本などにおいてこそ、民衆たち自身は監視の対象とされなくとも、
自然と貞淑な行状を保つことができていた。前者のほうが、未熟な人間を助成目的での
監視の対象としていたためにうまくいかず、後者のほうが、上達した人間をさらなる
監視の対象ともしていたために「修己治人」の効果が働いてうまくいっていた。監視者
自身がより甚大な権能を持てるのは前者のほうだが、実際に世の中がうまくいくのは
後者のほうである。監視者たち自身が自らの身の程をよくわきまえて、それ相応の立場に
収まることでこそ、かえって世の中のほうがうまく行くという実情があるのである。

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041 2013/08/31(土) 14:05:10 ID:h1OsAxVOSA:au
「衆、元后に非ずんば何をか戴かん。后、衆に非ずんば、与に邦を守る罔し」
「民衆は、国君でなければ一体誰を戴くことができようか。国君もまた、民衆と共に
でなければ、国を守ることは覚束ない。(衆人が主君を主上として頭上に戴くのが
欠けたもののない状態。主君もまた、衆人と共にでなければ国を守ることができない
とするのは、>>33の礼記の引用部分のような、天地や鬼神にも比肩する聖賢としての
為政を主君が旨としているからである。神を信じないからではなく、神にも比肩する
存在だからこそ、もはや自らが神に守られるようなこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)

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042 2013/09/01(日) 14:10:09 ID:FhnpD74RrM
人が「心を尽くす」ということは、自らの親や主君への忠孝を心がける所でこそ極まる。
友人や隣人への心尽くしだとか、商売人の客への心尽くしだとか、侠客の主人への
心尽くしだとかも、それなりのものであったりするが、ことに心尽くしの度合いに
かけては、君父への忠孝の心尽くしに勝るようなことが決してあり得ない。

なぜかといって、子や臣下たるものの君夫への心尽くしこそは、どこまで尽くした所で
決して天下の公益を害するようなことがないからである。商売人が、自分たちへの
利益誘導のための顧客への心尽くしなどを企てたなら、そのせいで自己利益を損ねて
しまうような人間がどこかに生じてしまうものであり、そのような商売敵からの報復
にもそれなりの心配りをしておかねばならないから、そのぶんだけ、一心不乱な
心尽くしが殺がれることともなってしまう。友人や隣人といえどもそのような問題を
少なからず来たしてしまう一方で、君臣父子の関係だけは、そのような問題を来たさない。
君臣父子の序列こそは、天下国家万人の安寧と繁栄とを司る根本的な礎たるものだから、
そこで心尽くしの限りを果たした所で、何らの後ろめたさを抱かなくていいから、心尽くし
のほうが、他のいかなる関係性における場合以上にも、徹底することができるのである。

子や臣下の君父への忠孝の心尽くしこそは、全くの捨て身となるものでもない。子は
親にとっての重要な後継者となり、臣下は主君にとっての重要な家臣となるわけだから、
親や主君のほうも相手を全くの蔑ろにしてはならないし、子や臣下のほうもただただ
捨て身で君父に仕えるというばかりではいけない。それなりにお互いの利害に連動性が
伴っていた上で、配下の者が目上の者に尽くすという所もまた普遍的であるわけだから、
侠客が主人のために全くの捨て身での鉄砲玉仕事などをするようなことも許されない。

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043 2013/09/01(日) 14:23:57 ID:FhnpD74RrM
聖書信仰における「汝の神を愛せ」などは、結局のところ、自分自身を愛することと
同等のものであった。その自己愛を隣人や友人にも振り向けろということで、それは、
自己を全く捨てきってまで相手に尽くそうとしたりするわけではない君父への忠孝
などとも、構造的には似通ったものとなっている。だからこそ、何の信仰もないような
人間が隣人や友人に尽くしたりする場合以上にも手厚いもてなしが心がけられたりも
するわけだが、所詮、友人や隣人ごときを相手にそこまでのもてなしを心がけたりする
道理というものがないわけだから、自己愛を神の愛にでも摩り替えないことには、
そこまでもの他人へのもてなしなどを心がけたりすることもできないのである。

自分は自分でしっかりと保つべきものである。自己愛を神への愛などに摩り替えたり
もせずに、自分自身というものをその身の程に即してしっかとわきまえる。その上で
なおのこと心を尽くせる相手となれば、それは親や主君でこそあることに自然と気づく。
妻子や愛人ですら、自己をしっかりとわきまえた上でもてなす相手として、親や主君
に及ばないものであることを知り、「君臣父子夫婦」という序列に即した人間関係
というものを、実感的な納得と共に重んじて行けるようになるに違いない。

君父への忠孝に根ざした心尽くしこそは、自分自身というものをしっかりとわきまえた
シラフのものとなるわけだから、その聡明さに即して、自分自身が悔いのない清々とした
人生を送り抜いていく上での糧ともなる。偽善の心尽くしは自分のためにならないが、
君父への心尽くしは偽善ではないから、自分のためにもなる。巨万の富をわが手元に
置いておく場合にすら得られないような、本物の満足が自分自身にも具わるのである。

「其の道に尽くして死せる者は、正命なり。桎梏にして死せる者は、正命に非ざるなり」
「道義のために心力を尽くして死ぬ者こそは、正しく天命に適っている。手かせ足かせ
をはめられて死ぬような罪深い人間は、正しく天命に適っていたなどとはいえない。
(イエキリも『私の足かせをはめよ』という通り、そんなものに心を尽くすのは正命ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二より)

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044 2013/09/01(日) 20:06:44 ID:YdKeOIv4bk:au
もちろん、君父への直接的な忠孝に励むのは、一家を相続する嫡男に
あたるような人間に限られるわけで、そうでない人間も多くいる。

女なら、そのような男を支援する妻や母としての心尽くしに努めるので
なければならないわけで、それこそは自分自身にとっての間接的な
忠孝の務めであるとわきまえなければならない。

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045 2013/09/02(月) 13:08:04 ID:viECp0Khz.
資本主義国の大物経営者が、巧言令色の限りを尽くしてでっち上げてみた
名言集などは、実際には何の役にも立たないようなものばかりである。
そのような名言集の出版自体が人気取り目的であるため、自分たちが
裏でやり込めて来たあくどい商法などはあえて表に出さないままでおく、
だから虚飾も込めつつ表に出された本人たちの言葉だけを真に受けてそれに
倣ってみたりしたところで、ろくな結果には結び付かないということがある。

その、商売人があえて表には出さないような闇の部分を、晦渋な寓意を介し
ながらであっても文面化しているのが犯罪聖書の記述だったりするわけで、
悪徳商法でのし上がるための秘訣としてより有効であり得るのは、むしろ
こちらのほうである。だからこそ、犯罪聖書のうちでも特に「だます側」の
秘訣の目白押しとなっている旧約を信条としているユダヤ教徒こそは、悪徳
商人として世界最大級の成功を修められているのでもある。(新約のほうは
「だまされる側」への洗脳手法の披瀝が主であるため、ブラックアフリカの
キリスト教圏でのように、かえって大災厄の元凶となってしまったりもする)

しかし、その犯罪聖書が秘訣となる手法を列挙しているような、権力犯罪による
商業的栄華の獲得というもの自体、世の中にとって有害無益極まりないもので
ある上に、最終的には大破滅を呼び込むものであるから、厳重な予防の対象
として行かねばならないということを主意としているのが、儒学道徳でもある。
夏や殷や秦といった帝国の末期における、政商との癒着を来たしての大破綻
をも参考材料として、公権力者の側からの権力犯罪の予防を旨としている。
それは、自分たち自身が政治責任を負わない商売人の立場からでは、政商
をも容認するような重大権力犯罪の、大局的な観点から見た場合の有害無益
さを十分に計り知ることができないからであり、あくまで最大級の責任を
背負う為政者の立場からの修己治人によってのみ、権力犯罪による世の乱れを
十二分に回避して行くことができるものであることを踏まえているからである。

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046 2013/09/02(月) 13:16:21 ID:drLfmmdwQ6:au
削除(by投稿者)

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047 2013/09/02(月) 13:16:54 ID:viECp0Khz.
大商人が人気取り目的で言い放ったような綺麗ごとの名言などよりは、
悪逆非道で巨万の富を巻き上げて行く手法自体を列挙している犯罪聖書の
記述のほうが、まだ実質性に根ざしているということはいえるが、そもそもが
商売や権力犯罪のような悪行によって成功しようとすること自体、自分たち
自身の生計の場である世の中を損ねてでも、私益だけは膨れ上がらせようと
する本末転倒の所業であるわけだから、いずれも五十歩百歩のろくでなしで
あることには変わりない。むしろ、表にも名を出せるような範囲での活動に
止まっていたようなただの商売人のほうが、都市社会においての必要悪でも
ある商売だけに専らであったぶんだけ、全くの不必要悪である権力犯罪にまで
手を出しての商業的栄華を試みた聖書信者などよりもまだマシだったといえる。

天下国家からの徳治を旨とする儒学道徳の観点から見れば、権力犯罪にすら
手を出しての金満による栄華を志す聖書信仰こそは、実践材料としては厳禁の
対象として行かねばならないものとなる。一方で、ただの商売人の成功などは、
完全に厳禁されるべきものとまでは行かず、都市社会の機能性維持のための
「つなぎ」程度のものとしての活動ぐらいは容認される。その上で、商売の
ような「末業」で成功を試みたりすることの浅ましさを、天下全土の万民に
対してよく教化し、貧しくとも農業や必需工業の如き「本業」に専念して行く
ことの偉大さを知らしめて行くようにする。たかが商売人の名言集などは、
ただの巧言令色の集成として誰にも顧みられなくなり、世の中で実践されて
行く頻度では、犯罪聖書のそれ並みに皆無となって行くのである。これこそは、
ただの小人と最悪級の小人の、それぞれに相応な両成敗ということとなろう。

返信する

048 2013/09/02(月) 13:21:14 ID:drLfmmdwQ6:au
「聖人は象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を
尽くし、変じて之れを通じて以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞し以て神を尽くせり」
「聖人は易を作る際に八卦の象を立ててその本意を尽くし、六十四卦を設けて物事の
表裏真偽すべての描写を尽くし、卦辞を設けてその言わんとする所を示し尽くし、卦の
変化を通じて物事の利害関係の説明を尽くし、その鼓舞によって神の意図すらも尽くした。
(実際問題、空しい嘘偽りも介在する万物清濁を包含し尽くして、その意を尽くしている
のが易であり、その易の法則に則るのが儒学の提示する人間道徳である。何が悪いものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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049 2013/09/03(火) 13:12:15 ID:YzIp8U8AMA
何らの君子による統制もないような世の中で、私利私益だけが全てであるような小人
たち同士での経済競争を無制限に放任していったならば、今の世界のように、国家間での
経済格差が450倍にも達するような事態にすらなってしまう。(一人当たりGDPで換算)
それこそ、富める者はさらに富み、貧窮する者はさらに貧窮するという事態であるわけで、
そのような事態を回避するためには、ただ富の偏在を是正するだけでもまだ不足となる。
経済的な我田引水に貪欲であったような連中ほど卑しみに卑しんで、そうでもなかった
ような人々ほど尊びに尊ぶというほどもの、尊びや卑しみの重畳すらもが必要となる。

それこそ、現代世界で「差別主義」という言葉で徹底的な糾弾対象ともされている、
階級制度の導入にすら繋がることとなるわけだけれども、その階級制度こそは、
かえって経済的な差別を是正する効果を持ち得るわけだから、それはそれである種の平等
を期するものであるとすら言えるわけである。極度の経済的格差に苛まれている世の中と、
適正な階級制度で守銭奴こそが差別下に置かれた結果、経済的な格差の是正された世の中
とでは、前者よりも後者のほうがよっぽど幸福でいられる人間も多いに違いないのである。

階級制度がまさに差別主義そのものとなることも、実際にあり得ることである。
それこそはまさに、政治権力と商業利権が結託した世の中における階級制度であるわけで、
そこでの階級制度はもはや、富の偏在を是正する効果を持ち合わせるどころではない、
むしろ富の偏在を絶対化するための正当化材料とすらなってしまう。そのような階級差別の
正当性の根拠となるのは、カルト信仰に基づく王権神授説だの政商犯の黙認だのである
わけで、インドのカースト制すらもが、祭祀階級や王族階級と産業階級の格差を明確化して、
世の中がそのような事態を黙認することだけは徹底した抑制下に置き続けている。

政商を許容しつつの階級制度の徹底こそは、この世に最悪の地獄をもたらすわけで
(暗黒時代のキリスト教圏などがその実例)それはカルト信仰だとか法家思想
だとかの独特の思想信条によってこそ正当化されるものでもあるわけだから、
そのような思想信条と共なる排撃の対象として行かねばならない。

返信する

050 2013/09/03(火) 13:32:33 ID:YzIp8U8AMA
極端な話、商売人を差別下に置くための階級制度こそは、この世に経済的な平等からなる
安寧をもたらす一方で、商売人を差別下に置かないような階級制度や平等主義こそは、
経済的な格差を極大化させた挙げ句の貧窮を招くことになるのだとすら直言できる。

一応、経済的な格差を是正しつつの平等主義というものも「共産主義」という形で提唱
されたわけだけれども、それはかえって、商売人を差別下に置く場合以上にも、商業と
いうものへの去勢措置を徹底することとなってしまったために、そのせいで産業全般の
停滞を招いて、ソ連の崩壊や中共の体制腐敗などの破綻を招いてしまったのだった。

一定の差別下に置きながらであっても、それ相応の活動ぐらいは許容してやるというのが、
商売人に対する最も適切な処遇となる上に、世界史的に見ても、最も恒常的な商売人の
有り方ともなっている。儒教に即して商売人を徹底的な差別下に置いて来た中国や朝鮮
はもちろんのこと、政商利権を暗黙の了解として許容して来た西洋社会すらもが、そこで
政商犯としての役割を担うユダヤ教徒を公然では忌み嫌いの対象とするなどして来た。
そうしないと、最低限の世の中の保全すらもがままならなかったからで、その最低限の商人
差別すらをも撤廃した今の欧米中心の世界こそは、破滅の危機にも見舞われているのである。

この世の中というものは、一定の必要悪が介在することで成り立っているところがある。
その必要悪の最たるものこそは商業やガラクタ産業であるわけで、そのようなものにも
それなりに頼るところがあるからこそ、それらを差別下に置きながらの社会運営こそは
最も健全たり得るという法則がある。それに対する背理法の実践もまた、資本主義や
共産主義の推進とその失敗によって既に完遂されている。結局のところ、必要悪の不必要
悪化を相殺するための必要悪としての、商業差別を目的とした階級制度もまた必要なもの
であることを、清濁併せ呑む大人の達観に即してこそ受け入れるべきなのである。

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051 2013/09/03(火) 14:41:39 ID:O9EvmzCnXw:au
「豫は、候を建て師を行るに利ろし。豫は剛応ぜられて志し行わる。
順以って動くは豫なり。豫は順以って動く、故に天地も之くの如し。
而かるを況や候を建て師を行るをや。天地は順を以って動く。故に日月過たずして
四時忒わず。聖人順を以って動けば則ち刑罰清くして民服す。豫の時義、大いなるかな」
「豫は、主君を立てて軍師団を進めて行くのに格好の時期である。剛毅なる者にも
応じる者があるためにその志しも果たされて行く。一方で、豫は万事が順調な時でもある。
天地日月四時の運行も至極順調な時であるから、聖人もその順調さに則って活動すれば
刑罰も公正なものとなり、民たちも素直に帰服することとなる。豫の時宜というのは、
なんと偉大なものであろうか。(豫は謙を上下転倒させた賓卦であり、万事順調である
が故にかえって驕り高ぶりやすい時でもある。そこをあえて主君を立てて、軍団を進めて
刑罰を正せば民たちもよく服する。驕り高ぶりやすい時宜というものもまた、それなりに
善処の余地があるのであり、ただただそれを退ければいいというものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——豫・卦辞‐彖伝より)

豫卦は、秦帝国追討時に項梁の軍が楚の懐王を立てて進軍を始めた時期の卦ともなっている。
全軍の師である項梁が秦軍の欺瞞工作にやられて討ち死にしたりすることもあったが、
実際に秦帝国の討伐自体は成功した。それは、兵隊たちの驕慢の気がかえって秦への
旺盛な討伐意識に振り向けられたからだといえる。小役人時代に酒場で偉そうな放言ばかり
を吐いていた劉邦もその内にいたわけで、なおかつ劉邦はそのような快進撃を通じて
驕慢を解消させられて行ったからこそ最終勝利者ともなり得た。どこまでも破壊王として
の驕慢を持ち越し続けた項羽の末路は知っての通り。驕慢の気も時には善用できると
したところで、それはそれでやはり、過ぎたるはなお及ばざるが如しという所がある。

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052 2013/09/03(火) 17:50:36 ID:O9EvmzCnXw:au
自分個人が独立的に抱く驕慢とはまた別に、
物事があまりにも順調に行き過ぎてしまっているがために
抱いてしまう環境依存型の驕慢というものがある。

「それにも用心して虚心でいなければならない」という程度のことは
誰でも思いつくわけだが、易たるや、そのような驕慢の気こそを進軍や
清明な刑罰に活かせというのだから、実に巧みなものだ。もちろん、
君臣の義をよくわきまえる程度の下準備は必要だともしているにしろ。

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053 2013/09/03(火) 20:46:58 ID:YzIp8U8AMA
楚軍としての秦国討伐に際し、項梁は快進撃にうぬ惚れた挙げ句に、
敗走を装う章邯によって死地に追い込まれて殺されたし、その甥である
項羽も項羽で、攻略した都市での兵士による虐殺や強奪強姦を欲しいままにした。
そのため、秦朝崩壊後にも、穏健な征伐を執り行っていた劉邦こそが新たな
帝王として君臨することを待ち望む声が方々で聞かれるようにもなった。

劉邦のほうがむしろ、項羽や項梁以上にもあからさまに酒場などでの驕慢懈怠を
ひけらかすような振る舞いに及んでいたことが史実としてすら記録されている。
秦始皇帝の巡行を目にしたときにも、項羽は「いつかあいつを殺してやる」
と息巻いていた一方、劉邦のほうは「男たるもの、ああでなければな」などと
余裕綽々の感想を述べていたともいうから、驕慢の原因ともなってしまうような
心の余裕はむしろ、劉邦のほうが項羽など以上にも豊満であったものと思われる。

それでいて、その劉邦こそが秦帝国討伐に際しても、干戈一つ交えることなく
敵地をまた一つ、また一つと攻略して行くような、余裕に満ちた征伐をも実現して
行くことができた。秦の首都である咸陽に一番乗りで乗り込んだ時にも、まさに
清明な刑罰を旨として、悪の巨魁・趙高を殺した上で投降して来た秦王子嬰を、
命程度は永らえさせる寛大な措置の下においてやったのだった。(ただし、直後に
咸陽に乗り込んで来た項羽によって、結局は子嬰も斬首に処されることとなった)

むしろ、驕慢の気ケ自体は、項羽や項梁以上にも劉邦のほうが旺盛だったろう。
その驕慢の気をうまいこと秦国の討伐作業に転じて、穏健な敵地攻略や清明な
刑事にも振り向けることが出来た。易でいうところの「豫」という時宜を、より
旺盛な驕慢の気によってうまく利用できたのが劉邦だったからこそ、楚軍の内では
格上の部類だった項家すらをも凌いでの、最終勝利者となることができたのだった。

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054 2013/09/03(火) 22:58:03 ID:O9EvmzCnXw:au
易の言わんとする所は、完全にレベルが違いすぎる。

だから、孔孟に始まる儒者たちがそれをより分かりやすく説きおこそうと心がけたが、
そしたら今度は分かりやす過ぎて侮られることとなってしまった。

易学をも母体とする儒学という教学の本旨は、
理解されているようで誰にも完全理解までされていないという度合いでは、
仏教にすら並ぶものとなっている。

理解自体はとっくの昔に済まされた上で、そこからの
無駄な正当化を延々と繰り返し続けているような邪学もあるにしろ。

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055 2013/09/04(水) 11:33:58 ID:575w2y.c6c
「死んで天国に生まれ変わる」とかいった風な方便で以って、実際に死に至る
人間がその苦痛を紛らわせられるということがある。それでいて、死んでしまえば
もはや聖人も愚人もあったもんではないから、そのような愚昧な思い込みに
よってでも生死をやり遂げられるのであれば、それでもいいじゃないかとする。

個々人の範囲でしか物事を考えないのであれば、実際その程度の結論に満足
しきってしまえたりする。ただ、世の中や自分以外の他者までをも考慮に入れた
ならば、そうでばかりでもいられるものではない。「死んで生きる」だのの虚妄で
死への恐怖をやわらげようとするような人間こそは、存命中に精神薄弱からなる
妄動を来たして、人様や世の中へと多大なる迷惑をかけ尽くした挙げ句にこの世を
去るようなことにすらなってしまう。今の欧米キリスト教徒による人類滅亡の危機の
呼び込みなどもまさにそれであるし、日本における団塊の世代などの死への覚悟の
無さからなる社会体制の奇形化なども、同様の問題性を帯びたものだといえる。

日本人は別にキリスト教に帰依しているわけでもない。キリスト教はおろか、
浄土門のような仏教版の来世教すらをも、廃仏毀釈以降は侮ったままの状態でいる。
それでいてやはり、死への覚悟が十分に出来ているなどというわけでもなく、
生まれた頃からアメリカによる占領下にあった団塊の世代以降の日本人はその
ほとんどが、自分たちが永遠に死なないで済むかのような思い込みを半ば帯びた
ままでいてしまっている。それは、一応は「死」というものを念頭に置いて
いるような信教に帰依する以上にもある意味、稚拙なことであり、その稚拙さが
欧米人以上もの近代医療への強依存などの形で派生し、国家規模での重度の
医療負担などの深刻な問題を来たすことともなってしまっているのである。

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056 2013/09/04(水) 11:37:01 ID:575w2y.c6c
死への恐怖を稚拙な来世教義で紛らわさせた結果、存命中の信者の妄念妄動を
深刻化させた挙げ句に人類滅亡の危機すらをも招いてしまっているキリスト教と、
そもそも国民たちにまともに死との対峙を促してすらいない今の日本の社会体制と、
いずれもがまともに人間社会を保って行けるだけの条件を満たしていない点では共通
している。キリスト教などとも同じ来世教ではあるが、そこに悪人正機のような仏説に
基づく死への覚悟の強化のエッセンスを付随させた浄土教あたりのほうがまだ、世の中を
まともに運営して行く上での最低限度の文化規範としての条件を満たせているといえる。

どんな形であれ、人々が一定以上の死への覚悟を持てている世の中のみが、
百年以上、数百年以上に渡って安定を保ち続けられる条件を満たすこととなる。
浄土教のような、死への覚悟もそれなりに抱かせる来世教に頼るのも一つの手だし、
来世すら信じることなく死への覚悟を抱かせる聖道門の仏教に頼るのもまた手だし、
先祖代々の家門の尊重を通じて、自分個人の生存者としての身の程をわきまえる儒学や
神道の教理に頼るのもこれまた一つの手だといえる。人類ももう数千年以上にわたって
高度な文明社会を築き上げてきているわけだから、生死の苦悩を克服する手立てという
ものもそれなりに生成して来られている。そのような機能にかけて白眉であるのは
仏教だし、仏教以外でも似たような効能を持ち得る教学はすでに多数存在している。

ただ、今のアブラハム教圏に当たるような西方社会では、そのような生死の苦悩を十全
に克服するための文化よりも、すでに来たしてしまった苦悩を物質的な快楽によって
紛らわすことのほうが優先されて来てしまっている。だからこそ物質文明の構築は
西方社会のほうが主導的でもあり続けて来たわけだが、その物質的構築こそがもはや
地球という星の許容量を超えつつあるために、いい加減自粛を心がけねばならない事態
となっている。とはいっても、ただ物質文明の発展を滞らせたのでは、発展によってこそ
生死の苦悩を紛らわせられていた西洋人たちの精神的鬱屈が避けられるものではない。

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057 2013/09/04(水) 12:50:14 ID:5vsSpnWUAc:au
そのため、生死の苦悩を聖書信仰など以上にも着実に癒してくれる教理というものに
すがって行かねばならぬ所がある。それは、西洋人などにとってはまさに初めての
経験となるわけだけれども、全世界、地球規模では何千年と積み重ねられて来た業績
の反芻に過ぎないことともなるわけだから、何らの心配も要らないことだといえる。

「貞疾あるも、恒に死せず。貞疾は剛に乗ればなり。恒に死せずとは、中未だ亡ばざればなり」
「貞正であることにかけて差し障りがあるが、いつも死ぐらいは切り抜けられる程度に幸いでいる。
貞正であることに差障りがあるのは調子に乗っているからである。それでも死ぐらいは切り抜け
られるのは、自らが中ぐらいの位階に居ることの形式からなる貞正さが滅ばずに済んでいるから
である。(この記述も、秦帝国討伐時に楚軍の中将程度の役割を担っていた劉邦の有り方に合致する。
それ以上に高位な立場にあった項梁などは、貞正さを全喪失して返り討ちに死することとなった。
正規の社会的位階をも逸脱しての思い上がりによる死ということについては、聖書信者などにも
当てはまる疾患であり、それによって死ぬことこそは最悪の事態であると易も断定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・六五‐象伝より)

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058 2013/09/05(木) 13:52:37 ID:7qe/WC3oLw
士農工商の四民の序列に基づくならば、商売人こそは万人への謙りに
務めねばならぬ最下級の人種となる一方で、士人などは逆に万人からの
尊崇を集める人の花形となる。とはいえもちろん、士人は士人でより上位の
大夫や王侯将相へと謙らねばならぬわけであるし、天下国家の頂点に立つ
帝王といえども、神仏への崇敬などによって謙譲さを育んだほうがより
よいわけだから、この世界に一切の謙譲を必要としないような人間などは
一人もいない世の中こそは、健全な世の中であるともいえるのである。

封建社会において上位とされる人間と下位とされる人間の違いは、謙譲を
尽くさねばならぬ義務性を帯びている相手が少ないか多いかという、ただ
それだけの違いである。そのうちでも、特に万人への謙譲すらをも尽くさねば
ならぬ義務を帯びているのが商売人であるから、商売人こそは誰から見ても
腰が低いような風体をも帯びるものである。(別に商業差別が敷かれて
いるわけでもない今においてですら、小売業者が顧客の見境もないような
「謝恩大セール」などを方々で催していたりするのもその例である)

だからこそ、商売人が人々からの直接的な非難の対象となるようなことは
ほとんどない。まれに非難されることがあったとしても、それは客に対する
無礼な応対などが露見してしまった場合がほとんどである。一方で、むしろ
人様に対して上位的な立場であることがどうしたって免れられない、官僚や
警察やその他公務員や教師などが非難の対象となるのはしょっちゅうである。
本当に救いようのない犯罪行為をやらかして非難されたりすることもあるが、
そのような要職に就く者にあるまじき不手際というものを非難されることも
またあり、それはただの商売人などであれば別段非難されるほどのこと
でもなかったりする。(たとえば高給取りであったりすることなど)

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059 2013/09/05(木) 13:56:44 ID:7qe/WC3oLw
万人に対して感謝感謝の風体でいるからこそ、その結果として商売人が得た
高給を羨望の対象とする人間はいても、非難の対象とする人間はいない。
少なくとも、商業への卑しみが徹底される封建社会でもない限りは、
平身低頭の限りを尽くして商売人が得た富というものを非難することは
暗黙の禁忌とされて、もしも無理に非難したりすれば「アカ」のレッテル
すらをも貼られかねないこととなる。「あそこまで謙譲の限りを尽くして
いる人間が、その結果として巨万の富を得られたりするのはもはや仕方のない
ことじゃないか」という風に考えてしまう人間心理というものがあるわけで、
それすらをも超克するためには、努力に相応な対価すら期待しないほどもの
心意気が、それなりの実践と共に育まれて行く必要すらもが生じるのである。

商売人という立場は、都市社会が形成される上での、本末のうちの末業に
あたる必要悪であるわけだから、誰しもに感謝や謙譲の限りを尽くしている
ぐらいでちょうどなぐらいのものとし、だからといって巨万の富を腹中に
抱え込んだりするのも僭越であるというぐらいのわきまえでいていいのである。
一方で、士大夫階級の人間が封建社会において、万人に対して謙るようなこと
はないけれども、それでもその行いが天下国家の公益に直結しているからには
分相応なあり方であり、むしろ平民であるような側の人間が感謝の念を振り
向けねばならないものと知らねばならぬ。別に、それが先天的な格の違い
などによって徹底されねばならぬことでもない。自分たち自身の日日の行い
に即して、当然のこととして被らねばならない処遇であるまでのことである。

「君命じて召せば、賤人と雖も、大夫士必ず自ら之れを御う」
「主君が命じて人を召した時には、相手が下賤の者といえども、上位の
大夫から下位の士人に到るまで丁重にこれを迎える。(人を召す場合には、
むしろ召す側のほうが謙譲や感謝の限りを尽くさねばならぬものである。
こういった当たり前な礼節すら平然と転倒させてしまっているところに、
犯罪聖書の記述ならではの有害かつ麻薬的な中毒性があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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060 2013/09/06(金) 13:30:16 ID:v5p46C6bUY
「市場」というのは、いつの時代、どこに言っても喧騒としているものである。
ただでさえ小売店の店員が威勢よく商品を売り叩いているようなところに、
さらにやたらと気分を高揚させるようなBGMをかけ流したりする。ひどい所では、
複数のBGMを大音量で垂れ流して不協和音の雑音状態にしてしまっているような店
すらもがあるが、それもそれで一つの購買意欲の喚起を狙った手法となっている。

市場の喧騒は、道路脇の看板や、テレビやラジオやネットなどでの広告戦略などの
形で、町中や茶の間に到るまで広められて行く。情緒も季節感もあったもんじゃない、
ただただ騒がしい広告戦略に取り込まれて、人々も市場並みの喧騒の内側にい続ける
のが当たり前であるかのような精神状態と化してしまう。たまに人里離れた山奥など
に行って見れば、心が落ち着くどころか、かえって不安な気分にすらなってしまう
ようなことともなる。それこそ、外的な環境汚染によって患ってしまった、潜在的な
躁状態であるわけで、資本主義社会の発展に従事させるための奴隷要員としては
格好の精神状態であるわけだけれども、いざ資本主義に基づく社会発展が滞って
しまった場合などには、これまた外的な要因によって鬱状態へと振り切れて
しまいかねない危険性を孕んだ精神状態となってしまっているのである。

資本主義による社会発展が頓挫した場合にも、戦争による国威の発揚などに
よって人々の逸り立った精神状態を保ち続けることが、今までにも主にアメリカに
よって試みられて来ているわけだが、それももう袋小路状態の様相を呈している。
核保有国でない中東諸国への攻撃などによってどうにか軍産利権の回転をも保とう
としてはいるが、そこに全く戦争を行うだけの道義が伴っていないことが、当の
アメリカ国民たち自身にすら悟られ始めてしまっているものだから、新たな攻撃の
開始などにも、相当の躊躇をせざるを得ないような事態となってしまっている。

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061 2013/09/06(金) 13:40:29 ID:v5p46C6bUY
資本主義ペースや戦争ペースの喧騒的な高揚状態などは、実際問題、どこまでも
恒常的に発展させ続けられたりするものではない。だからこそ、資本主義的な
発展の理念上の雛形となっている旧約においてですら、バベルの塔の崩壊の如き
大破綻が予見されているのである。旧約の著者であった古代のユダヤ教徒なども、
政商として古代オリエント諸国の過剰な商業発展に加担した挙げ句の経済破綻を
いくつも見てきていたのに違いなく、それを自分たちのせいではなく、神の怒り
によるものだなどと欺いている点だけが、現実に反する部分となっている。

どこまでも市場レベルの喧騒を拡大させて行くような志向性からして、
人間社会の健全な運営のためには抑制されて行かねばならぬものである。
そんなものばかりを追い求めるからこそ、破綻を来たしたときの鬱状態への
振り切れまでもが避けられなくなってしまうわけで、始めから自然状態の静寂と
いうものに親しんでいられたなら、決してそのような事態にも至らずに済むわけである。

街中になんの情緒もなくドカンと建てられている教会などではなく、静かな
郊外に建てられたり、敷地内に林野を養生したりすることで人工的に静寂を企図
していたりするような寺社において嗜まれる宗教活動などが、人々に静寂への
尊重を促す活動たり得もする。特に禅寺での修行などはそれに特化していたり
するわけで、極度の覚醒状態でもなければ沈鬱状態でもない、人間にとって最も
適正な瞑想状態というものがそこで研鑽され続けているのである。(ただし、
修行に失敗して精神を病んでしまうような人間も若干数はいるようである)

資本主義ペースの喧騒に慣れ切ってしまっているような人間が、人として適切な
沈静状態へと立ち直るためには、麻薬中毒から脱却するぐらいの苦難が伴い得る
ものでもある。一時は鬱状態にも振れ切ってしまって、そこから立ち直って行く
ぐらいの遠回りをも覚悟しなければならない。余生の短さから言って、快癒も
覚束ないような老人などについては、ゲームの内側あたりでの喧騒で何とか人生を
やり過ごさせるのも一つの手ではあるかも知れぬ。甚だ哀れなことであるとはいえ。

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062 2013/09/06(金) 14:26:13 ID:sFDM.oyFZA:au
「著れて息まざるは天なり、著れて動かざるは地なり。一動一静は
天地の間なり。〜楽しめば必ず声音を発し、動静に形るるは、人の道なり」
「現象として転変し続けるのが天である一方、自分からは一切能動的でない
のが地である。一つ一つの動静は全て天地の間において生ずるものである。
楽しいときにはその思いが声色や動静に現れるのが、人の道というものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

たとえば、ただひたすら走り抜く陸上競技だとか、ボクシングみたいな
これまた前進第一な格闘技だとかは、やってる最中に楽しめるもんじゃない。
一方で、動だけでなく静も重んじた身体操法で技を繰り出す合気柔術などは、
ただやってるだけで面白い。だからこそ試合での勝利による歓喜なども必要ない。

ただただ覚醒状態でいるようなのも、人間にとって楽しいことじゃない。
それを信者に強いている聖書信仰なども、信仰自体は何も面白くない。
面白くないからこそ敬虔だなどとも思い込むし、精神的な飢渇を募らせての
妄動にも走る。楽しくない上に、そこから派生する結実もつまらないものばかり。
その負の連鎖は、信仰を貫徹することなどではなく、そんな信仰に価値は
なかったのだということを認めることでのみ断ち切ることができる。

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063 2013/09/08(日) 12:55:29 ID:8PFNpfZen.
「ゆく河の水は絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記)」という通り、
人々が似たような生活を繰り返しているこの人間社会も、百年程度でごっそりとその人員が入れ換わる。
前世や来世があるのであれないのであれ、人々はみな新たな自我を得た知能ある生き物として、
星の数ほどもの前人が幾度となく経験して来たような社会的経験を、全く新たなものとしてまた経験して行く。

親の死なども、誰しもが経験して来ていることだけれども、自分自身が父親の死を経験するのは一度きり、
母親の死を経験するのも一度きりで、大きな哀しみをもたらすことにかけては未曾有の事態ともなる。
そこで「誰しもが経験する恒例行事だから」などと開き直ってろくに悲しまないでいようとしたりしたなら、
それでは人情に欠けることとなり、自分個人の人間としての立場を逸脱した概念夢想への逃避ともなってしまう。

だから、人道を最大級に重んじる儒者は、親の死に目などには半ばわざとらしいほどにも泣き崩れて悲しみ尽くす
ことを良しともして来た。親の死後は絶食して杖突くほどにも衰弱し、三年は喪に服しての自重をすべきだとする
古来の儒家の礼法なども、現代ではなかなか実践の難しいものであるけれども、それぐらいまでしても、
自らにとっての未曾有の悲劇たる親の死を悲しみ尽くすべきだとする儒家の心意気ぐらいは汲み取るべきであり、
孔子の弟子の宰我のように、そこに疑義を差し挟むようなことがあるべきでもない。なかなか実践するのも
難しいことではあるが、親の死に際しての絶食や三年の服喪もまた、そうまでしようとする心情ぐらいは
分からなくもないというぐらいであってこそ、現代人もまた相応の人道を踏襲して行けるものだと言える。

本来なら、親の身体を無闇に傷つけたりしないために、頑強な棺桶に遺体を納めての土葬に付したほうがよりよい
ともされているわけだけれども、今の日本の場合は仏教からの影響と、衛生上の理由とで火葬が主となっている。
この内の仏教からの影響は、諸行無常という真理を尊ぶ観点から導入されていることであり、その諸行無常の
真理こそが、愛別離苦を含む人間にとっての恒常的な苦しみ(八苦)を司るものともされている。

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064 2013/09/08(日) 12:58:28 ID:8PFNpfZen.
それが、人間の人生が一切皆苦であるとすら断じられるほどもの多大なる苦しみである
ということは仏教も認めているわけだから、概念夢想に逃げ込んで苦しみから目を背けたり
するような不埒さは伴っていない。特に大乗仏教の場合、人道上の苦しみからの解脱を得た
菩薩といえども、未だ苦しみに苛まれ続けている衆生への限りない慈悲を抱くとされているわけだから、
実際に存在する苦しみを侮るような不埒さは、どこまでも排除し尽くされているものだといえる。

何千年ものあいだ連綿と似たようなことが繰り返されて来ている人間社会の業というものを、我流で下手に
諦観しようとしたりした時に、人は心を病んでしまう。ニーチェのように、我流の永劫回帰説の提唱が
原因で発狂してしまったりするのが極例だが、そこまで行かずとも、心中に不埒な思い上がりを燻らせての
サイコパス状態と化してしまったりする。親の死の一つもろくに弔えなくなってしまっていたりする現代人に
こそそのような症状も顕著であり、むしろそれでこそ、親への依存心を排した立派な社会人扱いをされたり
すらする。そしてそのような精神病質者によって司られている世の中こそは、着実な破滅にも向かっている。

親の死も十二分に悲しめる人道の堅持こそは、確かにこの世の中の安定を保って行く礎ともなるわけだから、
自らが出家者でもない限りは、そうすべきである。在家者でありながらろくに健全な喜怒哀楽を保って
いようともしないような僭越こそは、人道への違背に直結しているが故に、精神を病ましめる原因とも
なってしまうのだから、それを助長してしまうような概念夢想での我流の諦観なども避けるべきである。

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065 2013/09/08(日) 13:01:11 ID:KRJqgreHyM:au
「湯の盤銘に曰く、まことに日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと(既出)。康誥に曰く、新民を
作すと。詩に曰く、周は旧邦と雖も、其の命は惟れ新たなりと。是の故に君子は其の極みを用いざる所無し」
「湯王の祭礼用の洗面器には『今日は昨日よりも新たに、明日も今日より新たに、日々これ新たに』と銘が彫られて
あった。また書経の周書康誥には『新たな善行に励む民たちを育てる』とある。また詩経大雅の文王にも『周は古い
国だが、その天命は新たである』とあ。そのため君子は、どこまでも新たな所にある最善を極め続けない所がない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・二より)

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066 2013/09/09(月) 17:00:06 ID:P2YOfK2Bxs
「是の月や、日長至り、陰陽争い、死生分かつ。君子斎戒し、処るに必ず身を掩い、躁すること毋し。
声色を止め、進む或ること毋く、滋味薄く、和を致す毋く、嗜欲を節し、心氣を定む」
「日の長さが頂上に達する頃、陰陽は相争い、群生の死生も極度に分かたれることとなる。
君子は斎戒沐浴して、必ず全身を覆う衣服をまとい、ヘタに嬉しがるようなこともないようにする。
声色を静止し、やたらと前進したがったりせず、滋味も薄くし、和気を高めようともせず、
嗜好欲望を節制して、心気をよく安定させる。(ヘタに嬉しがらない時宜の実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)

返信する

067 2013/09/10(火) 13:37:33 ID:q6yK0YXuqI
真っ当な教学とそうでないカルトとの違いに、自分たちで他人を
「格好のカモ」に仕立て上げてから帰服を迫るような真似には
絶対に及ばないか、それにすら及ぶかといった違いがある。

要するに、王道か覇道かの違いであり、前者の有り方は徹底して平和的である一方、
後者は外界の他者を一方的に侵害して支配下に置こうとする非平和的な要素を帯びている。
非平和的だから修羅道かといえば、別に純粋な修羅道でもない。「六韜」のように、
修羅道的な兵法を王道統治のために善用することを奨励している兵法書もあるように、
善用も悪用も可能であるのが修羅道であるわけだから、他者への侵害に専らである
覇道は、修羅道の悪用にこそ限定されているといえる。修羅道を悪用している
地獄道こそは覇道的なカルトの本体であり、実際に地獄道こそを正当化したり
美化したりするような粗悪な教義をその内に多数包含しているものでもある。

他者への侵害が当たり前であるような状態と、それを禁じられる状態というのは、
いずれも「当たり前の状態」であり得るものである。他者への侵害が大々的に奨励
されているキリスト教圏においてですら、国家の内乱まで容認していたのでは生存も
ままならないものだから、複雑な法治機構にもよって厳重に侵害行為が取り締まられている
場合がほとんどである(日本ほど徹底的ではないが、かといって世界平均以下でもない)。
一方で、盟約を交わしているわけでもないような国家間での侵害行為などは、時に当たり前の
ことのようにして実行に移される。自国が経済破綻に陥ってしまっているものだから、軍産
利権の稼動のために戦争をしておきたいとかいったろくでもない理由で他国を侵略対象とする。
「国際関係だけは腕力が全てだから」とかいった、これまたろくでもない根拠を掲げてそれを
正当化したりするが、いざ国家間での封建構造すらをも徹底するような王道主義の帝国が
打ち立てたりしたならば、単体で強すぎる国は郡県に分けての統治を強化するなどの腕力の
平均化を図られるなどして、腕力ばかりが全てではない国際関係が築き上げられて行くこと

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068 2013/09/10(火) 13:40:51 ID:q6yK0YXuqI
となる。そうなってからはもう、国家間での侵害行為なども徹底して取り締まられるようになり、
国内での争乱行為並みに「当たり前のこととして」それが許されないようになるのである。

ただもちろん、粗悪な邪教邪学しか流布されたこともないような地域で、「当たり前な
状況」としての、国家間での侵害行為が厳重に取り締まられた状態などを想像することも
できなかったということはあり得る。そのような常識のままで世界中に覇権の魔の手を
広げたりしたなら、大英帝国のようにかえって世界中に争乱の種を撒き散らしてしまう
ようなことにもなる。国際間での侵害行為すら当たり前のこととして取り締まられるような
状態というものを、具体的に実現して行く正学正教というものもまたそれはそれで必要となる
わけで、そのような教学の実践や流布のためには、邪教邪学の駆逐もまた必要となるのである。

他人をカモ扱いにして平気で侵害するような状況こそは、人々を極度に卑小化する機縁ともなる。
武家時代には武士たちがそれはそれは毅然としていた日本という国が、英米からの金権面からの
侵略を受けた明治以降にはその毅然さに綻びが生じ始め、アメリカによって武力的な侵略下に
まで置かれてしまった第二次大戦以降には、その凋落も決定的なものとなってしまった。
たとえ日本という国が世界中に王道統治を敷けるだけの仁徳面での潜在力を持ち合わせている
国であるとしたところで、今のように侵略行為でその尊厳が大いに損なわれたままでいて
しまっている状況では、立つものも立たないままでしかいられないのである。他者の尊厳を
土足で踏みにじる覇道の清算が十分に付けられることでこそ、初めて立つ王道というものが
あるわけで、それはもう、腕力などではどうにもならない所にこそある救いなのだといえる。

「礼は節を逾えず、侵さず侮らず、好みて狎れず」
「妄りに節度を超えず、他者を侮って侵したりせず、好きだからといって狎れたりしないのが
礼儀である。(信者に対してこのような振る舞いに及ぶ犯罪聖書の神こそは無礼の至りである。
その無礼講こそを陶酔源ともしているのだから、信者も信者で礼を嫌うならず者だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)

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069 2013/09/11(水) 12:07:09 ID:4NP5SfPpoc
行為能力の自由は、どこまでも生存中の欲望を満たすことにしか
繋がらないが、精神の自由は、生死を超えた大志の満悦にこそ繋がる。
そして人は皆いつかは死に、死ねば二度と生き返らないわけだから、
行為能力ではなく精神の自由こそは、永久不変の真理に根ざした自由でもあるといえる。

しかし、そんな自由を本気で追い求めている人間などは、もはやこの世に皆無である。
命をも危ぶませるような危険を伴う聖道門の寺での修行なども、西洋由来の人権尊重の
風潮の蔓延などによって強制的に自粛され、厳しい修行の先にこそ得られる精神の自由
などを獲得する余地も絶やされている。そもそもが仏教という信教自体、行為能力の
自由全般を積極的に自制して行くことを奨励するものであるわけだから、欧米聖書圏の
主導によって、限りのない行為能力の自由の追求こそは最高の意義を持つという価値観が
世界中で強制されてしまっている現今においては、敬遠されるものとなってしまっている。

廃仏毀釈後の日本などでは、権威も権力も失って本格的な精進修行の余地を絶たれた僧団が、
文化保護目的の宗教法人法による財政的優遇によって飼い殺し状態にされていることを
理由として、「坊主の癖に欲望まみれだ」などと批判を受けたりもする。そんなものは、
自分たちで貶めた相手を自分たちで卑しむ白痴の所業であるわけだから、批判をする者たち
自身の人格が疑われるべき愚行でしかないといえる。ただ、仮にそれを反省して、そういう
理由での仏門への非難を取り下げたとしても、だからといって本来の仏門のあり方を見直
せるほど、今の日本人もできた人間でいるわけじゃない。今の法人利権まみれな仏門も
認め難ければ、死ぬほど辛い修行を本当にやっていた頃の仏門もまた受け入れ難い。真理を
追究することにかけては、他のどんな教学にも勝る仏教という教学を、欧米聖書圏による
文化的支配の下に置かれている現代の人間こそは、全く受け入れられなくなってしまっている。

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070 2013/09/11(水) 12:25:25 ID:4NP5SfPpoc
そもそもが、仏門(特に禅門)が追い求めているものがある種の「自由」であるという
こと自体、現代人には全く認められもしないことである。仏門がやってることなんてのは
不自由の極み、いかに自由を捨て去った雁字搦めの生活を送り通すかばかりを追求している
ようにしか見えない。実際、行為能力面にかけては、「体系的な不自由」の限りを尽くす
ことが聖道門の出家者の使命となっている。しかしそれは別に、不自由を極めるための
不自由だったりするわけでもない。生きている限りにおいては戒律厳守の精進を尽くすと
したって、それによって得られる精神の自由たる悟りの獲得こそは本当の目的である
わけだから、本質的には自由を得るための不自由の追求だといえる。しかも、
永久不変の絶対真理に根ざした自由こそは、そこで追求の対象ともされている。

精神の自由は、行為能力の自由とも相容れないし、思考の自由とすら相容れはしない。
思考自体は儒家の教えにも合致するような正思善考に限定される。そしてその思考を司る精神
こそは、仏の悟りによって自由自在である。これまた、現象構造の中にばかり自由を探そう
とする現代人にとっては甚だ理解しがたいことだといえる。言うなれば、欲望にかられての
妄念妄動を来たしたりしないで済む精神こそは自由であるというわけで、愚昧な現代人などは、
そこが自由であるかどうかを意識したことすらない場合がほとんどである。限りない欲望を
どこまでも満たし尽くせることこそは自由であると考えるものだから、自らの精神が欲望に
まみれていること自体が不自由の至りであるなどとまでは、決して考えが及ばないのである。

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071 2013/09/11(水) 13:10:50 ID:tzg0QeFmwk:au
精神が汚欲にかられない自由と、欲望がどこまでも叶えられる自由こそは、全くの別次元に
ある自由同士であり、前者のほうが後者よりも高次元の自由だといえる。高次元であり、
全世界全宇宙を司る次元とも同等の次元にある自由であるものだから、永久不変の絶対真理に
合致した自由ともなっている。行為能力の自由はそれよりも低次元な自由であるものだから、
宇宙はおろか、地球上のこの人類社会の中だけですら、普遍的には通用することがない。
多少は通用しても、いつまでも通用するということは絶対にない。そうであることこそは
不自由の至りでもあるから、行為能力の自由こそは、偽りの自由でもあるといえる。

「君子は〜奸声乱色を留めずして聰明たり、淫楽慝礼を心術に接せず、
惰慢邪辟の気を身体に設けず、耳目鼻口、心知百体をして皆な順正に由らしむ」
「君子は奸悪な声音や乱れた色情を我が留めないことで聡明となり、淫らな享楽によって
礼儀が損なわれたりすることを心志に近づけず、怠惰慢心自由勝手気ままでいようとする
邪気を身体にも近づけず、耳目鼻口精神思考百対全てをどこまでも順正であらしめる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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072 2013/09/12(木) 12:33:28 ID:x1ogUBilWc
天地の狭間にしか人は生じ得ず、その人が意思疎通の道具としているのが言葉でしかない。
故に、言葉もまた天地以下の普遍性しか持たないということはあっても、
天地以上の普遍性を持ち得るなどと言うことはないのである。

絶対真理を万巻の仏典なども通じて教義として体系化している仏教といえども、
末法の世に仏教の流布が廃れて世の中が乱れるようなことはあり得るとされている。
真理はどこまでも永久不変なものであるにしたって、その真理を把捉しようとしている
言葉自体は上のような理由で天地未満、人間以内の普遍性しか持たないものだから、
そのような言葉やその実践体系である仏の教えもまた、流布が滞った結果として
通用しないこととなってしまう場合があることは認めざるを得ないのである。

言葉というものが、人間にとっての意思疎通の道具でしかないということは、
人間たち自身にとっての不可避なる要求でもあった。それ以上でも以下でもない
意志伝達用途の道具としての機能が洗練されていればいるほど、言葉もまた人間にとって
最大級に有用であり得たのだから、それ以外の目的性に根ざした言語の体系化を
斬り捨てて来たこともまた、避けることのできない途であったのである。

それにしたって、カルト宗教などを通じて、言葉に単なる意思疎通の道具以上の目的性
を付与しようとする試みも多少は為されてきたわけだけれども、それ自体は結局、世の中に
文化的停滞や経済破綻などの害悪をもたらすことしかできなかった。論駁などを一切許さず、
ただ神の言葉とされているものはそうだから正しいというようなドグマ的な言葉の悪用が
試みられた結果、そのような世の中は自他共に認める暗黒時代の様相を呈した。それに
反発して今度は、徹底的に反証可能性を要求し続ける科学的な言語利用が試みられたりする
ようにもなったわけで、それこそは近現代の文明発展の根幹ともなってきたわけだけれども、
今度は、反証可能性の追求ばかりに専らとなってしまった結果、言いたいことを最大級に
伝え尽くす、高度な意思疎通の道具としての言葉の利用が疎かにされることともなってしまった。

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073 2013/09/12(木) 12:35:46 ID:x1ogUBilWc
完全に現行のコンピュータプログラムに置き換えられるような言語上の意味構造だけでは、
そこに込められている厚情の有無や軽重などを判別することはできない。せいぜい大まかな
喜怒哀楽を言い回し上の約束事から計り知ることができるのみであり、そんな初歩的な
情念を超えた所にある、仁徳や菩提心に根ざしているような中正な厚情を込めることは
未だできないままである。だから、ネット上での匿名でのやり取りなどもギスギスとした
ものになりがちであり、そこから実質的な人間関係に移行したりするのも寒々しいこととなる。

言葉が伝えられる厚情などはごく限られたものでしかないということが、昔ほどよく
わきまえられていたものだから、昔は文面上の教えを学ぶにしたって、文面上だけでは
伝えきれていないような厚情までをも自力で汲み取るということが半ば必須のことと
されていた。それが疎かになったならば、明代の中国のように、世界史上でも最上級の
厚情の持ち主であった孔子や孟子の言葉すらをもその文面上だけで受け止めて、官僚腐敗を
正当化するための言い訳の道具にしてしまうようなことにすらなりかねないのである。

単なる意思疎通の道具でしかなく、しかも厚情まで伝える道具としての機能性は甚だしく
限定されているのが言葉であるということをしっかりとわきまえた上で用いられる、
言葉という道具の有用性は、それはそれで甚大なものである。それこそは、言葉が最大級
にその機能を発揮する契機ともなるのだから、言葉に対する過度の憧憬などはさっさと
破棄してしまった上で、それでも残る言葉と言う道具の価値を見直して行くべきだといえる。

「慶氏は無道なり、陳国を専らにせんことを求め、
暴にして其の君を蔑み、其の親を去る、五年にして滅ばざれば、是れ天無きなり」
「慶氏は甚だ無道で、陳国での専横を好み、暴慢によってその主君すらをも蔑み、人々を
親元からあえて引き離しての放蕩にすら及ばせている。五年後にも滅ばないでいたなら、
もはやこの世に天道はないといえるだろう。(君臣の義や父子の和が損なわれているような
無道な時代にこそ天地の道も滅びているのだから、そんな所での安住を欲すべきでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十年より)

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074 2013/09/13(金) 14:17:51 ID:jvgpd.KooA
どんなに尽力や心尽くしの限りを尽くした所で、その立場が不正である以上は、
万人に対して有害無益な影響を及ぼすことにしかならない。悪徳金融業者が
市井から巻き上げた不当利得を最大級に寄付などの慈善目的に役立てたとした
ところで、やはりプラスマイナスゼロ以下の悪影響しかこの世に及ぼさない。

だから、物事にかけて最善を尽くす上では、自らの出処進退の部分から
挺身的な姿勢で有り続ける必要がある。我が身を粉にしてでも世のため人のため
であろうとするのならば、世の中に害悪を及ぼすような仕事を生業にするような
ことから避ける。そこからさらに清廉な業務に励むことが最善を尽くすことに
なるわけだが、別にそこで最善を尽くすとまで行かず、ただ清廉な職務と共に
平静なままでいるだけでも、不正な立場の元で尽力や心尽くしを企てたりする
以上にもマシな存在でいられたりする。昔の君子階級の人間の誰しもが、職務
にかけての最善までをも尽くしていたなどということはないが、そうであっても、
我田引水を旨とする悪徳商人や悪徳庄屋の立場でいながら、貧民救済や銘酒造り
にかけての尽力を心がけていたりするよりはよほどマシであったに違いない。

度し難いのは、自らの出処進退から最善を尽くしている者や、出処進退ぐらいは
清廉であろうとしている者などよりも、根本的な立場が不正であった上で、その
埋め合わせとしての尽力や心尽くしを心がけるような者のほうが、見てくれには
巧言令色などもふんだんに働かせているものだから、印象がよかったりする
ことである。ただ外面的な見栄えをよくしようとしているばかりではない。
心尽くしの面でもそれなりの手管を尽くす。商売人が顧客に感謝の限りを
尽くしたりするのは、自分たちの側が客から利益を頂く立場にあるわけだから、
全く以っておかしいことでもない。ただその感謝にかけての心尽くしを利かせた
結果、尻尾を振って擦り寄ってくる子犬のような愛嬌を顧客のほうが受け止めて、
それをして「いい商売人だ」などと考える理由にしてしまったりする。

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075 2013/09/13(金) 14:24:35 ID:jvgpd.KooA
そういう卑俗な心尽くしや尽力を心がける者のほうが、立場から清廉であろうと
するような者よりも好印象を受けやすいという、問題的な事実がある。相手が尻尾
を振る子犬のような愛嬌の持ち主だから気分がいいというのは、誰でも抱きやすい
感傷である一方、その立場から毅然としている君子だから素晴らしいなどという感傷は、
自分自身もまたそれなりの清廉な心意気の持ち主であるのでなければ、なかなか抱き
にくい感傷となっている。特に、僻みや嫉妬に駆られているような人間が、毅然として
いる人間をだからといって評価したりすることはまずできないことであり、乱世に
おいてはそのようなルサンチマンの持ち主が大多数を占めてしまうという問題もある。

してみれば、立場から清廉であろうとするような人間の毅然さこそを尊べるように
なるためには、相当に厳重かつ本格的な道徳教育が必要となる上に、ルサンチマンを
人々に植え付けてしまうような苛政を権力者が敷いたりすることも避けねばならない。
初等教育に徳育が含まれていた明治から戦前にかけての日本の学校教育でも不足、
今でいう大学教育や大学院研究に相当するような教学に到るまで、仁義道徳の教学
こそを主要科目として行くぐらいでなければ、悪徳商人や悪徳庄屋の上辺だけでの
巧言令色や感謝感激の不実までをも人々が見抜けるようになるのは難しい。
(道徳教育や大学以上にまで引き伸ばされることは、そのままその大学から
政界や官僚機構へと就職して行く人間にとっての為政の自浄作用の働きをも担う)

出処進退の面から最善を尽くそうとする者がどのように素晴らしいかといって、昔は
「龍」や「鳳凰」のように素晴らしいものとされていた。清廉な立場から、さらなる君子
としての積極的な業務に励むものは龍のように偉大なものとされ、立場が清廉である
ことに特化しようとする者は鳳凰のように高潔なものとされた。いずれも可愛いから評価
できたりするものではない。尊崇に値するからこそ評価できるといった存在である。故にこそ、
自らもまたそれなりの志しと共にあるのでなければ、その価値も計り知りがたいのである。

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076 2013/09/13(金) 14:56:19 ID:nYD2L/cEwo:au
削除(by投稿者)

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077 2013/09/13(金) 14:59:34 ID:nYD2L/cEwo:au
「君子亮ならざれば、悪にか執らんか」
「君子は誠実でなければ、どうして何事かを執り成したりすることができようか。
(君父の尊位を無みする不実と共に君子が取り成すことなどは何もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一二より)

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078 2013/09/14(土) 11:08:27 ID:2bbT9/aVvU
「彼れも一時、此れも一時なり」
(「孟子」公孫丑章句下・一三)

天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずで、
日月星辰の運行ともまさに合致するような自然系の時宜の流れというのは、
人為によっていくらでも覆い隠すことができる。天道を尊重することあたかも、
乳児をあやして泣き止めさせる程もの繊細さでなければ、あっという間に天道も
雲隠れしてしまう。そうなってからはもう、何もかもを人為に頼らなければ
ならなくなるから、自らの行動こそは全てといった様相を呈することとなる。

西洋などと比べれば、本物の天道を尊重して来た頻度が遥かに高い極東社会
といえども、本当に天道を雲隠れさせることなく、天の時と共に為政や生活を
営めていたような時代や地域というのは限られている。点の時が見失われて、
諸侯大名の権力争いが激化した頃の何でもあり加減は西洋のそれ以上ですらあり、
そこでの巧妙な破壊工作活動を請け負った食客や忍者などの逸話が、
今でも史書や歴史物語などを通じて語り継がれていたりする。

ただ、そのような人為的な権謀術数の限りを尽くした権力争いというのは、
正真な天の時を見失った所で行われているものだから、全ては自己責任の
自業自得であるとするわきまえもまたそれなりに通用していた。だからこそ、
争いに敗れた王侯将相などが、責任を取ってさっさと自決することなどもザラ
であったわけだが、西洋などの場合はそうではない。東洋では、天の時が
見失われた状態での、完全な人為に基づくものとされるような争乱こそは
神の所業であるとされ、陰惨な権謀術数そのものにまで、天の時に適って
いるが故の権威などを付与しようとして来た経緯があるのである。

東洋でも春秋時代までは、陰陽道兵法などという、兵法を天の時に適わせよう
とする試みが多少はあったわけだが、孫子が完全な人力であるが故に最も
有効な部類の兵法を提唱してから後は、詭道の塊である兵事が天の時などに
いちいち合致させていられるものでもないことが広く察知されたのだった。

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079 2013/09/14(土) 11:11:07 ID:2bbT9/aVvU
西洋には、その孫子に相当する程もの人為主義的な兵法家は現れなかったし、
(マキャベリですらもが、兵法にかけては概念的なカテゴリー分けに固執
し過ぎていて、現実的な戦闘手段としての普遍性に欠けることを言っている)
なおかつ権力腐敗こそを神の業として祭り上げる邪教こそがあった。だから、
純粋な自然系にこそ遍在する天の時を見失うと共に、邪教によって天の時に
適うものなどと決め付けられた人為の所業の自己責任性までもが見失われて、
全くの自業自得の行いを無責任に積み重ねる悪癖を帯びてしまったのだった。

そこに神はないし、天の時もありはしない。自分たち自身の自己責任に基づく、
完全なる自業自得しかそこにはない。本物の天の時もあるにはあるが、それは、
おまえたちが「これである」などと見なして来たものとは全くの別物であるし、
おまえたちこそは率先してそれを覆い隠して来た張本人中の張本人でもある。

天の時など何一つとして知れたこともない。むしろ自分たちこそは積極的に
天の時から目を背けて来た不埒者の部類ですらあるということを思い知って、
今までにも専門的に天の時の把握に努めて来ているような人間をこそ他力の
本願として随順の対象として行くことこそは、賢明なこととなるであろう。

「物其れ多ければ、維れ其れ嘉し。
物其れ旨ければ、維れ其れ偕し。物其れ有れば、維れ其れ時なり」
「物が多ければ、それは宜しいことだ。物がうまければ、それもよいことだ。
物があれば、そこには時がある。(有と時の不可分性を説く、哲学的に秀逸な
記述。ただ、よりよい時を希う人情を肯定する滋味深さもまたそこにはある。
人間社会を直接司る統治理念は、これぐらい人情深いものであったほうがよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・魚麗より)

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080 2013/09/15(日) 13:35:37 ID:UZ7MNzn5eI
「無一物中無尽蔵」という禅門の教えほどまで行かずとも、社会道徳学である儒学にも
また「粗末な料理や水程度の飲み物に、自らのひじを曲げて枕とするような生活にすら
楽しみがある」(述而第七・一五)という程度の、物質的貧富への諦観というものがある。

別に、貧しい生活を苦行として受け入れるというのでもない。物質的な貧富という
ものを超越した所にある楽しみというものの存在を認めて、それに与ろうとしている。
物質的に豊か=幸福、物質的に貧しい=不幸というような判断基準を否定ないし劣後して、
それが世の中に生きる人間にとっての全てだなどとされるようなことだけは徹底して避ける。

先祖代々清貧を旨として来た頻度の高い日本人の内には、そのような考え方が根付いて
いる人間も多いものだから、感覚として分からないなどということもないわけだけれども、
世界的に見れば、そのような人間が国の多数派を形成する程もの員数と共に存在していたり
することからして極めて稀である。日本といえども、庄屋や豪商の末裔ような、先祖代々裕福
な生活を続けて来ている人種の中には、物質的な豊かさこそは全てであるかのような思い込み
にひどく囚われている人間がいたりするわけだけれども、江戸時代までほぼ完全な自給自足で
営まれていた日本社会において、そのような人種は今でも少数派なままに止まっている。

世界はといえば、似たような富裕層の立場でいながら、救い難い物欲にかられている人間が
日本以上に多くいるのはもちろんのこと、貧しい人間もまた物質的繁栄への渇望にかられて、
自分たちを貧しいままに追いやっている権力者へのルサンチマンを募らせていたりするのが
常である。だからこそ、スリだ泥棒だ強盗だといった犯罪行為が公然と繰り返されていたり
もするわけで、世の中総出で物質的繁栄への渇望に囚われたままでいるという点が、多くの
市民が清貧の価値をわきまえている日本などとは決定的に相違する部分となっている。

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081 2013/09/15(日) 13:43:21 ID:UZ7MNzn5eI
日本でも、秦人の末裔が支配下に置いていたような地域では、一般市民までもがひどい
物質的渇望に囚われていたりする場合がある。大半の日本人は秦人の忌み嫌う仏教文化や、
その影響を受けた大衆文化などを通じて、物質的繁栄をも超越した達観の楽しみというもの
を昔から教わって来ているから、外国の一般人ほどに無軌道な物欲に囚われていたりする
ことは少ない。一般人だけでなく、武家や公家といった為政者階級までもが清貧を旨として
来た場合が多いので、そのような権力者へのルサンチマンを庶民が抱いたりすることもない。

先の敗戦後、GHQ総司令官として日本占領を主導したマッカーサーは、日本人が帝国の
「臣民」として甚だ従順な性格を持ち合わせていることを根拠として「日本人は未熟な子供
だから、俺が大人にしてやる」などということをほざいたという。そうして洗脳教育に
よって作り上げたのが、物質的な豊かさばかりを追い求めて、金持ちとあらば即座に羨みの
対象とする下衆な小市民と来ている。自分たちもまた清貧を美徳とし、権力者までもが
多少以上にそうあろうとしていたものだからルサンチマンも抱かないでいられたという、
日本人の長所がことごとく目減りさせられて、日本史上でも最も人々の民度が低下した
時代が到来してしまった(それでもまだ、世界平均よりは遥かに高くもあるわけだが)。

まだまだ、潜在的に清貧の楽しみをわきまえている日本人は多かろうとも予想されるわけだが、
少なくとも、実質的にアメリカの占領下にあり続けている今の日本で、清貧志向が物質主義を
淘汰できるほどもの体裁からの威勢を湛えているなどということは、もはやない。清貧を尊ぶ
気風が、物質的繁栄を全てとする気風よりも社会的に優勢であるぐらいで初めて、江戸時代
のような健全な自給自足社会が営んでいけるようになるわけだけれども、今の日本がその
条件を満たしているなどとは言い難いし、世界についてはもう言わずもがなである。

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082 2013/09/15(日) 13:56:47 ID:GGgdn2JOmY:au
物欲上等の気風が清貧尊重の気風を淘汰しているようでは、外界からの莫大な富の収奪
によって自国の富をジャブジャブに膨れ上がらせているのでもなければ、ろくに世の中を
健全に運営して行くこともままならない。世界平均以下の国富しか持ち合わせていない国は
もちろんのこと、世界平均程度の国富を持ち合わせている国といえども、軍事独裁制に
頼るのでもなければ、国の治安一つまともに保てないようなザマとなってしまうのである。

一定以上に人間社会の富の偏在を是正することで初めて、清貧を尊べる程度の心の余裕が
人々に備わるということもあるわけだれども、それが達成されて後に、なおかつ人々が清貧を
尊べる頻度が、旺盛な物欲に駆られる頻度を上回るぐらいにまで人々の民度を高めることが
できてから初めて、世の中を自給自足によっても健全に運営して行くことができるようになる。

そのために有効となるのが、儒学や仏教の流布による民の徳化であるわけで、それを
推進して行くために必要となる素地こそは、聖書信仰の根絶や洋学の利用制限に基づく、
国際社会での権力犯罪の駆逐や、それによって可能となる富の偏在の是正なのである。

「民今の禄無きは、天夭いして是れ椓えり。たのしきかな富める人、哀しきかな此の惸独」
「いま民に食める禄もないことは、まるで天が災いを下してこれを損なっているかのよう
である。富めるものばかりはますます楽しみ、貧しい独り者などは悲哀の至りとなっている。
(『富む』という状態が勝ち組か何かのように扱われたりすることからして、大天災が発生
しているほどもの異常事態なのである。そのような事態の防止から務めて行かねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)

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083 2013/09/16(月) 11:30:14 ID:GBocE32mbw
小さい頃には平気で虫を触れていたのに、大人になってからは怖くて触れなくなったなどというのはよく
言われることである。それは別に、子供の頃よりも自分がただ臆病になったからとも限らない。毒のある虫や、
危険な寄生虫を宿している虫なども中にはいるということを知識としてわきまえたものだから、そのような
思慮分別によって、あえて虫に触れたりすることを怖がる臆病さを働かせられるようにもなったからだったりする。

一方で、小さい頃には犬を怖がっていたりしたのが、大人になってからは、ちゃんと躾られた飼い犬の大人しさ
などを了解して、それなりに可愛がれるようになったりもする。こちらは、年相応の思慮分別の身に付きによって、
かえって無軌道な臆病さが廃された例だといえる。とはいえ、犬も野良犬や狂犬である場合には、実際に人間に
危害を及ぼす可能性があるわけだから、そのような犬と安全な犬との区別も付けられなかった子供の頃に、
犬という生き物全般を恐怖の対象としていた臆病さもまた、知識や経験の浅さをカバーする自己防衛本能の
発露であったといえ、それもまた決して全否定までしてしまうべきものではなかったと言えるのである。

以上の事例を参考にするなら、人間には、むしろ必要な臆病さと、そうでない臆病さの両方があることが分かる。
毒虫すらをも平気で素手で触ろうとすらするような、臆すべきものすら臆さない姿勢は無謀だといえる一方で、
安全な飼い犬への警戒だけは解く思慮分別の身に付きなどは、本人にとっての着実な成長だといえる。

人としての着実な成長であるとも見なせるような思慮分別の身に付きこそは、臆すべきものと臆すべきでないものを
分別する能力になると共に、臆する中にも畏怖すべきものと、ただ恐怖すべきものとの分別を付ける能力ともなる。

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084 2013/09/16(月) 11:34:07 ID:GBocE32mbw
毒虫やヤクザやマフィアや権力犯罪者などは恐怖の対象とはなっても畏怖の対象とはならず、
天皇陛下や高僧などは畏怖の対象とはなっても恐怖の対象とはならない。臆すべきでものと
そうでないものとの分別を利かせられるからには、自分自身で臆病さを制御できるだけの胆力までもが
身に付いているに違いないわけで、その胆力こそは、別に恐くなくても怖れ畏まるべきであるような
相手への旺盛な畏怖心をも抱くだけの心意気を生じさせることができるものだからである。

子供の頃には怖がるべきものを怖がれもせず、怖がるべきでもないようなものを怖がったりしていたのが、
大人になれば恐るべきものを恐れ、恐るべきでないものを恐れず、畏まるべきものに畏まり、畏まるべき
でないものには畏まらないでいられるようになる、これこそは着実な人としての成長であるといえる。一方で、
子供ように無軌道な臆病さや無謀さのままでいたり、何もかもに臆する怯懦さの持ち主となったり、逆に何ものをも
怖れない思い上がりの持ち主となったりしたなら、これは成長の仕方を間違えた駄目な大人のありさまだといえる。

キリスト信仰によって無闇な無恐怖状態を植え付けられた欧米の白人などは、本来は、何もかもを
恐怖するような怯懦さの持ち主であった場合がほとんどであるに違いない。古代のギリシャ人なども、
豆畑を見て狂死するほどもの精神不安の持ち主だったわけで(これはピタゴラスの事例)、その精神不安
こそが魑魅魍魎のごとき怪力乱神の割拠するギリシャ神話の作成や、出歯亀的な覗き行為を根本理念
とする理論哲学や空間幾何学の醸成にも繋がったわけだけれども、そのような多量の文化を創作していた
古代の白人たち自身は、精神不安からなるひでい苦悩に日ごろから苛まれ続けていた。だからこそ、
中東原産のカルト信仰によってでも、自分たちこそは率先してあらゆる恐怖感を捨て去る途を選択
してしまったわけで、聖書教自体は中東原産であるにしたって、そんなものを自分たちの金科玉条
にまでしてしまわざるを得なかったような特殊事情は、やはり白人社会のほうにこそあったのだといえる。

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085 2013/09/16(月) 12:00:59 ID:B13cQyx9X6:au
カルト信仰を盾にしての無恐怖状態こそは、自分たちごとの人類滅亡の危機すらをも招いてしまった。
未だにそれすら恐怖してないとしたって、我が命が惜しいからには、恐怖すべきものすら恐怖しない不埒さを
カルト信仰と共に破棄して行くしかない。さすれば今度は、古代のギリシャ人のように、豆畑を見ただけでも
狂い死にしてしまうほどもの怯懦まみれな精神不安というデフォルトに立ち戻ってしまいかねないという
特殊事情が、この世で最も代表的なカルト信仰集団である欧米の白人にこそ潜在しているわけである。

無闇な臆病も、無闇な怖いもの知らずも、何ら是とするに値するものではない。
臆すべきものを臆し、臆すべきでないものを臆れない真の勇猛さこそを目指して、
そのような心理状態全般からの卒業を図って行くようにしなければならない。

「孝子将に〜祭の日に及びて、顔色は必ず温に、行い必ず恐れあり、愛するに及ばざるを懼れるが如く然とす」
「孝子が先祖の祭祀の当日に至るや、顔色は温良恭倹なままでいながら、その行いには必ず畏怖が伴っている。
親先祖を愛する気持ちが足りていないのではないかと臆し続けているような風でいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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086 2013/09/17(火) 12:48:44 ID:NBIrvpf2bk
善や悪といった倫理基準自体、人間が人間のために人間社会で司っているものでしかない。
善業といい悪業といい、人間社会で実行に移されて積み重ねられて行くものでしかない
からこそ、人間たち自身がその気になるのであれば、世界中を善業で満たして、誰しもに
「生まれて来て良かった」と思わせる程もの福徳を提供することが可能となるのである。

とはいえ、真理となれば「諸行無常」であって、善業を積もうが悪業を積もうが、せいぜい
人間は100年やそこらで個体の死に見舞われることが避けられないものであるわけだから、
世俗での善因楽果といえども永久不変のものでまであるわけではないことを諦観して、
六根清浄なる不生不滅の境地を尊ぶ所にこそ意義を見出すということもあるのである。

上二つの方向性があるとした上で考えるなら、この世を悪業の展開の場であるなどと
ばかり決め付けて、実際にそのような所業に及び、この世での苦しみが極まった挙げ句に
死への逃避などを渇望したりすることこそは、人として最も忌み避けるべき醜態である
ことまでもが分かるわけである。善業の展開の場でもあり得るこの世をあえて悪業一色に
染め上げようとすること自体が愚行である上に、そこから死によって浄化されようなどと
考えることもまた身勝手極まりないものである。おまえ個人が死によって俗世での苦しみ
から免れられようとも、おまえの悪行によって汚濁にまみれさせられた世の中でこれからも
生きて行かされる人間のほうはたまったもんじゃない。そうである存命者が不幸である
とした所で、その責任は、わざわざ必要もなく世の中を濁悪にまみれさせたおまえにこそ
あるのだから、死によって苦しみを免れられる自分自身を幸せがる以上にも、存命者として
おまえの尻拭いをさせられる人々への侘びを冥土でも入れ続けねばならないとすら言える。

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087 2013/09/17(火) 12:54:13 ID:NBIrvpf2bk
この世に生を受けた以上は断悪修善や勧善懲悪の実践に励んで、この世に後腐れなどを
残すことなく一生涯を終えることでこそ、生まれてきたなりの意味を持って生滅するものと
なるのだといえる。積極的に善行に励むとまでは行かずとも、最悪の悪行ぐらいは犯さない
ようにしておくことで、生まれて来なかったのともさして変わらぬ程度の清浄さでいること
だろう。善も悪も不善も不悪も、全てこの世界の内側でしか展開され得ないものだからこそ、
それらをうまく処理することで、生まれて来なかった場合を0とした場合のプラスマイナス
ゼロやそれ以上の存在価値を以って人生を送り終えることもまた可能となっているのである。

ただ、そのようなプラマイゼロ以上の価値を持つ人生を送り通すためには、厳重な善悪の
分別だとか、不善不悪の無為自然の境地への尊重意識だとかを十全に育んでおかねばならず、
そのためだけに相当な勉学や修身を必要ともしてしまう。小人たちが若い内から欲望の赴く
ままの人生を送っているような傍らで、最低でも三十歳程度までは勉学精進尽くしの生活を
送らねばならなかったりする(孔子の生涯も『十五にして学を志し、三十にして立つ』で
あったという。為政第二・四)。本格の出家者ともなればさらにそれ以上で、世俗の欲望を
一切控えたままで生涯を送り終えねばならぬ。ただ、それぐらいであって初めて、本当に
自らの人生が生まれて来なかった場合以上の価値を持ち得るわけで、そうであるために必要
な条件というのは、欲望まみれな現代人が考えるよりも遥かに厳しいものであるわけだ。

人間にとっての無制限な欲望こそは、生まれて来なかったほうがマシだったほどもの自他
への害悪を撒き散らす源となる。それでいてその欲望こそが、生を謳歌するための快楽を
貪る気概ともなる。短絡的に生を嬉しがれるような快楽こそは、かえって自分が生まれて
こなかったほうがマシだったほどもの悪業の積み重ねに直結するという、小人には到底
わきまえ難い根本法則があるわけで、その悪業輪廻に自力で陥らずにいられる者こそは
賢人であり、他人すらをも共に陥らせずにいられる者こそは聖人であるといえる。

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088 2013/09/17(火) 13:56:47 ID:zfnx1T.4TM:au
誰しもが聖賢にまでなったりするのはなかなか難しいことであるにしろ、世の中の方々に
散発した聖賢が、人々を共に悪業に陥らせまいと企図した結果、世の中の大多数の人間が、
生まれてきてよかったといえる程度にまともな人生を送れるようになるということは、
実際に可能なことである。実際に聖賢の側からそれを企図して行く立場の人間の境地などは、
擬似体験としてですらなかなか共感し難いものだが、透徹した理知によってそれが可能で
あることが算出されるものだし、聖賢の境地においてこそ健全な楽しみを得るということが
人間という生き物に可能であるということもまた、理論的に肯定できることである。そう
であることを納得すらしてみたいというのなら、自らも精進に励むに越したことはない。

「死生命あり(既出)」
「生きることにも、死ぬことにも、天命というものが備わっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・五より)

「夫れ礼は、死生存亡の体なり(既出)」
「礼儀こそは、人間にとっての生死存亡の本体である。
(生きるなら生きるなりの礼節に則れば、それで死する状態とも等価な生たり得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)

「盆成括斉に仕う。孟子曰く、死せんかな、盆成括は。盆成括殺さるる。
門人問うて曰く、「夫子は何を以てか其の将に殺さるるを知らんか。曰く、其の人と為るや
小にして才有るも、未だ君子之の大道を聞かざるなり、則ち以て其の身を殺さるるに足るのみ」
「盆成括という孟氏の門人が斉国に仕官した。孟氏は言われた。『盆成括はきっと死ぬだろう』
案の定、盆成括は殺されてしまった。門人たちは孟氏に問うた。『どうして先生は彼が殺される
ことを予知できたのですか』 孟氏『その人となりは、小才はあっても、未だ君子の大道を
聞き知るまでには足らぬもの。(にもかかわらず斉のような大国に仕えたのだから、)もはや
殺される以外の運命は開けていなかったろうと考えたのだ』(自らの不徳故に、
俗世の悪業を食い止められもせずに死んだり殺されたりするしか能がない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二九)

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089 2013/09/18(水) 13:12:22 ID:zHzJTyNrhk
聖書信仰のような邪信を好みたがる心持ちといえども、心情として全く理解
できないなどということはない。しかし、現実的にそれは、薬物乱用や強盗殺人が
取り締まられなければならない程度には規制の対象とされていかなければならない
ものであるということもまた、一人前の社会人としてやっていける程度の理性と
共にであれば、どうしたって理解して受け入れざるを得ないこととなっている。

聖書信仰が堂に入らせるような精神状態、十住心論でいうところの「異生羝羊心」
に相当するような心理状態というものもまた、人間にとって一定以上に安定的な
心理状態であることには変わりない。特に、奴隷や人畜のような立場に追い込
まれてしまっている人間にとっては、特定の思想信条などに依らずとも、否応
なくそのような心理状態に追い込まれざるを得ないようにもなっている。しかし、
それをあえて正当化して堂に入らせるなどということまでは、あるべきではない。

だから東洋では、未だ奴隷制が残存していたような頃から、異生羝羊心そのものを
堂に入らせるような思想信条は排されて、それ以上に高潔な心理状態こそを堂に
入らせる試みが、数多の思想哲学や宗教信仰によって為されてきたのであるけれども、
西洋の場合はそうではなく、異生羝羊心こそを「万人が安住すべき常道」にすらして
しまおうとする試みが為され、それが結果的に聖書信仰として確立されてしまった。

異生羝羊心は、未熟な女子供の心理状態にも合致するものだから、それを正当化して
体系化している聖書信仰の教義が、女子供により好かれやすいということもある。
特に、仏教帰依が廃れかかっている今の日本などでは、仏教などは年寄りの好む
古臭い文化だなどとも捉えられがちであったりするが、昔の日本では老若男女
誰しもが仏門に帰依するぐらいは当たり前のことであった。それは、異生羝羊心で
ある状態こそが一般的である女子供などからすれば、自分たちが得意でないもの
にあえて帰依させられる億劫であったわけで、西洋的な価値観に基づけば「束縛」
されていた状態だったともいえるわけである。しかし、「異生羝羊心などを堂に
入らせたりすべきでない」という「万事を理解したうえでの結論」に基づくなら、

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090 2013/09/18(水) 13:19:54 ID:zHzJTyNrhk
女子供にすら仏門や儒学への帰服をあてがって、異生羝羊心を開き直るような余地
を与えないようにするほうが理に適っているわけだから、昔の日本人などがあえて
そのような姿勢でいたこともまた、今でこそ本当に評価できることとなっている。

かようにして、何もかもを理解し尽くした境地においてこそ、「聖書信仰が社会的
に許容されるようなことだけはあってはならない」という結論の正当性にまで
理解を働かせられるようになるわけである。未だ理解が未熟な限りにおいては、
女子供や小人男といった世の中の大多数の人間の恒常的な心理状態を正当化して
堂に入らせてくれる聖書信仰という文化の、その存在からの不当性などを理解する
こともなかなかできはしないのであるけれども、「異生羝羊心のような未熟な精神
状態もまた、人間社会における常なる存在である」ということにも理解を働かせた上で、
「それを正当化して堂に入らせるようなことだけはあってはならない」という所にまで
理解を働かせられたなら、その時にこそ、聖書信仰がこの世の中での市民権などを
得てはならないことにまで、やっと理解が利かせられるようになるわけである。

「異生羝羊心そのものはあらざるを得ないものだが、それを正当化することだけは
許されない」という物事への理解は、それ自体が中正な判断力に基づくものである。
「異生羝羊心とその正当化は絶対不可分なものである」などという極論状態に思考
が陥ってしまっているのであれば、そのような判断自体が覚束ないままとなる。

それ自体、中正な考えを欠く異生羝羊心の持ち主ならではの患い事であるとも言える
わけで、だからこそ、上のような中正な判断に即して聖書信仰が根絶されて行くこと
もまた、異生羝羊心の持ち主たち自身にとっては理解できないが故に、はなはだ
受け入れがたい事態ともなってしまうのである。故に、異生羝羊心の持ち主たち
からの万全の理解や承諾を得つつ、聖書信仰を根絶していったりすることも
なかなか難しいこととなるわけで、それはまず無理であるとした上で、彼らの
未熟な精神状態自体はこれからも一定の保護下に置いていってやることである。

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091 2013/09/18(水) 13:55:31 ID:bM4iVFvCXY:au
聖書信仰は絶やされながらも、必要悪としての異生羝羊心やその持ち主たちの
存在性ぐらいは許容されるようになった世の中において、元聖書信者や聖書愛好者
たちも、意外と自分たちが普通にいられていることを知ってやっと、聖書信仰など
自分たちには全く不可欠でも何でもないものだったことを理解するのである。

世の中の大多数の人間は女子供や小人男であるのが世の常であると共に、そんな
劣等な立場の人間が、あえて自分たちの品性を正当化して思い上がったりまでは
しないでいることもまた、全世界規模で見た場合の世の常であるわけだから、自分
たちの命の危機などを理由に、そのような常なる状態への帰還を拒むべきでもない。

「宰我、子貢、有若も、智は以て聖人を知るに足れり」
「宰我や子貢や有若といった孔門の弟子たちにも、聖人とは何かを理解できる
程度の知恵はあった。(宰我は知識や言辞ばかりで人情や実践に欠け、子貢は
君子としての職務を尊ぶ儒門に学びながら貨殖功利で財を成し、有若は容貌が孔子
に似ていたために孔子の没後に後釜に仕立て上げられたもののその役割を果たし
きれなかった。そんな連中でも、聖人とは何かを理解するぐらいのことはできた。
問題は聖人を理解することなどではなく、実際に聖人になれるかどうかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)

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092 2013/09/19(木) 13:41:16 ID:ZRAr5QygBk
情念も理性もあるとした上で、両者の均衡が取れているのが聖賢である一方、
両者の均衡が破れてしまいがちなのが小人や女子供である。たとえば

 理 理
   情   ・・・①
 理 理

というように、理が情を取り囲んで十分な制御下に置いているような状態こそは
情理の均衡が取れた状態であるといえ、これこそは聖賢の常なる精神状態である一方、

 情 情
   理   ・・・②
 情 情

といった風に、理こそが情に取り囲まれてしまっている状態などが、情理の均衡が
破れてしまっている状態であり、これが小人や女子供の陥りやすい精神状態だといえる。

上の②ような状態でいくら理性を働かせたところで、結局は総体面からの劣情に囚われて、
劣情の発露のために理知までもが悪用されてしまうことになる。西洋の学者がそれは
それは精巧な科学体系や哲学理論を構築しておきながら、結局は自分たちのパトロンの
暴慢を支援してやるためばかりに知識を利用してしまったのも、そのためである。

一方で、上の①のような情理の均衡が取れた状態であれば、理知自体は「論語」にある
ようなごく当たり前な徳目程度であるとした所で、自らの知識を悪用せずに善用したり
することが固く守られて、自他に悪影響以上の好影響を及ぼすことが可能となるのである。

①のような形で十分な制御下に置かれた情念こそは、仁徳や菩提心ともなるわけだから、
情念を全く欠いた機械かアスペルガー症候群患者のような状態が理想とすべき精神状態
だったりするわけでも決してない。理知によって十分な統制下にすら置かれているので
あれば、それによって仁心たり得ている情念自体は、むしろ旺盛なほうがいいぐらいである。

つまり、①のような状態にある情念が、②を構成している情念の合計並みかそれ以上
の旺盛さであっても構わないわけで、そうなれば、①のような情理の構造全体が②の
構造全体の何倍もの大きさにすらなるということになる。そのような情理を湛えた人間
こそは大人(たいじん)であり、②のような精神状態にある小人にとっては畏れ多い
存在ともなる。自らが囚われの状態にある情念並みかそれ以上の情念を湛えながら、

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093 2013/09/19(木) 13:43:33 ID:ZRAr5QygBk
さらにそれを絶大な理性によって統御下に置いている人間であるわけだから、とても
とても、自分ごときが肩を並べられるような相手ではないということになるのである。

「仁者こそは本当に人を好むことも憎むこともできる(里仁第四・三)」とあるのも、
仁者の抱く情念の分量が、小人が抱ける情念の限界量すらをも上回るものだからである。
十全な理知による制御を受けた情念であるからこそ、自らを取り込んでしまっている
ような情念よりも旺盛であり得る。情念に囚われること即ちより大きな情念を抱ける
ということなのではなく、むしろそれで自らが抱ける情念を限ってしまうことになる。

男よりも情念に囚われやすい女子供が、男よりも情念豊かだというのでもない。
仁徳や菩提心として男が抱くような情念こそは、女子供の劣情をも上回る大情となり、
女子供や小人には決して実現できないような大業を成す原動力ともなる。だからこそ、
「男は理性の生き物、女は情念の生き物」などという決め付けも不当なものであるといえ、
むしろ小ぢんまりとした情念ばかりに駆られている女子供や小人の哀れさこそを、
大の男もまた慈しんでやるのでなければならない。それこそ、女子供や小人には
一生抱けないような、絶大な理性の統御下にある、無尽蔵の慈愛によって。

「(易は)天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、
昼夜の道を通じて知る。(ここまで既出)故に神は方なくして易は体なし」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を取り囲んで過ちを犯させず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽
の転変を通じてそれを知らせる。そのため神が特定の相手だけを取り囲んで優遇する
ようなこともないし、易が(人格神の如き)一定の形体を持ったりすることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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094 2013/09/20(金) 13:17:29 ID:xyWQ7dPy1k
自分自身の実力に何らの疑問の余地もない時にこそ、人は恐れたりする必要がない。
自分以外の強大な何者かに頼っているような状態ならば、自力の脆弱な自分自身は
やはり怖れ慎んでいるべきである。強大な何者かを拠り所とした挙げ句に
「本願ぼこり」で怖れ知らずな驕り高ぶりを抱いたりするのならば、結局、
頼りにしている相手というのが実は単なる暴力団だったりするのが関の山である。
本人たち自身が卑しい存在である暴力団の用心棒を頼りにしているような
人間が何者かを畏れたりする必要はないわけだけれども、その場合には、
そもそもより頼むべき相手を間違っているということが言えるのである。

聖書圏において、超越神とされるような存在に合致する所業を裏で執り行って
来たのがユダヤ教徒であるわけだけれども、表向きのユダヤ教徒自体は、昔から
キリスト教徒からの卑しみの対象とされて来ている。政商としてのその職分も
また決してよいものとまではされず、せいぜい必要悪としての黙認を受けて
来た程度であるわけだけれども、ユダヤ教徒が政商として暗躍した挙げ句に
巻き起こされた大事件なり戦乱なりだけは「神の所業」として尊重の対象にすら
されて来ている。古代ローマの半円形劇場での芸能享受の頃から西洋人に植えつけ
られている、舞台上だけを見て舞台裏から目を背ける演劇享楽型の精神構造で
以って、裏方の仕掛け人であるユダヤ教徒自体は全く尊敬の対象などにせずとも、
表向きに巻き起こる大事件だけは神の所業として尊んだりして来たのである。

演劇享楽型の精神構造と化してしまっている人間というのは、表向き神の所業
らしきものも、所詮は卑しむべき裏方の蠢動によって執り行われているということを
本能的には察しているのである。だから、神の所業といえどもさして畏怖心の糧に
したりすることもなく、その威力の嵩にかかった驕り高ぶりを抱いたりするのである。

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095 2013/09/20(金) 13:21:30 ID:xyWQ7dPy1k
「物事には裏表が付き物である」というのは、東洋でも陰陽思想や密教に即して
わきまえられて来たことである。特にこの日本こそは、本場であるはずの中国や
インド以上にも、最も良質な部類の陰陽道や真言密教を保全して来ている国でもある。
なればこそ、「裏」に相当するものを決しておざなりに扱ったりはしない。日本の
顕教の実質的な祖である最澄などよりも、密教の祖である空海のほうが個人としては
絶大な人気を得ていたりもする通り、半ば表以上にも裏のほうが尊重されて来ている
ぐらいである。それはそれで日本独特の事情であったりもするわけだけれども、裏を
表並みかそれ以上に尊ぶということもまた実際に可能である見本となっている。

裏表の内の裏を尊ぶということをおざなりにして来たからこそ、東洋では許し難い
権力犯罪行為であるとして、とっくの昔から取り締まられて来ているような所業を
ユダヤ人が裏でやらかすことが西洋では黙認されて来たのである。しかもその
結果として巻き起こされる大事件だけは「神の所業」としてウレシがると来ている。
所詮は裏方の権力犯罪によって巻き起こされている事件に過ぎないものだから、
それを神の所業としてウレシがる西洋人たちもまたろくな畏怖心を抱くことがない。
裏を尊重する意識を欠いているが故にまともな畏敬心も抱かれないという、粗悪な
未開文化の享受ゆえの悪循環がこれまで進行して来てしまっているのである。

表並みかそれ以上にも裏を尊ぶ意識が育まれることで、かえって裏での迷惑な策動が
予防される。裏は裏で適切に扱うことがわきまえられることで、裏が表を不正に脅かす
ようなことも許されなくなる。肉食と魚食なら肉食のほうが表で魚食が裏だが、魚食の
ほうが無駄な脂質も少なくて知能の向上に与しやすいなどの栄養面での優勢さがある。
そのような裏の表への優勢さも察した上で表裏を取り扱って行くのでなければ、表裏の
均衡というものも崩れがちになりやすいという特殊事情すらをもできれば察すべきである。

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096 2013/09/20(金) 14:51:16 ID:oZQBqOwyH2:au
十分な察知や尊重の行き届いた裏方こそは、ユダヤ教徒のような暴挙に及ぶことも
許されず、裏方という立場ならではのまともな業務のみを務めて行かねばならなくなる。
しかもそれでこそ、日本の技術者のような、微にわたり細にわたる超絶技巧の工作まで
もが実現されもする。その技術の全てが万人に評価されたりするわけではないけれども、
世の中全体が「裏」というもの全般を尊重する風習を嗜んでいるものだから、誰が見ている
わけでもないような裏の内からの努力精進に励むようになって、表向きだけの努力ばかりに
専らであったような場合には決して成し得なかったような功績までもが挙げられたりするのである。

「俾予れ一人をして爾じの邦家を輯寧せしむ。
茲れ朕れ未だ戻を上下に獲るを知らず。慄慄として危懼し、将に深淵に隕らんが若し」
「天は我れ(湯王)一人に命じて汝らの住む国邑を平定させたのだけれども、それでも未だに、
天地上下に自らが罪を得たのではないかと心配で、慄然として恐れ危ぶみ、まさに深い淵へと
転落しそうな心持ちでいる。(天命によって天下を得たのであっても、未だに戒心恐懼する気持ち
を欠かさないでいる。これこそは聖君の有り方であるし、万人が見習うべき姿でもあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経—ー書経・商書・湯誥より)

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097 2013/09/21(土) 09:44:54 ID:rKA2tL5krU
演劇や映画を見たりすることからして、観客席でふんぞり返って「どれ、楽しんでやろうか」
などという横柄な態度でいることが全く以て許されるものである。舞台裏でのユダヤ教徒たちの
策動の結果、表向きの世にもたらされる大災厄などを「神の所業」として崇め立てたりするキリスト教徒の
姿勢もまた、観客席でふんぞり返って演劇や映画を観る姿勢にも酷似するものだから、そこには必ず
一定以上の不埒さが伴ったままであり続ける。それこそ、「神の所業」を崇め立てたりすること自体が
自分たちの側にとっての演技の様相を呈するわけで、見てくれの敬虔さぐらいは取り繕いつつも、
腹の内には物事を無責任に傍観したままでいてやろうとする思い上がりを宿したままでいるのが常態と化すのである。

そんなことは、正統な神仏を崇敬する上では決して許されることではない。
お客様然とした無責任な態度は心中からも完全に排し去った上での、全身全霊をかけての崇敬を
帰依者の側が心がけるのでなければ、そもそも帰依したりすること自体に意味が生じないのが
本物の神仏というものである。それは実際、堅苦しいことでもあるわけで、心中に思い上がりを帯びたままで
いることこそを嬉しがるような不埒者にとっては、できる限り忌み避けたいこととなるのである。

そんな、正統な神仏への帰依を心底忌み嫌うような不埒者にとってこそ、劇場型の
カルト信仰もまた、自らの希望が願ったり叶ったりな信仰となる。ふんぞり返って演劇や映画を観る
観客然とした精神的怠惰と共に帰依することまでもが許される邪神への邪信だからこそ、
そんな信仰を持つ自分たちもまた喜ばしくて幸せだということになるのである。

そして、そんな精神的怠惰と共なる帰依が許容されるカルト信仰こそは、
まだ信仰などしないでいたほうがマシなほどもの粗悪さを帯びた駄信ともなる。

神仏を崇敬する以上は、心中の不埒さなども完全に排し去った上での、全身全霊をかけた崇敬こそを
心がけるべきであり、それでこそ、神仏への崇敬が少なからずの公益的な意義を帯びることともなる。

返信する

098 2013/09/21(土) 09:49:33 ID:rKA2tL5krU
全身全霊での神仏崇拝こそは、裏でのユダヤの策動による大災厄の発生を
「神の所業だ」などとして怖れ畏まるようなお粗末さを許すことも決してないから、
ただその事実一つを取っても公害予防の意義を帯びていることが分かるのである。

ただ、全身全霊での神仏崇拝を心がけることなどは、世俗での生業もあるような俗人には
なかなか難儀なこととなるのも事実だから、恒常的には「鬼神を敬してこれを遠ざく」とした上で、
定期的な祭りや寺社参りの時にぐらいは誠心誠意での参拝を心がけるようにすればいいのである。

神仏への帰依自体、世俗での仕事並みかそれ以上にも義務的なものであるべきなのであり、
そこに安易な報酬を期待したりすべきでもない。安全保障だとか公益寄与だとかの、最低限かつ最大級の
福利こそを神仏への崇敬にも託すべきなのであり、そうでもないような些末な欲望を叶えてくれる
神などは、そんじょそこらのサービス業者ともさして変わらぬ存在であるとして見限るべきなのである。

長寿すら、神仏によって叶えられるべき場合もあれば、そうでない場合もある。
文王や武王の如く世のため人のための人生に徹している人間ともなれば、神仏からの加護によってでも
長寿に与るべきである一方、政商や悪徳外交家ほどにも有害無益な所業に励んでいる者ともなれば、
むしろ神仏に自らの短命を願うべきですらあるといえる。正統な神仏であれば、そのあたりの禍福の分配も
妥当なものとしてくれるから、心配なくそのような目的性と共に崇敬を篤くして行けばいいわけだけれども。

世の中にとって有害無益な罪業ばかりを積み重ねている大悪人に限って、
不老長寿すらをもこいねがう程の思い上がりにまみれていたりするのが世の常であるわけで、
そのような大悪人の望みを絶つためにも、無闇に長寿を欲したりすることからして避けるべきだったりもする。

白髪でしわくちゃで背骨も曲がった爺さん婆さんになってでも長生きしなければならないような
事情があるんなら長生きもすればいいが、いつまでも若いままでいたいとかいう思い上がりすら
帯びているというのであれば、せいぜい50歳程度が適正寿命となるであろう。不老長寿の
妙薬とされるような毒物劇物すら貪った挙げ句に49歳で亡くなった秦始皇帝のように。

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099 2013/09/21(土) 10:25:33 ID:bDil5sqVRw:au
「舜は其れ大孝なるか。徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を有し、宗廟は之れを饗し、
子孫は之れを保んず。故に大徳は必ず其の位を得、必ず其の禄を得、必ず其の名を得、
必ず其の寿を得。故に天の物を生ずるや、必ず其の材に因らしめて篤うす。故ら栽えたる者は
之れを培い、傾くる者は之れを覆す。(詩に)曰:く、嘉楽の君子は、憲憲たる令徳、民も宜しく
人も宜しく、禄を天に受け、保佑して之れを命じ、天自り之れを申すと。故に大徳者は必ず命を受く」
「虞の舜帝はそれはそれは大孝なるものであった。その徳は聖人とされるに値し、尊さは天子と
されるに値し、富は四海の内の全てを有するに足り、社稷宗廟は彼を饗応するに足り、子孫はその
あり方を末永く保ち続けるに足りた。故に大徳こそは相応の位を得、相応の福禄を得、相応の名声を得、
相応の長寿を得る見本ともなっている。天は万物を生ずるに際して、必ず因果応報の理コトワリに即して
全てを篤くもてなすように取り決めた。自ら善良な生産に励む者には厚生の道を与え、損なうこと
ばかりを企てるような者には自業自得の転覆に見舞われる道を用意した。詩経・大雅・仮楽にも
『善良な楽しみと共にある君子の、旺盛なる大徳は、民のためにも人のためにもなり、禄は点からの
賜り物となり、よく安んじ助けてそこに天からの命を下す』とある。大徳の持ち主こそは天命にも与る
のである。(自力作善の聖賢こそが天寿天命福禄悦楽に与って道に適った人生を全うするという論説。
その要となるのは大孝であり、父子の親を損なうような邪信妄動に誑かされたりすることも許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一七より)

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100 2013/09/22(日) 14:02:28 ID:ArL5eB/e62
自らが到底、自力での積善などが覚束ない愚夫であるものだから、自分以外の
誰かに頼ろうとする。そのおかげで、自らが深刻な悪業に陥ってしまわずに済む程度の
利益があることを期待するというのが、他力依存者としての分相応な姿勢であるといえる。

どんなに全知全能な超越者に頼った所で、自分自身が善業を積むこともできない愚夫の
ままでい続けることには代わりがない。善業を積めるだけの能力が自らに備わるのなら、
その時にはもう他力本願などでいるはずもない。その時どころか、善業を積めるだけの
能力を身に付けようとするその瞬間からもう、他力本位でいようとするような姿勢から
脱却しておかねばならない。他力本願から脱却しようとする姿勢と共なる努力精進こそは、
自力での積善を可能とするための修練ともなるわけだから、他力本願を志した結果として、
自力による積善が可能になったりするようなことからして期待できるものではないといえる。

精神面から他力本願を卒業して自力本位に移行することは、実際苦痛を伴うものである。
聖書圏ではそれが「ニヒリズムへの陥り」などとして忌み嫌われたりもして来ていて、
実際にニーチェのようなニヒリストが発狂状態に陥ってしまった事例もある。しかし、
そのような苦痛を伴う他力本願からの脱却の先にこそ、自力作善を可能とする途も拓けて
いるわけだから、積善によって他者を利そうとするような目的性を伴った慈しみによって、
精神面からの独り立ちの苦痛を乗り越えて、その先こそを目指さねばならないのである。

その、精神面からの自力本位への移行が果たされない限りにおいては、どんなに
多能な人間といえども、悪業以上の善業を寸分ほどすら積むことができないままに終わる。
親への精神的な依存に頼るしかない年頃の幼児などが、経済的にも完全に恵まれる側の
ままでいるように、精神面からの他者依存が主体と化してしまっているような大人もまた、
恵む以上に恵まれることを本位としてしまうものだから、まずその精神面からの他力本位
から卒業しておくのでなければ、いくら部分的な積善を心がけた所で、総体的には
積悪の分量のほうが積善の分量を上回るようなままでいてしまうのである。

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101 2013/09/22(日) 14:11:14 ID:r5Ds2sm7pw:au
削除(by投稿者)

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102 2013/09/22(日) 14:51:34 ID:ArL5eB/e62
世の中での自力での善政に励む君子や、超俗での自力の精進修行に励む出家者といえども、
自分たちが本位としている自力とはまた別のものとしての他力を「神仏からの加護」
などの形で期待することはある。ただ、それはすでに親への精神的依存を脱せた子供が、
なおのこと親への崇敬や孝養に励むようなもので、それによる利益を期待したり
するよりもむしろ、尊ぶべき相手を尊ぶことによる自らの心の引き締めからなる、
自力作善のより一層の高品質化を企図したりする側面のほうが大きいのである。

他力本位から自力本位に移るからといって、他力として頼るものを滅ぼし尽くしたり
しようとするのは、自分が親から独立したからといって親を殺すも同然の暴挙だといえる。
世界的に見れば、自力作善の加護者としてこそ立ち回るような神仏や明王の如き尊格の
ほうが、自らへの他力本願を促すような神仏よりも遥かに多いぐらいである。他力本願の
信者すらをも救うとされる仏といえば何といっても阿弥陀仏に尽きるが、阿弥陀仏とて
自力本位の志しと共に帰依することすらもが認められているものである。信者に
絶対的な他力本願を強制する神仏ともなれば、これはもうアブラハム教の神ぐらい
のものであり、そんな神に帰依している以上は、大悪を為すか、あまり悪を為さない
でいるか程度の範囲にしか止まっていることができないであろう。

他力本願と共なる善行を初めて標榜したのは、アブラハム教の原型である拝火教であるわけ
だから、拝火教のほうがより根本的な責任を帯びているとも言えるかもしれないが、すでに
拝火教信仰のほうはすでに世界的にも下火となっている。それと同じ運命をアブラハム教も
辿るに越したことはないわけで、それにより、精神的自立を決定的に妨害されたままでいるが
ための積善不能状態というものから、ン十億人に達するような人数の人間が脱却することが
できてこそ、人類もまた破滅の危機から免れる道を切り拓いて行くことができるのだといえる。

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103 2013/09/22(日) 14:52:00 ID:r5Ds2sm7pw:au
「博聞強識に而て譲り、善行を敦くし而て怠らず、之れを君子と謂う。
君子は人の歓を尽くさしめず、人の忠を竭くさしめず、以て交りを全うする也」
「博覧強記でありながら人に譲る所があり、善業を篤く積み立てながらも怠ることがない、
そのような人間を君子という。君子は他人からの歓待尽くしや忠義尽くしに頼ったりも
しないままに、人との交わりを全うする。(君子は他力に頼って善行を志したりもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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104 2013/09/23(月) 13:02:10 ID:pDcO/pIIbc
もしも自らが致命的な過ちを犯したりしたなら、
引責自殺によってでも罪を償いたいと思うのが君子である。
だから君子こそは「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」という
徳目に即しても、過ちを犯した人間を惜しみなく罰することができるのである。

もちろん、始めから過ちを犯したりしない慎重な生活態度でいるという大前提も
あるわけで、君子はそうであること「薄氷を踏む」かの如くであるという。もちろん
好き好んで薄氷を踏むというのではなく、最大級に自重の限りを尽くした生活や奉職を
心がけた上でなおのこと、薄氷を踏んでいる時のような注意を欠かさないというのである。

そのような注意を決定的に欠いているような人間こそは、自らが過ちを犯したときに
相応の罰を受けることを、心外ぶったり不服に思ったりするのである。民間で適当な
生活を営んでいる小人などは、どうしたってそうでありやすいものだから、徳治を心がける
場合においても、過失の罪は寛大に扱い、確信犯だけは厳重に罰するのが権力道徳上の徳目
ともされて来ている。孔子が「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三〇)」
と言ったのも、一度目の過ちは過失であり得るが、二度目以降の過ちはもはや確信犯の様相を
呈するからであり、過ちを何度も繰り返してしまうほどの注意力の無さも含めて罰せられる
べきであるというのが、日頃から薄氷を踏むが如き用心深さの中に生きている君子にとっての、
己れの欲せざる所を人に施すことになるわけでもない、清廉な取り決めとなるわけである。

人々が、過ちを繰り返さないで済む程度には十分な注意力を身に付けるようになることもまた、
君子にとっての徳化事業の一環となる。過ちを何度も繰り返しておきながら、だからといって
罰を受けることを不服がるほどにも、人々の自重意識が損なわれてしまっているような状態こそは、
徳治を心がける人間が最も危険視する状態であり、そのような世相を蔓延させてしまうような
邪教なり邪学なりがあるというのならば、それはもう君子にとっては根絶の対象とすることが
大本命となる。それらすら許容するというのであれば、もはや徳治が実現される余地などは少しも
この世に残されていないことになるわけだから、それが君子自身にとっての死活問題ともなる。

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105 2013/09/23(月) 13:15:10 ID:pDcO/pIIbc
過ちを何度繰り返しても、後ろめたさ一つ抱かなくて済むような注意力皆無の精神状態
こそは、「束縛から解き放たれた自由な精神状態」だなどと思い込む類いの人間がいるし、
それを正当化するようなカルト教義の信仰なども未だにこの世で許容されたままの状態でいる。

畢竟、それはサイコパスなどと呼ばれる精神疾患であるわけで、精神医学に即してでも
矯正の対象とされるべき精神状態であることが徐々に認知されかけているわけだけれども、
今の世界たるや、そのような精神病質状態に陥ってしまっている人間があまりにも膨大な
数に上っている上に、巨万の利権を牛耳っているような大権力者こそがそのような精神状態
に陥ってしまっている場合が特に多いものだから、「みんなで渡れ赤信号」という風潮が
応力となって、なかなか実際的な矯正の対象となって行くことも覚束ないままの状態でいる。

「過ちを絶対に犯すな」ではなく、「過ちは過失の範囲に止めよ」というのが、世の中に
徳治を敷いて行く上での最低限の取り決めとなる。その取り決めすら認められることなく、
過ちをいくら繰り返しても許されるような風潮がまかり通ってしまった時にこそ、徳治が
完全な不能状態と化してしまう。これは、徳治が不能となるハードルというのが意外と低い
根拠になっていると共に、その低いハードルすら乗り越えられないようにしてしまうような
邪教にかけては根絶が不可避であることが全く以って厳しい要求でもない証拠となっている。

徳治を実現する上での最低条件が、過ちを絶対に犯させないことであったりするのなら、
過ちの許容を金科玉条とするような類いの教義を、人々が支持したとしても仕方のない
所があるが、実際には、過失の過ちぐらいは寛大に取り扱われるのが徳治であるわけだから、
そのような寛大さすら受け入れることもできずに、過ちを何度でも繰り返そうとするような
人間がいるとすれば、それこそは許しがたいことだし、それを正当化するような教義があった
とすれば、それも邪教だと惜しみなく断定できるし、そのような邪教に多くの人々が群れ集って
いたりするのならば、それもまた絶対にあるまじき異常事態であると断じることができる。

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106 2013/09/23(月) 13:40:31 ID:Zzi9hxjhJo:au
邪教が邪教たる所以、邪教たるが故に根絶すらされなければならない所以というのは、
聞いてみれば誰しもが納得せざるを得ないような道理に即している。決して旧約の律法の
ような徒法群を、絶対に過失一つなく守り通せなんてのが徳治の教条となるわけでもない
のだから、邪教が根絶されざるを得ない理由から誤解して、不服を唱えたりするような
こともないようにしてもらわなければならない。過ちを何度でも繰り返し続ける注意欠陥、
それすらをも正当化する邪教の教条、それを排した所にあるべきなのも杓子定規な信賞必罰
などではなく、融通の利いた仁治であるわけだから、邪教を排されることへの恐れなどを、
虚構の理由に即して肥大化させて行くようなこともないようにせねばならない。

「天道は善に福し淫に禍す(既出)。災いを夏に降して、用て厥の罪を彰す。
(ここから既出)肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は正善なる者に福徳を及ぼす一方、淫悪なる者に禍いを下す。先代の夏王朝においても、
桀王の暴虐を罰さんがためとて、天下に多くの禍いが下されて、桀王の罪が露わにされた。
故に私もそれを教訓として、天命の明威に即して、罪をあえて許したりしないようにする。
(人間による刑事もまた、天道に根ざした普遍的な悪因苦果に沿うべきものだから、
時に私情などによることなく罪を犯した者を罰さねばならないことがあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)

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107 2013/09/24(火) 12:15:21 ID:x3g9gdTQiE
善業は、それ自体が正法を遵守しようとするものであるわけだから、
積善の結果として不法からの脱却を企図したりすることはあり得ない。
不法からの脱却の代表格といえば何といっても受刑であり、
そこまで行かずとも、自らに何らかのペナルティを科すことが、
未だ不法という悪業のさ中にある自らにとっての罪悪軽減のための
手立てとなるわけで、それは悪行を苦行によって相殺する悪因苦果
の範疇であるわけだから、何ら積善として取り扱うにも値しない。

完全に不法を絶った上での積善となれば、聖道門の比丘戒を全て
守った上での積善までもが必要になるわけだが、決してそればかりが、
人間が積善を志す上での手立てとなるわけでもない。鬼平が凶悪犯の
火付盗賊を斬り殺したりするのも一種の殺人ではあるが、それによって
凶賊の魔の手にかかって命を落としたりしなくて済む人間がいたりも
するわけだから、その分の人命救助という善業によって、凶悪犯の
刑殺という罪業が相殺されることともなる。そのような、善業も悪業
も積む限りにおいての、総合面における善業の悪業に対する上回りに
よる積善というものを心がけて行くこともまたできるわけで、俗世に
生きる一般人としてはそのような清濁併せ呑みつつの善業の積み重ね
を企図して行くことのほうが、より現実的なことともなっている。

不法を完全に断ち切った上での積善でもなければ、善業と悪業の総計
がプラマイゼロ以上の善業となることを企図する形での積善でもない、
自分自身は一方的に不法ばかりを犯しながら、それがまじないか何かで
積善に転じたとして、そういう意味での積善の結果として最終的に不法が
贖われることを志したりすることこそは、決定的におかしいこととなる。

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108 2013/09/24(火) 12:23:09 ID:x3g9gdTQiE
そこには、安易な手立てで自らが不法を免れようとする身の程知らずさ
が見え隠れしている。本当に不法を犯さずに済ますことは、それこそ
正規の出家修行並みの厳しさが伴うものであるのに、そのような厳しさ
は到底受け入れられない、にもかかわらず、善業が悪業を上回る形での、
清濁併せ呑む着実な積善を心がける程度の誠実さもまた欠けているもの
だから、安易なままに全ての不法から免れようなどとする、不実極まりない
欲求ばかりを満たすことに躍起となってしまっているのが見え透いている。

そのような欲求が満たされることはないし、別に満たされるべきでもない。
不法を忌み嫌いながら相応の精進を心がけるわけでもなく、不法も仕方なく
犯してしまうような中に、それ以上の善業を積んでいこうとする着実さを
持ち合わせたりすることもない、最悪級の不誠実さの持ち主こそは、不法
の犯しまくりが安易に善業に転じて贖われることなどを欲してもいるわけ
だから、そのような欲求が満たされなくてこそ教育倫理にも適うといえる。

「不法を心情的に忌み嫌っている分だけ、不法を忌み嫌いもしないような
人間よりはマシだ」などということすらない。感情の高ぶりなどを控えて、
善業も悪業も一定以上に諦観できるものこそは、断悪修善や悪業を上回る
積善を着実に重ねて行くことができるのだから、その子供じみた潔癖志向
からして自己正当化の材料にもならないといえる。不法を忌み嫌いもせず
に犯しまくるような人間は昔から一貫して社会的な排除の対象となり続けて
来ているわけで、もはや比較対象の内にすら入るものではない。それなり
に社会的な市民権を得ている内では、不誠実さと未熟な潔癖主義を不相応
にかけ持ち合わせているような人間こそが、最低度の存在であるといえる。

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109 2013/09/24(火) 12:56:38 ID:KLLXWOGAXQ:au
実践性の伴わない不相応な潔癖志向の持ち主こそは、実際の世界において
最悪級の悪業の元凶ともなるという、半ば微妙不可思議な特殊事情がある。
不法を忌み嫌いもしないような人間以上にも、忌み嫌いぐらいはするような
人間こそが、それなりの社会的な市民権も得つつの悪業の積み重ねに及んだ
挙げ句に、世界最悪級の害悪をこの世にもたらすことともなる。そのような
ことがないようにするためには、不法を忌み嫌いもしないような人間と共に、
不法を忌み嫌ってもただ忌み嫌うだけで、何らのまともな対処法を講じよう
としないような人間までをも、社会的な排除の対象として行く必要がある。

そういう人間は、東洋ではさして多発しなかったために、大して駆逐の
対象ともされて来なかった。聖書信者こそがそのような性向を肥大化させて、
人類史上最悪級の害悪を撒き散らすことでその有害さを実証してくれた
わけだから、これからそのような人種を排除の対象としていく上での
反面教師代わりに、聖書信仰というものがなってくれたともいえる。

「清明身に在れば、気志神の如し」
「自らの身が清く明らかであれば、志気も神の如くとなる。
(身清くして神気が備わるのであり、神気によって身が清められるのではない。
神社でも、手水場で手や口を清めてから神殿を参拝したりする通り)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・孔子間居第二十九より)

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110 2013/09/25(水) 12:45:45 ID:tfoxZ.DURs
人間社会というものがあくまで人と人との結び付きによって成り立っているものであり、
なおかつ個々人もまたそこでの活動にこそ禍福を被る生き物であるわけだから、
人間にとっての最大級の幸福もまた、個人的な幸福を追い求めたりする所ではなく、
世の中と共なる幸福を追い求めて行く所にこそ存在しているのだといえる。

しかるに、小人やカルト信者などは、自分たち個人の幸福を追い求めることばかり
によって、最大級の幸福を獲得しようとし続けて来た。それは結局、他人を不幸に
追いやってでも自分たちが幸福でいようとする罪悪の積み重ねとなり、最終的には、
世界中が最悪級の不幸に見舞われている中での、自分たち自身の最低限の平和や豊かさ
の維持などという、浅ましい境遇へと自他を追いやることに帰結してしまったのである。
(しかも、自分たち自身へのプライバシーを無視した監視網までもが敷かれている)

それは、世の中と共なる自他の幸福を追い求めていった場合などと比べて、明らかに
より自他の不幸が増した状態だといえる。外面的な社会情勢についてもそう言えるし、
内面的な心情についてもそう言えることである。他人の不幸を糧にしてでも自らが幸福
となったりすることは、まともな倫理観の持ち主であれば当然良心の呵責に駆られる
ことである。カルト信者などは始めからそのような倫理観を捨て去って、精神薄弱の
サイコパス状態での罪悪の積み重ねに取り掛かっているわけだけれども、そのような
自己洗脳状態に陥っていること自体が、正気と共にまともな倫理観を保っている状態など
よりも恒常的な苦悩に駆られたままとなるわけだから、やはり不幸な状態だといえる。

サイコパスによる恒常的な苦悩を紛らわすために、カルト信者も巨万の富を貪ったり、
乱交や薬物乱用に走ったりするわけで、それによって無理に幸せがったりするわけ
だけれども、そもそもがサイコパス状態などでなければ、そのような対症を試みずとも
苦悩に駆られたりせずに済むわけだから、自分自身に対するマッチポンプの徒労を
講じたりしなければならない分だけ、これまたカルト信者のほうが不幸だといえる。

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111 2013/09/25(水) 12:48:44 ID:tfoxZ.DURs
小人やカルト信者はまず、世の中と共なる幸福の追求こそは「偽善である」と決め付けて、
そんな試みによって得られる幸福などは「たかが知れてる」と勝手に思い込む。それで、
より現実主義に根ざした幸福追求であると自分たちが見なした所の、自分たち個人だけの
幸福の専らな追求を選択する。そして、さらにはそのような考え方に基づく個人的幸福の
追求を誰しもに認めさせ、それこそは世界の常識となることすらをも目指そうとする。

それは実際、今の世界などにおいては相当な所まで実現されてしまっていることでもある。
どれぐらいかといえば、それが原因で人類が致命的な破滅に見舞われる直前の所まで
実現されてしまっていると言える。世の中と共なる幸福の追求などは虚構でしかなく、
実際に実現を試みた所で、共産主義のような失敗ばかりを来たすものだなどと、誰しもが
相当な強度で思い込んだ状態となってしまっている。共産主義が失敗したのは、世の中
全土を挙げての幸福の追求のための手段を取り違えてしまったからであって、決して
その目的までもが間違っていたわけではないわけだれども、自己幸福の追求ばかりを
幸福追求の王道だなどと思い込んで来ている連中にとっては、社会規模の幸福追求などが
徒労にしか終わらないものであると決め付ける格好の材料ともなってしまったのであるる

まず、社会規模での幸福追求こそは、人間にとっての幸福追求の王道であるという所まで
社会常識が健全化されるのでなければ、そのための具体的な手段を講じたりすることも、
共産主義の二の舞三の舞となることが見え透いている。逆に言えば、社会常識が、
社会規模の幸福追求こそを幸福追求の王道だと諾えるのであれば、個人的幸福の
追求や奉仕を生業とする商売人が共産化によってこの世から絶やされたりせずとも、
人と世とが最悪の不幸に見舞われたままの状態に陥ってしまったりすることだけは
避けることができる。今のような、「最悪かマシか」程度の選択肢しか万人に与えられて
いない状態と比べれば、よっぽど上等な選択肢が万人へと提供されて行くことになる。

返信する

112 2013/09/25(水) 13:40:22 ID:pv/0Emfb12:au
「世のため人のため」こそは人としての最大級の幸福追求ともなるということは、
今では随分と眉唾なものとしてしか受け入れられることのない主張であるけれども、
そうであるということが社会規模でわきまえられていた国家規模の社会というものも
多々あり、その一例が>>1画に挙げた、世界のGDPの大半以上を自分たちでまかなっていた
漢代の頃の中国でもある。公権力者は時に引責自殺も辞さないほどの公平無私さ加減でいた
ような当時にこそ、国富の総量も膨大な分量に及んでいた。一部の権力者が執拗な我田引水
を試み続けた結果、国家規模での財政は破綻寸前にまで追い込まれている今のアメリカなど
とは天地ほどもの差がある状態であるといえ、社会規模の幸福追求と、個人的幸福の追求と、
どちらのほうが優先されたほうがよりよい結果を招くのかを示す格好の対象例ともなっている。
(無論、中華帝国も今のアメリカのような状態に見舞われたことが多々あるわけだが)

「鴛鴦の于れ飛ぶや、之れに畢し之れに羅す。君子は万年まで、福禄の之れ宜しき。
鴛鴦の梁に在るや、其の左翼を戢む。君子は万年まで、其の遐福の宜しき。
乗馬は厩に在るや、之れに摧い之れに秣わん。君子は万年まで、福禄の之れ艾いに。
乗馬の厩に在るや、之れに秣い之れに摧わん。君子は万年まで、福禄の之れ綏き」
「オシドリが飛び来るや、これに網かけて捕らえ、ここにとどめよう。(オシドリ
は夫婦円満の象徴だから)君子は万年の後に到るまで、よき福禄を受けたまう。
オシドリが家のハリにいて、左翼を収めて落ち着けている。(夫婦円満の成就の
寓喩である)君子は万年の後に到るまで、大いなるよき福禄を受け賜わらん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに草と穀とをやって養ってやる。(群臣や民たち
を養ってやるという寓喩)君子は万年の後に到るまで、大いなる福禄を賜らん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに穀と草とをやって養ってやる。(同様の寓喩)
君子は万年の後に到るまで、安定した福禄に与らん。(天下に冠たる君子で
あることこそは、百千万年の福徳を約束する決定的な手段ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・鴛鴦)

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113 2013/09/26(木) 11:45:45 ID:jPwyTbCV5g
昔の日本やインドなどで、肉食や屠殺が忌み避けられていたのには、何も
迷信的な意味ばかりがあったからではない。「血肉の穢れが不浄である」という
発想も、科学的な説明を付けようと思えば付けることができるものでもある。

動物性脂肪のこべり付いた食器なり調理器具なりを洗浄するときには、
ある程度高い温度のお湯で洗えば落ちやすいように、人間も獣脂を栄養分
として吸収すれば、大きな熱量によってそれを消費する必要が出てくる。
すると、人間の身体は若干以上に茹だった状態と化してしまい、思考面など
での正常な判断能力が低下するなどの問題を来たしてしまうことになる。

要するに「頭が悪くなる」わけで、脳の器質ではなく身体全体の熱量過剰に
よって来たしてしまう知能の低下であるものだから、より問題扱いすることが
難しいという特徴がある。身体全体がほてっている中にも、茹だった脳みそに
鞭打って無理やり人並みの思考を試みるということも瞬発的にはできるもの
だから、短時間の知能テストなどでその知能上の問題点が露呈するとも限らない。

脳の器質的な欠陥などとはまた別の理由による恒常的な知能の低下が、
実際に諸々の苦悩を紛らわしてくれたりすることもある。常人が罪を犯せば、
相応の刑罰を受けないことには恒常的な苦悩に駆られ続けるものだが、知能が
一定以上に低下すらしていれば、そのような苦悩を受刑もなしに紛らわして
いることができたりする。そのような、恒常的な知能の低下を実現するための
手段となるのが、件の獣脂の多量摂取だったり、カルト信仰だったりするわけで、
それによって知能を低下させられた本人たち自身は「罪が清められた」などと
すら思い込めるわけだが、もちろん本当に罪が解消されているわけではなく、
罪障まみれである中に白痴状態でいるというだけのことなので、そのような
状態を実現してしまう肉食なり屠殺なりの負の効果を、慧眼を持ち合わせて
いた昔の日本人などは「血肉の穢れ」であると見なしていたわけである。

返信する

114 2013/09/26(木) 11:51:48 ID:jPwyTbCV5g
伝統的に肉食が根付いているような地域においてこそ、断食のような風習が
伝統的に存在して来てもいる。昔の中国では親の死に際して絶食し、三年の服喪中
には一切肉を食わないなどの取り決めが実際に執り行われていた。富裕な権力者
こそは特にそのような取り決めを厳格に守るべきであるとされ、獣肉の食いすぎ
による知能の低下などを牽制することがそれなりに嗜まれていた。(戦国時代
などにはそのような風習も疎かになったため、知能の低下しきった大諸侯らが
道義性を全く欠いた勢力争いを引っ切り無しに繰り返すような羽目に陥ってもいた)

今では豚食が禁止されている中東などでも、古来からの風習であった断食が
イスラムの教義に即して実践され続けている。これは、知能を低下させるカルト教義
である新旧約の教義による低能化を防ぐ目的性を今では持ち合わせているようである。

肉食禁忌や屠殺人差別のような強硬な手段にまで及ばずとも、肉食がもたらす
低能化への対処というものを、大部分の地球人類がそれなりに講じてきている。
「血肉の穢れ」による低能化への対処というものを全くといっていいほど講じて
来なかった代表例といえば、せいぜいキリスト教徒か、春秋戦国時代以降の秦人
ぐらいのものであり、あとは今の南朝鮮人の先祖などを含む無名の蛮族に若干、
そのような事例があったのだろうと予想される程度である。体系的な文明を構築
しておきながら、血肉の穢れを全く問題視して来なかった連中ともなれば、本当に
ごく限られた部類に限られていて、しかも本人たちに独自の文明体系というものも、
かえって世の中にとって益以上の害になるようなものばかりが主となっている。

親の服喪中に限っての肉食禁忌や、期間を区切っての断食などの対策を講じた
ならば、肉食も必ずしも禁止されるべきものともならない。食べる肉の量を
減らしたり、脂肪分の低い肉を食べるようにしたりして、入浴時の行水
などで身体のほてりを十分に抑えるようにもするなどしたら、肉食の習慣と
共にであっても、それなりの知能を恒常的に保てるようにもなる。

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115 2013/09/26(木) 12:11:40 ID:xDCG3AQ3i2:au
ただし、何の対策も講じない旺盛な肉食によって恒常的な知能を低下させていた結果、
多くの大罪を犯しっぱなしのままでいてしまった場合などには、上記のような対策
を講じることで、かえって恒常的な苦悩にかられたりすることにもなりかねない。

だからかえって、肉食やカルト信仰による精神的酩酊のさ中にあり続けていたいなど
とも思ったりするかもしれないが、決して、恒常的な高知能の維持すなわち苦悩で
あったりするわけでもない。恒常的な知能の高さと、思考や言行の清浄さからなる
浩然の気が両立している状態こそは、肉食やカルト信仰による酩酊に陥ったままの
状態などよりも遥かに爽快な精神状態となるわけだから、現実上の罪障の着実な
解消と共にであれば、精神的汚濁からの脱却こそを存分に志して行くべきだといえる。
そして罪は着実に償われて然るべきものであるわけだから、結局のところ誰しもが、
汚濁から脱却した清浄な精神状態こそを志すべきだともいえるのである。

「仁人は天下に敵無し。至仁を以って至不仁を伐つに、何ぞ其れ血の杵を流れんや」
「仁者は天下に敵でいられる相手すらいないのだから、仁の至りであるものが
不仁の至りであるものを討伐する場合にも、流血沙汰になるようなことはあるまい。
(正義が悪を討伐するときには、血肉の贖いなどが格好の象徴となることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三より)

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116 2013/09/27(金) 13:43:19 ID:AgjCM/6r1M:au
>>113-114の「獣脂」にまつわる物言いは、少し語弊があるので言い直しておく。

獣脂は植物油などと比べて融点が低く、人体にも蓄積しやすい。
そのせいでの恒常的な知能の低下を招きやすいが、高温ではかえってよく
潤滑するので、獣脂の蓄積による知能の低下を振り切ってまで無理に
難しいことを考えたり言行しようとしたりした場合のヤケクソ状態をも
招きやすい。それが俗に「馬鹿」などと呼ばれる蒙昧状態ともなる。

肉食が心身の無駄な火照りを招くのは、凡そそういった原因による。
もはや知能の低下を振り切った思考や言行すら心がけないというのであれば、
心身が火照るということもないわけだが、そういう人間は、ろくに知能
も働かせないままでの不摂生の限りを尽くしてしまったせいでの、
晩年の重病尽くしなどにも見舞われてしまうようだ。

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117 2013/09/27(金) 14:03:40 ID:t7ufO/LLEI
世界でも最高水準を誇る日本の刀剣文化は、主に「湾曲形の大刀」という、
実用性の低い部類の刀剣を中心として構築されて来た。リーチでは槍や薙刀に劣り、
刺突性でも両刃の剣に劣る典型的な日本刀の長所はといえば、丸腰の相手を敵と
した場合の確実な斬殺能力ぐらいのものであったわけで、それはそれで大将の首級
を挙げたり、平時における民間の富裕者への脅し付けなどの特殊な効能を持ち得た
わけだけれども、最大級の兵力を戦わせ合う戦争状態において、日本刀がその
真価を発揮した事例などはやはり少数に止まっている。大坂夏の陣で、二代将軍
秀忠の陣営に切り込んで来た豊臣軍のうち七名を、将軍家剣術指南役だった
柳生宗矩が刀で返り討ちにしたなどの記録はあるが、これも本人が剣術の達人
であったからこそ可能となったことで、ずぶの素人として急に戦地に赴かされた
足軽などが日本刀で戦果を挙げることなどは、ほとんど無理に等しいことだった。
(百姓上がりの足軽などに支給される刀はしごく粗悪なものだったというのもある)

しかし、その日本刀こそは長大な刃渡りと、最高級の切れ味や耐久性の両立を
要求される「最も作刀の困難な刀剣類」であったものだから、その精製を主体と
して来た結果、日本の刀剣作製技術は世界最高水準に達し、近代の文明開化後にも
早急なる工業技術の発展に大きく寄与して来た。同様な工業技術の高度な醸成を
積み重ねて来ているわけでもない中国や朝鮮などは、近代文明の取り入れに大きく
乗り遅れた上に、今でも工業全般への軽んじが原因となっての、粗悪な大量生産
や偽造品生産が深刻な問題となっている。特に中国人は、自前の迷信混じりな
陰陽五行思想に準拠するクセが仇となって(陰陽五行自体は宇宙の真理にすら通
ずるものだが、中国ではそこに多量の迷信が介在したままでもいてしまっている)、
化学物質の組成への把握が極度に疎かとなってしまった結果、毒物や爆発物を適当
に扱いまくっての環境汚染や爆発事故を多発させる状態でもいてしまっている。
(これは、中国の工場に下請けを任せておきながら、連中にろくな化学教育も
施さないままでいる世界中の大企業経営者の怠慢が別の原因ともなっている)

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118 2013/09/27(金) 14:09:56 ID:t7ufO/LLEI
湾曲形の大刀といえども、決して実用性を度外視したものではなく、むしろそれを
上手く使いこなすことこそが日本の武術の王道ともされて来た。完全な抜刀状態
での剣術はもちろんのこと、平時の帯刀状態で重要性を帯びる鞘からの抜き差し
の瞬間の操刀術こそが「居合術」として高度化されて来てもいる。中には薩摩藩
のように、平時には刀と鞘を紐や針金で結び合わせて、容易に抜刀ができないよう
にしている地域などもあったが(これが今の警察の「発砲即始末書」の慣習の源流
ともなっている)、居合術を蓄積するほどにも、日本刀を実用することが日頃から
準備されていたものだから、刀工たちも粗悪な刀ばかりを量産しているわけにも
いかなかった。武家の身分証明の道具としての見た目のよさはもちろんのこと、
いざ実用するとなれば最大級の能力が発揮されることまでもが要求されていた。
(上杉謙信の佩用していた「備前長船兼光」銘の刀が、対武田線で鉄砲や鎧を切り
裂く程もの威力を発揮しながら、実は贋作であったことなども有名な話である)

実際に「守り刀」として用いられる刀などもある通り、日本の刀剣文化こそは、
未だ軍事的経済的な覇権主義の魔性を多量に秘めたままの状態にあったここ
千年来の人類社会において、日本人が乱世の荒波を乗り越えて行く上での守り刀
としての役割を果たし得たのである。日本刀を実用したり、高度な技術で作製
したりする技術がそのまま、肥大化した物質文明の下での日本の技術的優位を
決定付ける種子ともなったのである。この事実一つを取っても、場合によっては
刀を持つこと、持つ以上は実用も想定に入れることの重要さを知ることができる。
「備えあれば憂いなし」の「備え」に、「これでいいEs ist gut」などという
怠慢が介在するようなことが決してあってはならない、一つの証拠となっている。

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119 2013/09/27(金) 14:10:44 ID:AgjCM/6r1M:au
「篤いなるかな公劉のきみ、于に斯の原を胥られ、既に庶に既に繁く既に順う、
迺に宣べて永嘆するものなし。陟りて則ち巘に在り、復た降りて原に在り。
何をか以て之れに舟ぶる、維れ玉と瑤と、鞞琫に容刀をもてり」
「大いなるかな公劉の君は、中原を一望されたなら、庶民たちはゴマンと
群れ集い、誰しもが君に従う。声をかければもはや嘆くこともない者ばかり。
(民たちを安んずるために)ある時は丘に登って趣き、またある時は平原に
降って赴かれる(東奔西走の日日)。その時に君の佩びておられるのは、
見るも鮮やかな玉飾りに、太巻きの大剣と来る。(公劉は西戎を討伐した
周の名君。天下を平定して民を安んずるために刀剣が必要なこともある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・公劉より)

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120 2013/09/28(土) 13:23:15 ID:rXS1MBZNI.
東洋と西洋では、歴史的に「言葉」や「文字」といった媒体に付与される存在意義からして
異なっていた。東洋では、言葉はあくまで現実を追随すべきものとされ、現実に先行する
ような概念志向は非とされた。一方で、西洋では古代ギリシャの頃からそのような概念志向が
是とされて、聖書教が提示したロゴス主義によってその傾向も決定的なものとなるに至った。

その割りに、言葉を文字として記録する場合の字形や書道技術は東洋のほうが発達し、西洋
ではアルファベットに代表されるごく簡素な記号文字でしか言葉が記録されることがなかった。
有機的な自然現象や人間文化を丹念に描写しようとした結果として、東洋の文字文化のほうが
発達した一方で、西洋では言葉こそが自然や人間にすら先行するものであるとされたものだから、
言葉で自然や人間文化を厳重に把捉するような気概からして持たれなかった。逆に、金科玉条化
された言葉に即して現実を無理に捻じ曲げるような試みばかりが為されて、昔は欧米聖書圏内が、
今は汚濁を擦り付けられた欧米外の諸地域が極度の文化的環境的荒廃に見舞われることとなった。

言葉というものそれ自体をより大事に扱って来たのは、むしろロゴス信仰など存在しない
東洋のほうであった。一語不中で、どこまでも言葉に表しきれないのが正法であるとする仏門が
営んでいた寺子屋でこそ、江戸時代の日本人も文字を学び、世界最高の識字能力を身に付けていた。
言葉や文字の持つ機能というものを最大級にまで押し広げて、なおかつできる限り多くの人々に
活用されるように心がけた上で、さらに金言とされるような言葉を掛け軸なり何なりに書いて
飾ったり宝とするなりして来た。神仏にまつわる字札などは傷付けるのが罰当たりともされ、
廃棄の必要な場合には寺社に持って行って焼いてもらうなどの措置までもが取られている。

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121 2013/09/28(土) 13:28:15 ID:rXS1MBZNI.
そういった、高度な文字の取り扱いが長年嗜まれて来ているからこそ、大した意味が込められて
いるわけでもない言葉などを「神の言葉だから」だ何だといった身勝手な理由で金科玉条化して
しまう西洋的なロゴス主義にも惑わされることがない。言葉の扱いがある程度以上にいい加減な
状態であればこそ、言葉そのものの良し悪しに関係なく、自分たちから勝手にこれと決めた言葉
を金科玉条化してしまうような愚行にも至ってしまうわけで、それが言葉に対する真摯な態度
などでないのはもちろんのこと、粗悪な言葉の利用法であるが故に、言葉の真価すらをも
損ねてしまう暴挙にすらなってしまっているのだということを知らねばならない。

昔からの東洋人がそうして来たように、言葉や文字文化といったものを本当に尊重するためには、
まず諸法実相の現実こそを最大級に重んじるのでなければならない。それでこそ言葉や文字を
尊重できるようにもなるのは、諸法実相(全てはありのままに現実に現れている)こそがこの
世界この宇宙の普遍真理であるからで、だからこそ、現実の外側に現実以上のものを追い求めた
所で、所詮は現実の事物以下の滋味でしか在り得ない。現実以下でしかない現実外の概念などを
言葉や文字にしようとした結果、言葉や文字もまたさして価値のないようなものと化してしまう。
だから言葉や文字への尊重意識も備わりにくくなり、最悪の場合、詭弁や詐欺のために粗悪な
言辞を弄するようなことのために言葉を悪用してしまうようなことにすらなるのである。

言葉や文字の価値を軽んずるからこそ、それらをろくでもないことのために悪用するようなこと
すらよしとされてしまう。そしてそのような軽率さは上に書いたように、言葉を現実外の概念の
構築のためなどに用いようとするから備わってしまうものである。当然、詐欺や詭弁のために
言葉が悪用されるようなこともできる限りあるべきではないから、言葉や文字を軽んずるよりは
重んずるようになれたほうがよく、そのためには、言葉による主な把捉対象を現実の事物とし、
その現実と共に言葉をも尊んでいけるようになる必要があるのである。

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122 2013/09/28(土) 13:50:46 ID:KG5nME0Ic6:au
絵空事では、1+1を3にでも4にでもすることができるが、実際には、1兆円と1兆円を
足し合わせたからといって3兆円や4兆円になることもない。とにかく儲けたい人間には前者
の絵空事のほうが好ましかろうが、現実を尊ぶ人間なら後者の堅実な会計のほうを重んずる
のであり、その尊重に即して世の中をも営ませようとするのである。それでこそ、世の中の
財政が健全化するのみならず、現実と共に言語文化をも尊重する人々が、良質な文化文明を
この世にもたらして行くようにもなるわけだから、決して吝嗇というばかりのことでもない。

「魯人、長府を為る。閔子騫曰く、旧貫の仍なれば、之れ如何。
何ぞ必ず改めて作らん。子曰く、夫の人は言わざるも、言えば必ず中る有り」
「魯の人が主君のための金蔵を建設しようとしていた。孔子の弟子の閔子騫はそれに意見した。
『昔の慣習の通りに造れば如何でしょうか。別に絶対に新しく作りこむ必要もありますまい』
孔師は言われた。『彼は無口なほうだが、言葉を発せば必ず当を得ている』(基本無口で、
言葉を発しても信ずるまでもないような当たり前な意見ばかり。そのような言辞への慎重な
姿勢こそを孔子も評し、弟子たちもその評価を後世まで論語として残そうとした。我々もまた、
そのような孔子や弟子たちの有り方に倣って、四書五経を学んでいくようにしなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一四より)

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123 2013/09/29(日) 14:26:39 ID:q4FtFmA83o
人として最低限わきまえておくべきであるような分別も欠き、
なおかつそのような状態での放辟邪侈にひた走っていたような人間が、
何らかの理由(権力犯罪への懲罰だとか)があって改悛を迫られたときに、
半ば強制的に分別を飢え付けられることこそは、この世に顕現する「地獄」ともなる。

端的に言って、麻薬中毒者が薬物を断たれた時の禁断症状のような苦痛に見舞われる。
強力な麻薬の副作用である禁断症状ほどより大きな苦痛に見舞われるのと同じように、
分別を欠いた状態での放辟邪侈がより甚だしかった者ほど、今さら小学生でも分かるような
当たり前な善悪の分別をわきまえさせられることに、地獄の苦しみを味わわされることになる。

それが、一思いに死んでしまったほうがマシなほどもの苦しみなものだから、昔は実際に
処刑してしまったり、仏門に入れながらも「見込みなし」として穴埋めや川流しにして殺して
しまったりしていたのである。大化の改新などでは、度し難い秦人系の権力犯罪者を都から
追放したり、屠殺や製革を職分とする被差別部落に追いやったりもしていた。これなどは、
さっさと殺してしまうよりも遥かに寛大な措置であったわけで、それでも度し難い性分を
持ち越したままでのリバイバルなどを試みて、実際に大暴れの限りを尽くしたりした
とすれば、これはもう悉皆刑戮の標的にされてしまったとしても仕方がないに違いない。

一思いに死んでしまったほうがマシな程もの改悛の苦しみから、わきまえを欠く悪党たちは、
逃げられる限りにおいてどこまでも逃げ続ける。たとえ緊縛状態で四書五経を読まされ続ける
ほどの矯正措置を施されようとも、内心の部分に少しでも道理に背く意志を保っておける
余地が残されているのならば、そこに本音を非難させて固く心を閉ざしてでも、今さら
わきまえを身に付けさせられたりすることに抵抗し続けるに違いないのである。

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124 2013/09/29(日) 14:31:14 ID:q4FtFmA83o
「覆水盆に返らず」というエントロピー増大の法則は、物事がより悪いほうへと堕落して行く
場合にこそ当てはまる法則となる。わきまえを欠いたやりたい放題状態の深刻化こそは極めて
容易いこととなる一方で、好き勝手を正して堅実なわきまえを身に付けて行くことこそは、
潔癖なほどもの整理整頓を心がける場合のような面倒くささを伴うものである。大半の日本人
などは、古代の箕子による東夷の徳化から、公家や武家や仏門による磐石な教化をも受けて
きたことを通じて、心や生活規範が一定以上に堕落することを食い止められて来ているが、
それも世界的に見れば極めて稀有なことであり、日本のすぐ隣りの朝鮮の人間すらもが、
そのような緻密な自己統制をまったく欠いたままの状態でいてしまっているのである。

つまり、「物事の劣悪化」というエントロピーの増大に十分に対抗できるだけのわきまえを
身に付けさせられることに、地獄の苦しみを抱かされるような人間こそは、今の世界でも
大多数を占めているのである。今さらわきまえなんか抱かされるぐらいなら死んでやる、
死ぬこともできずにわきまえを強制されるぐらいなら、地獄の果てまで逃げ尽くしてやる
という風に潜在的に考えている人間が、今の地球人類の過半数以上に達している。そのような
状態で無理に人々にわきまえを抱かせるとすれば、それはこの世に地獄をもたらすにも等しい
所業となることを、それを実行に移す側こそはわきまえなければならないことになる。

甘い言葉によって堕落の限りを尽くさせてやって来た畜人たちを、これまた甘い言葉によって
破滅から救ってやれたりすることもあるわけがない。始めからわきまえておくべきであった
ような最低限の分別を見失ったままに何千年と歴史を歩ませて、挙げ句に急激にわきまえを
抱かされることになる人々の苦しみたるや、屠殺に見舞われる畜獣のそれにも等しいもの。
そんな運命を人々に辿らせることとなった邪教の神なども、始めから屠殺人レベルの存在
だったという他なく、対象が畜獣ではなく人間であった分だけ、屠殺人以下であったといえる。

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125 2013/09/29(日) 14:51:40 ID:IGosrGvTbI:au
「君子の居るや、恒に戸に当たる。寝るにも恒に東首す」
「君子の居住まいたるや、常に(日光の差し込む南向きの)戸に面した状態でいる。
寝る場合にも(日の昇る)東のほうを頭に向けるようにする。(君子はそれほど
までにも常日頃から陽光を重んじて、天下の道理をわきまえる努力を積むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)

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126 2013/09/30(月) 13:23:17 ID:hZV5tXtMtc
「陪臣が国政を執れば国は三代と持たない(季氏第十六・二)」という通り、
君子道徳では「仲介人」に相当するような人間の専横が厳しく戒められている。

封建制における臣下というもの自体、主君と民の仲介者であるわけで、
だからこそ主君以上にも複雑な事務をこなす技能すらもが必要とされるわけだが、
だからといって斉の桓公を盛り立てた管仲のように、自分自身が主君をも上回るような
栄誉に与るようなことがあってはならない。そうなれば「国の顔」たる主君の名誉が
傷付けられて、国家全体の威信は凋落し、結果的に衰亡の機縁とすらなってしまうからだ。

国や社会が大規模化すれば、その分だけトップと下層の間に介在する人間の数も多くなる。
封建制なら臣下と民の間にさらに陪臣が介されたり、私人と下層民の間に庄屋のような
貢納事務を牛耳る仲介者が絡んだりすることともなる。資本主義の民主主義社会でもやはり、
世襲や学歴で利権を牛耳るものが政府と一般人の間に介在し、いずれにも優るような富貴を
手にすることとなる。そういった、本来仲介者に位置するような中途半端な身分の持ち主
こそが実質的な栄誉を掌握する所に世相の不健全化の元凶もまたあるのであり、最大級の
貧富の格差の開きもまた、そのような世相においてこそ現実化してしまうものなのである。

万人に冠たる存在であることが制度から取り決められている主君こそが真の最高権力者
たれば、制度上の仲介者に過ぎない陪臣や庄屋などが実権を持つ場合と比べて、その
動向が逐一万人からの精査の対象ともなる。複数人存在することが認められる仲介者と
比べて、主君は国にただ一人の存在だから、その動向の是非を誰しもが完璧に見通せる。
だからこそ、そこで最高権力が取り回されることもまた不健全化の余地がない。

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127 2013/09/30(月) 13:25:25 ID:hZV5tXtMtc

主君が最高権力者となるからではなく、佞臣や財界人の専横に苛まれる傀儡状態と化して
しまったりするからこそ、君主制の世の中も腐敗してしまうことがある。にもかかわらず、
「君主こそは権力腐敗の元凶だ」などとして君主制を撤廃し、民主制や共和制による統治
を講じたりするものだから、事態はより悪化することとなる。権力腐敗の浄化の要を排除
して、腐敗の元凶にこそ好き勝手させる余地を与えてしまったのだから、そこで期待できる
ことといえば、権力者と一般人の格差がより拡大してしまうことぐらいのものである。

近代の民主化主体の世界史たるや、封建制における下層民に相当していたような人間ではなく、
陪臣や庄屋のような、主君と下層民の仲介者に相当していたような人間に大権を明け渡す
ことばかりを主体として来ている。結果、持つ者と持たざる者との格差は封建社会以上にも
開ききり、低所得の重労働に苛まれている庶民たちも、誰に怒りの矛先を向ければいいのかすら
分からないという事態に陥ってしまっている。自分たちを困窮下に陥らせているのは明らか
に政財界のトップどもなわけだが、連中も連中で別に君主のような責任ある立場にあるわけ
ではなく、口先だけでは「国民の生活が第一」みたいなことも言っていたりする。だからこそ、
庶民たちももはや何を怨めばいいのかすら分からない全盲状態と化してしまっているのである。

「民」という漢字からして、「盲目の奴隷」を象形したものであり、民間人たるやそれ程にも
弱視であらざるを得ない人種であると、古代の中国人も考えていたわけである。そしてそれこそは
真実であったから、実権ある一人の主君が衆目の的となりながらトップダウンの為政に取り組む
ことこそが、盲目名民たちが為政を推し量る最善の手立てともなるのである。民主主義が理想と
している民意に適った為政もまた、国家から主君を取り除くことなどではなく、誰にもまして
最大の政治責任を負う主君が、万民の衆目の下で君臨することでこそ実現されるものなのである。

封建制度下での仲介者身分であったような連中に君主が最高権力を明け渡すことで、より民意
に適った為政が実現されるなどとしたことからして、盲目な民を欺く詭弁だったという他ない。

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128 2013/09/30(月) 13:30:27 ID:3LI460q6bc:au
「於鑠んなるかな王の師、遵い養いて時に晦し。時に熙を純にするに、是れ大いに介するを用う。
我れ龍みて之れを受く。蹻蹻たる王の造、載ち用て嗣ぐこと有り、実に維れ爾じ公允に師なり」
「ああ、何と盛んなることだろう、武王の師団たちは。(紂王放埓時のような暗い時期にもよく
従って養生し、いざ威光を発揮するとなれば、そこでは見事な執り成しを為された。(武王の
後継者たる)私もまた慎んでその威勢を継承する。偉大なるかな、武王の業は、真に継承するに
値するものがある。(武王の師団たる)汝らはまさに師団とするに相応しいものだ。
(武王の部下の執り成しこそを褒め称える。下位者こそが仲介のような雑務を担う健全な
位相を守っており、なおかつそのその偉業の集約先はあくまで主君たる武王とされてもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・閔予小子之什・酌)

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129 2013/10/01(火) 10:52:45 ID:4YJr9oaa/o
「この世を破滅に陥れてでも、来世で救われよう」などと固く希っているような人間を
現世で救ってやる筋合いなどは、自明に存在しない。妾腹の私生児が「神の子」を自称
しながら冤罪で処刑される程もの、現世での破滅を心の底から欲しているというのなら、
もはやそのような人間を救ってやったりすることも、ただのお節介と化してしまう。

妾腹の私生児として産まれてしまっただけなら、まだ救われる余地もある。そのような
卑賤な生まれ付きをバネにした勉学精進に励み、大学者や火盗改長官のような立派な
職分に即して大成するというのなら、むしろ人並み以上に救いのある存在たり得る。

そうではなく、生まれの賤しさに取り込まれての自暴自棄と化し、自ら破滅を欲するような
真似にすら及んだ場合にこそ、救いがない。道義的にも救う価値がない上に、本人自身が
心の底から破滅を欲しているのだから、救ってやるだけ大きなお世話となるばかりである。

現世での破滅によってでも来世に昇天しようなどとする幻想を抱く者こそは、最大級
の精神的な飢渇に見舞われることともなる。現世で破滅しようとするのだから当然、
物理的な破滅に陥るということもあるが、ただそれだけではなく、現世に知足しようと
する心理的な堅実さすらをも欠いているものだから、物理的な破滅に見舞われているか
否かに関わりなく、渇死寸前のような極度に追い込まれた精神状態に陥ることとなる。

だからこそ、そのような精神的飢渇に見舞われたりしているわけでもないような
来世教の信仰などと比べても、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を希う
ような信仰こそは、見てくれからしていかにも敬虔そうに見えるし、実際に内面的にも
常に追い込まれたような状態でいて、その逼迫を癒してくれる唯一の手段が信仰である
というのだから、傍目に見る者からしても、穴に落ちそうな幼児があと一歩のところで
母親に抱き上げられて救われている姿を見るような感慨を抱かされることとなるのである。

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130 2013/10/01(火) 10:56:53 ID:4YJr9oaa/o
その「母親」が実在するかといえば、全く以って実在しない。信者が物理的な破滅に
見舞われた結果として、来世の天国へといざなってくれる親神さまなどがいるわけでも
ないから、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を願う信者たちは、実際上に
おいては、永遠に救いのない破滅に見舞われることとなる。とはいえ、本人たち自身は
そのような神様が実在すると固く信じ込み、物理的な破滅からは免れられないまでも、
精神的な破滅からは免れられているとしているわけだから、本人たちが「それでよし」と
する以上は、他人も「それじゃあいけない」などと全否定してかかるわけにも行くまい。

物理的には永遠の破滅に見舞われても、精神的な救済には与れているとし、それをして
神の実在の根拠とする所まで完全誤謬信仰が透徹しているのならば、そのような人間は
もはや、閉鎖病棟あたりでろくな矯正を受けることもなく余生を終えるのが筋となろう。

ただ、世の中のほうが、そんな人間が出現してしまうことを許さない所まで倫理意識を
総出で高めて行ったならば、始めからそんな人間も生じないで済むようになるだろう。
精神薄弱即間引きで殺してしまうというのではなく、小さい頃からの堅実な教育によって、
下手をすれば邪教信者級の精神薄弱に陥りかねなかったような人間までもが、そうまでは
ならずに生まれ育って、それなりにまともな人間として生きていけるようになるだろう。

現世での破滅によって、来世での救済を希うような「負のスパイラル」を、絶やそうと
思えば絶やせる一方で、絶やさずにいればバイオハザードのように蔓延することとなる。
山火事も防ごうとすれば防げるが、一度巻き起これば限りなく延焼を続けて行くように、
まず最原初の頃からの警戒が欠かせないものであり、それを今までの人類が十分に怠らず
に居て来られたかといえばそんなことももないので、まさにこれからにこそ、全人類が
総力を挙げて、本格的に取り組んでいくべき課題になるのだといえる。もちろん、人類
自身が現世破滅の決定打となるような邪教の根絶のほうを選択した場合に限ることだが。

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131 2013/10/01(火) 11:50:24 ID:7CyG0xnR.g:au
「聖人南面して天下を聴むるに、且く先んずる所の者五つ、民は与らず。
一に曰く、親を治む。二に曰く、功に報ゆ。三に曰く、賢を挙ぐる。
四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。五つの者一ら天下に得れば、
民に足らざる無く、贍らざる者無し。五つの者一物でも紕繆すれば、
民其の死を得るなし。聖人南面して天下を治むること、必ず人道より始む」
「聖人が南面(するような君子階級と)して天下を治める場合に、必ず以下の五つのことを重んずる。
ただし民間人の場合はそうではない。第一に、近親の間柄をよく整える。第二に、功を挙げた者に
対しては必ず報償を施す。第三に、賢明な人間を惜しむことなく取り立てる。第四に、有能な者を
適切に使役する。第五に、万民への慈愛を欠かさないようにする。この五つの綱目を欠かすことなく
実行できたならば、万民の内にも生活上の不足や困窮に見舞われる者が一人もいなくなる。逆に、
このうちの一つでも欠けていたならば、民たちもろくな死に方すらできないようになる。そのため、
聖人が南面して天下を治める場合には、上記のような人道を固く守り通すことから始めるようにする。
(慈愛をかけた相手への施報を徹底することなどではなく、功労を挙げた者への相応な施報に務める
ことでこそ、万民が困窮に見舞われたりしないで済むようになる。礼記・郊特牲第十一には、鼠を
捕らえる猫や、猪を捕らえる虎にまで報償のエサをやる慣習が記録されているが、それでこそ
真っ当な人道たり得るのであり、慈愛即施報などは人道にすら悖る甘やかしにしかならない上に、
報償が極度に偏るせいでの、社会規模での破滅を招く元凶にすらなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・大伝第十六より)

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132 2013/10/01(火) 22:38:27 ID:7CyG0xnR.g:au
「一に曰く、親を治む。二に曰く、功に報ゆ。三に曰く、
賢を挙ぐる。四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。」

万民を愛するからといって、民に直接恵みを施すことばかりに終始していたなら、人々も、
来世での昇天ばかりを願わざるを得ない程もの、現世での破滅まみれと化してしまうんだ。

鄭の子産が冬場にとある寒川を徒歩渡っている人々を見て哀れに思い、立派な橋を
架けてやったというが、同様な苦しみに駆られている人間は天下中にいたに違いない中で、
一国の政権すらをも担う宰相が、一つの架橋ばかりに執心していたのでは、全国の統治のほうが
ままならなくなる。だから孟子も「橋を架けるにしたって簡素なものに止め、徐々に立派なもの
にして行くべきだった」などの代替策を離婁章句下・二であえて提示していたりするのである。
(そうした場合のほうが、近視眼的な評価をしたがる人間からの評価は低かっただろうが)

子産や項羽やエホバやキリストの如き「婦人の仁」が。天下万民にとっての救いたり得ない理由も、
上の人道上の徳目にこそ集約されている。万民を救うためにこそ、むしろ賢者や能者の適切な使役や
それに応じた施報を務めねばならないにも関わらず、婦人の仁の持ち主たるや、自分が個人的に
目をかけたような相手に対する施報ばかりに終始する。それでどうして世界を救うことなどが
できようか。むしろ、世界を破滅に陥れる元凶にばかりなってしまうに違いないではないか。

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133 2013/10/02(水) 13:25:12 ID:B6NI8xWngs
人間道徳上の基本的な優先順位として、「行い>発言>思考」というのがあるから、
社会的な厳罰に処されるべき優先順位も「行いの罪>発言の罪>思考の罪」となる。
それは、言辞には長けていても徳行が疎かであった弟子の宰我を、孔子が「朽木」や
「糞土」に喩えてまで非難していたことからも知れることである。(公冶長第五・一〇)

そのような適正な優先順位が、必賞適罰な善法の運用によってこそ守られることとなる。
善法であって、しかも寡法であればなおのことよく、逆に多法が過ぎれば、それなりに
当を得た法律群であろうとも、法律ばかりを勉強しているわけにもいかない庶民などに
対しては、賞罰の偏った徒法で支配する場合とも同様な悪影響を及ぼしてしまうものである。

「法律は、社会道徳の権力による強制である」ということをもしも念頭に置いたならば、
全ての法律は理に適うことになるし、そもそも法律などというもの自体、人々が自主的に
社会道徳を守ってすらいれば「あって余計であり、なくて別に困らない」ものとなるという
大前提までをもわきまえられるようになるから、やたらと無闇に実定法を乱発したりすること
も控えるようになるのである。しかし、上の要綱の「社会道徳の」という部分を抜き去って、
「法律は権力による強制である」という風にしか考えなかったならば、上のようなわきまえも全く
の疎かとなって、賞罰の偏った雑多な徒法での恣意的な支配までをも講じるようになってしまう。

「行いの罪>発言の罪>思考の罪」という処罰順位を逸してしまっているような法律もまた、
法律が社会道徳の権力による強制であることなどを、完全に逸脱してしまったところで適当
に捏造された徒法であるといえ、そのような法律が存在することが却って、人々の人間道徳
へのわきまえを損なわしめて、ろくでなしな人間を量産する元凶とすらなってしまうのである。

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134 2013/10/02(水) 13:30:16 ID:B6NI8xWngs
人間道徳が、人々の福利厚生や社会の治安維持に貢献するのは自明なことであり、そこに
何らの神秘的な要素も伴ってはいない。己れの欲せざる所を人に施すことがないように
誰しもが心がけたなら、犯罪が予防されて行くのも当たり前のことであり、誰しもがその
ような根本的な徳目をよく重んじられていたならば、わざわざ刑法を厳重化したりする
までもなく世の中の治安が保たれて行くようになるのも、ごく当たり前のことだといえる。

だからこそ、世の中を権力で強制的に支配するための法規などが、人間道徳を損なわ
しめるような要素を含んでしまうにようなことが極力無いようにしなければならないし、
人間道徳に反しているにも関わらず人々に強制する徒法を正当化するような、邪まな法源を
カルト教義によってでっち上げたりすることもないようにしなければならないといえる。

心の修養から、言行を正して行くことを本義としている正統な仏門でも、その戒律は基本的な
人間道徳を守りぬいたものとなっていて、さらにそこに厳格な思考や言行の統制を上乗せする
ことを本分としたものとなっている。妻帯や家督相続を絶ってまでの戒律厳守や精進修行に励む
出家者なども、その有り方が在家信者にとっての模範となるべくしてそうあるものなのだから、
家系を重んずる社会道徳を補佐するものでこそあれ、決して損なうものなどではないといえる。

社会道徳から逸脱した多法偏罰の恣意治によって、世の中を法律などないほうがマシなほど
もの荒廃に追いやってしまう動機としては、徒法を「神からの啓示」として崇め立てるカルト
への狂信もあれば、「法律は法律だから権威がある」というドグマ志向に陥った無宗教的な
法治絶対主義への傾倒である場合もある。また、ただただセルフネグレクトによってゴミ屋敷
を形成して行くようにして徒法を山積してしまう場合もあるが、いずれにしろ、法治支配に
よって人々への生殺与奪の絶対的な権限を掌握したことによる、「権力の魔性」への心酔に

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135 2013/10/02(水) 13:37:07 ID:lgzdEh28fk:au
本人たちが陥ってしまっている点では共通している。それは、「権力も濫用すれば有害無益で
不浄なものとなってしまう」という儒家的、道家的な徳目へのわきまえが本人たちに決定的に
欠けているからで、これまた人間道徳への致命的なわきまえの無さが、徒法支配による
世の中の荒廃を招く元凶となってしまうことを証明する材料の一つとなっている。

普遍道徳へのわきまえを決定的に欠いた者たちが、多法偏罰による人々への恣意治を試みて、
「行いの罪>発言の罪>思考の罪」ていどの基本的な徳目にも反するような徒法で世の中を
引っ掻き回した結果、普遍道徳をわきまえないならず者がさらに増殖して行くような破目に陥る。
そのような悪循環を招かないためには、基本的な人間道徳すらわまきえられないような小人
には決して大権を握らせないようにして行くと共に、四書五経にあるような基本的な普遍道徳
ぐらいは誰しもにわきまえさせるための道徳教育を推進して行く必要があるといえる。
(もちろん、多法偏罰による恣意治を正当化するようなカルトの絶滅も必須である)

道徳教育の徹底ぐらいは、完全な自給自足でさほど物質的に豊かでもなかった江戸時代の日本
でですら、相当なまでに行き届いていたものである。やたらと成文法を公布して行く法治支配
などよりも、基本的な道徳規範を人々にわきまえさせることで不正行為を控えさせて行く徳治
のほうが、コストパフォーマンスの面でも遥かに優れているものだから、法治主義でもある
資本主義国による富の寡占が原因での世界規模の困窮が致命的な問題と化してしまっている現代
の地球社会においても、道徳教育による統治こそがコスト面からの最善策となるにも違いない。

「子曰く、之れを語りて惰らざる者は、其れ回なるか」
「先生は言われた。『立派な言葉を述べたとしても、それを怠ることなく実行に移せるのは、
まあ顔回ぐらいのものだ』(顔回は徳行が謹厳過ぎて夭折した孔子第一の高弟。徳行に
優れていたからこそ、言辞は見事でも実践の疎かだった宰我など以上に孔子は評価した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二〇)

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136 2013/10/03(木) 10:51:29 ID:E8vHnyoEBg
「菩薩摩訶薩は〜一切の法に作者有ること無きを知る」
(「華厳経」十回向品第二十五の三より)

特定の権威ある作者を持つが故に、法が権威を帯びるなどということはまやかしである。
実定法といえども、社会の治安や福利を司る場合には普遍道理の単なる反映となり、
そうでない場合には道理への違背の反映となるのみである。そして道理のほうはといえば、
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」のように、ただの自明な倫理法則に過ぎない
わけだから、その根源まで遡った時に、なおのことそこに原作者がいるなどという
ことはあり得ないことが、道理についても法律についても言うことができるのである。

道理が全くの自明な倫理法則に根ざしたものであることが、上記の同態加害忌避を含む
基本的な人間道徳を把捉している儒学においてこそ顕著に示されているものだから、
儒学こそはあらゆる教学の基本中の基本とするにも相応しい一方で、よっぽど旺盛な
仁徳への志しが自分自身に備わっているのでもない限りは、儒学道徳などを権威的な
ものとして取り扱ったりすることには、危うさが伴うことともなってしまうのである。

儒学に国教として程もの権威を付与した中国や朝鮮といえども、科挙試験制のような
制度を通じて無理に権威を付与し続けたものだから、人々の儒学道徳への信奉意識は
かえって損なわれた。高級官僚としての栄華に与るために必要となるのが儒学の素養と
いうことになってしまったものだから、人々の儒学への志しも利欲とのみそくそ状態と
化してしまい、その内容への理解やそれに基づく修養なども疎かにされることとなった。

科挙制の導入などではなく、印中以上に手厚い仏法の流布を講じた日本こそは、儒学道徳
をごく自然な形で人々に体得させることにも成功した。儒学自体にそこまで多大な権威を
付与したりはせず、世襲で大半の役職が占められている朝廷や幕府での部分的な官僚登用
のための試験科目にされるなどに止まった。一方で、仏門での出家に対する権威の付与は
厳重なものとされ、旺盛な実践を伴う寺での勉学こそは、今の大学並みかそれ以上もの

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137 2013/10/03(木) 11:03:32 ID:E8vHnyoEBg
権威性を持つものとされた。そしてそうであることこそが、儒学の自然かつ純良な受容
にも結び付いた。上の「華厳経」からの引用でも分かるとおり、仏教もまた真理たる「正法」
の探求に務めながら、正法を含む一切の理法に権威的な原作者などは存在しないという自明性
をも認めているものだから、その仏法の厳粛な受容に務めた結果として、自明な儒学道徳への
素養も身に付き、それが在家の信者たちにまで精神面から反映されることとなったのである。

孔子の時代にも顔回のように、儒学の厳重な実践に務め過ぎたせいで夭折した弟も子がいた。
平易な人間道徳を司る儒学といえども、厳重な実践をこなし続けようと思えば、そこでは出家
修行並みの厳しさを伴うことが当時から知れていたのである。とはいえ、儒学こそを最高権威
たらしめんとした中朝などでは、儒学の教条の平易さばかりにたぶらかされて、適当な実践に
止まる者が大半を占めたために、儒学享受そのものを陳腐化させてしまう事態を招いたのだった。

日本人は、儒学の受容にも務める一方で、儒学以上にもあからさまな厳格修行を伴う仏教こそを
本格的な実践対象ともしたものだから、儒学ばかりを実践対象とする場合のような中だるみを
生じさせたりすることもなく、儒学の受容を最適なものとし続けて行くことができたのである。

上記のような形で、日本が中朝以上に儒学の受容に成功したのも、「一切の法に原作者なし」
という絶対真理を司る仏法への崇敬を通じて、自明な儒学道徳をもそれなりに尊んで行く
ことができたからである。神から頂いたものでもなければ、科挙のような権威ある人間が
司っているものだからでもなく、原作者なき仏法を真諦とする場合の、原作者なき俗諦こそは
儒法であるとしたから、誰しもがそれを尊重の対象として行くことができ、儒学道徳への尊重も
また過不足のない適度なものとなって、ごく自然体な儒法の体得を誰しもが成し得たのである。

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138 2013/10/03(木) 11:52:37 ID:U7IbkMWpPk:au
「一切の法に原作者なし」となれば、律法を司る絶対神への心酔を帯びた信仰などをよしと
するわけにもいかなくなる。それは、絶対神への信仰状態こそを平静な状態だなどと思い込んで
いる人間からすれば、ひどく拒絶感を催させられる事態ともなるに違いないわけだが、原作者なき
理法であっても仏法は崇敬の対象とできるし、仏法への崇敬を下位互換的に反映させる形であれば、
儒法への尊重もまた適切たり得る。以って、自明な人間道徳の自然体な体得もまた実現されて、
実定法で雁字搦めにしたりせずとも安寧と繁栄の保たれた世の中が実現されることとなるのである。

「天子は〜典礼に命じて時月を考え、日を定め、律礼楽制度衣服を同じくして之れを正す。
山川の神只を挙げざる者有れば不敬と為し、不敬なる者は、君削るに地を以ってす。宗廟に
不順有る者は不孝と為し、不孝なる者は君絀るに爵を以ってす。礼を変え楽を易る者は不従と
為し、不従なる者は君これを流す。制度衣服を革むる者は畔と為し、畔なる者は君これを討つ」
「天子は典礼(官名)に命じて実施する月日時を勘案指定させた上で、律・礼楽・制度・衣服
の是正を諸侯に命ずる山川での神祇祭祀を疎かにする者があればこれを不敬とし、不敬を働いた
諸侯には領土の削減による制裁措置を執る。先祖を祀る宗廟に敬う順序の取り違えがあった時には
これを不孝とし、不孝なる者には爵位の剥奪による制裁措置を執る。礼楽を身勝手に改変する者は
これを不従とし、不従なる者には流刑による制裁措置を執る。制度や衣服すらをも勝手に変えて
しまう者はこれを畔(そむく)」となし、畔なる者には討伐による制裁措置を執る。(律法が忠実
に実践されて行くことによる天下の平定の具体的な描写。獄中の政商犯が捏造した空想上の律法など
と違って自明な具体性が伴っているために、無闇に蔑ろにしていいようなことがあるはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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139 2013/10/03(木) 20:07:54 ID:lgtYaLxWK2
あはは(*゜▽゜)_□

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140 2013/10/03(木) 22:34:04 ID:E8vHnyoEBg
[YouTubeで再生]
式年遷宮は、戦国時代に120年に渡って中断されている。
その間に実物の資料も多数損なって、今の遷宮は古文書
などの文献資料を頼りに復刻されている点が多々ある。

その内の、有職故実関係の資料の中に「藍染」という
記録が多数残っている。その記録を元に今の宮司たちも、
剣道着や香取新当流の道着や警察の制服などと同じ
青黒い被服を用いていたりするようだけれども。

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141 2013/10/03(木) 22:37:22 ID:E8vHnyoEBg
日本古来の「藍」とは「山藍」のことで、山藍染めは
この画像のような、青緑色に近い色彩を帯びている。

今いう「藍」は「蓼藍」であり、蓼藍染めこそが
青黒い色彩を帯びる。蓼藍は唐代の中国からの輸入品で、
別に貴重なものでもないから酷使する武道着に使われたり、
衣服を傷めやすい漁師や火消しの正装ともされて来ている。

 
「制度衣服を革むる者は畔と為し、畔なる者は君これを討つ」

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142 2013/10/04(金) 14:24:45 ID:ZsAL3Ote..
自らの罪悪に着実な良心の呵責を抱けることを、普通人は「心が清い」と表現するし、また「真心がある」とも表現する。
人間道徳や真っ当な信教が通用しているような世の中ではそれが一般的な通念ともなるから、それに反するような不埒な
思考規範や言行規範を信者に強要するようなカルトに対しても、汚物や反社会勢力に対する並みの拒絶意識が働くのである。

日本でキリスト教信仰がどうしたって広まらないのも、そういった理由に即している。
別に、明治のキリスト教解禁以降の日本人が、あからさまにキリスト信仰を否としたりしているわけでもないし、
西洋的な文化習俗としてのキリスト教文化までをも完全拒絶していたりするわけでもないのだが(クリスマスや
教会式結婚式やクロスアクセなど、単なる文化として日本人が受け入れているキリスト教文化なら枚挙に暇がない)、
ことに、キリストを信仰して思考規範や言行規範から征服されるとなれば、本能から徹底的な拒絶意識を抱く日本人が
大半となっている。それも、日本人に深く深く根差している、常識的な意味に即した浄心への尊重があるからであり、
それと逆の浄心の定義や、罪穢れを是とする偽りの浄心への陥りをどうしたって受け入れることができないのである。

罪穢れを着実に忌み嫌う志向性と、罪穢れをアリとした上でそこから目を背けて行く志向性とは、人がその一生をかけて
邁進し続けて行けるものですらある。成人に達する頃までの親や教師からの教育で、罪穢れを忌み嫌う志向性を十分に
植え付けられていたならば、よっぽどひどい洗脳措置を被りでもしない限りは、一生その志向性を保ったままでいられる。
年齢が40も過ぎればそれも磐石となって、罪穢れを好き好むような濁悪を決して受け付けないようにもなれるわけだが、
それは逆に、罪穢れを好き好んだ上で「臭い物に蓋」をするような志向性にかけても言えることである。生まれた頃から
ずっとそのような濁悪志向のままでい続けてきた老人ともなれば、もはや立ち直りも不可能であり、せいぜいそのせい
での人様への迷惑を最小限に控えるための隔離措置なり何なりを被るぐらいしか手立てがなくなってしまうのである。

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143 2013/10/04(金) 14:26:55 ID:ZsAL3Ote..
人間の性格は20〜25歳ごろまでに確立し、40歳ごろに不惑なものとなるものだから、学生期間に相当する
20代前半の頃までにまともな浄心を確立する教育を受けさせるようにすべきであるし、壮年期たる40代頃までにも、
清浄な性格の持ち主の働きこそが報われるような社会情勢であるべきである。今はといえば、中高ごろまでは学生の
人格形成を尊ぶような規律の徹底が多少は見受けられるが、大学に入った途端に何らの規律も持たない自由人状態へと
持って行かれる。社会人になればもはや貪欲さばかりが求められて、汚濁を忌むがための消極さなども非とされるように
なってしまうのが常と化してしまって居り、全く以って人間という生き物の品性が本格的に尊ばれない情勢となっている。

それでも日本人などはまだ、成人後にもそれなりに人としての品性を重んじようとする傾向があるわけだが、これは
江戸時代までの徹底的な人格尊重や、明治以降にも多少は存続した徳育などを源流とする「昔取った杵柄」に他ならない。
今みたいな、人格尊重などついでのついでぐらいにしか嗜まれていない社会情勢がいつまでも続いたならば、じきに
そのような風潮も立ち消えとなって、諸外国並みの禽獣同然な衆生の集まりへと日本社会が変貌してしまうに違いない。

仮に、世の中が完全に罪穢れの汚濁を好き好むような状態と化してしまった場合に、そこから立ち直るために必要と
なる最短期間がおよそ20年。濁世を司っている40〜60代の人間が完全に世の一線を立ち去り、急激な矯正
措置を被った20〜40代の人間が、社会のトップとなるために必要となる20年という期間。この期間中はもう、
楚漢戦争や関ヶ原・大坂の陣級の大波乱すらもが避けて通れないことになる。もはや矯正が不可能な精神荒廃状態
であるにも関わらず、世の中のトップを司ってしまっている初老以上の権力者を強制的な排除の対象としていく訳
だから、長幼の序すらもが必ずしも守られるとは限らない。その波乱の中で、矯正措置を講ずる側から調子に
乗った人間が項羽のような乱世最大級の寵児と化してしまかねないようなこともあるから、20年後の治世の
確立を見越した着実な事務を果たせる人間こそが、世相の大転換の舵を切っていくようにしなければならない。

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144 2013/10/04(金) 15:06:52 ID:KtA06ZYnYA:au
「原隰は既に平らぎ、泉流も既に清し。召伯の成す有りて、王心則ち寧し」
「高原から低湿地に到るまですでに治水によって平定され、泉や川の流れも清らかに澄んでいる。
召伯のかような功績によって、周王の心もまた安んぜられた。(責任ある王侯は、国土が平定されて
清められることでこそ、わが心までもが安んぜられる。無責任な小人などとは全く違う所だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・黍苗より)

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145 2013/10/05(土) 00:50:11 ID:EbZuT9Pfyc
40歳過ぎると矯正不可能な感じはする。省みるエネルギー・・・というより心の働きが
無くなる気がするネエ。

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146 2013/10/05(土) 13:15:15 ID:RT3KaB084o
蒙古襲来に際して、幕府執権の北条時宗が禅僧の無学祖元に助言を請うた所、
「ただ驀直前進あるのみ」という答えが返って来た。それに習って、沿岸に停泊
している蒙古船団への夜襲すらをも決行した結果、幕府は蒙古軍の撃退に成功した。

一方で、その鎌倉幕府のあり方を真似て、東アジア中へと戦線を拡大して行った
旧日本軍たるや、兵站の不足で疲弊した結果、無様な敗北を喫することとなった。

片や日本国内での防衛戦であった一方、片や外地へと躍り出ての覇権争いであった。
本質的に前進的であるのはむしろ後者の旧日本軍のほうであり、その前進絶対主義
こそが決定的な敗因ともなった。鎌倉幕府の場合は、むしろ消極的な本土防衛に徹
する中で、その防衛戦こそを「驀直前進」の心持ちでやりこなすということだった
からこそ、戦い方に中正さが備わった結果、蒙古を撃退することができたのである。

全体的な姿勢が後退状態であるようなら、驀直前進の心持ちであるべきである一方、
全体姿勢すらもが前進状態であるようなら、兵站を重んずるような保守的な心持ち
であるべきである。それが戦術的にも有効である上、中庸の徳にも適った策となる。

本土防衛という蒙古襲来時の幕府の職務と、「驀直前進」という理念の両方とを
考慮することで初めて、当時の幕府軍のあり方が中庸に適ったものであったこと
までもが分かる。それが分かる人間もまた、物事を多面的に考慮する中庸の徳を
備えていると言える。戦前の大日本帝国などにはそれが欠けていたものだから、
当時の幕府の「驀直前進」という理念の部分だけを借りとって、覇権主義の
拡大などのために猿真似することとなった。そのような結果的な選択のみならず、
物事を多面的に見据えられる中正さの欠如という根本的な問題があったわけだから、
大日本帝国が悲劇的な末路を辿ったことも、教育上の理に適ったことだったと言える。

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147 2013/10/05(土) 13:17:35 ID:RT3KaB084o
もちろん、戦前の日本に勝利したアメリカやイギリスもまた、ただ覇権主義争い
に辛勝したというだけのことで、のべつまくなしに外界を侵略して行く性向を
持ち越していることには変わりないわけだから、大日本帝国とも同様な末路を辿る
ことでこそ道義に適うといえる。連中の場合は、過ちを積み重ねて来たキャリア
が日本の比ではなく、外地を酷烈な侵略下に置いた挙げ句に、そこで保守的な
国家社会を形成する程もの堂に入りようであったものだから、その壊滅の仕方
たるや、日本のそれ以上にすらなることが見込まれる。実際に、壮絶な崩壊を
来たすのでなければ、アメリカやイギリス連合ありきのパワーバランスのせいで
経済的環境的破綻に見舞われている今の地球社会を建て直して行く目処も立たない。

中庸の徳を欠いているものだから、戦えば負けて、勝ったとしても自滅に見舞われる。
世界史上でも最大級の軍事力や経済力が国家間で拮抗し合っている近現代の世界
においてこそ、そうであることの普遍性が如実なものと化し始めてもいる。

「中庸」というものを全く知らない文明社会などもありはしない。西洋において
ですら、古代のギリシャでアリストテレスが中庸の徳をそれなりに論じていた。
ただ、他の雑多な理念と比べて、中庸という理念こそが特筆して重んじられる
ということがなかなか無かったわけで、そうでもしないことには国家規模での
安寧や繁栄も保証されないということが、全世界規模で認知されたことなどは
未だかつて無く、もしも今からそれがわきまえられるというのなら、それこそ
は人類にとって未曾有の、歓迎すべき奇蹟となるに違いないのである。

「孔子は進むにも礼を以ってし退くにも義を以ってし、得るも得ざるも命有りと曰えり」
「孔先生は進むことにも退くことにも礼義を第一とし、それによって得られるものが
あろうともなかろうとも『天命によるものだ』として一切文句を言われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・八より)

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148 2013/10/06(日) 13:05:04 ID:vZJ3JNQSSc
自分自身の身勝手な希望が、事実関係を大いに逸脱してまで増長して行った時に、人は精神薄弱となる。
そこに希望の実現のための着実な見通しや努力が伴っていれば、かえって精神力を高める機縁にすらなるが、
希望自体が全く以て実現不能なものだったり、実現可能であってもそのための手管を全く尽くそうとすら
しないでいるのならば、人はそのせいでかえって精神を薄弱化させてしまうこととなるのである。

ただそれだけで、サイコパスのような人畜有害な性向すらをも共に帯びるとは限らないが、人並み以上
の精神薄弱のせいで、廃人や半廃人然とした度しがたい性格を帯びてしまうことになるのは違いない。
ただ、真性の知能障害でもない限りは、自分がそのような性格であることが社会的に問題視されかねない
のをも察するから、体面だけでもそれなりの人格形成度であるかのように装う修辞を凝らそうとする。

その手の修辞を長年に渡って研鑽して来ているものだから、非現実信仰のせいで万年精神薄弱状態で
いる欧米のキリスト教徒の修辞こそは、異教徒のそれと比べても突出して美々しいものとなっている。

そのような、内面の精神薄弱を外面の修辞で取り繕おうとする過程において、精神薄弱者もまた
サイコパスのような人畜有害型の人格障害を併発する場合がある。君子が自己修養によって構築する内面からの
雄大さなどは、外面だけの巧言令色で人を欺いたりすることを自明に退けるものであるけれども、精神薄弱者の
修辞などはまさに、他者を欺くための巧言令色そのものであるわけだから、そこに悪質な詭弁などを凝らして
他者に嫌な思いをさせたり、実際的な詐欺行為で不当利得をせしめたりすることをも試みかねないのである。

精神薄弱を取り繕うための外面の修辞に、他者を不快にさせるようなアイロニーを加味することにかけては
フランス人などが長じているし、利権面で他者に実害を加えるような詭弁にかけてはイギリス人などが
長じている。いずれにしろ、自分たちを美々しく見せるための「正統な修辞」といのも共に身に付けて
いるものだから、修辞を悪用すること自体が「紳士淑女の嗜み」程度のものとされてしまっていたりする。

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149 2013/10/06(日) 13:08:38 ID:vZJ3JNQSSc
実際、全てのイギリス人やフランス人が修辞を悪用目的ばかりに用いているわけではなく、それで
利益を得ているのも悪徳金融業者や各種評論家ぐらいに止まっていたりするわけだから、精神薄弱な中に
真性のサイコパスを併発させるような人間も、あくまで一部の人間に止まっていることが知れるのである。

そこで問題となるのが、精神薄弱やサイコパスを発症する人間の分量である。精神薄弱者が
誰も彼もサイコパスを併発するわけでもないが、世の中に蔓延る精神薄弱者の数があまりにも増え
すぎれば、そこでサイコパスを併発する人間が生ずる確率も高まることとなる。キリスト教圏のように、
国家や社会が総出を挙げて非現実信仰に邁進した場合には、そこでサイコパスを併発する人間までもが
ユダヤ教団や悪魔崇拝教団のような一定派閥を形成するまでに至ってしまう。そうなればもう、そのような
派閥が金融利権やメディア利権、諜報利権などを牛耳っての大権力犯罪にすら及び始めるようになる。

それこそは、非現実信仰のカルト宗教がこの世に及ぼす現実的な大災厄ともなる。死後の復活だの信者の
昇天だのといった表向きの希望は何も叶えられないままに、非現実信仰によって精神薄弱やサイコパスと
化した人間が国家社会規模の大権力犯罪を巻き起こし始めるという現実的な効果のみが伴っている。未だ
非現実信仰のさ中にある人間には、現実がどうであるかなどということは至極どうでもいいことであるに
違いないが、非現実信仰が現実に及ぼす確かな効能というのもまたあって、それこそは世界の破滅級の
大権力犯罪という未曾有の大災厄であるわけだから、それはそれで興味を持つべきことだといえる。

諸法実相の現実こそを尊ぶ見地からすれば、非現実信仰のカルト宗教が現実的にもたらすのは権力犯罪
という災禍であることのほうをより重視して、その権力犯罪志向を糾弾材料として、カルトの駆逐にも
務めて行くべきであるといえる。そのような信仰のさ中にある人間は、自分たちの信仰が権力犯罪志向である
などとは思いもよらないままでいるに違いないわけだが、そこは、心神喪失状態のカルト被害者ならではの
察すべき様態とし、現実主義者である自分たちのほうが独自に、穏便な現実処理を施してやるべきだといえる。

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150 2013/10/06(日) 13:29:59 ID:Wm43QpGTn2:au
「文王は民を視ること傷めるが如くし、道を望んで未だ之れを見ざるが而くす」
「文王は(殷紂のせいで疲弊させられた)民たちを見るに際しては、まるで重病人を見るかのように
慈しみの面持ちで見、道を嘱望するにしても、未だそれを見通すことすらできないような心持ちでいた。
(天下万人に真の安寧をもたらすことは、少しも保証されていることではない。そのような危機意識と共にこそ、
文王やその後継者たちも自力での徳治に取り組んだ結果、三百年に渡る治世を築き上げることができたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)

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151 2013/10/07(月) 12:39:26 ID:7snAtFHHow
人間を善人と悪人に分かつのは、本人自身の真心の堅持の有無である。
善人はよく真心を保っているから、心の本性の部分にある善性に即して善良となるが、
悪人は自らの心を失ってしまっているものだから、善性をも見失って悪辣となる。

だからこそ、善人は自らの真心から派生する諸々の行為が、より心と近しい順序、
つまり思考>発言>行動の順序で重んじられて行くに値する。心を養生することで
善思が派生し、善思から善言が派生し、善言から善行が派生する、それは確かに、
善人についてはそうであることだから、善人の思考や発言こそは、行動並みかそれ
以上にも注目の対象とされるに値するものだといえるのである。(政治家としての
活動では成功しなかった孔子や孟子の発言にそれなりの価値があるのもそのためである)

一方で、「悪人をその根本の部分から正してやることなどは不可能である」ということも、
上の法則から自明に導ける結論である。悪人は自らの心を失ってしまっているからこそ
悪人でいるわけだから、心を失ったところで派生している思考や発言もまた、自らの心
などではなく、ただカネや権力を手に入れようとするような無軌道な欲望に即する場合が
ほとんどとなっているわけである。じゃあ、心を失った人間がなぜ、カネや権力への欲望
に取り込まれるかといえば、カネや権力を手に入れた結果としての行動の自由を欲する
からである。つまり心無い悪人は、行動の自由のためにこそあらゆる思考や発言をも
講じようとするわけだから、むしろ行動から思考や発言が派生しているのだといえる。
だからこそ、悪人は思考や発言ではなく、その行動の罪こそを優先的に罰するように
して行かねばならず、行動に対する抑制が十分に利かされた結果として、自らの心を
捉えなおす機会にもまた与れることこそを企図してやらなければならないのだといえる。

カルト信仰に取れ込まれているほどの人間であれば、真心を失ってしまっているぐらいの
ことは概ねデフォルトとなっている。一方で、カルト信仰ながらに信者の思考や発言を
重視するということも当然あるわけで、そこで問題扱いされるのは、いかに心を失った
所から派生している思考や発言が、それなりの修辞で整えられているかということである。

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152 2013/10/07(月) 12:42:11 ID:7snAtFHHow
所詮はカネや権力への渇望によって派生しているだけのものに過ぎない、
心無き思考や発言を、どれだけ罪が軽そうに見せかけるかというだけのものでしか
ないわけで、そんなことで本人たちの善心が取り戻されたりするわけがないのは
もちろんのこと、むしろ外物に翻弄された結果として派生する粗悪な目的と共なる
思考や言行を堂に入らせて、深刻化させるような結果にしか結び付かないのである。

悪人が矯正されるために、その思考や発言から正されたりするのは、まず不可能である。
そのような幻想を振りまくようなカルト教義もまた有害無益なものでしかないと知る
べきであり、悪人はその悪行を是正されることを通じて、自らの真心を見詰めなおす
機会を得る所からしかやり直していけないものだとわきまえるべきである。行動が
是正されて、自らの真心を捉え直した結果として、ついに善思や善言までもが講じ
られるようになるということだけが、悪人にもまた期待できることなのだから。

世相の荒廃などによって、誰も彼もが心を失ってしまっているような中で、悪念や
雑言を垂れ流しているような人間と、そこに修辞による整形を加えているような
人間とでどれほどの罪の差があるかといって、五十歩と五十一歩ほどの差もあるまい。
問題は、自分たちが犯している悪行のほうの軽重であり、悪行が重大であるようなら、
表向きの発言などが綺麗ごとじみていても厳重に罰し、悪行が軽いようならば、発言
の罪まではさして罰したりする必要もない。悪行は犯していないのに悪口だけは吐いて
いるような人間なんてのは、世相の荒廃に釣られたノリで悪口を吐いていたりする
場合がほとんどなのだから、悪行者が討伐されて世相も清浄に立ち返ったならば、
そういう人間は、口の悪い江戸っ子ていどの存在ともなるに違いない。

「君子は〜口を人に失わず」
「君子は言うべきことを人に言う口を失ったりすることがない。(言葉は意思伝達の
ための道具であることが本分なのだから、それを口舌で用いることも疎かにはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

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153 2013/10/08(火) 12:37:59 ID:/uxhWVw/P.:au
近ごろでは、ネットに疎い高齢男性すらもが、地上波のテレビ番組のつまらなさに嫌気が
差してテレビを見なくなることがあるという。その理由が「つまらない芸人番組の台頭」。
真面目な報道やドキュメンタリーはおろか、落語や昔の漫才のような、それなりに趣向を
凝らしたお笑い芸ですらない、人前で醜態を晒して笑われることを一発芸とするような
最低品質の若手芸人ばかりが民法はおろか、有料放送であるNHKにまで張り出して来て
いるものだから、もはや雰囲気作りに付け流しておくことすらもが目ざわり耳ざわり
となって、テレビの電源から消してしまうようなことが増えてしまったのだという。

ネットやゲームの台頭でテレビメディアの肩身が狭くなり、予算を削られたせいで
ろくにお笑い番組すら作り込めなくなったせいで質の悪い芸人が増え始め、なおかつ
そのような芸人を低賃金でこき使うようなことが増えたというのがその内情なわけだが、
芸能コンテンツの内でも最も卑俗な部類に入るお笑い芸すらもがそのように、育成環境の
悪化のせいで低品質化して支持を減らすということがある。アイドルや音楽や演劇などでも
同様な事態が生じ得るし、さらには芸能以外の各種文化についても同様なことが起こり得る。

神話や伝説についてですら、同様のことが言える。それなりの道徳的、求道的な意味合いを
凝らした高尚な伝説神話が、文化的に恵まれている地域で育まれたりもする一方で、悪環境
での精神的な飢渇が原因で、醜態を晒しての一発芸みたいな最低品質の小話が伝説や神話に
されてしまう場合もある。そもそも神話や伝説を迷信的なものとして排し、人間道徳や虚空の
真理そのものを堅実に尊んでいったりすることもあるわけだが、伝説や神話を醸成して尊重
する範囲においても、高品質なものを尊ぶ場合もあれば、低品質なものを嬉しがる場合もある。

質の高いお笑いと低いお笑いが共存し辛いようにして、高品質な伝説や神話と低品質な
伝説や神話もまた排他し合う。まず、両者が作成される環境からして全く異なり、片や
極めて恵まれている一方で、片やひどく恵まれていないわけだから、受容者の側の文化的
環境がいずれであるかで、あえて好き好む神話伝説の種類もまた決まってしまうのである。

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154 2013/10/08(火) 12:45:11 ID:LVEQw2HD.6
さらに、受容する人間の人種というものもまた大幅に変わってくる。お笑いにしろ伝説や
神話にしろ、そこに高品質さを要求するのは概ね大人の男性であり、低品質でもよしと
するのが女や子供である。大人の男の要求を満たす程もの高品質なコンテンツに対しては、
大人の男が主な消費者となる形での需給関係が成立する一方、そのような要求を満たさない
低品質なコンテンツに対しては、女子供が主な消費者となる形での需給関係が成立する。大人
の男も女子供も共に享受するとしたところで、結局、どちらのニーズをより満たすかで品質の
高低も分岐するものだから、高品質なコンテンツと低品質なコンテンツが共存することもない。

大人の男も女子供も共に楽しめるのは、むしろ高品質なコンテンツのほうである。
確かに、それは女子供にとってはオーバースペックなものとなるわけだが、だからといって
生来嬉しがりな存在である女子供がそれを楽しめないなんてこともない。箸が転がるだけでも
嬉しがれる女子供でもなければ楽しめないような低品質なコンテンツこそは、どうしたって
大人の男までもが共に楽しんだりすることができない。自分たちまでもがとっちゃん坊やと化す
ことで無理に楽しむか、もしくは文化享受など見限って生業にでも専念しているしかなくなる。
男が誰も彼もチャランポランなとっちゃん坊やと化してしまったんじゃ世の中も立ち行かなく
なるから、結局、男がほとんど文化などに見向きもしなくなり、男が受容するに値しない低劣な
文化コンテンツだけが、女子供からの支持で辛うじて命を繋ぐような事態に陥ってしまうのである。

キリスト教圏たるや、自分たちを司る最高理念からしてそのような低劣文化であり続けて来た。
女子供が主要な享受者であることが完全に開き直られているのがキリスト教文化であればこそ、
大人の男が自分たちの嗜好によって楽しめるような高尚な文化と決して相容れることがない。

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155 2013/10/08(火) 12:47:34 ID:LVEQw2HD.6
だからこそ、大人の男を主人公にするような学問宗教を廃絶させながら、自分たちの勢力を
拡大させて行きもした。キリスト教文化こそはあらゆる文化の中で最高の文化であるからではなく、
他の高尚な文化を廃絶させた所で、女子供の嬉しがりによる支持で自分たちだけが生き残るのが
キリスト教文化の本旨であるからこそ、キリストが至上のものもともされて来ているのである。

よく言われる、

男が男だけで楽しむ場所を作る

面白いので人も増えてくる

女、子どもが寄ってくる

女子供が自分たちの住みやすいように主張し始める

マスコミや女目的の男が嗅ぎつける

男が去っていく

その分野が完全に腐る

というようなコンテンツ腐敗の宗教文化版の極北がキリスト教文化であるものだから、
東洋などに豊富な、男を主人公とする数多の教学文化とも決して相容れることがない。
その、「相容れない」という点を根拠として、キリスト教徒はキリストこそを文化の
覇者のように嘯いているだけなのだから、何らその主張を是認してやるに足るものではない。

アブラハム教の範疇で、上記のようなキリスト文化の腐敗性に対抗しようとしたものだから、
イスラム教も女子供を徹底的な差別下に置くこととなったわけだが、そもそも、女子供を
主要な享受者とするような低劣な文化をメインカルチャーに据えたりしなければ、そこまで
徹底的な女性差別を講じたりせずとも、腐敗を予防して行くことができるのである。

キリスト教文化など、全く以ってつまらない。いくらキリスト教圏が軍事的経済的に最強の
文化圏だろうとも、最高理念となっている主要文化が女子供でもなければ楽しめないような
低劣文化である以上は、全く以って大人の男が魅力を感じさせられるに値しない。そのような、
大人の男ならではの感覚が尊ばれるようになれば、女子供のほうを徹底的な差別下に置くような
渋い仕打ちによらずとも、文化腐敗からなる破滅の危機を避けて行くことができるのである。

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156 2013/10/08(火) 13:15:06 ID:/uxhWVw/P.:au
今日言いたかったことは、要するに、
「キリスト教による文化破壊は、昨今の質の低いお笑い芸人の台頭も同然の代物だ」
ということだ。自分たちが女子供からの嬉しがりによって支持を保ちつつ、
大人の男でも楽しめるような高尚な文化コンテンツを徹底的に破壊して行く。
結果、男は女子供のために働いてカネを貢ぐだけの、奴隷も同然の存在とも化してしまうのだ。

「武王曰く、予れに乱臣十人有りと。孔子曰く、才難しと、
其れ然らざるや。唐虞の際、斯こに於いて盛んと為す。婦人有り、九人のみ」
「武王は『私には十人の名臣がいる』と言ったという。孔先生はこれを評して言われた。
『才能ある者を得ることは難しいというが、まさにその通りだ。太古の唐虞の時代から今に至るまで、
武王の時代の周ほど人材に恵まれた時代はない。とはいえ、武王が称えた十人の名臣の内の
一人は婦人(文王の后、武王の母に当たる太姒)だから、名臣の数も正確には九人だ』
(文王の后にして武王の母たる婦人といえども、女である以上は権力道徳者としての才能を認めない。
わが子が刑死して気が狂った娼婦の母の多重人格状態な証言なども、当然尊重するには値しない。
逆に、マリアの女としての言行の信用のなさが、孔子のこの発言の至当さを追認しているともいえる。
女の独立的な言行は徹頭徹尾、世の中を司る程もの指針として扱うには値しないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二〇より)

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157 2013/10/09(水) 23:09:59 ID:.isv130udI
宗教にだって、大人の男が嗜好するに値するだけの
品質を備えたものがいくらでもあるわけだが。

「宗教といえばキリスト教」だなんていう風潮が
まかり通ったりするようなら、大人の男である以上は、
宗教なんてものを好き好んだりしているわけにはいかない。

非常にもったいないことだが、宗教などというものへの
信奉を一旦は完全に控えた上で、高品質な宗教と低品質な邪教を
シラフでより分けて行く所から取り掛からねばならない。

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158 2013/10/10(木) 12:47:59 ID:ramDvucd.c
聖書信者が神仏を選り好みすること、あたかも女が男を選り好みするかの如くである。

女として男を選り好みするからには、守られたい本能が働いて、威勢の強大さこそをまず期待する。
財力でも政治力でも暴力でも何でもいいから、この世に幅を利かせられるような絶大な威力の持ち主で
あることを期待する。そしてそのような期待を満たしてくれる体裁を万全に整えているのが聖書の神で
あるからこそ、聖書信者もまた、他のどんな神仏にも増して聖書の神こそを信仰しようとする。

一方で、男が女を選り好みする場合に、相手に威勢の強大さを期待したりすることは基本ない。
男でありながら強い女を欲するような男は「ヒモ」性分の持ち主として、大いに反面教師として蔑み、
むしろ、自分が守ってやらなければ自存もままならないような柔弱な女こそを大丈夫として好むのである。

男気溢れる東洋社会で主に信仰されて来たのも、そのような「男が守ってやるべき女」のような神仏が
ほとんどとなっている。頼りない神道の神々などもそうであるし、乞食行者を模した仏像として具象化される
仏や菩薩なども大半がそうである。そのような神仏が司っているものこそは真理である一方で、真理もまた
汚濁にまみれやすい俗世では甚だ見失われやすいものであるのも確かなことだから、頼りない神仏を自分たち
人間のほうから守ってやろうとするような心持ちによって、真理や道理の把捉の堅持にも努めて行くわけである。

それにより、女性的な神仏を尊ぶ信仰者こそは、男性的な神に精神依存する信仰者以上にも、無信仰的な自力
の養生に努めるのである。その具体的な有り様は、数千年にわたる中国や日本の政治史を見ても明らかな通り。
数多の権力道徳者たちが自力での国力の増強に努めて来てくれたからこそ、万人が絶対神への精神依存状態で
居続けてきた聖書圏などをも、人口や経済力で圧倒することができている。聖書圏では「ニヒリズム」などと
呼ばれて忌み避けられているような、独立独行の精神状態での精進を数多の人々が積み重ねて来たからこその

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159 2013/10/10(木) 12:54:14 ID:ramDvucd.c
成果であるわけだが、別にニヒリズムだからといってニーチェのような狂乱状態に陥ったりして来ている
わけでもない。西洋では劣等な尊格として卑しまれるような女性的な神仏を、女を守ってやる男のような
慈みと共に尊んで来たからこそ、独立独行の自力精進に気を狂わせるようなこともなかったのである。

女性的な神仏を尊ぶ人間こそは最大級に男らしい存在たり、男性的な神に依存する人間はかえって
女々しい性格と化してしまうという相反法則がある。男と女で、より威力が強大たり得るのは当然男の
ほうだから、女性的な神仏を尊ぶことで最大級の男らしさを身に付けた男こそは、天下全土でも最大級の
威勢を湛えた存在たり得もする。そしてそのような男の辣腕に頼るのでもない限りは、世の中のほうが
保全もままならないような事態に陥ることがあるわけだから、男性的な神ではなく女性的な神仏こそは、
この世界を救い、守り治めて行く上での肝心要の存在となることがあるともいえるわけである。

自分が信じている神の(規定上の)強大さを偉ぶるような人間は、
夫の高収入を近所で自慢する主婦も同然の存在だといえる。自らが自慢の材料としている
神の雄々しさとは裏腹に、自分自身の女々しさはかえって深刻化し、箸にも棒にもかからない
社会のお荷物然とした駄人へと自らが凋落してしまいつつあることを自覚すべきだといえる。

「禄を利するに、死者を先にして生者を後にすれば、則ち民背かず。
亡者を先にして存者を後にすれば、則ち民以て托す可し」
「俸禄に際しては、(国のために殉ずるなどした)死者を優先して生存者を劣後するようにすれば、
民たちも反意を抱いたりすることがない。遠征に赴いている者を優先して在邦の者を
劣後するようにすれば、民たちも大事を託しても心配の必要がないほど仁に厚くなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)

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160 2013/10/11(金) 11:25:42 ID:YkaM9SBOwI
世界の終わりありきの超越神信仰などに没頭している人間にとって、この世界が
ありのままに人力で救われることなどは、全く自分たちの望む所ではないに違いない。
それは、世界が破滅に陥る中で、自分たちだけが神からの執り成しによって救われる
という、自分たちの思い描いて来たシナリオとは全くかけ離れた事態であるわけだから、
そんなことになるよりはまず、世界が破滅に陥ることのほうを欲するに違いない。

いま、信者数が世界人口の約半数を占めているアブラハム教(ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教)こそは、まさにそのような信仰を信者にけしかけるものとなっている。
信仰のためには親族すらをも殺すつもりでいたアブラハムを始祖とし、ノアの洪水の如き
世界の破滅の中で、自分たちだけがノアの箱舟の如き信仰の大船に乗って救われようとする。

イスラム教などはまだ、超越神以上に汎神であるアラーを絶対神に見立てたことを通じて、
形而下の万物への尊重も持ちえた結果、完全な自給自足の社会を運営していけるだけの
素養を信者に付与したりもしたわけだが、やはり新旧約聖書の教義をも参考としている
ことには違いないわけで、少なくとも、異教徒を含む万人と共にこの全世界を救って
もらおうなどという所まで仁徳を働かせられない点では共通しているのである。

まず、世界の半数にあたるアブラハム教徒が、信仰を通じてこの世界の終わりを欲している。
また、その他の宗教文化圏においても、今の世界など一旦は終了して一からやり直してくれた
ほうがいいぐらいに思っている人間がそれなりにいるだろうことが予想される。中国13億の
人口の内の約3分の1に当たる4億人超の貧困層の人間なども、政府からの弾圧でなかなか
表向きには悲鳴を上げられないにしたって、「今の世界の支配者が死んでくれるのなら、
自分たちも一緒に死んだって構わない(書経・泰誓)」ぐらいの心持ちでいたりするに
違いないわけだから、実に、世界の過半数に達する人間が、今の世界の人力による
救済などを欲しているわけでもないだろうことが察せられるのである。

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161 2013/10/11(金) 11:29:13 ID:YkaM9SBOwI
だから、仮に破滅寸前のこの世界を救い取れる人間がいたとした所で、本当に救い
の手を差し伸べたりすることは、お節介になるだろうとも考えられるわけである。

世界の過半数の人間が今の世界の終わりを欲し、さらに半数の人間が、
人力ではなく神の力による救いを欲しているわけだから、人力による
現世界の救済などは、二重のお節介にすらなりかねないといえるのである。

実際問題、「神の救い」などありはしない。権力犯罪による自業自得の破滅に陥った信者
を救う神などは実在せず、ただ破滅を助長する悪巧方便上の架空神であったのみである。

だから、自分たちが救われるためにはまず、神からの救いなどを期待することから
取り止めなければならない。全くの架空だからこそあらゆる理想をも込められる神からの
救いへの期待などは一切捨て去って、濁念もあれば姦淫も糞尿もするし、自分自身にも寿命が
あるような、生身の人間の努力精進による救いこそを期待して行くようにしなければならない。

その上で、来世での昇天などではなく、この世界での着実な救済をも期待せねばならない。
今の世界を一旦終わらせたりするんなら、それこそ核戦争での人類滅亡すらもが免れ得なく
なるわけだから、人口爆発に環境破壊に極度の世相の荒廃といった、数多の問題が
鬱積しているこの世界での着実な救済こそを企図して行くのでなければならない。

超越神による自分たちだけの救いなどを欲したりすることも排した上で、なおかつ、
汚濁まみれなこの世界での着実な救いこそを志していかねばならないわけだから、それが
未だ出来ていない側の人間にとっての、二重の障壁でこそあるのだといえる。その障壁を
乗り越えないことには、多少なりとも救いの手が差し伸べられる機縁すら得られないのだから。

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162 2013/10/11(金) 12:46:39 ID:dAMOOX1wek:au
「君子の屢ばしば盟うや、乱も是の用えに長きに。(既出)
〜其れ共なるに止むるに匪ず、惟れぞ王の邛いなる」
「支配者たるものがやたらと口先だけの誓いを発するものだから、乱世も長きにわたって深刻化して行く。
それは『ただ共にある』などという事態にすらとどまってはいない、王たる者にとっての病巣とすらなっている。
(口先だけでの『共にいる』などという誓いこそが、乱世を招いて世界を破滅に陥れる元凶となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)

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163 2013/10/11(金) 14:40:10 ID:dAMOOX1wek:au
要は、

「アブラハム教徒が人口の半数を占めているような世界を、
あえて人力で救ってやったりする義理がない」

ということだ。

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164 2013/10/11(金) 22:18:02 ID:YkaM9SBOwI
人間の力を侮り、
人間の権威を蔑み、
人間の尊厳を踏みにじるような連中を、
あえて人力で救ってやるような義理はない。

返信する

165 2013/10/11(金) 23:07:52 ID:dAMOOX1wek:au
救ってやる義理がないとも言えるし、
こちらに救ってやる資格がないとも言える。

迷惑になるだけだろう?
神からの救いこそを期待しているような連中に、
人間ごときが救いの手を差し伸べたりするのは。

返信する

166 2013/10/12(土) 03:25:56 ID:WNu06rJB2s
うんこ。

返信する

167 2013/10/12(土) 08:59:32 ID:U/W26vDTn2
こいつ, ひでぇな. 滓地蔵だなw

返信する

168 2013/10/12(土) 13:09:26 ID:TkZVt0MqKs:au
神への信仰に邁進する求道者たちを、
人間ごときが救ってやるほうが「失礼」ってもんだろう?

逆に言えば、人間の尊厳を侮るようなこと自体が、
人間に対する「失礼」でもあるわけじゃないか。

どうしてそんな無礼者を、人間様が救ってやる必要がある?

返信する

169 2013/10/12(土) 15:20:48 ID:oqUyLwxf5I
神仏を「自分たちを守ってくれる存在」と捉えるならば、信者も子供や若年者然とした人間であるほうが
好ましいということになる。結果、長幼の序も転倒して若者は老人を見下し、老人も若者を羨むようなザマに陥る。

神仏を「自分たちが守ってやるべき存在」であると捉えるならば、むしろ妻子を養うに値するような立派な
大人の男こそは信者としても相応しいということになり、以て父子夫婦長幼の序の尊重に与することともなる。

人々が「守ってくれる神」を信じているか、「守ってやるべき神」を信じているかで、世相までもが
上記のような開きを生ずることとなる。今はといえば、神仏への信敬も疎かと化してしまっている時代では
あるけれども、神仏といえば「自分たちを守ってくれる存在」という既成概念が定着してしまってもいるものだから、
神仏信仰もありとする以上は、そのせいでかえって長幼の序が乱されてしまう時代ともなっている。

日本で神仏信仰が依存主義的なものと化してしまったのは、聖書信仰が輸入されたりするさらに以前、
鎌倉後期に念仏信仰が大規模な教団派閥を形成し始めた頃にまで遡る。それ以前にも念仏信仰というものが
ありはしたが、あくまで数多の仏教教義の一つとしての扱いに止められて、そればかりが帰依の対象と
されることがなかった。それが、武家政権の台頭によって世相が荒廃し始めた鎌倉以降に特筆して
進取される対象となり、今に至るまで大規模な教団を形成するようになったのだった。

依存主義的な自分たちの信仰が、長幼の序の毀損に繋がったりしないようにするための措置として、
浄土教団は「念仏信仰はあくまで煩悩愚縛の凡夫にこそ相応しいもの」というスタンスを取り続けた。
「親や年長者への崇敬も疎かにしがちな愚か者こそは念仏にすがるしかない」という、謙虚な姿勢を保ち
続けたものだから、社会規模での父子長幼の序の毀損を助長するような真似にまでは至らなかった。

依存主義的な信仰こそは尊いものとし、それを嗜む者こそは貴人であるとすらする聖書信仰が戦国期に輸入されたり、
江戸時代中の禁教の後にまた解禁されたりするに至って、日本における父子夫婦長幼の序の損壊が積極的に
推進されるようなザマにまで陥った。解禁された所で、実際に信者となる人間はごく少数に止まり、

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170 2013/10/12(土) 15:23:00 ID:oqUyLwxf5I
その少数の内ですら、在日外国人が多くを占めているような状態でいるわけだが、その程度の受容度であっても、
「神仏は信者の側が依存すべき対象であり、依存できた者こそは偉い」などという観念が、聖書信仰の
是認を通じて広く定着してしまったものだから、神仏信仰やその容認全般が、君臣父子夫婦長幼といった
天下に尊ばれるべき序列を乱すことに与する悪材料と化してしまう結果と相成ったのである。

そのような現状から、神仏信仰こそが君臣父子夫婦長幼の序を助成するような世相にまで立ち戻るためには、
あまりにも多くの障壁を乗り越えて行く必要がある。聖書信仰を再度禁教下に置く必要があるのはもちろんのこと、
さらにそこから、「神仏すなわち依存対象」などという既成概念の傷痕を治療して行く必要がある。
神仏は第一にはこちらから守ってやるべき存在であり、守ってやることでこちらのほうが真理や道理の
把捉を堅固なものとするための存在であるとする。仮に神仏にすがらざるを得ないとしても、それは
自分たちの側が至らぬ人間であるからなのだから、そうであることを恥じるようにしなければならない。
そのような考え方を万人が諾えるようになり、実際に守ってやるための神仏こそを進んで信仰して行く
ようになったならば、そこで初めて、神仏信仰が君臣父子夫婦長幼の序を助成するような効果をも持ち始めるようになる。

そのような風潮が定着し始めた後にも、愚か者として依存主義的な信仰に燻っているしかないような人間もまた
残存しないとは言いきれない。ただ、そのような人間は生粋の小人とされて、
君子階級になれないなどの社会的制約を被ることともなる。

徳川家のように、浄土門の檀家でいながら征夷大将軍を務めていた家もあるが、
自分たちは自分たちで朱子学を主体とした仁義道徳の実践にじりきで務めてもいた。
家流の元祖たる家康公も神として東照宮に祀られるなど、到底念仏信者ばかりには止まらない
自力作善ぷりであると言えるわけで、そうでありながら浄土門にも帰依したのは、一種の謙遜であったと言える。
同様の謙遜は、平安時代の藤原氏などにも見られわけで、そのような念仏信仰と、ただの凡夫の念仏信仰とを
同列に扱ったりすべきでもないといえる。(だからこそ、浄土宗と浄土真宗の使い分けなどが有効ともなる)

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171 2013/10/12(土) 15:49:17 ID:TkZVt0MqKs:au
「原壤夷して俟つ。子曰く、幼くして孫弟ならず、長じて述ぶる無く、
老いて死せざる、是れを賊と為す。杖を以って其の脛を叩く」
「(孔子の幼馴染の)原壤が、立てひざを突く無礼な姿勢で待機していた。先生は言われた。
『若い頃にも親や年長者への孝悌に励まず、年を取ってからもろくな業績を挙げず、
老いさらばえてもなかなか死にもしない。これこそは賊害とでもいえるものだろう』
そう言ってから、杖で原壤の脛を叩いた。(若いうちにろくに精進も積まないものだから、
年取ってから賊害にも等しい存在と化してしまう。孔子も杖を突くほどの老齢となっていた
ようだが、数千人の弟子を抱える大師匠として人々から親しまれていた頃のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四五)

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172 2013/10/13(日) 16:37:40 ID:/59vf27wcI
俗世で天道に適うものといえば、第一には先祖代々の家門の継承であるといえる。
自分個人の命は限られていても、家を代々保って行くことは半永久的たり得ることだから、
確かにそこに、天道にも合致する程もの普遍性が伴っていることが分かるのである。

代々の家門の継承こそが、天道に適う最たる事象であるからには、それに反するものや、
それを阻むものが天道に適わないものだといえる。嫡子でありながら遊び呆けてろくに
家を継ごうともしなかったり、家門の尊重を損なわしめるような邪教に溺れたりするのが、
悪い意味で天道に適わないあり方だといえる。「悪い意味で」というのは、そうでない
場合もあるからである。嫡子よりは家を継ぐ順位の低い生まれであって、分家を
立ち上げたりするよりも口減らしに専念したほうが経済的に都合がいい場合などに、
戒律厳守の仏門で出家するなどして子孫を絶つようにすれば、それがかえって
嫡子による家の興隆を助成することにすらなるような場合もあるからである。
(これはもちろん、天道ではなく仏道に適ったあり方だといえる)

単なる産めや殖やせやが天道に適うかといえば、決してそんなこともない。
苗字も持たないような百姓が、一定の集落で農産のためだけに集団規模を保ち続けたり
するところでも、遺伝子の保存ぐらいは続いているが、そこに日月星辰の運行のような
規則性はない。それはまさに、地球上の大自然の混沌とした化育にありのままに合致する
姿であるわけだから、天道に適わない代わりに、地道に適ったあり方でこそあるといえる。

天道との合致を本当に守り通しているような人間や国というのは、意外と多くない。
世界でも最も皇帝らしい皇帝の系譜を2000年以上に渡って継承して来た経歴のある
中国といえども、その最原初にあたる秦始皇帝や漢の高祖の頃から、すでに地道や非道
を基幹としたものとなっている。高祖劉邦も無名の百姓の出身なら、始皇帝の嬴政も
政商呂不韋の隠し子であり、いずれも天道から来たった皇統であるなどとは言いがたい。

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173 2013/10/13(日) 16:39:50 ID:/59vf27wcI
欧英の王統や皇統なども、ろくに厳格な血脈を重んじられることもない代物であり、
全く以って皇帝や王侯自身が天道に適うことを企図してはいないことが確かとなっている。
インドでも祭祀階級と王族階級が分断されて、天道の追及は祭祀階級に委託されたりと、
人間が俗世の最高権力者たることと、天道の追及者たることが両立するということは
世界的にも稀有な事例となっており、辛うじて日本の天皇などが断続的に
その条件を満たしたり満たさなかったりする程度に止まっている。

その天皇も、極めて窮屈な生活を強いられるものだし、その他の日本やインドの神職なども、
浮世からは隔絶させられたような生活を(少なくとも本来は)要求されるものである。
人の身でありながら天道を志すことは尊いことであるし、世のため人のためになることでも
あるわけだが、今の汚濁にまみれた俗世の人間などが、あえて天道を好き好むことなども
ついぞない。むしろ、家も親も見失っての、個人主義の乱交状態に埋没することのほうを
良しとしている。それは天道はおろか、地道ですらない、一概に粗悪な方向を志す
餓鬼畜生の性分であるわけで、人間もまたその、普遍性からかけ離れた破綻状態
にこそ快楽を見出して堕落してしまいがちな生き物であるには違いないのである。

普遍的なものは普遍的なものであるが、それを志す者すら、実際の所は稀有なものである。
規則的な普遍性を帯びた天道を志さないのはもちろんのこと、混沌な中に百姓同士の村社会
を保って行く地道に適うことすら受け入れるとも限らない。限りある命しか持たない自分
個人の瑣末な栄華ばかりを追い求めて、子供一人残すことなく遊び散らかしの人生を終える
ようなこともあるわけだから、かえってそのような楽しみを好き好んでしまいやすい性向と
いうものもまた人間に備わっていることをわきまえた上で、さらにそれを上回る普遍性への
合致の楽しみに与ろうとする者こそが、天道を志し、地道に親しむ適格者ともなるであろう。

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174 2013/10/13(日) 19:54:34 ID:/hkJ/ULMVs:au
「景公、晏子の宅を更るを欲す。曰く、子の宅や市に近く、湫隘囂塵なり。以て居る可からず。諸れを
爽塏なる者に更むるを請わん。辞して曰く、君の先臣も容れり、臣以て之れを嗣ぐに足らずとするは、
臣に於いて侈れるなり。且つ小人の市に近く、朝夕の求むる所を得るは、小人の利なり。敢えて里旅を
煩わさんや。公笑いて曰く、子、市に近くして、貴賤を識れり。対えて曰く、既に之れを利とせり、
敢えて識らざらんや。公曰く、何を貴しとし何を賤しとするか。是こに於いて景公、刑を繁くして、
踊を鬻ぐ者有り、故に対えて曰く、踊は貴く屨は賤しと。既已に君に告げりて、故に叔向と与に語りて
之れを称せり。景公是の為めに刑を省く。君子曰く、仁人の言は、其の利博き哉。晏子は一言に而て
斉侯の刑を省く。詩に曰く、君子如し祉いせば、乱庶やかに已れ遄まんとは、其れ是れの謂いか」

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175 2013/10/13(日) 19:56:48 ID:/hkJ/ULMVs:au
「斉の景公が、重臣である晏嬰の自宅を新造することを案じた。『おまえの家は卑俗な市場に近い上に、
低地で狭く、喧騒としていていつも塵が舞い上がっているような状態ではないか。決して済むべきような
場所ではない。もっと爽やかな高地にでも移住してみてはどうかね』 晏嬰はその勧めを丁重に辞退
して言った。『今の私の居住地は先君とも縁の深い場所、臣下の身でこれを不足であるなどとするなら、
それはもはや驕りにも等しいことだと言えましょう。また、小人(晏嬰は短躯であったため自らをこう
謙称していたらしい)が市場に近い場所に住んで、朝晩に要り様なものを得るのは、小人としての利益に
適っているというものです。どうしてあえて大勢の人夫を動員する工事を行うような必要がありましょうか』
景公はこれを聞いて笑い、また言った。『おまえは市場の近くに住んでいるものだから、何が売れ筋で
何が売れ筋でないのかにも詳しかろう。』 晏嬰『市場のおかげで便利でいられているのですから、
どうして知らずにいるようなことがありましょうか』 景公『では、ぜひ売れ筋とそうでないものを
教えてくれ』 この頃、景公は人々への刑罰を厳酷化して、足切りの刑を頻繁に執り行っていたため、
義足を売る者が市場に多く群がっていた。そのため晏嬰は『義足が売れ筋で、靴が死に筋な模様です』
と答えた。景公に対してこう答えた後、晏嬰は晋の重臣叔向との会話でも同様なことを述べたりしたため、
景公もついには刑罰を行う回数を減らさざるを得なくなった。これについて君子(孔子)はこう評する。
『仁者の発言は、実に広くにわたって大利を及ぼすものだ。晏先生はたった一言で斉候の刑罰濫用を
中止させる功績を挙げた。詩経(小雅・巧言)に〈君子がもし善いことに熱心ならば、世相の乱れも
速やかに収まるだろう〉とあるのは、まさにこのことを言うのではなかろうか』(臣下として、あえて
喧騒で塵の舞うような劣悪環境に暮らし、小人の集う市場にも目を見張ることが礼に適うこととなる
と共に、実際に仁政を実現するような好材料ともなっている。『礼記』曲礼上第一にも『長者の前で
掃除をする時は塵が長者に被らないように注意し、塵取りも自分のほうに向けるようにする』とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)

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176 2013/10/14(月) 15:14:58 ID:g0Vyu1qB3Q
侮ることが破滅に繋がる神仏というのも実際にあるが、だからといって神仏が脅しをかけてくるような
こともない。侮っても侮ってもろくに罰を加えてくる気配も見せないようなままで、気づいた頃には
すでに逃れようのない破滅に見舞われていたりするのが、本物の天罰や仏罰というものである。

それは、人間が攻撃的な姿勢によって模倣できるようなものでも決してない、せいぜいできる限り消極的
な姿勢を貫く中に多少漸近できるような所があるぐらいのものである。それはちょうど、合気道家が
自らは全く攻撃を仕掛けない姿勢でいながら、相手が攻撃を仕掛けてくるや否や、その攻撃力を利用して
相手を自滅状態に追い込むようなもので、そのような修練を積んでいる合気道家が柔和な態度でいる
ようにして、天罰や仏罰を加えて来る神仏もまた、しごく柔和な態度姿勢のままでいるものである。

本当に罰を加えて来るような神仏こそは、普段は柔和なお姿のままで居られるという普遍法則があるから、
そのような「畏るべき神仏」を畏怖することもまた、そこまで怯えきったような態度と共にであるような
必要もない。地蔵菩薩こそは閻魔大王に化身して地獄の亡者を容赦ない裁きにかけるものとされているが、
だからといって道端のお地蔵さんを冷や汗をかくような恐怖感と共に拝んでいるような人間も居はしない。
一方で、地蔵の石仏を損壊したり窃盗したりする程にも心が荒んでいるような人間は確かに、地獄に落ちる
程にも精神面と現実面の両面において追い詰められていることが間違いない。普段は何気なく親しんで
いるような神仏こそは、免れようのない自業自得の破滅をもたらすこと、斯くの如くであるといえる。

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177 2013/10/14(月) 15:20:03 ID:g0Vyu1qB3Q
そのような、本物の神仏による罰こそは決して免れられない一方で、神罰に見立てた人為の破壊行為などは、
免れようと思えば結構、免れられるものである。先のイラクやアフガニスタンにおけるアメリカによる
侵略戦争などは、かつての十字軍遠征にも見立てた「聖戦」の体裁をも帯びていたわけだが、だから
といってイラクやアフガンの武装勢力を根絶やしにできたわけでもない。僻地や地下に逃げ込んでの
余力の温存を続けるような余地をも現地人に与えてしまったわけだから、人間が神罰に見立てて行う
ような破壊行為たるや、目の粗いざるで砂を掬うにも等しい疎かさであることが明らかだといえる。

罰を下すはずの相手をざる状態で見逃してしまう上に、ろくな恐怖心を相手に抱かせることもない。
無差別核攻撃でアメリカが日本を降伏させた際にも、日本はただこれ以上の闘争が人類の滅亡にすら直結
しかねないからこそ降伏を決意したまでで、決してアメリカを畏怖したから降伏したのでもない。だから
こそ占領軍の総司令官だったマッカーサーも、吉田茂や白洲次郎に大上段の態度で応対されたり、ザリガニ
の異名に自らの名前を勝手に使われたりするなどの舐めた処遇に見舞われた。結局、人為の破壊行為を象徴
するような神を畏怖するのは信者たちばかりである上に、その神による罰であるとする破壊行為がろくに
その目的を達成することもできないという、無様極まりない事態ばかりを招くこととなるのである。

絶対に不可避なる自業自得の破滅を招きかねないような神仏こそは、さほど恐怖感を抱いたりすることも
なく信敬していられる一方で、脆弱な人為の破壊行為を象徴するような架空神こそは、信者たちばかりが
旺盛な恐怖感と共に信じ込んでいるという法則がある。その恐怖感を以て、神の実在を強弁する気概ともして
いたりするわけだが、もちろんそれも自己満足の域を出るものではない。さして恐怖するような必要もない
柔和な神仏こそが、絶対に免れようのない大罰を下し得るということは、一種の陰陽法則でもあるわけなので、
真に尊ぶべき神仏を尊ぶためにこそ、陰陽法則への普遍真理としてのわきまえが必要になるのだとも言える。

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178 2013/10/14(月) 15:24:11 ID:yDBjTeWdOs:au
「恐懼する所有れば、則ち其の正しきを得ず」
「心が恐怖に囚われているようでは、正しいものは見えない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・七より)

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179 2013/10/15(火) 17:30:52 ID:QodIxLKM0c
真正聖書——四書五経中のどの言葉一つ取っても、何時如何なる場合においても絶対に通用すると
いえるほどもの完璧な普遍性を持った言葉というのは存在しない。それは、四書五経の中でも最原初の
叩き台的な役割を帯びている「易経」からして、千変万化な真理を曖昧な言葉で漠然と把握した代物と
なっていることからも、避けられなかったことだと言える。

ただ、その曖昧さこそが、有機的な真理を「当たらずとも遠からず」な範囲で捉えた道理としての意味合い
をも帯びているわけで、四書五経以上にも厳密な言葉で真理を捉えようとすれば、仏典や物理学書ほどにも
難解至極な表現と化してしまうといった弊害をも生じさせてしまうわけだから、曖昧な言葉で表現する
ことを通じて、真理に漸近する道理を誰にでも理解できる程度の平易な形式で把捉している所こそは、
四書五経が万人に尊ばれて然るべき聖書としての資格を備えている最たる根拠でもあるといえる。

四書五経並みかそれ以上に平易な言葉で真理を断定しようとしたりすれば、確実に誤謬と化してしまう。
それは、真理がそのような安易な手法によって捉えきれるほど生易しい代物ではないからであり、
そこに全てを還元してしまおうとするような人間自身の怠慢を決して許さないものだからだと言える。

真理もそれなりに理解することはできるし、厳しい精進修行の末に悟ることだってできなくはないが、
それは誰にでも容易く可能となるようなことでもないこともまた確かなことである。だから、真理そのもの
を把捉しているとまでは言えないような四書五経の平易な言葉を通じて、漠然と真理を察し、真理に近からず
とも遠からぬ道理を守って行くぐらいまでが、生業もある大半の俗人にとっての最善策になると言える。

そのような「分のわきまえ」を逸してしまっている所でこそ、真理や道理への無理解と、完全誤謬
への邁進が深刻化して行くこととなる。ろくな理解力の養生もないままに、しごく平易な言葉だけで
真理すらをも理解してやろうとするような怠慢こそは、真理も道理も理解できないと自らを恥じること
以上にも、鹿を馬と呼ばわるが如き完全誤謬を掘り下げて行く要因とも化してしまうのである。

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180 2013/10/15(火) 17:33:22 ID:QodIxLKM0c
誰にでも理解できるような平易さと、真理そのものの把捉すらをも両立させてしまおうとするような
怠慢に人々が陥ってしまった結果、本当に真理を把捉したり、道理を守ったりして行くことが蔑ろに
されて行くこととなる。それらはいずれも、平易な口先だけで真理すらをも理解してしまおうと
するような志向性と位相から相容れない姿勢であるわけだから、相容れないものが人気を
得た結果、自分たちの側が支持を失うということに当然のこととしてなる。

真理なんてなかなか理解できないのは、誰しもが真理を理解するための着実な努力を積んで
いるような時代においても変わりないことであるわけだから、そこはまだ義務性までをも
帯びることではないといえる。問題は、平易な言葉で真理すらをも分かった気になる怠慢が、
平易な言葉で道理ぐらいは守っておこうとする最低限の誠実さをも損なわしめてしまう所にこそある。

四書五経に書かれてある程度の当たり前な道理すらをも疎かにすれば、確実に世の中も破滅に向かう。
それは決して真理そのもの程にも普遍的なものではないわけだが、概ねの所ぐらいはその記述に従うので
なければ、国や国際社会が崩壊するほどもの危険性を秘めた「統計的な正しさ」ぐらいは帯びているもので
あるわけだから、真理を騙る平易な戯言で四書五経の教えすらをも全くの蔑ろにしてしまうような
所にこそ、人類にとっての致命傷とすらなりかねない程の落とし穴があるのだといえる。

四書五経は「学ぶもの」とされている一方、犯罪聖書なぞは「信じるもの」とされているものだから、
両者の受容を並列に捉えて考察する人間もあまり居はしないが、ところがどっこい、四書五経を学ぶ
以上は犯罪聖書を信じることなどはできないし、犯罪聖書を信じている以上は四書五経から何かを
学ぶことなど決してできないという相反法則が厳然としてある。犯罪聖書を総出で信じた結果として
四書五経から何も学ぶことができなくなり、以て破滅へと向かわざるを得なくなった今の世界を
建て直すためにも当然、犯罪聖書が信じられなくなるのを引き換えにした四書五経の受容が必要となる。

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181 2013/10/15(火) 17:37:03 ID:p9p7ngflQY:au
犯罪聖書の人類による受容もすでに2000年の長きに渡っているが、
四書五経の受容の歴史はそれを遥かに上回ってもいる。歴史意識の高さによって、
四書五経以上にも犯罪聖書のほうを優先したりする道理もまた、ありはしないのである。

「永遠に天威を念い、我が民に越いて尤違罔からしめざらんや」
「永遠に天の威光を思いつつ、わが民たちが過ちを犯さぬように取り計らおうではないか。
(これが『永遠』という言葉の原典。永遠の命を欲するような思い上がりではなく、
永遠の勧善懲悪を志す高潔さを示すためにこそ、『永遠』という言葉も作られたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君奭より)

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182 2013/10/16(水) 13:32:01 ID:lXGGdQUBcw
人間にとって最良の国や世界は、あくまで人間たち
自身の自助努力があってこそ実現されて行くものである。

誰も彼もが他力本願の依存状態ばかりでいるのならば、
万年戦乱状態でいるアブラハム教圏か、浄土教が流行した
鎌倉期の日本ほどにも、荒廃した世相ばかりが招かれることとなる。

自力本位も他力本位もあるとした所で、自力本位の志しが他力本位への逃げ込みを
上回る度合いで世の中に受け入れられているぐらいであって初めて、世の中も並み以上
に良くなることがある。他力本位の浄土信仰もあるとした所で、自力本位の密教や禅や
法華信仰(法華経信仰とは異なる)のほうがより修習対象としての主体を占めていた
平安時代頃の日本こそは、死刑一つないほどにも治世の確立された時代となっていた。

晦渋で茫漠としている聖道門の仏教思想などは、それを信じるだけで信者を極楽浄土へと
導いてくれるようなものではない。精神的な部分では深くそれらの思想へと帰依する所が
あった上でなおのこと、行基や空海が行っていた土木事業のような、現実的な善行にも
精進することでこそ、自他を吉方へと導いてくれるものである。実際に善行を為すに
際しても、治水に取り組んでもなかなか洪水を堰きとめ切れないなどといったような、
多大なる困難が付きまとうものだから、並みの精神力や技量ではなかなか実績を挙げられ
もしないといったことがある。そのような場合に、挑戦者たちの着実な心の支えになって
くれるのが聖道門の仏教教義であったりするわけで、そのような目的での帰依によって
自力作善に取り組むことで勝ち得られた治世こそは「清浄な仏国土」ともなるわけである。

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183 2013/10/16(水) 13:34:36 ID:lXGGdQUBcw
自力作善によって勝ち得られたよりよい世の中において、自分たちが心の拠り所として
来た神仏を崇め祭ることで、泰平の世の長久を願うということもある。たとえば、家康公
のような並外れた偉人の自助努力によって実現された泰平の江戸社会が、本人の死後にも
同様な力量の持ち主によって全くの自力で保たれ続けて行くとも限らなかった。だから
東照宮や浄土宗への帰依を通じて、徳川幕府の後継者たちにも、自力他力の両面で最善を
尽くさせることを企図したわけである。結果、あまり冴えないような将軍や幕閣によって
世の中が若干傾けられたりもした一方で、徳川吉宗や松平定信のような名為政者によって
それが立て直されたりもするといった一進一退のうねりを伴いながら、結局自壊までは
来たすことなく、250年の長きにわたる治世を維持し続けて行くことができたのである。

どうしても自力作善が覚束ない場合に、仕方なく他力本願の信教に帰依するとして、その
帰依対象が、信者に消極性を尊ばせるものであるのなら無害である一方、依存状態での
積極性などを喚起するものであったりするのなら有害となる。無能だったり馬鹿だったり
するような人間がやたらと行動的である所でこそ、人と世とを損なう害悪もまた積み重ね
られてしまうものであるわけだから、そのような人間こそは消極的な性向の持ち主である
べきだと言え、他力本願の信教がその上で役立つというのであれば、それも用いればよい。

そのような形で他力信仰が世の中のために役立つこともあるが、残念ながら現状においては、
信者が無能や馬鹿である中に行動を積極化させて行くための道具として他力信仰が利用されて
しまっている頻度のほうが高い。ユダヤ=キリスト両聖書信仰こそはまさにその代表格で
あるし、イスラム教や浄土教もまた、戒律主義や悪人正機のような消極化を促す教義材料を
持ちながらも、原理主義的な勢力によって蛮行を正当化するために悪用されてしまっている
場合がある。(浄土教が原理主義化したのは戦国時代のことで、今はすでに沈静化しているが)

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184 2013/10/16(水) 13:37:46 ID:GCySbEPqJY:au
自力本位は積極的たり、他力本位は消極的たることで、我と人と世との三方が確実に益を得る。
結局それは、「男は積極的、女は消極的であれ」という陰陽法則にも根ざした夫唱婦随の
教理などにも合致することとなるわけで、ここでもまた、陰陽思想の真理法則としての
無謬性が頭角を現していることが分かる。現状の世界で、信教全般に対してまで夫唱婦随的
発想の適用が試みられた試しもないが、それすらもが試みられることでこそ、他力本願の
積極志向が信教によってまで正当化された結果、大災厄を招いてしまっている今の世界の
主要な問題が解消されて行くことともなるのが間違いないといえる。

「能く礼譲を以て国を為めれば、何をか有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何せん」
「よく礼儀と辞譲の心を持って国を治めれば、何の問題が起ころうか。礼儀と辞譲によって国を
治められなければ、(暴君や邪神に対するような真心を欠いた)拝礼だけがあっても、どうしよう
もあるまい。(所詮、国は人間が治めて行くものなのだから、人間同士での譲り合いの心を
尊んでいくようにするのでなければ、うまく行くものも立ち行かなくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一三より

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185 2013/10/17(木) 15:06:10 ID:yyCgomBWsc
自力作善の聖道門思想の王道である華厳思想においてこそ(法華思想は華厳
思想の簡約版だし、密教は実践主義なので、純粋な思想という点では華厳に譲る)、
尽十方が光に照らされるほどもの功徳の回向が期待されるとする。一方で、
他力本願の浄土思想は「西方浄土」の光明ばかりが尊ばれて、その西方の果ての
浄土と自分たちとの間にも、著しい水火の苦難が待ち受けているものとする。

実際、他力本願であろうとする心の怠惰が、尽十方中九方の暗闇と、
唯一の光明が差す西方における水火の苦難をも自業自得でもたらしてしまう。

日没する西方へ逃げ込みたがる陰鬱な性分と、聖書信仰による徹底的な他力本願志向
を持ち越してきている西洋人こそは、西方以外へ赴けば多大なる害悪を自他にもたらし、
西方の際であるアメリカにおいても、財政破綻やその他の危難に苛まれている。

心からの自力精進と引き換えに境遇から最善のものとして行くか、心理的な怠惰に
よって境遇の悪化を招いてしまうかが、自力作善と他力本願の内外における相反点で
あるといえ、けっきょく労苦を費やす度合いでは、他力本願のほうが自力作善を
上回ってしまうようなことにすらなる。だからこそ、他力本願のせいで多大なる
苦難に見舞われている者が、自力本位のおかげで始めからさしたる苦労をしなくて
済んでいるような相手を「大した苦労も知らない世間知らず」として蔑んだり
することすらもがあるわけだが、それこそ全くの言いがかりであり、自分自身の
精神的な怠惰による自業自得で招いてしまっている労苦などを鼻にかけたりする
ことこそは、身の程知らずの思い上がりの発露にも程がある所業であると言える。

しかも、他力本願志向故の心の怠惰のせいでの自業自得の苦難をどうにか
乗り越えて行くことを以ってして「健全な労働者の姿」であるとすらし、
そのような者こそは天国に召されるものとしたりする。当然これも怠慢まみれの
思い込みであるわけで、むしろそのような自業自得の苦難に心から喘いでいる
ことでこそ、他力本願者としての志しも貫徹されるものであるといえる。

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186 2013/10/17(木) 15:08:17 ID:yyCgomBWsc
むしろ、苦しみたければ他力本願でいればよく、苦しみたくなければ自力本位で
あればよい。苦しむからといって他力本願のほうが偉いなどということもなく、
むしろマゾヒストとして卑しまれ通す。それでもいいというものだけが他力本願で
あるようにするなら、他力本願でいるものなどは世界の十分の一以下の人数に
止まるようになるに違いない。しかし、実際にはそのような取り決めが通ることもなく、
むしろ楽したいからこそ他力本願に走るようなものばかりが多発し、その結果として
害悪を撒き散らすような他力の徒が膨大な数に上ることともなってしまっている。

苦しみたくて他力本願でいようが、苦しみたくないから他力本願でいようが、
結局のところ、他力本願の徒こそが最大級に苦しむことには変わりない。そこは
金剛不壊の真理法則であるわけだから、まずそれをわきまえられる程度の知識力が
あるに越したことはない。そしてそのような知力が妄信をも十分に抑制できるように
なればよく、それだけで、苦しみたくないがゆえに他力本願に走った結果、
より苦しみながら自他に害悪を撒き散らしてしまうようなこともなくなる。

ただでさえ、人間はその半数以上が、大人の男に頼らないではやって行くことも
できない女子供であるわけだから、大人の男までもが他力本願に陥ったりしてしまう
のはなるべく避けるべきことだといえる。国を挙げて他力本願の信仰を全国民に
あてがっているような国が数十億人規模で存在している今という時代こそは、
人類史上でも最大級に不健全な時代であるに違いなく、人類が揃いも揃って精神的に
メス化してしまった異常事態であるといえる。他力本願も他力本願なりに無害なぐらい
ではいられるとしたって、決して大益をもたらしたりまでするような代物ではない
ことを誰しもがわきまえて、他力本願の信教の取り扱いをも正して行くべきだといえる。

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187 2013/10/17(木) 18:58:21 ID:yyCgomBWsc
「人は其れ、天地の徳、陰陽の交わり、鬼神の会、
五行の秀気なり。〜人は天地の心なり。〜故に聖人も則を作すに必ず
天地を以って本と為し、陰陽を以って端と為し、四時を以って柄と為す」
「人間と言う生き物は、自分たち自身が天地の徳たり、陰陽の交わりたり、鬼神の和合たり、
五行の秀気たるものである。人はまさに天地の心そのものたるわけだから、聖人もまたその
人間を司る規則を定むる上では天地を根本とし、陰陽を両端とし、四季の移り変わりを指針と
して行くようにするのである。(天や陽だけでなく、地や陰や天地陰陽の移り変わりの映し鏡
でこそある人間という生き物の性分に合わせてその言動規範をも正してやって行くのでなければ、
人間社会も乱れるばかりとなる。当然、そうなることをあえて目指したりすべきでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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188 2013/10/18(金) 14:39:13 ID:ERfPjdc2q.
何も、そればかりが健常者と異常者の境界線となるわけではないが、キリスト信仰を心情的に受け入れ
られるかどうかもまた、本人の精神状態の可否を分かつ決定的な境界線の最たるものとなっている。

バラバによって悲惨な目に遭わされた強盗殺人被害者の心情を察したならば、誰しもがバラバこそは
死刑に処されて然るべきだと考えるものなのに、イエスたるや、そのバラバの代わりに進んで死刑となり、
しかも三日後に蘇って天国に召されたというのだから、バラバの被害者からすればたまったもんではない。

ただでさえ憎き加害者が無罪放免となったことが許せないというのに、さらには、代わりに死刑になった
どこぞやの馬の骨までもが生き返って昇天したというのだから、これはもう怒りの極みという他ない。

当然、バラバこそは処刑されるべきであるし、バラバの代わりに死刑になったとされるイエスなぞも、
そのおかげで天に召されたりするよりは、むしろそのせいで地獄に堕ちるべきだといえる。バラバの被害者
の立場に立って考えてみれば、それぐらいのことはすぐ想像が付くものなのに、キリスト信者たるや、
その程度の想像も付かない。物事を多少多面的に見ることも、他人の立場に立って物事を考えてみることも
全くできない、あまりにも未熟な思考能力の持ち主であることが明らかであり、なおかつ、信仰によって
上記のようなイエスの所業を是とする所に精神状態が凝り固まってしまってもいるわけだから、
これはもう完全に精神異常者であることまでもが間違いないといえる。

他人の気持ちを推し量れなかったり、物事を多少多面的に見ることもできなかったりという、精神異常
の中でもとびきり有害な部類の精神異常こそを、キリスト信仰が信者に植え付ける。同様な精神状態を、
頑是ない子供が帯びていたりすることがあるものだから、「子供のような心の持ち主こそは我が信者と
なるにも相応しい」と、イエス本人までもが犯罪聖書中で述べているが、それにしたって、それは子供の
悪い側面であって、純真だったり無邪気だったりする子供の良い側面とはまた別のものである。物事を多面

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189 2013/10/18(金) 14:43:12 ID:ERfPjdc2q.
的に見ることもできなかったり、他人の気持ちを慮れなかったりする児童特有の悪い性格を脱却することで、
人もまた立派な大人へと成長して行くことができるというのに、そのような子供の悪い部分を持ち越した
ままで大人になったりすれば、ただのダメな大人になるだけである。完全にそのような大人のままでしか
居られないというのなら、それはもう悪性の精神障害者とすら見なされても仕方のないものですらある。

純真さや無邪気さといった、子供にも特有の良い性格は、キリスト信仰によって思慮の浅さや見識の狭さ
が植え付けられることを通じて、かえって損なわれることとなる。儒学や仏教のような、正義や浄心を尊ぶ
教学の体得に務めたならば、大人になってからも子供並みやそれ以上の純真無垢さを保てたりすることがあるが、
キリスト信仰によってそのような素養を大人が育んだりすることは決してできない。むしろ、世間の汚濁に
取り込まれ尽くして、それでもなおのこと偽善を嗜んでいられるような厚顔無恥さばかりが身に付くことと
なる。キリスト信者特有の思慮の浅さや見識の狭さこそは、罪悪の卑劣さへの理解を損なわしめるものだから、
罪を罪とも思わぬままに積み重ねてそれでよしとする腐った大人ばかりへと成り下がってしまうのである。

子供ならではの純真無垢さを大人になっても保っていられる人間こそは、聖賢とも呼ばれるべき立派な
大人である一方、子供が陥りやすい思慮の浅さや見識の狭さを大人になってまで持ち越しているような
人間こそは、最も卑しまれて然るべきろくでなしであるという法則がある。子供ならではの特性を完全に
捨て去るのでも全て持ち越すのでもなく、良い特性を保ちつつ悪い特性から脱却して行くことでこそ、
人間もまた立派に成長して行けるのだといえる。教学でいえば、その助け船となってくれるのはむしろ
儒学や仏教であり、キリスト信仰はこの内に含まれない。キリスト信仰はむしろ、子供の悪い特性を
持ち越したままで、良い特性を捨て去ることを信者にけしかける類いの邪教であり、そのような
邪信に溺れた結果として、人はむしろ腐った大人へと堕してしまうのだと知らねばならない。

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190 2013/10/18(金) 15:16:50 ID:AgM/waJZso:au
「子曰く、回や、我れを助くる者には非ざるなり。吾が言に於いて説ばざる所無し」
「先生は言われた。『顔回は、私の助役となってくれるものではないようだ。私の
言葉をただ喜んで聞いているばかり(で、ろくに助言してくれることもないの)だから。
(この後、孔子は顔回が自分といない時に自主的でいるのを見て、顔回を見直したが、
ただただ喜んで自分に聞き従ってばかりいるよりは、むしろ率先して言い返したりする
ことで自分のほうを助けてくれるような弟子を孔子は欲していたのである。これこそは、
真に健全な主従関係であるといえ、ただ一方がもう一方の言うことを喜んで聞いている
ばかりで、それを専らな自らの救いにしてたりするのは、不健全な主従関係だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・四)

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191 2013/10/19(土) 16:17:35 ID:isHX2KJZms
朋友の関係はおろか、長幼の序すらもが、君臣父子夫婦の序列を重んずる三綱に尊さでは及ばない。

三綱の尊重こそは、「国家による家族単位での人口管理」という、現実的な社会秩序の維持手段
のための決定打ともなる。誰かれ構わず付き合って適当に子供を作ったりするような横並び状態は
もちろんのこと、学校や職場での年齢の長幼などに基づく上下関係ぐらいは重んじる場合にすら、
君臣父子夫婦全ての序列を重んじる場合ほどもの社会秩序の安定が期待できるものではない。

三綱の尊重こそは、世の中の安寧を長期的に保つ上での十分な根幹となると共に、そんな尊重意識など
持たないままでいる人間がこぞって羨むほどもの、人々の「睦み」を実現しもする。幕末から明治初期に
かけての日本人などは、石高制に基づく食い扶持の厳重な管理のせいもあって、総じて栄養不足気味で、
苛烈な植民地経営による富の収奪のおかげで体格までもが筋骨隆々となっていた欧米人などからすれば、
それはそれは貧弱な、子供のような体格の持ち主たちの群れに見えたに違いないわけだが、そうであっても、
人々がみな朱子学による教化を通じて三綱五常への尊重を嗜み、そのおかげでがさつな剣呑さを排した
優美な人間関係を築き上げていたことにも驚嘆させられざるを得なかったのである。故に、その頃に
日本国内の風俗を視察した欧米人なども、「我々にできることといえば、この清浄なる島社会に
救いがたい俗悪さを持ち込むことぐらいのものだ」と慨嘆を述べもしたのである。

その、「救いがたい俗悪さ」のために、人口爆発などのせいで世の中も破滅に向かう上に、人間社会が
実現し得る最大級の人々の睦みまでもが損なわれる。言い争いだの訴訟だので、常日頃から人々が気の
休まりようもないような殺伐とした人間関係に追われ、しかもそのストレスを解消するための横並びな
乱交によって家族関係をも蔑ろにし始める、結果、無計画な社会活動全般が原因となっての、人口爆発
などの破滅の危機を招いてしまうという、良い所などどこにもない悪循環に見舞われることとなるのである。

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192 2013/10/19(土) 16:21:06 ID:isHX2KJZms
親族夫婦の関係を大事にすべきだなどということは、誰でも多少はわきまえていることである。ただ、
そのわきまえが何物にも増して優先されるなどということもなかなかないことだし、大事にすべきだから
といって具体的にどうすればいいのかもよく分からないままでいたりするのが常である。家族も大事だけど、
仕事や友人関係のほうがより大事となったり、家族を大事にするからといって、ただバンバンと金を
つぎ込みすらすればそれでよしとしてしまったりする。そんなことでは到底、三綱を最優先の尊重対象と
して行く場合のような社会秩序の獲得も、優美な人々の睦み合いも期待できはしないわけで、三綱を何物にも
増して尊んで行くということも、なかなか個人レベルなどでは達成しきれないことであるのが確かとなっている。

結局、三綱の重んじが仕事の上での主要命題ともなる君子階級が、率先して君臣父子夫婦の序を重んじて
行くのでなければ、人々による三綱の尊重が十分となって、世の中が安寧へと導かれたりすることも
なかなか覚束ないものである。ただの百姓の倅だった頃の舜帝が、いくら親兄弟への孝養や親睦に励んだ
ところで、自分一人が生真面目でいることを邪険に扱われて、挙げ句には殺されそうにすらなった一方、
いざ舜が堯帝からの禅譲によって帝王となってみれば、さしたる政務も執り行わない内から世が治まったと
言われているように、やはり君子階級の人間こそが孝悌の手練れであることこそは、三綱の尊重が
世の中全体の安寧にすら寄与し始める上での「位相上の決定打」となることが間違いないのである。

当然、君子階級であるということは「人爵」の持ち主であるということであり、それは「天爵」の持ち主
であることなどと比べれば取るに足らないことだと孟子も述べている通りである。それは確かにその通り
なわけだが、三綱を尊重する素養の持ち主であるが故に天爵の持ち主でもあるといえるような人間が、
いざその天爵を世の中で有効化して行く場合に必要となるのが、適切な人爵の獲得となるわけである。
当然、天爵の廃棄と引き換えに押し付けられるような人爵であってはならず、そこは人爵を贈呈する
側のほうが細心の注意を払わねばならないところでもある。

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193 2013/10/19(土) 17:04:39 ID:r0HowCSSGg:au
「孰れをか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う(既出)」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、自分も
隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか。
(隣人ばかりを愛していたら、こんなろくでなしをまでも利することになってしまうわ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)

「夷子曰く、儒者の道うに、古の人は赤子を保んずるが如しと、此の言は何の謂いぞや。
之れ則ち愛に差等無しを以って親より始む可しと為すか。徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、
夫れ夷子は、人の其の兄の子を親しむことを以って、其の鄰りの赤子を親しむが如く為せと
信ずるか。彼は取ること有りて爾かるなり。赤子の匍匐して将に井に入らんこと、赤子の罪に
非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之れをして本を一に使む。而るに夷子は本を二とする故なり」
「『(墨家の)夷先生はこう言われていました。儒者の言葉に〈君子の天下を保つこと、赤子を
保護するが如し〉とある。これはどういう意味であろうか。そもそもが愛すべき対象に差別は
ないが、便宜として親から愛すべきであると儒者もまた考えているのではないか、と』
孟先生の弟子の徐辟が先生にそう述べた。孟先生は言われた。『夷之は、自分の兄の子に
親しむのと、隣りの他人の子に親しむのも平等にすべきだとでも考えているのだろうか?
夷之が揚げ足取りのために引き合いに出した儒者の言葉は、ただの喩えとしてそう述べたまで
のこと(で、現実上の実践行為である親への親愛とはまた別のもの)だ。赤子がハイハイ歩きで
井戸に落ちたとしても、それは赤子の罪ではな(く、保護を怠った親の罪である。君子が天下を
司る上でも、それほどもの責任意識を持って為政に取り組むべきだとしたまでのことである)。
天が万物を生じさせるに際して、その根本の部分は一としているのに、夷之は(親戚の子も
他人の隣人の子も平等に愛するなどという、)根本を二つ以上に分かつ愚行を企てている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・五より)

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194 2013/10/20(日) 12:47:29 ID:icxuorMdzM
浄土信仰なぞは、自分たちが善行一つ覚束ない凡夫でいて、なおかつそうであるままに極楽浄土
への往生を欣求するものであるわけだから、信者の積極的な行動などを促すものでもありはしない。
戦国時代の一向一揆なども、乱世故の経済的疲弊に苛まれた百姓たちが、止むに止まれず念仏信仰を
旗印とした反乱を企てたというばかりのものであるわけだから、決して地球の裏側くんだりにまで
侵略の魔の手を拡げて来たキリシタンのような積極性までもが伴っていたものではないといえる。

百姓身分から足軽に転向して、己れの能力一つで天下取りにまで上り詰めた豊臣秀吉といえども、
天下統一後には巨万の富をはたいての遊興三昧、千利休も眉をひそめる総金張りの茶室に、聚楽第
での乱交三昧と、能力だけが取り柄である成り上がり者ならではの徳のなさを大いに披露してしまった。
それは、成金風情の元卑人などには往々にしてありがちな末路であり、漢の劉邦のように成り上がりの
立場でありながら旺盛な仁徳をも湛えていたりすることのほうが極めて稀なこととなっている。

百姓身分が能力もないままに救済だけを求めていれば一向一揆のようになるし、能力があってのし上がった
としても秀吉のような末路を辿ることになりかねない。被支配層として乱世の荒廃に苛まれ続けていた
悲哀たるや察するに余りあるものであるが、だからといって上二つのようなあり方で救いや成功をかち取る
ようなことは、大手を振って奨励されるべきようなことにまでなるものでもない。人間社会の上下関係も
完全にまでは払拭できないものである上に、真っ当な序列であればむしろ尊重されて然るべきものであり、
百姓が天下取り級の成り上がりを実現してそれでよしとされるのも、権力機構や世の中が完全に腐敗
しきっていて、なおかつ天下取りとなる匹夫が舜帝や高祖劉邦ばりの威徳を湛えている場合に限るといえる。

身分上から他力本願であらざるを得ないような小人が、成り上がったり救済されたりするための行動を
起こしてもよしとされる条件たるや、これ程にも狭く限られた範囲となっている。狂人の積極的な盲動を促す
キリシタンはおろか、秀吉や一向一揆のような形での匹夫からの栄達すらもが、奨励されるに値するものでまではない。

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195 2013/10/20(日) 12:50:16 ID:icxuorMdzM
「百姓小人である以上は絶対に大人しくしてろ」とまでは行かないが、少なくとも大人しくしてたほうが
まだマシである場合のほうが大半なのも事実である。それは別に、自らに能力がないからとも限らない、
能力以上にも大切な徳分や天運が欠けている可能性が高いからである。それは、百姓や小人といった低い
立場である以上は避けられないことであり、そうであってなお、舜や劉邦のごとき天爵を戴くような
ことなどは、数千年に一度ぐらいしか期待できないことでもあるからである。

実際に、百姓や町人の身分でありながら、君子階級のように厳格な血筋の継承を保って来ているなどと
言うこともありはしない。そのような下層身分の内では最富裕にあたる庄屋や豪商すらもが、自分たちの
都合で全く適当に家督を他人へと譲り渡したりして来ているものなのだから、そこは君子階級と比べて
小人の至らなかった部分であるといえる。他にも、君子ならではの威厳などが決して備わり得ないような
生活を送って来ていたりするわけだから、下手に君子を志したりすることも愈々憚られることとなるわけである。

そんな中で、百姓だてらに天爵を受けて天下取りになる正当な資格までをも得た者がいたとしたところで、
そうである本人もまた、決して積極的にのし上がろうとまですべきではない。そのような機縁に与れるような
人間からして甚だ稀有だというのに、誰も彼もがそのような人間の猿真似をして成り上がりを企てようなどと
したなら、芥川の「蜘蛛の糸」の如く、みんなで地獄へとまっ逆さまということにすらなりかねないものだから、
どこにも他に成り手がいないような中で、止むに止まれず仕方なく天下取りとなるというぐらいの体裁を取る
のでなければならぬ。それは、偽善混じりの修辞などでも何でもない、天下取りの資格を持つ匹夫にとっての、
絶対不可避の責務であるとすら言えるわけだから、ただ上辺だけで辞退を心がけたりするのではなく、周りが
万全の準備を整えるのでもなければ、死をも覚悟の上で全力で断り通すぐらいのものでなければならない。
そのあたりが格式ばり過ぎて上辺だけと化してしまっていたものだから、幾多の放伐革命をも繰り返す
こととなってしまった、中国の王朝史なども反面教師として捉えるようにして。

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196 2013/10/20(日) 13:25:40 ID:viJ2OUXJb2:au
「堯舜は性なる者なり。湯武は之れに反るものなり。動容周旋礼に中るは、盛徳の至りなり」
「堯帝や舜帝は、心の赴くままでいても行いが礼に外れることがなかった。湯王や武王は、
自分たちから意識的に礼節に復ることでそれを維持した。行動や容貌や立ち居振る舞いが
礼節に適っていることこそは、盛徳の至りであるといえる。(湯王や武王すらもが意識的に
礼節を守ることで初めてそれを維持できたというのだから、我ら匹夫風情が礼節への
意識もないままに、思うが侭に妄動を来たしていたりしていいはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)

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197 2013/10/21(月) 13:12:31 ID:IeKQCj5hqs
「西洋人には、人文思想にゼロやマイナスの理念を導入する発想が全く欠けている」
とは、以前にも述べたことである。近代以降には高等数学の主導者とすらなって来た
(近世にはまだ、和算などの東洋算術が西洋数学を品質面で上回っている面があった)
西洋人こそは未だに、東洋人が2500年以上昔の太古から育んできている、ゼロやマイナス
に相当する理念の思想哲学への応用というものを、全く理解することができないままでいる。

プラスとマイナスに相当する理念を人文に応用することにかけては易学が、
ゼロに相当する理念を人文に応用することにかけては仏教や道家が主な主導者となって来た。
易学の陰陽思想などは、算術が最原初の古代文明を構築し始めるのとほぼ同時に提唱された
ぐらいに年季の古いもので、しかもそこで線形代数や複素指数関数によってでもなければ
説明しきれないほどの高等な直観的数理哲学構造が把捉されて来てもいる。それは確かに、
伏羲や神農の如き伝説上の超人によってでもなければ成し得なかったことであったかも知れない
わけだが、それにしたって、その哲学的成果を演繹してみれば、しごく簡単なものである。

「何もしないでいるよりは善いことをしたほうがいいが、
悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがいい」

この程度の簡素な倫理判断にすら、プラスマイナスやゼロに相当する理念を込める事ができて、
数理的に考えれば、そこから普遍的な善悪の分別を利かせて行けるようにもなる。ただ理数的
にものを考えるだけで善悪の分別なんか誰にでも付けられるものなのに、西洋人などはそれを
完全に怠って来ているものだから、自分たちでろくに自主的な分別を付けることもできない。
善悪といえば形而上の神様の采配によるものでいて、それに沿った行動を自分たちも心がけ続け
ていかなければならないなどという、奴隷同然の思考回路を全員が持ち越したままと来ている。

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198 2013/10/21(月) 13:18:07 ID:IeKQCj5hqs
プラスマイナスやゼロといった理念を導入する算術の起源も、それなりに古い。
数理的に厳密な定義を与えたのは約1600前のインド人だが、それ以前から零に相当
するような概念を、算術の道具として人々が多様して来ていることにも違いがない。

金勘定一つとっても、足し算引き算その他があって初めてそれが可能となるわけだから、
商人によって構築される都市文明の発展と、プラスマイナスを取り扱う算術の発展も完全に
不可分なものであることが間違いない。ただ、そのような算術の導入と、思想哲学の発展とを
厳密に連携させて来たのが東洋文化であるというまでのことで、だからこそ、東洋文化は
間違いのない勘定のように、人間社会を経済的な安定へと導いて行くことができる。一方で、
足し算引き算のような最原初の算術の導入の頃から、理数系と人文系を大きく乖離させつつ
独自の文化を発展させて来たのが西洋であるわけだから、いざ自分たちの文化を社会運営に
適用してみれば、イカサマまみれの詐欺商法で世の中を引っ掻き回すようにして、世の中のほう
もまた経済破綻やそれが原因での戦争などの破滅に見舞われることとなってしまうのである。

人文的発想は、婦女子を喜ばせて誑かすような不純な目的のためばかりに構築され、
理数的発想もまた、ユダヤ商人の如き詐欺商法による富の収奪のためばかりに構築されて来た。
結果、初等的な算数を人文的発想に導入するだけでも分かるような、最低限の善悪の分別や、
それに基づく着実な善行や、悪行の戒めも全く覚束なくなってしまった。三千年にわたって
構築して来た膨大な分量の人文的理数的産物が、ただ文理の統合を欠いていたというだけの
理由で一切合財、世のため人のためには全くの無用の長物のままとなってしまったこともまた、
「始めに毛筋程もの過ちを犯していれば、後々に千里の過ちとなる」という易を解説する言葉
の法則に完全に合致したものとなっている。近代以降に爆発的な勢いで発展して来た西洋文化
といえども、結局はその全てが、文理一致の東洋文化の掌中で弄ばれる範囲のものでしか
あり得なかったわけだからこそ、両者の雌雄も決したものだといえる。

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199 2013/10/21(月) 13:23:26 ID:FYJQapGpvM:au
「神の弔れる、爾じに多福を詒らんと。
民も之れ質らぎ、日に用て飲食す。群黍百姓、徧く爾じの徳を為す」
「神も来たれるや、君子たる汝に多福を賜ろうとしている。民たちもそれによって、日日の飲食から
安らげるようになる。百姓やその他の群衆たちも、みな漏れなく汝の徳に従って物事を執り行うから。
(真の天命を下す天神は、当人自身の威徳の如何によって相手を選ぶ。その相手の威徳を通じて、人々も
また善行を為せるようになるのだから、まず第一に万人の多動をけしかけたりするのは健全でないといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・天保より)

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200 2013/10/22(火) 12:56:06 ID:biL2lcyVmE
正しい人間には正しい人間なりの進むべき道があり、罪人や病人にもまた導かれるべき道がある。とはいえ、
それが決して思慮の浅さや見識の狭さを助長させる道などであっていいはずがなく、そのような道を逆走
させて健全な精神を取り戻させてやることこそは、罪人や病人にもあてがわれて然るべき道であるに違いない。

犯罪被害者の気持ちも慮れないような思慮の浅さや見識の狭さが一定以上に深刻化してしまえば、
そこで人間は心理的にハイになってしまいがちなものである。正しい道を踏み外して獣道を邁進し
始めていることを、本性こそが善である人間である以上は本能的に察せざるを得ない。だから、
無理にでも開き直ってハイとなることで、自らの良心の呵責を紛らわそうとしてしまうのである。

その空元気だけを懲罰などによって無理に取っ払ったならば、人並み以上の鬱状態に見舞われて
しまうに違いない。それこそは、罪悪の増長に相応な負の感傷が結実する、正順な因果応報が確立
された状態だと言えるわけで、まずそこに本人の精神状態を落ち着けるのでなければ、罪人や悪性の
精神障害者が獣道から正道へと立ち戻ることもまた、決して進捗することがないのである。

道を踏み外した悪人ならではのハイ状態とはまた別のものとして、天下を統べる君子としての醅悌だとか、
悟りを拓いた修行者故の愉楽だとかもまたある。これらこそは、着実に正道を歩んで来た人々ならではの
善因楽果の楽しみであり、悪人の苦し紛れのハイ状態などと違って、これこそは万人が追い求めて行くべき
楽しみでもあると言える。ただ、そのような楽しみこそは、始めは暗中模索の努力を積み重ねて行くので
なければ克ち得られるものではないし、特に道を踏み外してしまっているような愚人からすれば、
そんな楽しみなど本当に実在するのかどうかすらもが甚だ疑問に思われかねない程のものである。

返信する

201 2013/10/22(火) 12:58:41 ID:biL2lcyVmE
それで結局、悪人や愚人は、自分たちが正道に引き戻されることを「陰鬱な暗闇への埋没」か何かのように
しか考えられないままに終わる。常人が君子や大悟者としての健全な楽しみを志す場合にすら、始めは暗闘
状態の努力を続けさせられるというのに、ただの真人間に立ち戻るための道程すらもが真っ暗闇の長い旅路
である自分たちなどが、なぜ真っ当な善因楽果の楽しみなどを期待していられるものか、となるわけである。

それで結局、善人以上にも悪人の救いにこそ重点を置く類いの正当な信教が、社会的な有用性をも帯びて来る。
悪人を導いてやるとしたって、連中に特有の思慮の浅さや見識の狭さを助長してやったりするのではなく、
あくまで正道に立ち返って真心を育んで行くことを助けてやる仏神のことである。そのような仏神が、
自分たちでも君子や仏者としての愉楽を志せるだけの品性の持ち主などではなく、正道への立ち返り一つ
自力では覚束ないような愚悪人のために光臨して下さるというのであれば、それが実際にそのレベルの
愚悪人が頻出してしまっているような世の中における、万人救済の要ともなることが間違いない。

悪人とすら断定する他ないような生粋の愚夫の、思慮の浅さや見識の狭さを正して人並みへと立ち直らせて
下さる神仏があるというのならば、それはそれで世の中にとっても有用であるに違いない。ただ、愚人や
悪人やサイコパス患者を主な信者とする上に、そのような信者たちの思慮の浅さや見識の狭さをさらに助長
するような邪神だけは、人と世と誰しもにとっての有害無益な無用物であることが間違いないだけである。

どうしてそのような、どこから見ても全くの無用であることが紛れもないような邪神への信仰が
禁じられたからといって、神仏への信仰全般が廃絶されねばならないなどということがあろうか?

神仏信仰が旧態依然と化しているからではなく、ある種の神への邪信だけが特定して限界を
来してしまっているからこそ、それだけはどうしても排さざるを得ないという現状への認識を
正確なものとするのでなければ、共産化に伴う宗教文化の廃絶によって、全人民の民度が禽獣も同然の
状態と化してしまった、中共の二の舞三の舞を来してしまったとしても全く仕方のないこととなるだろう。

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202 2013/10/22(火) 13:36:28 ID:ueAtmr8OW.:au
「孟子将に王に朝せんとす。王、人を使いして来たらしめて曰く、寡人就きて見んが
如くする者なるも、寒の疾有り。以て風にあたる可からず。将に朝に視えて朝すれば、
寡人をして見るを得ること識らざらんか。対えて曰く、不幸に而て疾有り。朝に造ること能わず。」」
「孟先生が斉の宣王に朝しようとした時、王のほうから先生に使いを寄越して言伝をした。
『私のほうから先生の所に赴いてお会いしたいのだが、あいにく私は風邪を引いてしまっていて、
外の風に当たることが許されていない。先生のほうから宮内に朝してくだされば、私も先生に
見えられるものとお考えいただきたい』 先生は答えて言われた。『私もあいにく病気ですので、
朝廷に上ることができません』(病気にかこつけて朝廷に呼び込もうとすることと、病人である
ことにかこつけて人の話を真面目に聞かないつもりでいることと、両方への制裁的な対応。
病人はそもそも、言葉によって人に教導されることすら覚束ないから病人なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)

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203 2013/10/23(水) 14:37:44 ID:GVTDfIwDdY
「これだけは許されぬ」という厳格さが保たれている所で初めて、偽善的でない真の平和が実現されもする。
何もかもを許容していれば、殺傷や強盗や詐欺の如き迷惑行為までもがまかり通ることになってしまうわけで、
それを万巻の法律で後付けで取り締まったりした所で、もはや人々が心の底から気の休まることも
ありはしない。自主的な善悪の分別を見失った人々は、ことあるごとに脱法行為での放逸を企て、
法律による締め付けが限界を来した結果としての社会破綻を招いてしまうことにすらなる。

よっぽど狂気に酔い痴れている人間でもない限りは、自分の身の回りを始めとした世の中が平和である
ことをまず第一に望むものではあるけれども。平和を維持するための義務すらをも共に果たして行こうとする
人間ともなれば、これは意外な程に少ない。現代においては、そのような人間が過半数に達しているか
どうかすらもが怪しい。無難を好む年寄りですらもが、世の中の富や社会的地位を自分たちばかりが独占
することで若者の疲弊を招き、このままでは社会保障制度の破綻を来してでも世の中を刷新するので
なければ済まなくなるような事態を招いている。そのあたり、年取ればさっさと隠居して慎ましやかな
生活を送っていた昔の年寄りなどにはなかった落ち度であるわけで、「最近の若いもんは」ならぬ
「最近の年寄りは」という不満が囁かれざるを得ない体たらくと化してしまっているのである。

最大級の自由や寛容と、平和維持との両立が可能であるなどという考えからして、幻想でしかない。
自由の中には「強盗殺人犯でも許される自由」すらもが含まれているわけだから、これは自明なことである。
仮にそのような迷惑行為だけは法律などで取り締まった所で、無制限の自由を希求する理念が是とされた
ままである以上は、強盗殺人すら許されるものなら冒してやろうとする連中が方々に居かねないわけだから、

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204 2013/10/23(水) 14:51:04 ID:GVTDfIwDdY
上にも書いたように、人々が心の底からの安寧に与れたりすることもありはしない。然れば、本当に平和を
実現しようと思うのであれば、無制限の自由を追い求めるような心持ちから捨てねばならない。強盗殺人の
ようなあからさまな迷惑行為は、たとえそれが法的に許されるものであるとした所で、決してそのような
真似を冒したりはすまいという堅い決意が、自分たちの心中に育まれて行くのでなければならない。

そのような決意を内に宿すことは、優しいか厳しいかでいえば紛れもなく厳しいことなわけで、もっと言えば
堅苦しいことである。未だ無制限の自由を追い求めているような人間からすれば、全身を雁字絡めにされる
程もの窮屈さすらをも想起しかねないわけだが、いざ自分自身がそのような不犯の決意を抱いてみたならば、
そこまで窮屈に感じたりはしないものである。むしろ、孟子が「浩然の気」と呼んだような清々しさを抱けたりも
するわけで、人間心理というものが構造上そういう風にできているということは与り知っておくべきことだといえる。

全体的にゆったりとした作りとなっている和服が、帯だけはしっかりと締める作りになっている一方、
スーツにしろカジュアルにしろ和服よりは身体の線に合わせた作りとなっている洋服のほうは、そこまで
しっかりと締め付けることを徹底している部位があるわけでもない。近ごろはゴム素材の多様で、スラックス
の腹回りすらもが自由に伸び縮みするようになっていたりもする。そのような何もかもにかけての緩慢さと、
締める所は締めて、ゆったりさせる所はゆったりさせる和服のような緩急のメリハリと、いずれのほうが
平和な世の中に比肩するものかといえば、後者のほうである。実際に日本の武士も、有事になれば袴の裾を
絞めたり、袴そのものを取っ払ったりしてことに臨んで来ている。それはそれで「剛克」という、洪範九疇
の理念にも沿ったあり方であるわけだが、平時ともなれば長袴に裃の如き、使い勝手が悪いほどにも
身体の線を逸脱した服装で、平和な世の中だからこそ克ち得た自由を表現しもしたのである。もちろん
そこでも、締め付けるべき所はしっかりと締め付ける嗜みも欠かさなかったわけで、無制限の自由ばかりを
追い求めるような人間には決して味わえないような、緩急の愉しみというものがそこにあったのだといえる。

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205 2013/10/23(水) 14:59:15 ID:sJAJGxQUZg:au
「子、温にして勵し、威ありて猛からず、恭しくして安し」
「孔先生は、温和でいながら厳しい所は厳しく、威厳がありながらも野蛮ではなく、
恭しくしながらいつも安らいでおられた。(まさに、厳しさに安んずるあり方だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三七)

最大級の自由と平和を共に追い求めたりするのは、まるで
鉢の底を割りながらそこに水を貯めようとするようなものか。

鉢を割ろうとする不埒さを許さぬ厳しさぐらいは、当然なければならぬ。

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206 2013/10/24(木) 14:19:39 ID:Mf.Ef9aKdk
何が正しいのか、何が間違っているのかも分からないような愚夫が、他力本願の下で為す行いすら、
正しいか間違いか知れたもんじゃない。自分が依存している相手が正しいから、自分の行いもまた
正しいなどという保証はどこにもなく、逆に依存相手の正しさにかまけて、自分のほうはより
堕落してしまっている可能性すらもが否めたものではない。

阿弥陀信仰あたりは、そうであることを大前提としているから、入信したものの信仰に基づく自己正当化
などを認めたりはしない。生きている限りにおいて愚鈍なままでしかいられない凡夫が、阿弥陀如来の
計らいによって極楽浄土へと往生するというまでのことで、しかもその極楽浄土すらもが、金銀財宝を
散りばめた俗物趣味の代物と来ている。そんな信仰が格好いいはずもないが、格好よくない所も含めて、
それこそが他力依存者にとっての純正な信仰形態となっていることもまた間違いない。信仰によって、
己れのあり方を正当化するようなことすらなく、ただ卑俗なままでの極楽往生をこいねがう程もの姿勢の
低さを貫いていればこそ、自力作善によって自他を正して行こうとする者の領分を侵したりすることもない。

他力依存の下での自分なりの自力作善というものだってあり得なくはないが、他力依存がそのまま
自らの善行に直結するなどということだけはあり得ない。そんなことがあり得るなどと考えること自体が、
怠慢に溺れた卑人の苦し紛れの発想でしかなく、倫理的にもそのようなことがあるべきだとすら言えない。
誰かに依存するような状態は、精神的にも安易に楽な状態であり、そのような状態ばかりでいれば精神も
へたってより怠慢を深刻化させてしまうようなことになる。にもかかわらず、それでこそ正しい行いが
できるようになるなどとしたならば、誰しもの怠慢が助長されてしまうばかりの事態となってしまう。
心中の怠慢を助長させながら、行いだけは正されるなど、上流で汚水を垂れ流し状態の川で、下流だけでの
浄化措置を試みるにも等しい所業であるわけだから、そんな不合理なあり方が是とされていいはずもない。

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207 2013/10/24(木) 14:25:07 ID:Mf.Ef9aKdk
「他力依存によってこそ善行が為せる」などという発想は、自力他力両面にかけての言行規範が豊富である
東洋社会においては決して認められることがなかった。東洋では最大級の他力信仰となった阿弥陀信仰もまた、
「善行なんか到底為せないけれど、それでも他力によって救われたい」という領分に止まった。一方、
西アジアのペルシャで提唱された拝火教において、「他力信仰に即して善行を為していく」という指針が
示され、さらに西方の精神文化不毛の地であるイスラエルやローマで、聖書信仰が提唱されたことでついに、
「他力信仰によってこそ善行が為せる」という所にまで発想が転倒してしまうこととなったのである。

「他力信仰に即して善行を為していく」という拝火教の指針は、イスラム教にも受け継がれ、信者たちに
厳格な戒律主義があてがわれることとなった。イスラム教の発祥は聖書信仰よりも数百年以上新しいが、
そのようなイスラム教のあり方こそは、聖書信仰のネタ元となった拝火教の信仰姿勢にも合致している。
それが奇異に思えたり、前近代的で受け入れ難く思えたりした所で、それこそが聖書信仰の先輩格の
他力信仰のあり方でもあるのに違いないわけだから、それを問題視するというのなら、聖書信仰を含む
他力信仰全般の存在性を問題視すべきだと言える。しかも、「他力信仰の下で善行を為していく」という
イスラム教や拝火教の姿勢は、「他力信仰によってこそ善行が為せる」という聖書信仰の主張などよりも
まだ常識的に考えて筋が通っているわけだから、イスラム教や拝火教が問題的であるというのなら、
それに輪をかけて問題的であるのが他でもない、聖書信仰であることをも自覚せねばならない。

「他力信仰によってこそ善行が為せる」などという転倒夢想が取り払われることで初めて、
善行にかけての「味噌糞の呪縛」をかけられていた諸々の自力本位の教学もまた息を吹き替えし、その
善根を世の中へと回向して行くことが可能ともなる。その内でも急先鋒となるのが他でもない儒学であり、
儒学の復興すら覚束ないままであれば、人類の滅亡すらもが免れられなくなるのが普遍法則ともなっている。

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208 2013/10/24(木) 15:23:48 ID:lCTxBx5QjE:au
「君子は徳性を尊んで学問に務め、広大な視野を得て精緻の限りを尽くし、高明を極めて中庸を保つ。
古き教えを尊ぶことで新しい教えを発見し、尊ぶべきものを篤く尊んで礼儀を崇高なものとする。
そのため高い身分にあっても驕らず、低い身分にあっても背かず、よく治まった国であれば発言一つで
興隆させるほどもの威徳を発揮し、治まっていない国でも沈黙だけでことを鎮めるだけの威厳を発揮する。
(真っ当な自己研鑽に務めていれば、人の上に立つ身分となっても誇り高ぶったりしないでいられるし、
発言一つや無為の沈黙だけでも世を治めるに足るだけの威徳を放つ。誰かへの服従によって誇り高ぶりを
抑えるのも、ただただ多動を心がけるのも、これと比べれば低劣極まりないことだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二七より)

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209 2013/10/25(金) 11:31:42 ID:XHbFyPy9zY
人事を尽くして天命を待つ者の望みこそは、倫理的にも叶えられて然るべきものであるといえる一方、
別に自分自身が最善を尽くしているのでもなかったり、逆に好き好んで過ちを犯していたりするような
者の望みなどは、全く叶えられて然るべきものであるとは言えない。それは、上にも述べた通り、
そのような連中の望みを叶えてやったりすることが、本人たち自身の怠慢を助長するようなことに
すらなりかねないからであり、人々が度しがたい怠慢を心中に抱いているような状態では、たとえ
平和であるとした所で、もはや平和を謳歌するに足るほどもの和気が損なわれたままであり続ける
ことには変わりないわけだから、まずそのような事態を回避するためにも、人々の怠慢すらをも
助長するような甘やかしい処遇などが控えられて然るべきだということが言えるのである。

強盗殺人や金融詐欺すらもが容認されているような世の中が、未だ経済破綻や戦争状態にまで陥らず
には済んでいるとした所で、もはやそこに人間同士が屈託なく睦み合えるような和気も存在し得ない。
強盗殺人犯や金融詐欺師すらもが何の咎めもなくシャバの空気を吸っているような状態で、人々が
そのような清浄な人間関係を構築して行くことができなくなるのはごく当たり前のことであり、
そんな状態で未だに人を信頼しきったような態度のままで居続けたりするほうが危ういこととなる。

それはそれで、人が命を繋いで行く程度のことはそれなりに許容される状態ともなるわけだが、
決してそれが、実現し得る限りの人間社会の内でも最善のものであったりするはずがない。比喩表現を
あてがってみるとした所で、天国か地獄かでいえば、そのような世の中はむしろ地獄の部類であると言え、
仮にそのような世の中を到来させる神が居たとしても、地獄をこの世にもたらす邪神であることが間違いない。

だから結局、人間社会をまず第一に司って行くべきなのも、上記のようなシラフの判断を下せる一人前の
倫理観でこそあると言える。宗教や概念夢想の範疇であれば、怠惰や罪過に明け暮れる者の救いまでもが
想定され得るが、それは上にも書いたように、人間たち自身が最善の人間社会を構築して行く上では

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210 2013/10/25(金) 11:36:13 ID:XHbFyPy9zY
害にすらなりかねない代物でもあるわけだから、人間社会を司る理念としては、無宗教的で非夢想的な
道徳倫理に一歩も二歩も譲らねばならない所があるといえる。

それは別に、むしろ禁教下に置いてしまったほうがいいレベルの邪教などに限ったことではない。
華厳宗や天台宗のような、最高級の教義を擁する自力作善の仏門すらもが、世俗の公権力にまで幅を
利かせるようになるや否や、目の上のタンコブならぬ「山の上のタンコブ」状態のお荷物と化してしまった
前列がある。「華厳経」にも、菩薩が罪人の代わりに磔刑になる下りなどがあるが(十回向品第二十五の四)、
かえってそれが世の中により大きな問題をもたらすとも示唆していて、その問題の責任すらをも
全て菩薩が引き受けて行くとすらしているのだから、到底、並みの人間に務まる話ではない。
それすらをも可能とする人間がいるとした所で、そんな人間が世の多数派などになり得るはずもないから、
結局はやはり、そんな高遠に過ぎる教義などに世の中の統治責任すらをも負わせたりするわけには
いかないということになるのである。(元より、自力作善の仏門は出家第一主義でもある)

神仏への信敬もそれはそれでありとした所で、まずは人間たち自身が自明な倫理観によって、
率先して世の中を司って行くことでこそ、最善なる人間社会が克ち得られることには違いない。
まず神仏への服従ありきとなって、人間たち自身が自力での社会統治を疎かにしたりしたならば、
たとえ神仏による救いがあるとした所で、自分たちの怠慢のせいで荒廃に陥った世の中を後付けで
救っていただくマッチポンプの様相を呈することには違いないわけだから、そんな状態が決して
最善であったりするはずもない。まずは人間たち自身が自力での道徳統治を心がけて、それにより
それなりの治世が確立された後の世の中でなおのこと、泰平や繁栄の長久を神仏に祈願したりする
ところでこそ、何もかもにかけての最善が尽くされたことになるに違いないわけだから、ただ人間
たち自身が自力での徳治を心がけるだけですら、まだ不足でありかねないものである。どうして
それぐらいのことは、当たり前のこととして済ませておかずにいたりすることが許されようか?

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211 2013/10/25(金) 13:58:26 ID:ymKfhvB8ok:au
「倬たる彼の甫田、歳に十千を取る。我れ、其の陳きを取りて、我が農人に食ましむ。
古え自り有年、今南畝に適きて、或いは耘り或いは耔り、黍稷も薿薿たる。
攸こに介い攸こに止る、烝もろの我が髦士。我が斉を以って明く、我が犧羊を与して、
以て社し以て方す。我が田の既に臧しく、農夫も之れ慶ぶ。琴瑟撃鼓し、
以て田祖を御し。以て甘雨を祈り、以て我が稷黍を介り、以て我が士女を介う」
「広大な我が田地は、年々に膨大な収穫を上げる。そのため去年までに獲れた古米を
農夫たちにやって食わせてやることすらできる。もう相当な昔の頃から、田畑の畝に
赴いては雑草取りや土かけを心がけてきているため、穀物も毎年わんさと生い茂る。
数多の農夫たちもここに挙りて、憩い止まる。うちの田の質の良さが評されて、
生贄となる羊すらもが献上され、社稷が四方に作られ、土地の神が祭り立てられる。
すでに相当に上質となっている我が田地のために、農夫たちも喜ぶ。琴瑟を奏で
太鼓を打ち、田畑の神を祀り、恵みの雨が降ることを祈り、これからも末永い五穀の
豊穣を祈り我らが子女の保護すらをも希う。(良農はただ恵みの雨を待ったりする
だけでなく、常日頃から雑草取りや土かけのような自助努力をも欠かさないでいる。
恵みの雨を待つに際しても、田畑の神を祭り上げて祈る程もの積極さでいる。
自然を神として祭り上げることを禁ずる聖書信仰の下では、それも不可能となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・甫田より)

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212 2013/10/26(土) 14:27:57 ID:CuSzU4Gb.k
キリスト教徒と全人類の関係は、自然界の捕食者と被捕食者の関係に相当するものでもなければ、
狩猟者と獲物の関係に相当するものでもない。直接的に言えば、強盗殺人犯と被害者の関係であり、
多少比喩を踏まえてみるなら、悪性のガン細胞や寄生虫と宿主の関係であるといえる。

自然界の生態系を破壊しない程度に捕食活動を行う鳥獣などとも違い、自他を同時に破滅に追いやる
ほどもの破壊活動にすら及ぶものであるわけだから、その被害者となるような相手にとっても、到底
共存を許容できるような代物ではないことが明らかだといえる。ただ今までは、地球社会がキリスト
教徒の残存を許容するほどにも十分に広かったから、キリスト教の存続も可能だっただけのことであり、
人類社会の基盤がこれ以上拡大のしようもない程に地球全体を覆い尽くしてしまった今となっては、
自他への致死級の害悪を「開発目的」として何とか正当化して来たキリスト教もまた、
当然のこととしてこの世から絶やされねばならない時節と相成っている。

地球社会を傾けさせる程もの過剰な我田引水によって、自分たちの財産だけは膨大な分量に上っている手前、
キリスト教の断絶は免れられないにしたって、それによる財産の散逸までは避けたいというのが、
資本主義国のキリスト教徒の偽らざる本音であるに違いない。しかし、その極度の富の寡占こそが、
貧窮が原因での人口爆発を招いてしまう程もの世界の経済的荒廃の原因となってしまっている
わけだから、富の再分配のための一定度以上の散財はやはり避けられたものではない。

ただ、その結果として自分たちが、今の資本主義後進国並みの経済的疲弊に置かれたりすることを
危惧するのは馬鹿げている。そのレベルの疲弊をこの世から無くしていくための散財であるのに、
散財の結果として自分たちまでもが乞食同然の生活水準と化してしまうなどと考えるのは、それこそ
極端から極端への振り切れというやつで、そのような極論によってでしかものを考えられない
のであれば、節度を保った富の分配のための政治的な主導者になる資格もないといえる。

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213 2013/10/26(土) 14:30:57 ID:CuSzU4Gb.k
富の再分配=共産主義と短絡して、人々が旧共産圏の人間のような極度の怠惰状態に陥ってしまうことを
危惧するような人間もまた、富の再分配後の世の中の堅実なビジョンを思い描けないレベルの人間であるため、
これまた主導者となるに相応しくないといえる。「働く以上はガッポリ稼ぎたい。稼げもしないのなら
働きたくもない」などというような、着実な勤労意欲を欠いた商人気質が世の中に蔓延してしまっていたり
するものだから、世の中が社会主義的な情勢となるや、一挙に労働意欲を低下させてしまうことともなる。
そのような問題に対する解決策を、共産主義もついぞ用意することがなかったわけだから、理想上の理念
としてそれを掲げたりするようなことからあってはならないといえる。至上のものとして尊ぶべきなのは
むしろ、対価に相応以上の働きすらをも常に心がけようとする良農や名工の誠実さのほうであり、
それを共産主義的な労働者保護の観点から殺ぎ落としてしまうようなことがあってもならない。

完全な自給自足状態で、数千万人に相当する人口を狭い島国で着実に養っていた江戸時代の頃の日本の
あり方などが、経済的な自己完結状態が確立されてしまったこれからの地球社会の模範とする上で格好のもの
となっているが、だからといって、誰でも江戸時代の治世を模倣できるのかといえば、決してそんなこともない。

資本主義や共産主義みたいな、極端から極端への振り切ればかりを持て囃すイデオロギーばかりを
信奉して来たような人間ほど、何かにかけて中庸を主としている江戸の治世を見倣うこともより困難となる。
稼ぎすぎに対する戒めをそれなりに布令しながら、人々の勤労意欲も旺盛なままにあらしめたその絶妙さは、
初代江戸幕府将軍徳川家康公の、苦労続きや質素倹約を基調とした生涯を多くの人々が模範とすることで
成り立っていたものでもあるわけだから、自分個人がスターリンや毛沢東の如き享楽三昧の生活を
送りながら政治主導者になろうとするだけでも、決してうまくいかないことが間違いない。

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214 2013/10/26(土) 15:13:54 ID:0D0RtvU6mo:au
「権力者こそは最大級の経済的繁栄と共に」という考えは、西洋はおろか、中国などですら、何の疑問も
抱かれることなく是とされて来たことである。最古級の夏の禹帝などの頃には、自らの衣食住を悪しくしながら
祭祀だけは豪華に執り行ったなどの伝説があるというのに、およそ春秋時代ごろあたりから、権力者こそは
経済的な成功者ともなることが常識と化してしまった。そのため、贅沢を嫌った漢の高祖劉邦すらもが、
皇帝としての威厳を示すための豪華な宮殿を臣下が勝手に造営することをも許容せざるを得なかったのだった。

そのような、洋の東西を問わぬ、公権力者と贅沢の癒着の是認という風潮から、もう卒業して行かねばならない。
日本の武家や公家のように、「お上」でありながらさしたる私財も持たないでいるような廉潔さこそが、
これからの地球社会の統治者たちにも要求されている。日本では伝統的なあり方だが、世界的には非常に
珍しい権力者の姿なので、やはり日本人こそが率先してその模範を示して行くことが必要となるのだろう。

返信する

215 2013/10/26(土) 15:16:56 ID:0D0RtvU6mo:au
「孟子致為臣而帰。王就見孟子、曰。前日願見而不可得、得侍、同朝甚喜。今又棄寡人而帰、
不識可以継此而得見乎。対曰、不敢請耳、固所願也。他日、王謂時子曰、我欲中国而授孟子室、養弟子以万鍾、
使諸大夫国人皆有所矜式。子盍為我言之。時子因陳子而以告孟子、陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。
夫時子悪知其不可也。如使予欲富、辞十万而受万、是為欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑。使己為政、不用、
則亦已矣、又使其子弟為卿。人亦孰不欲富貴。而独於富貴之中、有私龍断焉。古之為市也、以其所有易其所無者、
有司者治之耳。有賤丈夫焉、必求龍断而登之、以左右望而罔市利。人皆以為賤、故従而征之。征商、自此賤丈夫始矣」
「(長文なので略称取意)孟先生は斉で政治顧問をしていたが、意見が聞き入れられないので立ち去ることにした。
斉王の引き止めにも軽く愛想しつつ応じない。後に斉王は『孟先生の学団をを一万鐘(約五千七百石)で養いたい』
とも言った。それを人づてに聞いた孟先生は言われた。『十万鐘(約五万七千石)で養われることすら断ったことが
あるというのに、どうして一万石程度に誘惑されようか。昔、丘の上から市場を鳥瞰してあぶく銭を掠め取る者が
あった。その賤しい男のせいで商人にも税金がかけられるようになったというのに、どうして私がそれと似たような
真似をすることが許されようか』(人間が鳥瞰によってまで利益を追うことの浅ましさを身を呈して主張している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇)

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216 2013/10/27(日) 13:50:35 ID:gA1MvsCVHo
人間が重宝しようがするまいが、塩は数億年の長きに渡って安定した組成を保ち続けるものだし、
地においても殺菌作用や氷結防止作用を発揮し、海に至っては、海洋の生態系の腐敗化を予防する
極めて重大な役割をも帯びている。しかも、その海において我らが人類を含む、あらゆる地球生物の先祖
となる原生生物が生じもしたのだから、まさに塩こそは、あらゆる命の母であるとすら言うことができる。

それ程もの塩という成分の偉大さを買って塩を尊ぶというのであれば、それはそれで結構なことだと
言えるが、ただ「調味料として有用だから」とかの些末な理由だけで塩を重宝がるのでは、まだ塩の価値
など全く分からないままでいたほうがマシな程もの見識の狭さに陥ってしまっているものだといえる。
それはちょうど、自らの親の真の偉大さを察せないままでいながら、ただ「子供の頃に養ってくれたから」
とかいった理由だけで形式的に親に感謝したりするのとも同じ「親の心子知らず」状態となるのだといえる。
それだけでも、すでに年老いて精力も弱っている親などからすれば嬉しいことともなったりするわけだが、
無限の愛情を注がれつつ生み育てられた子の側としては、決してその程度の心がけだけでいていいはずはない。

何億年もの間、安定した組成を保ち続ける塩すらをも「有用だから価値がある」「無用なら価値がない」など
という安易な判定下に置いてしまったりする所にこそ、本人自身の救い難い自意識過剰がくすぶってもいる。
塩という物質の安定性と、自らの命の儚さとを冷静に比較してみることもできないほどもの客観的視点の
欠如がそこにはあるわけで、それはちょうど、強盗殺人犯が無罪放免となった場合の被害者の気持ちも
察することができないような思いやりのなさにすら直結しかねない問題点でもあるのだといえる。

科学や博物学の問題を考察する場合に限らずとも、人間にはあらゆる問題を実地に即して考えられるだけの
能力が備わっている。その手の能力の低い婦女子ですらもが、仕事上の金勘定などは間違いのないように
心がけたりするし、キリスト教徒級の概念夢想没入者もまた、脳器質からの精神障害でもない限りは、
実地に根差してものを考えるということを心がけようと思えば心がけられるようになっている。

返信する

217 2013/10/27(日) 14:23:44 ID:gA1MvsCVHo
しかし、同時にそれを「億劫なこと」として忌み避けたがる人間が多いのも事実である。
できることなら、1+1は3や4でもあって欲しい、塩が普遍的観点に即して偉大な物質であることなど
よりも、自分にとって塩が有用かどうかのほうを問題にしたいと考える。そしてそれが許されることこそは
「精神の自由」であるとし、時にはある種の宗教教義によってそれを金科玉条化してしまったりすらする。

それこそは、人間を真に普遍的なものから遠ざける罠であるに違いなく、そのような意味での
「精神の自由」に溺れた結果として、人は価値なきものを価値ありと見なして、好き好んでゴミを
喰らうような状態へとすら陥ってしまうのである。本人はそれでも満足面でいたりするわけだが、
傍目に見れば明らかに愚かしいし、普遍的な価値に欠けるものばかりを好き好んだ結果として、
本人たち自身が気づきもしない内からの潜在的な不満を抱え続けることともなる。国宝級や重文級の
名刀を所有するのと、二束三文のなまくら刀を所有するのとでは、やはり本人たち自身の満足の
度合いに大きな差が出てくるわけで、いくらそれを「俺にとってはこれが価値のある刀なんだ」
などというような自己満足によって埋め合わせてみようとしたところで、そのような自己満足を奮起
させておくこと自体がこれまた、本人にとっての不健全な心労となり続けて行くことが間違いない。

人として手に入れられる内でも、最大級の満足を手に入れるためにこそ、普遍性や実地に即して物事を
見計らうことを常日頃から心がけておく必要がある。それを逸脱するのもまた自由であるとした所で、
そこにはより大きな不満が待っているだけである。多量の塩分を含む海水こそはあらゆる命の源であるからと
いって、海水を飲んでみた所で美味くも何ともないし、それで渇きが癒されるようなことも決してないのだから。

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218 2013/10/27(日) 14:26:46 ID:KKyRuBRgyM:au
「天を祭るに、地を掃いて祭るは、其の質に於いてするのみ。醯醢の美、煎鹽之の尚びあるは、天産を貴べばなり」
「天を祭るために、地を祓い清めるのは、その素地から清めるためである。塩漬けの供物による荘厳や、
精製された塩そのものを貴ぶ儀礼があるのも、天からの恵みを貴ぶからである。(天日塩は日光によって
精製されるため。人間が踏みつける地から尊ぶ心がけがあってこそ、真に天を尊ぶことができる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

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219 2013/10/29(火) 14:14:48 ID:KCTvPjw6Uc
まったく頑是無い小児などでもない限りは、罪というものが全くの自明なものであることを
多少なりとも察知する。まともに成長して大人になれば、自明なものとしての罪や徳への理解が、
世の中の一員としてまともにやっていける程度のものにまで洗練されるし、さらにその上の
賢人や聖人とまでなれば、自明なものとしての罪徳の把握が完璧なものとなるために、まるで
本人自身の倫理的判断が神通自在のものであるかのようにすら見受けられるようになる。

そのような倫理判断の洗練を、実地に即して最も洗練させるのが仏教であり、善悪などは
人間たち自身が俗世で自明に取り決めているものでしかないからこそ、「虚空」であるともする。
その、本質が虚空である所の善悪罪徳をシラフで適切に扱うことで、世の中をも吉法へと赴かせる
ために、仏僧たちは善悪をも諦観するための出家修行に励むわけである。それは確かに、朱子や
ヒンズー教徒などがいう通り、ストイックすぎて忌避されかねないような姿勢でもあるわけで、
そのせいで大陸国である中国やインドなどでは仏教が十分に根付かなかったりもしたわけだが、
ことに、倫理判断の「質」の洗練という点では、一切の虚飾を排した仏教的な姿勢こそが最上で
あるのも確かなものだから、子供への教育すら仏僧が主体となって行うほどにも仏教帰依が篤く
嗜まれて来たこの日本こそが、清濁併せ呑むための西洋文明の取り入れと、それに相反するが
如き邪教信仰の拒絶とを両立することすらもができたのである。(世界的には、中国のように
邪教の侵入を徹底的に防ごうとしたせいで文明発展が立ち遅れたり、韓国のように西洋文明
全体を大々的に取り入れようとしたせいで邪教信仰まで取り入れた結果、国民が禽獣同然の
倫理観の持ち主ばかりと化してしまったりするのが普通となっている)

親鸞聖人の「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の一言が、念仏信仰と共に
人々に広く行き渡っただけで、二度と善悪の分別が完全に実質を逸脱したりすることがなくなる。

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220 2013/10/29(火) 14:18:19 ID:KCTvPjw6Uc
悪行はありのままに苦しみだから、悪人こそは来世で往生させて頂けるとなれば、苦しむのが
イヤだからこそ億劫な善行を為したがらない悪人なぞも、自分がこれ以上苦しみたくないからこそ
悪行をも控えるようになったりする。それはもう、自分がそうであると気づきもしない内からの、
自明なる善悪の分別の体得であるわけで、本当の所をいえば、阿弥陀如来からの救いなどが
あったのではなく、自分自身が倫理的判断力を成長させた結果なのだといえる。

確かに、神仏からの救いの如き方便が、そのように自明な善悪の分別を助成することもあるわけ
だけれども、決して必ずしもそうであるわけではなく、むしろ人並みの分別すら損なわせてしまい
かねないような悪巧方便の象徴となるような神もまた、残念ながら「定義」されてしまっている。
善悪や罪徳はあくまで超越神の采配によるものであるとし、なおかつその超越神を形而上に
置いて、人間たち自身による自明な判断と、神の采配に基づく判断との妥当な整合性などを
あえて無きものとしてしまう。それでいて、まったく人間性を欠いた超越神がこうだと
定義する善悪の分別こそを、信者にまで強制しようとする類いの信教こそが、人々から
自明な善悪の分別を奪い去って、精神的な盲人と化さしめてしまう悪性を帯びている。

そのような神こそは、「存在しない」としたほうがマシな部類の神でもある。神も仏も一切
ナシとしてしまうニヒリズムにまで行き過ぎてしまったりする必要もさらさらないが、上記の
ような論理構造で以って、人々から自明な倫理判断の能力すら奪い去ってしまうような神こそは、
むしろ実在しない神、存在すべきでない神であるとしたほうが、誰しもにとって有益となる。

これだけ科学が発達した世界で、神仏信仰など流行らないほうが当たり前というものだが、
それでもなお信敬に値する神仏がいるとすれば、それは人間にとって有益な神、信ずることに
害のない神であるに違いない。信じた結果、人と世と我とをかえって精神的利益的に損ねてしまう
ような神こそは、人間自身が打ち克って、この世から絶やし尽くすべき神であるに違いない。
「神である以上は尊い」などという、信教絶対主義の破棄などと共に。

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221 2013/10/29(火) 14:22:28 ID:7dSW7j8Qbc:au
「爾じ善有れば、朕れ敢えて蔽わず。
罪朕が躬に当れば、敢えて自ら赦さず、惟れ簡ぶこと上帝の心に在り」
「君らに善い所があるのであれば、敢えて私はそれを隠そうとせず、自分に罪があるのであれば、
あえて私はそれを赦そうとはしない。それこそは上帝の心にも適ったあり方であるのだから。
(上天に仮託している所はあるが、聞いただけでも誠実であることが分かる姿勢ともなっている。
このような神託の用い方こそは、これからも許されて然るべきものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)

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222 2013/10/30(水) 15:13:31 ID:K2a8neVM6E
テッド・バンディのような異常犯罪者が、自らの罪状をあたかも他人事のように自供することがある。
それは、苦し紛れの責任逃れから来る異常発言であるわけで、ある程度以上に責任意識を欠いた人間が、
自らの自主的な言行を他人に偽託しようとする場合があることを示す実証例ともなっている。

「陰徳を積む」といい、自分が為した善行をあえてひけらかさないということが徳となることもある。
それこそ、自らの悪行を他者に偽託しようとする企てなどとは真逆のあり方であるわけで、片や聖賢の
所業ですらあるといえる一方、片や道を踏み外した小人のそれであるといえる。どちらがより良くて
どちらがより悪いのかを改めて論ずるまでもないが、どうあっても孤独に耐えねばならないのが陰徳の
積み重ねである一方、宗教の神などに責任を仮託すれば群れることも可能となるのが、自らの悪行の
責任逃れでもある。そう聞いてみれば、仁徳の志しも皆無に等しい小人などからすれば、責任逃れを
うまいこと講じられていたほうが自分にとってマシであるかのようにすら思われかねないのでもある。
そこは、善行こそが自らの安楽ともなる一方、悪行こそは自らの辛苦ともなるという罪福異熟の法則を
計り知れる者だけが真に克服することのできる表向きの障壁であるわけで、その障壁を乗り越えられも
しない内から陰徳を積もうなどとしてみた所で、味気なさばかりが残ることとなるに違いないのである。

「陰徳」ではなく「陽徳」であれば、「徳は孤ならず、必ず隣り有り(里仁第四・二五)」ということでも
あり得る。それこそは、儒学に根ざした君子階級としての大成と共なる善行であったりするわけで、
これこそは、孤独にも耐えねばならない陰徳の積み重ねなどよりも、万人が目指しやすいものである。
しかし、陽徳だけではどうしたってそのための善行も皮相的なものと化してしまい、陰徳すらをも積む
場合ほどの成果を期待できるものでもない。それは、儒学ばかりを国是として来たここ2000年来の中国
以上にも、仏教帰依などを通じての陰徳の積み重ねに励んで来た日本のほうが、外界からの侵略にも
よく耐えて、自国内での権力腐敗などをもそれなりに防げて来ていることからも分かるとおりである。

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223 2013/10/30(水) 15:16:57 ID:K2a8neVM6E
古代中国においてですら、列子が人気取りのための尽力ばかりに終始することを戒めるなどしている。
陽徳を積むためにこそ、陰徳の養いがそれなりに必要ともなることは、古代の頃から儒者もまた認めて
来ていることである。けれども、あくまでそれを「ついで」とするのが儒者の姿勢であるものだから、
儒学ばかりに専らであれば自然と、陰徳の積み重ねのほうが疎かになりかねないのである。そこが、
単一の教学としての儒学の欠点であるとは言えるわけだが、さりとて陽徳の積み重ねが、悪行を
邪神に偽託する信者同士で群れるほどもの害をもたらしたりするわけでもない。いずれも、協力者を
募って事業に励むような所があるのは共通しているわけなので、どうしても陰徳を積み重ねて行く孤独
に耐えられないとした所で、まだこの内では陽徳の積み重ねこそを志したほうがいいことには違いない。

仏教が、自分たちと同じコーカソイド圏であるインドで生まれた教学であることもあって、欧米人なども、
儒学よりはまだ仏教に傾倒していたがる所がある。実際、仏教のほうが儒学以上にも普遍的な優良さを
帯びている所があるわけだけれども、その理由となっているのが他でもない、儒学以上にも陰徳の積み
重ねを重んじている所でこそある。誰からの評価を期待するわけでもなく、完全なる孤独下での善行に
取り組んでいく所にこそ仏教の本懐があるわけだから、聖書信仰のせいで群れたがりの性向が深く
根付いてしまっている欧米人などにとっては、それなりに群れることを容認する儒学以上にも、
実践が困難であるという面で、よりとっつき辛いものとなっているのである。

責任逃れのための偽託対象としての邪神の配下を離れて、そこから急に出家者並みの孤独へと没入
させられたりするのならば、それこそ自殺級の鬱屈にすら駆られかねないだろう。そんな所ばかりを
目指す必要は全くない。独り立ちする所もあれば、未だに人と依存し合うところもある、節度ある
真人間のあり方にこそ立ち戻ることで、変節過剰による苦しみなどをも避けて行けばいいのである。

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224 2013/10/30(水) 15:18:49 ID:moAYEQQJw.:au
「曾子曰く、身は父母の遺体なり。父母の遺体を行う、敢えて敬せざらんや」
「曾先生『わが身は父母の遺産であるのだから、父母の遺産を言行させる上で、どうして恭敬を
尽くさないことが許されようか』(父母への敬意を尽くす、その孝心によって自らの行いをも制する。
実の父母への敬意に基づくからこそ、自主的な心こそが自らの言行規範ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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225 2013/10/31(木) 13:24:41 ID:0zmxRlIEa.
土地の良し悪しによって作物が何十倍もの収穫率の差を広げたりすることはないが、
荒地に至るまでの灌漑や治水によって耕作可能地域を増やすことで、以前の何十倍
もの収穫を上げたりすることならできる。それは確かに、始めからいい土地だけを
選り好んでそこでの豊作を企図したりするよりも多大なる労苦がつきまとうもの
ではあるけれども、それでこそ何百年、何千年という長期にわたる倍々級の
豊作を着実に企図して行くことができるのでもある。

そうであることが太古の昔からわきまえられていたものだから、東洋では治水や
灌漑のための土木事業が重視され、それらを大工任せにしたりすることもなく、
君子階級が率先して推進して行くようなことすらもが頻繁にあったのである。

一方で、そのような着実な社会の繁栄のための土台作りなどを嫌がって、いい
土地を選り好みしての農産や商売などに終始する者もまた、地主や豪商などの
形であり続けたのである。戦国時代における敗北以降、庄屋身分まで身をやつして
土佐の山間に逃げ込んでいた旧長宗我部家臣らが、山内からの懐柔に徹底して
反抗し続けたのも、土佐藩家老の野中兼山が推進したがっていたような土佐での
土木事業に協力することを特に嫌がっていたからでこそあった。それでいながら
士分の株を金で買うというあこぎな手法で一応は武士に返り咲いた土佐藩郷士らが、
米英の暴力の嵩にかかっての倒幕の主導者となるや、東奔西走の商売働きで巨万の
富を稼ぎ上げ、今に至るまでの三菱財閥の源流を形作るに至った。その三菱もまた、
今でも東京の丸の内界隈に数多の自社ビルを構えて日本の商工業の根幹を牛耳って
いたりするように、東洋においてですら、自分たちだけでいい土地を独占して狭隘な
私益を貪りたがるような傾向が、肥大化しようなものなら肥大化しかねない体のまま
でいる。それは、いい土地を選り好んでそこに安住することを宗教教義に据えている
聖書信仰などばかりに特有の発想でもない、私益にしか目がないようなつまらない
小人にとってはみな共通する類いの、ありきたりな性向であるのだといえる。

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226 2013/10/31(木) 13:30:13 ID:0zmxRlIEa.
一方で、もうこの世界にあえて進取するに値する程もの、好条件の空き地
などというものもほとんどなくなってしまった。莫大な富をもたらして
くれる程にも広大かつ好条件の土地などというものはもう、全て手垢が
付いてしまっているために、いい土地を選り好んだ結果としての一攫千金
を企てる余地などは、もはやこの地球上から絶えてしまったのである。

地主といい豪商といい、ただ土地を選り好みするような性向によってこれ以上の
経済的成功などを期待する余地はもう金輪際ありはしない。それでいてなおかつ、
一部の人間が世界中の好条件の土地を独占することでの私益の巻き上げに奔走した結果、
ほとんどの地球人類に十分な利益がまかなわれなくなって、困窮や餓死やその反動での
人口爆発などといった、致命的な問題を引き起こすことともなってしまっている。

まず第一に必要なのは、土地を選り好みすることでの私益の追求などという
発想を是とするような幼稚な性向から誰しもが卒業することである。その次に、
あまりにもその手の企てによって多大なる公益上の損害をもたらしてしまっている
ような地主だの豪商だのに対しては、その土地利権を剥奪や制限する措置を採る。
地権に拠りすがりたがるような人間は卑人として慣習的な差別の対象とすらし、
今以上にその手の人種が増大してしまうようなことが決してないようにする。

さらにその上で、かつての東洋の君子階級が推進していたような、公益寄与のための
土木事業によって農作物の収穫量を底上げするなどして、飢餓問題をも克服して行く。
未だに地主や豪商の横暴がまかり通っているような状態のままでそのような事業を
推進した所で、人工的に開発した好条件の土地をまた独占しようとするような輩が
現れかねないから、上に書いたような地主や豪商への抑圧措置が当然、先に必要となる。
「人も運に乗じては悪を為すといえども、その悪十成する時はこれを討つ
(兵法家伝書)」とは、まさにこのことを言うのではなかろうか。

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227 2013/10/31(木) 14:11:35 ID:OGaKwDrp5g:au
「広土衆民は君子之れを欲するも、楽しむ所は焉こに存せず。天下の中に而て立ち、
四海の民を定むるは、君子之れを楽しむも、性とする所は焉に存せず。君子の性とする所は、
大いに行われると雖も加わらず、窮居すると雖も損われず、分定まるが故なり」
「広い土地や多くの民は君子の欲する所ではあるけれども、それだけで楽しんだりすることもない。
天下の中心に王君として立ち、四方の民たちを取りまとめるのは君子の楽しむ所であるけれども、
それだけでもまだ君子の性分とするに足るところでまではない。君子が性分とする所は、
外的な現象が盛大だったり貧相だったりすることで増減したりすることのない、分をわきまえた
所にこそある。(君子にとって、天下全土を治めることは、個人的に広い土地や多くの民を
得たりするよりも楽しむ所なのである。ただそれもまた、分をわきまえる本然からの性分から
すれば瑣末なことである。いわんや、一部の土地が特に好条件だったりすることをや、である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)

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228 2013/11/01(金) 13:42:03 ID:JT2mbYdp.w
あまりにも難解すぎるものだから、方便を用いてその教義が説かれる教学の第一
といえば、なんといっても仏教である。それは、本当に難解なことをできる限り
平易に説こうと努めているものであり、決して、真義そのものが本当は簡易なもの
であるのに、それを出し惜しみして方便での布教を行ったりしているのでもない。

逆に、あまりにも平易な道徳学上の説話をありのままに提示しているものだから、
知識の上では成長したつもりになっている精神的な未熟者などから侮られやすい
のが儒学である。そこで把捉されている道理もまた、頑なに守り通しすらすれば
数百年規模の泰平社会を実現して行くことができるほどにも上質なものなわけだが、
上記のような理由で儒説が侮られた結果として、道理を蔑ろにした小人どもが、
自分たちの妄動で世の中を傾けてしまったりもするのである。そのため、道理
以上に普遍的だが難解至極な絶対真理そのものを把捉している仏教の受容などをも
兼ねることで、人々の道理への侮りを防止するように努めたりもするのである。

真義そのものがあまりにも稚拙でろくでもないために、それ自体の公然への流布は
避けて、迂遠な比喩などによって頭の悪い信者を取り込んでいく類いの邪教という
ものもまたある。そのような邪教に溺れてしまっている人間こそは、平易な道理を
ありのままに把捉して提示している儒学の価値などが全く理解できない上に、儒学
こそが特筆して拒絶感を催させらる教学ともなる。儒学を理解するような学問姿勢
や信仰姿勢でいたならば、真義そのものがあまりにもろくでもない自分たちの信教
の真義すらをも直視しなければならなくなるから、儒学を少しでも理解しようなど
とする時点ですでに、本能的な拒絶意識を催させられることとなるのである。

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229 2013/11/01(金) 13:46:12 ID:JT2mbYdp.w
そのような、真義そのものへの理解を避けて、比喩表権の嬉しがりに終始して
いたがろうとするような姿勢でいるものに対しては、仏教の方便すらもが必ずしも
良い影響をもたらすとは言えない。実際、新興宗教系の仏教団体などが、そのような
姿勢で以って仏教の方便を悪用して不当利得を得たりする場合もある。仏教の方便も
元より、真理そのものを理解するとまではいかないような凡夫を救いとるためにこそ
考案されたものであるわけだから、あえて真義から目を背けて方便や比喩ばかりを
嬉しがっていようとするような人間までをも吉方へと導けるとは限らないのである。

真義を理解しようにも理解できないものだから、仕方なく方便や比喩をあり難がる
ことに終始するというのは、仕方がないことである。しかし、あえて真義を理解
しようとはせず、真義の比喩表現のほうばかりを嬉しがっていようとするとなれば、
これはもう、真義が邪悪な邪教の活動を活発化させる以外の如何なる意義をも持ち
得ないわけだから、そのような姿勢だけは決して許されるべきでない。できること
なら真義を理解することに務めるが、それがどうしたってできない場合に限って
方便や比喩のほうを珍重するという姿勢で、誰しもがあらゆる教学を受容して行く
ようにするのでなければ、宗教などは一切信じないでいたほうがまだマシとなる。

如何なる教学であっても、まずはその真義をありのままに理解することを第一
として行くのであれば、当然、儒学ぐらいは親しみながら理解することができる
のでなければならない。儒学ほど、簡単かつ重大な道理をありのままに自家の
本義に据えている学説も他にないわけだから、それへの拒絶意識すらをも催すと
いうのであれば、もはや一切の学問や宗教を受容しないままに奴隷身分ででもいた
ほうがマシな人間であることが間違いない。そうであるにもかかわらず、真義を
ひた隠しにして比喩表現を嬉しがるような類いの邪教を受容したりするよりは
まだ、一切の教学への傾倒を禁止された無学無信の人畜ででもあったほうがよい。
(もちろん、そんな人間からしてこの世にいないほうがマシであるには違いない)

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230 2013/11/01(金) 14:11:37 ID:YbxahmX9.Q:au
「子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然れば則ち聖人の
意は其れ見る可からざるか。子曰く、聖人は象を立てて以て意を尽くし、
卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を尽くし、変じて之れを
通じ以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞して以て神を尽くす。(一部既出)」
「孔先生は言われた。『どんな文書も言いたいことを完全には示しきれないし、
どんな発言もその本意を表現し尽くすことはできない』 それでは聖人の本意と
いうのは永遠に察することができないのだろうか。それについて孔先生はこう
答えられた。『易を把捉した聖人は象を立てることでその本意を尽くそうとし、
卦を設けて情偽の綾を尽くそうとし、繋辞によって言葉での説明を尽くそうとし、
卦の変化を通じて利害の法則を示し尽くそうとし、これを鼓舞することで神異の
法則すらをも示し尽くそうとしたのである』(要するに、聖賢は物事の説明を試みる
以上はその言意を尽くして、ひた隠しにしたりせずにいようとするというのである。
書や言自体が意を尽くし難いものなのだから、そう心がけることが位相的にも正しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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231 2013/11/02(土) 14:46:08 ID:HN/dOTtwEA
善は、本質的には楽しみである。実際に善行を為して、目的を実現するための努力を
為す過程で苦労させられることなどもあるとした所で、本質的には、善行も楽しみである。
万人を利するための公田での耕作にも多大なる労苦が伴うが、さりとて心中は清清しくいられる。

一方で、悪徳商人として面従腹背の偽善的なサービスで客から利益を貪り取ったりすることは、
たとえそれがへつらい笑いを浮かべる程度の軽作業であっところで、心中からの苦しみはより
甚だしいものとなる。そのような、自らの行いが善行でないが故の根本からの苦しみというのは、
いくら苦しんだからといって報われて然るべきような苦しみともならない。我田引水の如き
不仁の所業のために心中から苦しんだとして、それでも仮初めの私利私益を手に入れる程度の
報いは期待できるとした所で、総合的にはプラスマイナスゼロ以下の損失となり、最終的には
何もしないでいたほうがマシだったほどもの心身共なる破滅に見舞われることが避けられない。

善行の過渡的な苦しみと、悪行の本質からの苦しみとでは、どちらのほうがより多大なる苦しみ
であり得るかといって、それはむしろ、善行の過渡的な苦しみのほうである。なぜかといって、
善行は本質的には楽しみだから、より多大なる苦労すらをもその楽しみで中和しつつやり過ごし
て行くことができる一方、悪行の本質からの苦しみのほうには、そのような中和作用が一切期待
できないものだから、こじんまりとした苦しみまでしか許容できないという事情があるからだ。

罪悪の苦しみは敢えて避けて、善行の過渡的な労苦をやり過ごすための努力こそを心がけてきた
東洋人が、西洋人などから見ればストイック過ぎて取っ付きがたく思われるのもそのためである。
漢字や梵字一つとっても、簡素なアルファベットに慣れて来た人々たちからすれば、あまりにも
難解な意味を込めすぎているように思われるし、それを日常から多用していたりするのも常軌
を逸したあり方のようにすら見受けられるのである。しかし、それは東洋人にとってはごく
当たり前のことであり、その程度の言語使用のための努力すら怠るような不誠実さによって

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232 2013/11/02(土) 14:50:47 ID:HN/dOTtwEA
人々が思い上がりを募らせたりすることをも未然に防いでいる。それは、難解な言語利用に
よってまで言葉を善用して行くことが一定以上に楽しいからこそそうしていられるのでもあり、
ただただマゾヒストの如く苦しんでいたりするのとは全くわけの違ったあり方なのでもある。

東洋人は主に、本質的には楽しみである真の善行の、過渡的な労苦こそを率先して負って行く
努力を積んで来ているし、中東人もまた、そこまで行かずとも、罪悪の苦しみこそを率先して
負っていくようなことまでは避けるようにして来ている。そして西洋人こそは、罪悪の苦しみを
善行の苦しみであるなどと転倒夢想して、そのような苦しみこそを積極に積み重ねて行く致命的
な過ちを犯し尽くして来た。当然、そのような苦しみを積み重ねて来たことの報いが希望に
満ちたものであったりしていいはずもなく、むしろそのせいで地獄に堕ちるぐらいが妥当な
こととなっている。罪悪こそを善行と勘違いしての過ちの積み重ねを喚起して来たかの邪教も、
信者の楽果を保証するものなどでは決してあり得ず、せいぜい信者たちの心神喪失状態を
原因とした、情状酌量の材料にしてやる程度の役割しか持ち得ないものである。

真の善行における過渡的な労苦こそを率先して積み重ねて行くことこそは、人間にとっての
活動規範としての正解であった一方、罪悪の苦しみなどを率先して積み重ねたりすることは、
人間にとっての紛れもない過ちであった。常識的に考えても容易くそうだと分かる上に、
真理の所まで入念に突き詰めてみても、やはりそうだったのである。随分と当たり前なことの
証明のために、人類も二千年以上に渡って無駄な時間を費やしてしまったものだと言えるが、
残念ながら、世の中にはその程度の常識的な判断も覚束ない不埒者が多数いるのも確かなこと
だから、そのような連中に二度とでかい顔をさせないための遠回りをあえて人類が試みたのだ
とすれば、多少は危うい道草を食ったことにも意味があったのだと考えられるのではなかろうか。

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233 2013/11/02(土) 14:51:31 ID:.0WWlSBkT2:au
「徳を尊び義を楽しみ、則ち以て囂囂たる可し。
(以下既出)故に士は窮しても義を失わず、達しても道を離れず」
「仁徳を尊び道義を楽しんで、堂々としていればよい。それでこそ、君子士人たるもの、
貧窮した所で義を失わず、栄達した所で道を踏み外したりしなくても済むのだから。
(義を楽しんだりしていられる所があるからこそ、善道を踏み外すこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・九より)

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234 2013/11/03(日) 13:19:30 ID:ZNUqQlag3.
信教が許容される世の中であろうがなかろうが、人間社会を司る倫理規範はどこまでも
自明なものでなければならない。そして、そのような自明な倫理法則こそを勉学精進に
よって体得している人間こそを賢聖として尊びつつ模範として行くのでなければならない。

真理を司るとされる神仏なども、そのような自明な倫理法則をより尊びやすいものとして
象徴化したものでこそあるべきであり、決してそこから完全に逸脱しきったものなどでは
あるべきでない。人間たち自身が自明に見極めることのできる倫理法則を非とする邪神
とまでなれば、これはもう積極的な排斥の対象とすらして行くべきであることが確かであり、
そのような邪神への狂信が蔓延してしまったりしないようにするためにも、世の中の側が
神仏並みかそれ以上にも自明な倫理規範こそを総出で尊んでいくようにしなければならない。

人間社会にとっては、自明な倫理規範に従うことが主であり、その助けとして神仏を
崇敬したりすることが副である。だからこそ、神仏を主に司ることを職業とする僧侶や
神官が特別に置かれもするのである。昔なら儒者などが同様なものとして存在すること
もあったが、儒学道徳の基本などは誰しもが主体的にわきまえていているのが当然で
あればこそ、僧侶や神官ほどにも堂に入った職業として広まることはなかった。儒者
といえば、為政者や教師なども兼任するのが主であり、むしろそれらのほうが本業で
あるのが常だった。ただ、一般人までは知る由もないような儒説の秘奥の部分に至る
まで精通する特別要員として、特に儒学が重宝された江戸時代などに多少派閥を形成
することがあるだけだった。(浪人の再就職先として斡旋されていたところもある)

尊重される場合においてですら、あまり権威化が堂に入らないのが、儒学が司るような
自明な倫理規範であり、そのため宗教教団のような分かりやすい個別主体を探そうとして
もあまりいい成果を得られるものではない。だからといって、そのような自明な倫理規範
よりも神仏信仰ほうを、世の中らすら支配する本義に据えてしまったりするのもおかしい。

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235 2013/11/03(日) 13:32:07 ID:ZNUqQlag3.
寺だ神社だ教会だなどよりも、孔子廟のほうがマイナーで魅力的でもないとしたところで、
世人にとって最も身近な所にある事柄を最大級の含蓄と共に論じているのは、神仏ではなく
孔子や孟子のほうであるわけだから、孔孟の論説ぐらいは当たり前のこととして尊べる
だけの素養を身に付けてから、神仏を尊ぶようにもして行かなければならないといえる。

またそれでこそ、真に信敬するに値する真っ当な神仏と、そうでない邪神との見分けも
よく付くようになり、両者を味噌糞に取り扱っていたせいでの信教全体への不信感すらもが
払拭されて行くようになるに違いない。今の日本人の宗教不信などは、自分たちが自明な
倫理規範すらわきまえられなくなってしまっているがためにこそ来たしているところがある
わけだから、決して宗教というコンテンツの旧態化ばかりにその原因を求めるべきでもない。

人間にとっての自明な倫理規範を誰しもがわきまえることは、それすら疎かにしてしまって
いるせいで破滅状態に陥ってしまっている今の世界を反正する上で不可避に必要なことと
なっている。だからこそそれを実現したとして、そこから真っ当な神仏への崇敬を人々が
取り戻して行く選択肢までもが開かれて行く。それは別に必須事項でまであるわけではないが、
それが自明な倫理規範のより一層の堅持や、自明な倫理規範すら見失わせてしまうような
邪教の蔓延の予防にすら役立つようであるならば、奨励されるべきものであれど、決して
遠慮されるべきものとまでなることはない。かつての比叡山や本願寺のような教団腐敗すら
生じさせ始めたりするのならば、それへの牽制はまた別に必要となるに違いないが。

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236 2013/11/03(日) 13:36:49 ID:5X4MEqYq3I:au
「子囊帯、野洩を従いて、之れを叱う。洩曰く、軍に私怒無し、
報いるは乃ち私なり。将に子を亢がん。又た之れを叱う。亦た之れに叱う」
「斉の大夫子囊帯が、戦場で魯の洩声子を追いかけて来て、これを罵った。洩は言った。
『軍務に私怨などありはしない。ただ私はおまえの攻撃を防御するだけだ』また罵ってきた時、
今度は洩も罵り返した。(罵られ通しでは自分自身や友軍の士気にも関わるから罵り返した。
この後には、矢傷を負って戦闘不能になったことに憤慨して敵を罵ったために、
敵からも『責任感の高い君子だ』と評された陳武子の逸話もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)

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237 2013/11/04(月) 13:35:53 ID:mV3vBg0TXg
いくら条件のいい土地でも、耕作や肥料散布を怠って、やたらめっらな連作を繰り返して
いたりすれば、土質も痩せて使い物にならないような状態と化してしまうし、そこまで
行かずとも、雑草取りや間引きを怠るだけでも相当量の収穫の目減りが生じてしまう。
農作もまた、人間の努力があって初めて相応の収穫を維持して行くことができるもの
なのだから、決して「棚から牡丹餅」の喩えなどに用いられるべきものではないといえる。

洋の東西を問わず、文明社会は農耕と共にこそ成り立ってきているわけだから、
多少なりとも農耕の内実を尊ぶ考えがあれば、その程度のことは何千年も前から察して
来られたことのはずである。しかし、それすらをも怠って、農業などは、商売などと
比べてさしたる儲けにもならない賤業程度にしか考えて来なかった連中も中にはいるわけで、
しかも、そのような農業への侮りからなる知識の浅薄さを元にして、「いい土地では大した
苦労もないままに収穫が得られる」などと豪語する輩までもが時には横行していたのである。

そのような拙い発想を金科玉条にすら掲げて来た西洋諸国たるや、国が二百年と経済的に
持ち応えた試しがない。誰も彼もがいい条件の土地を目指した所で、そんな土地は限られて
いるものだから、そのような土地の独占争いが繰り広げられた結果として貧富の格差が
極大級に拡大して行くばかりとなるし、それによって一部の人間が勝ち得られた好条件の
土地もまた、ただ既成の条件の良さばかりにかまけて整備を怠ったりしていれば結局は
地価を下げて、自分たち自身の自業自得での経済破綻を招くこととなってしまうのである。

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238 2013/11/04(月) 13:39:04 ID:mV3vBg0TXg
そのような、農業の苦労への軽んじをも原因とした、目先の利益ばかりを追い求める性向
がついには、土地条件だけなら世界最良であるアメリカ大陸での西洋人たちの経済破綻
という、究極の事態にまで発展したのが今という時点に当たる。大規模な農産や工業生産
にも好適である上、東西を大西洋や太平洋といった絶海によって隔てられているために、
外界からの攻撃に対しても無敵状態の地勢を誇るアメリカ大陸という土地もまた、そこに
入植する人間たち自身がただただ恵まれた地勢にかまけて、金融詐欺にまで手を出しつつ
の大量消費などを続けて来たものだから、ついには破綻が免れられなくなったのだった。

逆に、地勢だけを見れば、土地も狭くて山地だらけである上に、地震や津波や台風や
火山噴火といった自然災害が目白押しである日本列島の住民こそは、地の利などに
かまけたりすることのない自助努力や質素倹約に務めて来たものだから、現状の
アメリカ政府の借金全額を肩代わりしてやれるほどもの貯蓄を保ててもいる。

「地の利は人の和に如かず」(孟子・公孫丑章句下・一)

現時点であれば、日本国民がアメリカの借金を肩代わりしてやることだってできなくはないが、
地の利にかまけてのやりたい放題を是としているような連中が、そんなものに頼ることなく
一致団結の自助努力で堅実な経済体制を保っている人々に対して、相も変わらず上から目線で
「おい、俺らの借金を肩代わりしろ」などと強要して来るようであれば、決していい気分で
いられたりするわけもない。それだけでなく、そのような自己を改めぬ姿勢でアメリカ人
たちが居たままでいたならば、現状の借金を肩代わりしてやった所で、また同じように
借金を積み重ねて行くだけのことになるに違いないわけだから、教育的な観点から見ても、
そんな連中に救済の手を差し伸べてやったりすべきではないことが確かだといえる。

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239 2013/11/04(月) 13:39:09 ID:7fPLp3pQSk:au
地の利ばかりにかまけて、人の和など全くの蔑ろにしてきたアメリカ人が、その逆を行く
ことにかけて世界でも最高級の尽力を果たして来た日本人に倣うなどということは、中々
難しいことであるに違いない。それこそ、世界でも最難関ですらありかねないことだから、
そこまでは別に要求したりもしないが、上の「地の利は人の和に如かず」という教条をも
真摯に受け止めて、自分たちのあり方以上にも日本人のようなあり方こそをより尊んで
行くぐらいのことはできなければならない。それでこそ、借金地獄を再来させてしまい
かねない自分たちの思い上がりが、適度に抑制されて行くにも違いないのだから。

「社を国に於いて祀るは、地の利を列する所以なり。祖廟は仁を本とする所以なり」
「社稷を各国で祀ることで、その国の土地がもたらしてくれる利益を尊ぶ。また
宋廟を祀ることで、個々の地の利に囚われない仁徳を根本として尊ばせるようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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240 2013/11/05(火) 14:21:26 ID:kcCUQG0KC6
「Es ist gut」だとか「Let it be」だとかの、絶望的な破滅に陥りつつある人間に
とってこそ気休めとなる部類の言葉がある。机上の空論止まりな概念哲学を
弄繰り回した挙句に死の床に付いたカントが「Es ist gut(これでいい)」などと
つぶやいて息を引き取ったのも、自らの哲学が死への絶望を克服させるに値する
ものなどでは全くなかったからでこそあるし、日米と中国の国交回復で、近い
将来に自分たちの拵えた金融システムの破綻が免れられなくなることを察した
イギリス人が、自国のミュージシャンに「Let it be」などという曲を歌わせて
世界規模で流行させたのも、その先どうすればいいのかなどを考えたくも
なくなる程もの自暴自棄に自分たちが駆られたからでこそあるのである。

それは、死への絶望を真に克服させるお経の言葉などとはまた別のものであり、末期
ガン患者に投与して苦痛を緩和させてやる麻薬などのほうに近いものである。死への
絶望自体は持ち越したままだから、本当にそれを克服している場合のような毅然とした
態度や振る舞いでいることもできず、廃人然とした状況へと自らを陥らせるのである。

実際問題、人間誰しもいつかは死ぬに違いないわけだが、それでも、死への絶望
を真に克服している人間と、死への絶望に取り込まれてしまっている人間とでは、
生きてる内からの言行に大きな差異が生ずるものである。死への絶望を克服できている
人間こそは、生きてる内からの最善をも尽くせる一方で、絶望に取り込まれてしまって
いるような人間は、自分自身の自助努力にかけての最善を尽くしたりすることができず、
自らの怠慢やその正当化が原因での、生きてる内からの自滅を招いてしまうのである。

してみれば、死への絶望を克服できないままでいるような人間が、気休めのために
怠慢を正当化するような言葉なども、むしろ人間にとって有害なものであるといえる。

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241 2013/11/05(火) 14:23:57 ID:kcCUQG0KC6
すでに余命もわずかな末期ガン患者が麻薬を苦痛で和らげられたりするのは、まだ
許容のしようのあることだが、自分自身は健康上問題のない権力者などが、政治や
経済の先行き不安を「Let it be」みたいな言葉を拠り所に直視しないままでいたり
したならば、それは人と世にとっての多大なる害悪となることが間違いないわけだから、
特にそのような要職にある人間などが、怠慢を助長するような言葉に酔って職務を
蔑ろにしてしまうようなことだけは、徹底して避けられねばならないことだと言える。

権力者が、信仰の下で現実社会での善行を諦めるということは、聖書圏の人間などに
とっては常なることでもあり続けて来た。王侯が一度は戦地に赴いて敵兵を殺すとかの、
偽善止まりでしかないような慈善は嗜んだ所で、全身全霊を挙げての仁政によって万民
を安寧や繁栄へと導いたりするような、権力者としての最善の振る舞いを心がける
ことだけは、聖書信仰の下で徹底して破棄されたままであり続けて来ているのである。

もはや、そうであることが当たり前の常識と化してしまっているのが聖書圏である
わけだから、いざ聖書圏の人間が聖書信仰を捨て去って、怠慢に溺れたりする事も
なく為政などにかけての最善を尽くし始めたならどうなるのかは、未知数だといえる。
仁政級の善行など当たり前のこととして先祖代々積んで来なかったわけだから、ほんの
百数十年前までそのレベルの努力を積んでいる先祖がザラにいた東洋人などと比べて、
よりその手の能力が長けているようなことまでは決して期待できはしない。さりとて、
全くその手の能力が皆無であるかどうかも知れない。今までは、怠慢を助長する邪教
によってあえて自力作善を萎えさせられて来ているわけだから、そのような頚木を
解かれた場合に、相も変わらず善行不能者のままでいるかどうかは、未知のままである。

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242 2013/11/05(火) 14:43:48 ID:PERWw9OO7E:au
いま権力者でいるような聖書圏の人間などは、もう立ち直りも不可能であるにしろ、
今はまだ権力者として振舞ったこともないような人間や、次世代以降の子孫であれば、
邪信災禍によって怠慢なままでしかいられなくなっている現状から脱却できるような
元聖書圏の人間もまた、生ずるかもしれない。もちろん、怠慢に溺れたがるような
性向や、それに呼応する言葉などから卒業できた場合に限ることなわけだけれども。

「讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみ徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり」
「人を貶めるような言葉や喜色を催させるような言葉を避けて、財貨を卑しみ
仁徳を尊ぶようにするのは、それによって賢明さを育んで行くためである。
(誰かは救っても誰かは救わないみたいな物言い自体、賢明なものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)

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243 2013/11/06(水) 14:00:09 ID:4jh6yXV1is
義だ仁だ忠だ天だと、名称だけは広く知れ渡っているのに、その内実はといえば、
ほとんどの人間が全くといっていいほど理解できないままでいる類いの理念という
ものがある。そのため、名称と不可分な関係にある自明な本意のほうは蔑ろにされた
上で、本意を解さない無知者が適当な別の意味を後付けしてしまっていたりもする。


「義」には、とりあえず何かをしておくことの正当化全般という意味が込められるし、
「仁」には、見栄っ張りな大盤振る舞い全般を指し示す意味が込められるし、
「忠」には、奴隷か家畜の如く主人の言いなりになること全般があてはめられるし、
「天」には、常人とは次元の違うもの全般を指し示す意味が込められるのが常である。

これら全て、義や仁や忠や天といった言葉に本来付与されている意味とは別物だったり、
あまりにも範囲が広すぎたりする意味となっている。これらの言葉の本来の意味は、


「義」とは、仁への志しを実践に移して行く場合に迷うことのない所であり、
「仁」とは、天下万人と我れとを公平かつ盛大に利する志しのことであり、
「忠」とは、仁義の実践のために主君に尽くす賢臣としての心がけであり、
「天」とは、そのような人間たち自身の実践をさらに超えた所にある縁起のことである。

仁義も忠孝も天命もほぼ見失った状態にある現代人が用いている語法は概ね①の
ほうであり、②はもはや完全に忘れ去られているか、もしくは旧態化して取るに
足らない意味合いとされてしまっているのが常である。実際、②のような語法は、
天下国家のための仁政を心がける職業上からの君子でもない限りは、そのような
言葉遣いであることを不可避に強要までされるものではない。①のような歪んだ
意味や、漠然とした意味に基づく語法のほうが、大した職業に就いているわけ
でもない小人などにとっては、より有用な言葉遣いともなり得るものである。

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244 2013/11/06(水) 14:04:14 ID:4jh6yXV1is
しかし、①のような語法に凝り固まってしまったならば、人が②のような語法に即して
積極的に仁政を執り行って行くことなど不可能と化してしまう。一人や二人の人間が
②のような語法をわきまえていた所で、権力者層を含む世の中全体が、①のような
語法で仁義だの忠孝だのといった言葉までをも専らに用いたりしているのならば、
やはり人々が総出を挙げて仁政に取り組んで行ったりすることなどができないままで
あり続けることには変わりない。①のような語法がまかり通っている以上は、そもそも
誰も仁義だの忠孝だのといった理念を、理解したような気になりながら、全く理解
できないままで居続けるわけだから、仁政が不能と化すのもむべなることだといえる。

だからこそ、②よりはむしろ①の語法のほうが自分たちにとって使い勝手がいい
民間の小人などに、主権を明け渡すべきでもない。小人にとってはむしろ使い勝手が悪く、
君子にとってのみそのような使い方が堂に入る②のような語法を一般化するためにも、
君子士人にこそ政治的社会的な主権すらをも明け渡すようにするのでなければならない。

上記のような名辞の問題一つを取っても、仁義忠孝の何たるかを「知る必要すらない」
立場にある民間人などに主権を明け渡したりすることが、いかに危ういことであるのか
ということが自明に明らかとなっている。一つ一つの言葉遣いからして、民間人は
仁政の手立てとなる語法などをかえって身の丈に合わない不要物としてしまうのだから、
その民間人の欲求のままに政治を執り行ったりすれば、仁政など二度と不能と化して
しまうのもごく当たり前のことだといえる。民間人には民間人で都合のいい身の丈と
いうものがあり、それは自明に仁政を不能と化してしまう身の丈でもあるわけだから、
世の中を少しでもよくしてもらおうと思うのなら、出来る限り大人しくしておくことだ。

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245 2013/11/06(水) 14:14:05 ID:KEHHJo6fTk:au
「命は之れ不易なるも、爾じが身に遏むる無し。
義を宣べて昭かに問えば、虞も殷も天に自る有り。
上天は之れを載するも、声も無く臭いも無し。文王に儀刑し、万邦を孚と作す」
「天命は不易なものではあるが、個々人の身に普遍的に留まるものでもない。
義を尊びつつ明らかに問うてみれば、先代の虞や殷といった国もまた、天命に拠って
いたことが分かる。確かにそれは上天にから来ているものに違いないが、声もなく
臭いもないから容易には計り知りがたい。そのため我々も天命に適っていた文王の
定められた儀礼や刑法で人々を統治することで、万邦に誠実な気風を広めて行くことを
心がけるのである。(上天は人間にとって声も臭いもないほどに遠いものである。
だからこそ、それすらをも捉えられていた聖王の手法に則って世の中を正して行く。
それも、儀礼や刑法によって世の中を統制して行くことのほうが主体となり、
あえて殷紂のような放辟邪侈の許容のような緩和三昧を来たしたりすることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・文王より)

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246 2013/11/07(木) 13:29:51 ID:0bWCxo2JnY
人を吉方へと導く聖賢や仏神の言葉にも、末永く親しみやすい性質がある一方で、
相手を破滅へと陥れる鬼畜や邪神の詭弁にも、多少は親しみやすい性質がある。
そのため、いずれの言葉をより所とするにかけても、一定以上の精神的な安定を
得られる所がある。それは、陽があれば陰があり、善があれば悪がある
陰陽法則に即しても普遍的であらざるを得ない現象だといえる。

>>243の②のような意味合いを義や仁や忠や天といった言葉に付与することこそは
至当である一方で、①のような間違った意味合いを付与するほうがかえって、民間の
小人などにとっては取っ付きやすくなるということもまた、君子があれば小人がある
陰陽法則に根ざした普遍現象だといえる。陰陽法則は正しきと過ち、絶対真理と
完全誤謬すらをも陽と陰の関係として包摂し尽くしてしまうものであるため、
過ちを犯しつくすことこそを本是としているような邪教邪学の類いすらもが、
その法則から完全に逸脱したりすることが絶対にできないままであり続けるのである。

完全誤謬と罪悪の限りを尽くす、邪教邪学やその実践者すらをも完全に包摂し
尽くしてしまう代わりに、陰陽法則自体はそのような徒輩の一定内の自由すらをも
許容してしまうものである。時には近現代社会のように、そのような徒輩こそが
世界でも最大級の権勢を得て、欲しい侭に暴れ回るようなことすらもがあるわけで、
それがまたいつかは限界を来たして、破滅に見舞われることになるということだけが、
陰極まれば必ず陽に転ずる陰陽法則が、絶対的な運命として予言していることでもある。

そのような陰陽法則に基づく縁起をありのままに尊重しようとしているのは、むしろ
道家や仏教といった儒学以外の優等教学のほうである。儒学はむしろ、人間自身が
勧善懲悪の志しによって、陰陽法則の流れにすら逆らっての善行を心がけて行くこと
を奨励するものであるわけだから、そこは他学に二歩も三歩も譲る所であると言える。

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247 2013/11/07(木) 13:33:48 ID:0bWCxo2JnY
逆にそこが、陰陽法則を逸脱してまでの悪逆非道の伸張を企てるような邪教邪学に
対する「当て馬」として儒学適格である所以でもあるわけで、所詮はそのような
邪信の志しもまた、陰陽法則に即していつかは潰えざるを得ないにしろ、そのような
愚かな企てをなぜすべきでないのかということをより深く反省するための材料とする
上では、儒家教学上のより積極的な勧善懲悪志向こそが絶好のものとなりもするのである。

そもそも、より平滑な陰陽法則を尊重する観点から言えば、宇宙でも特筆して有機的な
地表条件を満たしているこの地球という惑星の上で、さらに独自に有機的な文明を形成
して行っている人類という存在自体が、普遍性に真っ向から逆らう波しぶきのようなもの
であるとすら言えなくはないわけである。そうでありながら、より絶対的な普遍性ばかり
を追い求めるよりは、瑣末な波しぶきとしてのあり方に徹するのも一つの手だといえる。

ただ、そのあり方が儒家のような勧善懲悪志向であったり、ある種の邪説が推進する
悪逆非道志向であったりするといった相違があるわけで、瑣末な波しぶき如きが
絶対にどちらかでなければならないなどということもありはしない。ただ、より
そのような刹那的な存在としての冥利に尽きようと思うのならば、悪逆非道よりは
勧善懲悪を志したほうがより満足のいく処があるといった差異があるだけである。

畢竟、だからこそ勧善懲悪は勧善懲悪であり、悪逆非道もまた悪逆非道である
というばかりのことですらあるといえる。結果的により満足が得られるから、
勧善懲悪も勧善懲悪たる一方で、どこまでも不満なままに終わってしまうもの
だからこそ、悪逆非道も悪逆非道であるというまでのことである。瑣末な波しぶき
の志し如きがあえて善と悪とに分かれる理由も、結局はそこに集約されているのである。

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248 2013/11/07(木) 13:39:14 ID:KHc94qfuDI:au
「其の学に安んじて其の師に親しみ、其の友を楽しみて
其の道を信ずれば、是れを以て師輔を離るると雖も反らざるなり」
「自らの修めている学問に安んじて師匠にも心から親しみ、学友との交わりを
楽しんで道そのものを信認していられるようならば、最初の師の下を離れたと
してもそれで退行してしまったりすることもない。(聖書信仰は、信者たち
自身が自主的にその道を信じてそこに安んじたりすることが出来ないからこそ、
信者たちを絶対神の下から離れさせることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)

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249 2013/11/08(金) 13:36:42 ID:oFNnVV0rKw
「満は損を招き、謙は益を受く(書経・大禹謨)」とは、一種の普遍的な因果法則
であり、特定の人間なり神なりによって好き勝手に采配を振るわれるべき法則でもない。

人間たち自身の身勝手な権勢が普遍的な道理すらをも覆い隠してしまっているような
世の中では、かえってこの法則までもが破綻したかのような事態にすら至ることがある。
だから、権力腐敗の甚だしかった明代末期に、儒仏道混交の理念に根ざして書かれた随筆集
である「菜根譚」においても、「(慢心めいた)聞こえの悪いような言葉にも、讒夫を卑しむ
目的があるのかも知れないし、(謙遜の利いたような)聞こえのいい言葉にも、偽善者の人気
取り目的が潜んでいるのかも知れない」などという注意を促す金言が記されているのでもある。

そもそも、人様の命や生活を好き勝手に左右してやろうとするような人為的な何者かが
存在するというのならば、そいつこそは最大級の慢心の持ち主であることが間違いない。
重罪を犯した人間に対して、命や自由を奪うような重罰を科す場合においてですら、
湯王や武王のように天威を駆るのでなければ、自らが慢心に陥って権力を乱用し始める
ようなことにすらなりかねない。いわんや、何の罪を犯しているわけでもないような
ただの庶民に対してですら虐政を加えて苦しめたりするようなことが合ったならば、自ら
の罪悪感を紛らわすためにも、半ば強制的にすら慢心を肥大化させていかねばならなくなる。

個々の人々の命から、人間同士の秩序だった睦み合いに、果ては天下国家の命運に至るまで、
恣意で身勝手に左右してやろうなどという思いを抱かないことが、まず第一の謙遜となる。
それは、そんなこと始めから不可能である民間の庶人から、やろうと思えばできなくもない
ような大権力者に至るまで、誰にでも共通することである。いい影響を及ぼすことにかけて
ですら、マッチポンプ故の弊害を伴っていたりしかねないものだから、善行の心がけが
純善たり得ているかどうかを見定めるためにも、まずはしっかり一所に踏みとどまって
無為自然の境地に落ち着いておくことこそが、最も肝心な謙遜への第一歩となるのである。

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250 2013/11/08(金) 13:39:10 ID:oFNnVV0rKw
権力の魔性に囚われて慢心を肥大化させてしまっているようなならず者が支配する世界
こそは、確かに大きな損失に見舞われた世相とも相成る。そのような慢心と共に世の中を
よりよくして行けるわけもなく、何かをしようとすればするほど暴政に結び付くばかりとなる
ものだから、養生を妨げられた人々も一層の生活上からの損失に見舞われて行くこととなる。

それは、権力者が神すらをも気取るほどの「慢心の殿堂入り」を決め込んだ所で、やはり
寸分たりとも解消されることのない問題点であり続けることが、神を気取る聖書信者こそ
が支配している今の世界が、人類滅亡級の害悪に見舞われていることからも察せられる。

権力者が天威を尊ぶことで自らの慢心を控えるというのならともかく、自分たち自身が
形而上の超越神を気取ることでより一層慢心を肥大化させて堂に入らせたりするものだから、
そのせいでまずは世の中が大損失に見舞われることとなる。世界が破滅級の損失に見舞われ
ていながら、自分たちこそは最大級の権力者でもあり続けているものだから、最終的には、
自分たちこそがその責任を負わされて、見るも無残な大自滅へと陥ることともなるのである。

形而上の超越神を気取る所に、慢心の逃げ道を見出したことほど、人類にとっての大いなる
過ちも他になかったといえる。それと比べれば、まだ核兵器の発明あたりのほうが、善用も
悪用も可能な科学技術上の発明であった分だけ、まだ弁解の余地があったことだといえる。

それこそが、人類にとっての最大級の過ちであったからには、超越神を気取ることで慢心を
肥大化させたことこそは、最大級の報いを以って償われねばならぬ罪過でもあるに違いない。
そのような過ちを二度と人類が犯したりしないようにするためにも、その手の慢心をへし折る
ための処罰こそは、他の如何なる刑罰にも増して厳重かつ徹底的なものとならねばならない。

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251 2013/11/08(金) 14:09:22 ID:pvvzScsOpk:au
「惟れ徳、天を動かす。遠しとして届らざる無し。
満は損を招き、謙は益を受く(この一文既出)。時れ乃ち天道なり」
「人間の湛える仁徳こそは、天運をも動かすものであり、それは最遠方にまで届かぬことのない
普遍法則であり続ける。慢心は損害につながり、謙遜は利益に繋がる。これが天道である。
(慢心を戒め謙遜を奨励しているのは変わりないが、それを司る天道もまた、
人間たち自身の因果応報の自業自得と密接に結び付いていることを示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)

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252 2013/11/09(土) 13:38:14 ID:48GeSq34EQ
老いも病もあれば、姦淫も闘争もある、現実社会の汚濁に忌避意識を抱く程度のことは、
人格的に未熟な人間といえどもあり得ることである。むしろ、そのような汚濁に対して
極端な嫌悪感を抱くことにかけては、14、5歳程度の未熟な少年あたりのほうが長けている。
その嫌悪感が現実を全く乖離して、世の中の改善のための着実な努力などに振り向けられる
こともないままに終わるのが問題となるわけで、それは、汚濁にまみれてきってそれでよし
とする「腐った大人」と共に、害悪の両極端を形成することとすらなってしまうのである。

カルト宗教あたりがそのような、現実社会の着実な改善のための努力を一切度外視した、
無軌道な社会嫌悪を増長させてしまう温床となる場合が多々ある。正統な仏門なども
世の汚濁を厭う点では共通しているが、同時に「ではそのためにどうすればいいのか」
という具体案が豊富に用意されてもいる。それに比してカルト宗教のほうは、ただただ
世の汚濁への嫌悪感を信者に増長させるばかりで、その結果として為すべきとされる手段
などは、ただ神を信じることだったり、教団に布施することだったりに止まるのである。

ただただ汚濁への嫌悪を増長させるばかりでは、それを開き直って汚濁を増長させるような
リバウンド勢力の助長にすら加担してしまうことになりかねないわけだから、総体的に見れば
より害悪とすらなり得るものである。にもかかわらず、その手のピューリタン的な宗教への
警戒意識などか未だに十分に働かせられた試しもなく、ただ汚濁を嫌悪する純心を温めて
いるからというだけの理由で、評価の対象にすらされてしまっていたりするのである。

人間にとってまず嗜まれるべきなのは、汚濁を完全に忌み嫌い尽くすことなどではなく、
最悪級の汚濁にすら平気でまみれてしまったりしないようにすることのほうである。
秦人やユダヤ人あたりが平気で欲するような、政商や食客や縦横家までをも多用しての
悪逆非道まみれにすら陥らなければ、人間社会も何とかやっていけるものなのだから、まず
第一にはそのような最悪級の堕落を予防することこそが心がけられて然るべきだといえる。

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253 2013/11/09(土) 13:41:01 ID:48GeSq34EQ
そのような心がけがあった上でなおのこと、より清廉な境地を追い求めて行く志しが
ある場合にこそ、その志しが着実な自他の改善のための原動力ともなって行けるのである。

重権力犯罪にまで手を染めるような、最悪級の汚濁だけは絶対に許さないとしているのが、
他でもない儒学道徳である。その儒学道徳はといえば、結構、清濁併せ呑むものであり、
飲酒も肉食も一夫多妻も、戦争行為ですらもが必ずしも否定されてはいない。それでいて、
人間にとっての最悪の所業としての権力犯罪だけは徹底的な非難や排除の対象として、
そのような所業に万人が手を染めないようにするための徳治の手管を数多用意してもいる。

それは、ただただ世の汚濁への嫌悪感を増長させる部類のカルト宗教に取り込まれて来た
人間などからすれば、あまりにも突拍子のない教学体系であるにも違いない。自分たちが
嫌悪して来たような分かりやすい世の汚濁のほうはほとんど非難の対象ともされぬままに、
ほとんど自分たちにとっては意味不明であるような「ある種の悪行」ばかりが徹底的な
排撃の対象となっているのだから、これほどとっつき辛い教学も他にないに違いない。

しかし、そのような内実を帯びている儒学こそが、確かに「万人が初歩中の初歩とすべき
教学」としての条件を満たしている。ただただ汚濁への嫌悪を増長させるような信教以上
にも、まず誰しもがわきまえておくべき最低限の人間道徳としての威風を湛えている。

しかれば、そのような初歩中の初歩たる人間道徳へのわきまえのためにこそ、ただ汚濁
への嫌悪を増長させるようなカルト宗教が広められることも避けていかねばならない。
その手の宗教が受容されてしまえばこそ、多少は許容されてもいいような些細な汚濁と、
それだけは許されてはならないと見なされるべき致命的な汚濁との分別も付かなくなり、
以って最悪の汚濁こそを警戒する儒学の存在価値までもが見失われることとなるからである。

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254 2013/11/09(土) 14:27:01 ID:MkRRDxbDgw:au
「易の興るや、其れ殷の末世、周の盛徳に当たるか。文王と紂の事に当たるか。
是の故に其の辞は危うし。危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしむ。其れ道は甚だ
大いにして、百物廃さず。懼れを以て終始すれば。其の要や咎无し。此れを之れ易の道と謂うなり」
「易が特に興隆したのは殷の末世、周が盛徳を湛えていた頃と言われている。文王が徳を育み、
紂王が情欲にまみれて放逸を来たしていた頃であるため、その手の記事にまつわる易経の記事も
警戒を重んずるものとなっている。文王のように物事をよく警戒する者は平らかならしめ、
紂王のように注意を欠く者は傾かしめる意図が込められている。その道は甚だ大いなるものであり、
万物を退廃させないだけの雄大さを秘めている。よく警戒を尽くすことに終始していれば、
咎もなく物事を成就させられる。これこそを易の道というのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

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255 2013/11/10(日) 15:44:31 ID:ecqrgyoSp6
愚行を助長する類いの言葉は、シラフで傍聴すればまさに「悪魔のささやき」で
あることが明らかなわけだが、ギャンブルで背負った借金をギャンブルで返そう
とするような愚行の悪循環状態に陥ってしまっていたりする人間自身からすれば、
まるで神からの救いかのように嬉しいものとして聞こえたりするものである。

効果的な助けなどというものは、善行を為す場合にかけてこそ、あまり期待が
できるものでもない。よっぽど立派な先達者なり師匠なりがいる場合に限って
それがあり得るし、しかも言葉での助けなどは、助けのうちでもむしろ浅いもの
の内に入る。武術などであれば、師範に手取り足取りの施しを受けたりするよりも、
自分自身が師範の洗練された技なり動きなりをよく観察して、その奥義を盗んだり
することが、より効果的な上達のための手段ともなって行ったりするのである。

実践にかけて、言葉だの手取り足取りだのによる助けがより効果的であるのは、
むしろ悪行に入るような部類の行為である。善行ほど、そのような緩慢とした
手段による伸びしろが見込めない一方で、悪行にはそのような手ほどきによって
行いが発展して行ける余地が多数存在する。それは、善行こそが人間にとっての
最大級の「最善の振る舞い」である一方で、悪行のほうは、それと比べれば
一段も二段も片手落ちであるような「児戯」としての側面があるからである。

然ればこそ、無念無想を自力で探求する座禅行こそが、善行にかけての助けと
なったりもする。臨済宗の看話禅などでは言葉を使った問答なども試みられるが、
それも最終的には何も考えない黙照禅に至るための道程とされている。言葉で
グダグダと言い訳する余地を完全に断ち切るための言葉というものもまたある
わけで、それは人が無駄を断っての善行へと邁進して行くための助けともなり得る。

座禅などしなくとも、思いっきり重労働なりスポーツなりで身体を動かして
疲れきったりすれば、何も考えないでだけはいられたりするが、それは、
自らが無念無想に至る高度な能力を身に付けることなどには決してならない。

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256 2013/11/10(日) 15:47:47 ID:ecqrgyoSp6
善行が必ずしもそのような体育会系の所業であったりするとも限らず、むしろ
「これだけはやってはいけない」というような致命的な悪行を徹底して踏み
とどまる所にこそ純然たる善行の可能性が開かれてもいるものである。だから
「恒産なくして恒心なし」というような小人然とした精神状態を座禅などに
よって克服して行くことにも、重労働などとは別個の意味が伴いもするのである。

誰かからの助言や助けもなければ、自分自身がグダグダと雑考を続けている
わけでもないような無我の境地においてこそ、真の善行も実行に移される。
助けがあるとしても、それはそこに至るまでの道程であって、すでに善行が
為されようとする時には、もはや師匠や先達者の下をも離れている。その、
一切無頼の境地に安住していられるのは、あらゆる人間のうちでも大人の男
ぐらいのものだから、膨大な研鑽を積んできた大人の男こそが、人間社会に
おける善事徳行の要ともなって行く。女子供や小人男が自分たち自身でその
ような役割を担うことも永久に不可能であるわけだから、それを可能とする
大丈夫の休憩中の接待役や、新たな大丈夫を育成していく上での助役
などの立場に徹していくようにもなければならないのである。

「中心より仁に安んずる者は、天下において一人のみ。大雅に曰く、徳の輶きこと
毛の如くも、民に之れを挙げるもの鮮なし。〜愛すれども之れを助ける莫しと」
「心の底から仁に安んじていられる人間は、天下に一人いるかいないかぐらいのものだ。
詩経大雅(烝民)に『徳は毛筋ほどにも軽いものなのに、民の中でこれを挙げようとする
者すらいない。徳行を為す者がいた所で、敬愛する程度で助けようともしない』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

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257 2013/11/11(月) 14:19:32 ID:awSkjT.f.s
法治主義社会における法律違反としての犯罪行為以上にも、仏門で
「実罪」とされている部類の罪悪を犯した場合にこそ、人は不可避
なる良心の呵責に苛まれることとなる。殺人や傷害や窃盗といった、実罪
であると共に法律違反ともされるような犯罪行為もあるから、そのような
法律違反を犯した場合にも、やはり良心の呵責を抱かされることとなる。
(実罪からかけ離れた徒法違反などの場合には、この限りでもない)

生活上からの通奏低音的な苦悩にさいなまれ続けるのには、カルト教義や
詭弁論理によって苦悩を紛らわしている人間といえども変わりはしない。
ただ、そのような気の紛らわしによって、自分がもはや苦しんではいない
ような気分になるだけのことである。そうであっても、自分自身の本心の所が
苦しみ続けていることには変わりないものだから、際限のない富や権力や名声
の貪りだとかの妄動を来たしたりもしないではいられなくなるのである。

詭弁や邪義で苦悩を紛らわしてみた所で、全く以って苦しみから抜け出せて
いないということが、真っ当な教学の見地から見れば明らかとなるものだから、
邪教邪学はそのような立場からの糾弾を避けるために、真っ当な教学の
排撃や根絶をも試みようとする。その手の邪教の神が唯一の超越神だから
異教異学を排するというのはただの口実であり、本当は、真っ当な教学
と比した場合の自分たちの教学のお粗末さが人々に知られないように
するためにこそ、他の教学をこの世から排しようともするのである。

そして、その手の試みが世界史上でも最大級に実現されてしまっているのが、
キリスト教の勃発から約2000年が経過した、今という時代である。人々の
苦悩を洗い落とす体裁を取りながら、実際には苦悩をかえって増大させて
しまっている類いの邪教が最大級に蔓延してしまっているのみならず、
そのような邪教の問題点を適格に糾弾する真っ当な教学の社会的な有効性
までもが殺がれてしまった状態にある。仏門もただ伝統文化として保全

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258 2013/11/11(月) 14:24:00 ID:awSkjT.f.s
されているだけで、その教義が実用の対象とされるようなことはないし、
聖書信仰レベルの稚拙な邪教を直接的な糾弾の対象とする上では、仏教以上
にも肝心要の役割を担う儒学もまた、権力道徳学としてのその本質的な
有用性をほぼ完全に無視された状態にまで追いやられてしまっているのである。

本当は心底の部分で苦悩し続けて来ているのに、あたかも信仰のおかげで
苦悩を洗い落とされたかのような演技をし続けて来たということがバレる
ことが、その手の邪教の信者にとっての、最大級の「恥」ともなる。

2000年にも渡って本心を偽る演技をして来たことの無駄さ加減といったら、
自分の五十センチ東側にある塵くずを手に入れるために、真西に向かって
地球を一周して、やっと手に入れるほどものことだといえる。まだ、東に
向けて手を伸ばして塵くずを手に入れて、それが塵くずでしかないことに
さっさと気づいていればよかったものを、それすらをも不能としたままで、
2000年間地球一周の旅をし続けて来たのだから、道化役にも程があるといえる。

苦悩にまみれた本心を偽らせる類いの邪教を信じさせられて来た人々にとって、
今までこそは地獄だったのであり、これからはむしろ、その地獄から抜け出して
行くためのリハビリ期間に相当するのだといえる。苦悩をより増長させる
原因となってしまうような妄動なども取り止めさせて、安静な中に自己を
見つめ直し、苦悩の種を自分たちの力で摘み取っていくことが試みられて行く。
それこそ、檻の中でだったりもするわけだが、そこでこそ、
地獄を抜け出す第一歩が踏み出されても行くのである。

「善を陳べ邪まを閉ずる、之れを敬と謂う」
「善い意見を述べることで邪な思いを閉塞させる、これを『敬』という。
(勧善懲悪の心持ちこそは邪心を塞ぎ、敬意を育む。自分ばかりが栄達
しようとするような野心がそのような効果を発揮することもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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259 2013/11/12(火) 12:16:03 ID:xvPrd6PwvY
「君子は和して同ぜず(子路第十三・二三)」の君子こそは、下手に雷同しないために
人との交わりにも節度を持たせるのに対し、「小人は同じて和せず(同)」の小人こそは、
雷同して馴れ合うままでいるが故に、人との交わりをやたらと嬉しがるといった法則がある。

付和雷同の小人を統制するためにこそ、信者へのウレシがりを共に促すカルトのドグマ
あたりが絶好ともなる。内容的にはさほど難しくもない一方で、他にはない独特の発想や
言い回しを用いることで、信者たち同士での結束感を高めたりする。あえて独特の方言を
用いることで同郷人同士での結束感を固めた島津時代の薩摩人なども同様な志向性を
帯びていたために、薩閥を源流とする今の日本の警察組織なども、極端に閉鎖的な傾向を
帯びてしまっている。付和雷同な小人の交わりは、交遊関係同士での結束感を高める一方で、
外界の他者への配慮や社交性を極端にそぎ落としてしまうものでもあるために、それが
仁政の妨げとなることを嫌って、君子も小人然とした付和雷同な交わりを避けるのである。

君子はそのような理由で付和雷同な交わりを避けて行くが、小人や女子はどうしたって
付和雷同なままでしかいられない所がある。そんな連中に君子がつき合わされれば、
「これを近づければ不遜たり、これを遠ざければすなわち怨む(陽貨第十七・二五)」
という、甚だ辟易させられるような感想を抱かされることともなってしまうのである。
そのため、所詮は女子や小人である以上は付和雷同でしかいられないにしたって、その
ような自分たちの拙劣な性向を恥じて、一歩も二歩も下がった態度でいるように心がける
ぐらいのことでなければならない。もちろん、信者のウレシがりまみれな付和雷同を
けしかける類いの邪教に入れ込んだりするようなこともないようにしなければならない。

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260 2013/11/12(火) 12:25:22 ID:xvPrd6PwvY
最悪の場合、人との交わりに多少の節度を持たせようとするだけで、「内向的」など
のレッテルを貼られるような所にまで世相が荒廃してしまう場合もある。今がまさに
そのような時代であり、とにかく付和雷同な人付き合い好みでいる人間こそが評価されて、
就職上での優先的な採用対象とされていたりもする。人材を登用する企業などの各種
社会的組織からして、すでにそのような小人の集まりでいるものだから、人付き合いの
中にも自分を通そうとするような人間こそは疎まれて、村八分や排除の対象ともされて
しまう。それは結局、「内小人にして外君子(易経・否卦)」という、最悪級の社会環境
となってしまってもいるからなわけだから、そのような大局的状況から打開して行かない
ことには、世の行く末もままならなくなるような事態がいつかは必ずやって来るのである。

付和雷同な小人ばかりで世の中が形成されてしまっている状態から、和して同ぜぬ自分
のある君子が先導する世の中へと転換して行くためには、権力機構の人材の総入れ替え
ぐらいは必須のこととなる。君子と小人では人付き合いの仕方からして異なるものだから、
両者が混交するような状態では、権力機構も機能不全に陥ってしまいかねない。そのため、
正規の公人身分ぐらいは、ほとんど完全に入れ替えてしまう必要が出てくる。国の人口の
数パーセント以上に相当するような人間を総入れ替えしてその業務を引き継ぐためには、
一時の混乱すらもが避け難くなるから、軍事制圧によって強制的に治安を維持しておく
必要などまでもが出てくる。決してそれ自体が最悪の事態なのではなく、権力機構が
付和雷同な小人ばかりで占められてしまっている状態こそは最悪の事態なのであり、
軍事制圧も兼ねつつ権力機構を刷新して行ったりすることは、そのような最悪の事態
を打開して行くための「落とし前」であるのだということをわきまえねばならない。

権力機構が小人ばかりで占められるような事態、そのような事態の到来を画策した邪教
なりならず者集団なりこそは、あらゆる害悪の元凶であったのだと知らねばならない。

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261 2013/11/12(火) 12:29:03 ID:PwY5itoqFQ:au
「直情径行有るは戎狄の道なり。礼の道は則ち然らず。人喜べば則ち斯れに陶し、
陶すれば斯れに詠し、詠すれば斯れに猶き、猶けば斯れに舞い、舞えば斯れに慍り、慍れば斯れに戚い、
戚えれば斯れに嘆き、嘆けば斯れに辟ち、辟てば斯れに踴る。斯れに品節する、斯れを之れ礼と謂う」
「ただ感情の赴くままに行動するのは蛮族の道である。礼の道はそうではない。人が喜ぶことがあれば
それに満悦する心持ちで迎え、満悦することがあればそれに詠嘆する心持ちで迎え、詠嘆することが
あればそれに躍動する心持ちで迎え、躍動することがあればそれに舞踏する心持ちで迎え、舞踏する
ことがあればそれに憤る心持ちで迎え、憤ることがあればそれに憂える心持ちで向かえ、憂えること
があればそれに嘆く心持ちで迎え、嘆くことがあればそれに胸打たれる心持ちで迎え、胸打たれること
があればそれに踊る心持ちで迎える。人付き合いにかけても節制を心がける所があるのを礼という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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262 2013/11/12(火) 23:09:31 ID:agnnv0aRqg
笠地蔵へ。

メール送りました。

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263 2013/11/13(水) 14:11:07 ID:1/jCz6EL2k
生まれつき全盲の人間には、光と闇の区別も付かない。目明きの
人間からすれば、それは闇の中であると見なせるわけだが、盲人自身
は光すら知らないから、光なき状態としての闇というものも知らない。

しかれば、目明きの人間が丹念に諭してあげるのでなければ、盲人も、
自らが闇の中にあることなどをさして悲観的にも思わないであろう。
「あなたこそは、目明きの人間が苦しまされるような視覚の惑わしにも
囚われないでいられている」などと賞したりしたならば、盲人のほうも、
むしろ自分のほうが恵まれた境遇にあるとすら考えるようになるであろう。

とはいえ、常識的にも医学的にも、身体面からの不具に苛まれていると見なせる
のは盲人のほうであるわけで、もしも世界中の人間が盲目だったりしたならば、
世の中も立ち行かなくなってしまう程もの致命的な障害でもあるのである。

先天的な病なり、後天的な病なり事故なりによってやむなく盲人と化して
しまうのは仕方のないことだが、自分から好き好んで盲人になるとまでなれば、
本人の人格すらをも疑わざるを得ない。盲人が全くの自力で生活を営んだり
するのもなかなか困難なことであり、周囲に迷惑をかけるようなことにも
なりかねないわけだから、そんな理由で盲人と化した人間までをも
哀れんでやらねばならないような筋合いは誰にもないといえる。

上記の、身体面の盲目にまつわる考察が、精神面の盲目にかけても、
ありのままに当てはめることができるわけである。精神的盲目こそは、
ただ闇を悲観しないのみならず、闇を光と履き違えて嬉しがることすら
企てなくもないわけだから、その救いようのなさたるや、自ら好き好んで
盲人となる人間以上のものであるということは言えるかもしれないが。

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264 2013/11/13(水) 14:16:11 ID:1/jCz6EL2k
好き好んで盲目となろうとするような人間こそは、やむなく盲目などの
身体障害に見舞われている人間に対する非礼すらをも犯しているといえる。
精神的盲目が社会規模で持て囃されている聖書圏の、障害者にまつわるテレビ
のドキュメンタリー番組なども、半ば障害者をもてあそぶような体裁で製作
されているものが多い。障害者たち自身も聖書信者だったりするものだから、
「自分が障害者であることを問題だとは思わない」「幸せな人生を送っている」
などの空元気な感慨を自分から述べたりもしているが、かつての奇形障害者の
見世物小屋然とした薄ら寒さを、やはり傍目には抱かされざるを得ない。

心身の障害をもてあそぶ不埒さを増長させて来たことは、障害者からの
報復などではなく、自分たちの態度姿勢のまずさからなる自業自得の災禍と
なって結実することとなるであろう。やむない理由によるわけでもないのに、
好き好んで障害を弄び、邪教信仰を通じて自分までもが擬似的な精神障害と
なって悪行への苦悩を紛らわしたりして来ているのだから、健常者であれば
当然のこととして抱かねばならないような良心の呵責すらをも蔑ろにして来た
が故の悪因苦果が、実物の経済的破滅などとなって押し寄せてくることになる。

障害は、弄んだりしてはならないからこそ、障害なのである。弄んだりすれば、
自分たち自身がその悪意に呑み込まれて破滅に見舞われることとなってしまう。
そのような事態に陥らないためにこそ、常人と比べた場合の不具に相当する
ような存在をふざけて扱うようなことはすべきでない。障害者たちのためという
よりは、自分自身の自重のためにこそ、そのような態度を控えねばならない。

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265 2013/11/13(水) 14:17:14 ID:8T2xsOF47Q:au
「情偽相い感じて利害生ず。凡そ易の情は、近くして
相い得ずんば則ち凶たり、或いは之れを害えば、悔ありて且つ吝かなり」
「真情は感応して利を生じ、虚偽は感応して害を生ずる。易に基づく真情としては、
近いもの同士の相性が悪いようであれば凶であり、さらに損ない合うようであれば
悔いや吝かとなる。(いくら形而上の架空神に対する振る舞いとはいえ、真情に
即して嘘偽りなく『自分には罪がある』と告白するキリスト教徒の姿勢は利益に
結び付き得るものである。また隣人愛で近隣との関係を穏便に済ませようとする
こともまた、最悪の凶相に対する一時逃れとして有効となる。しかし、天地万物を
司る易の法則すらをも逸脱するような形而上の超越神ばかりをその教義の根本に
据えている以上は、異教徒や遠人だからといって危害や収奪の対象として来たような
人々までをも、神などより遥かに近しい人間として扱わなければならなくなる程
にも世界が狭くなった時に、キリスト信仰も破綻せざるを得なくなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

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266 2013/11/13(水) 16:13:37 ID:8T2xsOF47Q:au
植草、俺は本当に全くこたえてないぞ。

おまえ自身が疲れてるんなら、休めばいいさ。

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267 2013/11/13(水) 21:07:53 ID:eumYuPAkgA
メールを送りました。

返信する

268 2013/11/14(木) 14:54:42 ID:ToOQAusfp.
「始めに毛筋ほどの過ちを犯していたなら、後々に千里の過ちへと発展する(易緯)」
というほどなのだから、始めに人間を生贄に捧げるような大いなる過ちを犯して
いたならば、後々にどれほどの過ちとなるかすらもが知れたものではない。
そしてその結果こそは、人類滅亡の危機が眼前に迫っている今という世相でもある。

「人間を生贄に捧げる」という発想自体は、太古の昔から洋の東西を問わず存在している。
ただ、中国や日本などの極東社会では、儒学の勃興と共にそれが禁止されて行ったし、
インドや東南アジアなどにおいても、仏門出家者などが安易に死ぬことではなく、
厳しい精進修行やそれに基づく功徳の回向などの挺身的な行いによって人々を
利する心がけを広めていったものだから、安易に死んで生贄となるような
ことは、それと比べてさして優れたこととも考えられなくなったのである。

人間たち自身の努力精進や品格の尊重が、世の中総出で疎かなままでいるような
未開地域においてこそ、人身御供風情がやたらと神々しいものとして取り扱われたりもする。
人間、誰しもいつかは死ぬのだし、生きてる内から死ぬ以上の苦労を重ねることで本当に
大きな成果を挙げることもできる。にもかかわらず、人身御供ばかりを嬉しがったり
するというのなら、そのような人間は諸行無常の真理もわきまえられていなければ、
一定以上に甚大な努力を積むことの価値も知らない未熟者であることが間違いない。

そんな人間しか存在しないような閉鎖的地域であればこそ、人身御供が神がかったものと
してすら扱われたりするのだから、その手の地域の文化的な未開さ加減こそは、電気も
水道もガスもないような地域の未開さ以上にも早急に克服されて然るべきものだといえる。

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269 2013/11/14(木) 15:03:59 ID:ToOQAusfp.
どうしたって、諸行無常の真理だとか、人身御供を超える尽力の価値だとかをわきまえ
られない類いの人種というのもいる。儒者が「小人」と呼ぶ類いの人間に特にその手の
性向の持ち主が多いが、そのような人種が世を牛耳ったりまではしないようにするのと、
牛耳った挙句に自分たちレベルの至らなさを万人にまで強要しようとし始めたりするような
ことにだけはならないようにするのが肝要である。自力作善の仏門を尊ばせるなどする
ことで、むしろそのような人種すらもが、自分たちの性分を立ち萎えにさせたほうがよい。

当該の人間や地域の精神文化上の成長度を計り知る上で、確かに人身御供への批評意識の
如何が格好のパロメーターともなる。そんなものに価値を見出さないでいられるような
人間こそは精神的にも成長している一方、思わず嬉しがったりしてしまうような人間は、
心根の部分に致命的な未熟さをくすぶらせたままでいることが確かだといえる。物質文明の
開発がいくら進んだ所で、精神面がそのような未熟さのままでいるようでは、キ千ガイに
刃物ということにすらなるわけで、それほど致命的な片手落ちの過ちも他にないことになる。

刀剣のような原始的な武器一つでも、その真っ当な駆使によって世の中を安寧へと導く
ことができるが、それよりも遥かに甚大な威力を持つ近代兵器によってですら、紛争を
激化させこそすれど収拾はさせられなかったりする。その根底にも、人間たち自身が
ヘタに命を軽んじたりすることなく、最善の努力を積んでいく堅実さの有無という命題
が存在しているわけで、世の中を安寧へと導くためには、兵器の強大さなどよりも、
そのような堅実さのほうが遥かに重要なものであることもまた確かなのである。

「君子は〜忠にして犯さず」
「君子は主君への忠義のためにこそ、罪を犯したりしない。
(拠り所とする相手に甘ったれたりするのは、小人の道である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

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270 2013/11/15(金) 15:21:27 ID:GaaF4lAlV.
古流の武術の極意に「一所に居着かない」というのがある。
まるで、一ヶ所に踏み止まればそこから亀裂を生じてしまいかねない薄氷の上でも歩むようにして、
決して一所に止まらないような心持ちでいることで、臨機応変な体勢を保ち続ける。それは別に、
歩行や走行の間中に限らず、座標上の一点に止まっている場合や、さらには座っている場合にまで
共通することである。正座中ですら、完全にそこに居座るよりは、脛裏と腿裏の間に紙一重程度の
隙間を持たせておくような心持ちで居たほうが、長時間座っていても足が痺れないでいられたりする。

座禅もまた、結跏趺座で完全に一所に身体を落ち着けるのと引き換えに、
心中における無限の自由を模索して行くものである。あらゆる仏道修行の内でも最もストイックかつ
方便的な要素を排しているのが座禅行であればこそ、禅門には仏神への帰依のような要素もほとんどない。
(あっても極々補助的なものに止まる) それでいて、何物にも囚われない精神の自由を追い求めて行く
わけだから、座禅もまた一所に居着いてしまわないことをその本義としているのが明らかだといえる。

実際問題、人は一ヶ所に止まるということもあるわけで、それは「動かざること山の如し(孫子)」
という兵法上の極意ですらあり得るわけだが、「一ヶ所に止まって動かないことそれ自体が目的」
とまでなれば、これは愚かしいこととなってしまう。生物に命を吹き込んでいる魂魄すらもが、
いつかは生体を離れて生物を死に追いやってしまうというのに、その生物の一員に過ぎない人間なぞが
一所に止まって動かないことばかりを金科玉条にしてしまったりするのでは、諸行無常の真理の荒波に
うちひしがれて、いつかは悲惨な大破綻を招くことまでもが避けられなくなる。

一所に止まる愚かしさを開き直る変わりに、そのような心持ちを悪人正機説の如き善巧方便に乗せつつ
念仏に帰依することでの自浄作用を図って行く、阿弥陀信仰の如き超絶技巧の信教もまたあるけれども、
神仏への依存レベルの帰依を促す信仰第一型の宗教としては、むしろ奇特な部類の代物だといえる。

返信する

271 2013/11/15(金) 15:30:24 ID:GaaF4lAlV.
いま現在、アブラハム信仰という形で、世界人口の半数にも上るような人間が、
とにかく神への帰依という一所ばかりに止まることを絶対無謬の本義としてしまっているという、
危機的な状況が続いている。東洋にだって神仏信仰ぐらいはあるが、それが精神の凝り固まりを
奨励するようなものでまであるわけではない。そもそもが多神教信仰であるものだから、別個の神仏を
信じている人間同士での関係を保全するためにも、信仰がドグマとまで化してしまうことが許されない。
一方で、唯一絶対の神への万人の服従を促すアブラハム信仰などにはそのような節度は期待
できないわけで、実際に、同じ神への帰依をしているとされる人間同士での付き合いが、
より一層の精神の凝り固まりを助長するようなことにすらなってしまう。

世界の半数にも相当するような人間が、一所に止まるようなことばかりをドグマに据えてしまって
いるからこそ、世界も急激な破滅へと向かいつつある。どうせ皆いつかは死んで土に帰らざるを得ない
のであるにしたって、現存する命を多少は大事に扱うか、最悪の破滅に陥らせるかでは相当な品性の隔絶が
あるわけで、あえて破滅に陥らせたりすることが、愚かか否かでいう所の愚かであることにも間違いはない。

古武術の極意でもある「一所に居着かない」という姿勢は、長年日常から心がけていれば腰痛や膝痛
などの予防にもなる。一方で、ドカドカといちいち踏み止まるような立ち居振る舞いでいたならば、
若い内はよくても、年老いれば各種の関節痛に悩まされるようなことにもなるし、いちいち
居着こうとして来た心持ちが、臨終に際しての耐え難い苦痛となってしまったりもする。

特に、アブラハム教圏の中でも聖書圏の文化的老齢化が著しい昨今、せめてでも苦しい老後を送らされたり
しないためには、一所に居座るような心持ち全般を、その信仰と共に卒して行く必要がどうしたってあるのである。

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272 2013/11/15(金) 15:41:46 ID:AtJbnMGRPY:au
「富貴は是れ人の欲する所なるも、其の道を以って之れを得ずんば、処らざるなり。
貧賤は是れ人の悪む所なるも、其の道を以って之れを得ずんば、去らざるなり。
君子、仁を去りて悪くにか名を成さん。君子は食の終うるの間も仁に違うこと無し。
造次にも必ず是れに於いてし、顛沛にも必ず是れに於いてす。(一部既出)」
「富貴は誰でも欲するものだが、道義に即するのでなければ、それを得たりはしない。
貧賤は誰でも嫌がるものだが、道義に即して富貴になれないのなら、あえてそうであることを去らない。
君子は仁を去ってまで名を成すような真似はしない。君子は食事を終える間ほどの一時ですら、
仁に違わないようにする。急変の事態にも仁に根ざし、革命の時にも仁に根ざしていようとする。
(仁も行動にかけての規範であり、完全に合致したままでいようとしたりすれば、顔回のような
無理が祟っての夭折に見舞われたりもする。むしろ仁こそが、不行跡を去るための禁止規範に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・五より)

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273 2013/11/16(土) 14:57:04 ID:g2XmgjvFLU:au
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
「賢人を見ればあやかろうと思い、賢くない人間を見れば自らの内に省みる。
(以下の引用の通り、君子こそはそこで自らの内に疚しき所がないことを知るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)

「司馬牛君子を問う。子曰く、君子は憂えず、懼れず。曰く、憂えず懼れずんば、斯れを之れ君子
と謂うのみか。子曰く、内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え、何をか懼れん。(一部既出)」
「門弟の司馬牛が君子についてお尋ねした。先生は言われた。『君子は憂えたり恐れたりしない』
司馬牛。『憂えたり恐れたりしなければ、それで君子と言えるのでしょうか』 先生は答えられた。
『自らの内に省みて疚しい所がないのだから、どうして憂えたり恐れたりする必要があろうか』
(蛮勇の徒や注意欠陥障害者でも憂えず恐れない程度のことはあるものだから、君子が君子で
あるが故にこそ憂えたり恐れたりしない理由を孔子も補足として提示した。そしてその理由
こそは、人間が内面から清浄たり得る場合があることを示すものともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)

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274 2013/11/16(土) 14:58:03 ID:H5OPR.ClSU
凡そ、人間にとって粗悪とされる劣情だの悪念だのは皆、外的な事物をその元凶としている。
耳目口腹やその他の感覚の快楽を助長するような外的な事物に翻弄された結果、本性の部分
にある善性が見失われて、心が濁念に囚われた状態と化してしまう。そこからありとあらゆる
悪念や劣情や、それを原動力とした愚行や悪行が派生することとなってしまうのである。

人間の心が外的な翻弄によって濁念の塊と化してしまってから、そこで人格が固着してしまう
ものだから、この世には生まれつき性悪な人間が存在するとすら時に思い込まれてしまいもする。
どこでそのような悪念を湛えるようになってしまったのか、他人である場合には必ずしも察せる
ものではないから、そういう人間も中には居ると見なしたほうが安易に片付けやすくもある。

つまり、自分自身もまた安易に物事を片付けたがるような慢心の持ち主である人間こそが、
「この世には生まれつきの悪人がいる」などと決め付けようともするわけで、さらに怠慢が
エスカレートした場合には、「人間はみな本性の部分が悪であり、そこからありとあらゆる
濁念が派生する」などという転倒夢想にすら陥りもする。そのように見なすこと自体が本人
自身の救いがたい慢心の現われであるわけだから、悪念による悪念の自己弁護に過ぎない
ものであると捉えて、本気でその物言いを聞き入れてやったりしないことが適当となる。

いちいち個々の他人の境遇を調査するまでもなく、生まれや育ちの不遇さによって、
幼少期から濁念を湛えてしまうような人間が存在し得るということは、多少の思いやりが
自分自身に備わってすらいれば、常識的な一般論として諾えることのはずである。それも
できないと言うのならば、そうである人間自身に決定的に思いやりが欠けていることが
間違いないわけで、思いやりのない人間が思いやりのない人間を鑑みた結果として、人間の
本性が悪であったり、そうであり得たりするなどという結論に至ってしまいもするのである。

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275 2013/11/16(土) 15:15:25 ID:H5OPR.ClSU
上記のような理由があるものだから、性悪論や性悪実在論こそは、悪人に好まれもする。
そのような自論を唱えている人間たち自身からして、思いやりに欠ける慢心の持ち主で
ある場合がほとんどなわけだから、「蛇の道は蛇」で、論者までもが自分たちと同類
である性悪論や性悪実在論こそを、悪人もまた慕って是認したがるのである。

そうして、悪人どもが性悪論者と共に勢力を拡大して行った結果、さらに今度は、
世の人々が思いやりを育んで行くことすらもが憚られるようになる。他人の境遇を察して
やることもできないような思いやりのなさこそが、性悪論を是とするにも足るものだから、
性悪論が是認されている一般社会に同調させられることを通じて、本来は悪人でもなかった
ような人間までもが、一定以上の思いやりのなさを強制させられるようになるのである。

「朱に染まれば赤となる」ならぬ、「性悪論に染まれば悪となる」という事態であり、
「悪の広まること燎原の火の如し(左伝・荘公十四年)」という格言の根拠もまた以上の
ようであるといえる。悪が火種なら、性悪論はその火種に注がれる油のようなものであり、
性悪論を基調とした邪教信仰ともなれば、火種に投じられる高性能爆薬もいい所だといえる。

そのような、悪の体系的な広まりを予防するためにも、性善論を基調とした孔孟や朱子系の
儒学を広めて行くようにすべきだといえる。それはそれで大仰な性善論の体系であるわけで、
無為自然を尊ぶ道家などからすれば「いらんことしい」な作為の塊だとも見なされるわけだが、
悪の広まりにも上記のような体系性が備わり得るからには、それを相殺するための体系と
しての儒学が有用にもなるといえる。最も、儒学にも荀子のように、性悪説を唱える異端の
学派が存在してもいたわけだから、それを反省材料として行くこともまた必要となるわけだが。

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276 2013/11/17(日) 13:18:47 ID:7IxfCz4Ytk
善の性質は水のようであり、悪の性質は火のようである。
低い所へと流れ落ち続ける水のようにどこまでも謙ることが善徳に繋がる一方、
高い所へと上り続ける火のようにどこまでも思い上がることが罪悪に繋がる。
水と火も相容れなければ、火の燃料となる油と水もまた相容れないように、
善と悪もまた根本的に受け入れない所があり、両者が並存する以上は、
どちらかが一方に打ち勝って、もう一方が打ち負けた状態であらざるを得ない。

火や油の活用が文明の発展をもたらしたように、悪もまた必要悪であり得る。
陰湿で幼稚な女の性向なども善か悪かでいえば悪だが、そのような幼稚さで
いればこそ低い目線からの育児にも務められる。商売人の私利私欲ばかりを
貪る性向もやはり粗悪なものであるが、そうである商売人の活動によってこそ
都市社会が健全に機能して行くことともなる。それはそれで、世界から根絶
されるべきとまでは言えない要素であるわけだけれども、そのような女子供
や商売人の粗悪な性向が、全世界の習俗すらをも乗っ取るようなことにまで
なれば、世界もまた破滅の様相すらをも呈さざるを得なくなる。それはもう、
火の取り扱いを疎かにしたせいでの大火事もいい所なわけで、その原因となる
ような火の不始末や放火が許されていいはずもないのと同じように、粗悪な
部類の人性もまた、社会規模では抑制されて行かねばならないものである。

一方で、水の取り扱いもまた、場合によっては問題を来たす場合がある。
脆弱な堰で大水をせき止めたり、地の利に全く沿わないような用水路を
築いたりすれば、そのせいでの洪水や渇水までもが生じてしまったりする。
それはちょうど、真の善徳を尊ぶ教学である儒学や仏教の享受の仕方を
取り違えてしまった結果、権力腐敗や教団腐敗を来たしてしまったりする
ことに符合する有様だといえる。儒教の序列志向を極端な上下関係の強制
のために濫用した結果、下民が禽獣の如き愚民の群れと化してしまった
近世までの朝鮮だとか、天台宗や本願寺が一時は武装勢力としてまで
強大化してしまった日本の仏教界などが、その実例に当たるといえる。

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277 2013/11/17(日) 14:06:05 ID:7IxfCz4Ytk
水の取り扱いにも、火の取り扱いにもそれなりに気を付けなければならない
のと同じように、善と悪の取り扱いもまた、慎重かつ適切なものでなければ
ならない。いずれも偏重と軽んじの両方が大怪我に繋がりかねないものであり、
今などは、善徳の軽んじと罪悪の偏重が相まって大災厄をもたらしている時代だと
いえる。だから、より善徳を尊んで罪悪を除けていかねばならないとはいえるが、
それがまた儒教や仏教の偏重による腐敗だとか、女子供や商売人を虐げすぎた
せいでの愚民化などに繋がるようなことがないようにしなければならない。

儒教や仏教を偏重し過ぎたせいでの腐敗に対しては、目付や寺社奉行の
ような監察官の権限の強化などを講ずることでの予防に務めるべきだといえる。
罪悪を忌み嫌うが故の、粗悪な人性の持ち主たちへの虐待を防ぐためには、
本人たちにもそれなりの身分からの保護は講じてやるが、自分たちの性向を
カルト宗教などによってまで広めようとしたりすることまでは許さない
といった風な、機転の利いた抑制措置を講ずるなどすべきだといえる。

それこそ、手堅い治水や、大火の根元を消し止める厳重な火の取り扱いとなるわけで、
結果として水4:火1、善4:悪1程度の配分量で世の中が取りまとめられていった
時に、世の中も最上級に安定した状態を手に入れる。ただ安定しているだけでなく、
むしろ粗悪な人種の部類とされる女子供や商売人すらもが分相応の立場に与れて、
可愛がりようがある程度の楚々とした振る舞いでいられるようになるのである。

「伯の東せし自り、首は飛蓬の如し。豈に膏沐の無からんや、誰に容を為すに適さん」
「愛するわが夫が遠征に旅立ってから、私の髪もスズメの巣のような有様です。
誰に見せる必要があるわけでもないのに、どうして油を塗って整えたりする
必要があるでしょうか。(遠地の夫を慕うあまり整髪油も断つ良妻の詠う歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)

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278 2013/11/18(月) 16:13:33 ID:UGy6wF5RMY
孟子の「膏沢民に下る(離婁章句下・三)」という言葉遣いなどからも分かるとおり、
「油(膏、脂)」は一種の豊かさの象徴である。豊かであることすなわち悪という
わけではないけれども、贅沢とまでなれば慢心の助長などにも繋がりかねないから、
>>277の詩を詠んだ女性のように、夫の前でもない限りは整髪油を使わないで
いようとするような約やかさもまた、一つの美徳となり得るわけである。

日本でも特に、獣脂を食することは肉食の忌避などを通じて控えられて来た。
それこそが独特の美味であったりもすわけだけれども、あえてそれを避けて、
栄養面では肉食より優れている面の多い魚肉食を主体ともして来た。それが、
日本人に中国人や朝鮮人とは全く隔絶した清廉な文化文明を育ませる原動力とも
なっていたわけで、肉食が全面的に解禁されてしまった明治以降にはもはや、
日本と中朝の文化的隔絶を決定付ける要素なども立ち消えになってしまったのである。
(それでもまだ、中朝人以上に清廉を心がける気風が多少は日本人にも残されているが)

油とも同様な富の象徴として「酒」があるが、「礼記」の郷飲酒義第四十五には、
「酒は吸うようにしてチビチビと飲むことで、倹約の心がけを示す」とある。
脂ぎった食い物と酒こそは暴飲暴食の対象ともなってしまうわけだから、肉食や飲酒
に対して比較的寛容な中国においてですら、そういった礼節が尊ばれていたのである。

富は、真理であろうか。むしろ真理の逆ではないか。

金も増えたり減ったり、食料も食えば減り、食わなくても腐ったりする。ダイヤで
すら一定の角度から叩けば割れてしまうし、金ゴールドも実用してれば目減りして行く。
そのような、増減損益の甚だしい富の魅力に惑わされて、人々も不増不減の真理を
見失ってしまうわけだから、油や酒やダイヤや金といった物品が象徴するような
富こそは、真理の対蹠に位置する存在であるとすら言うことができる。

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279 2013/11/18(月) 16:19:40 ID:UGy6wF5RMY
真理の対蹠ないし、まがい物の真理たる富こそは、むしろ容易く人々を魅了する。
それと比べれば本物の真理は虚空の如くであり、未熟な人間であればそこに
嫌悪感すらをも抱きかねないものである。それは結局、「現象は堅持される
ことのほうが難く、崩壊していくことのほうが容易い」というエントロピー
増大則にも根ざした鉄則であるわけで、それはそれで諸行無常の真理にも
通ずる法則であるわけだから、嘆いた所で仕方もないことだといえる。

利き手が右手の場合、日本刀は右手だけで振ったほうが刃筋も通って剣速も上がるが、
右手だけでばかり振っていればあっという間に肩や腕を壊すことになる。そのため、
把持だけは完全に左手の役割として、右手には刀の誘導の役割だけを負わせるように
したほうが堅実なる。それこそ、左手が真理や道理への尊重に、右手が富裕の追求に
符合した剣の振り方となるわけで、どちらが欠けても健全な剣術は成立しないように、
真理の尊重と富裕の追及もまた、どらかが完全に欠けるようでは人間味がなくなるのである。

「鼎の耳革まり、其の行塞がるる。雉の膏食われず。〜鼎の耳革まるは、其の義を失えばなり」
「鼎の取っ手が取れたために、持ち歩くことができない。せっかくの珍味であるキジの
油も誰にも食べてもらえない。鼎の取っ手が取れたのは、もはや義を失ったからである。
(容器の取っ手が取れた程度で取り回せなくなる油が、偏在的な真理の喩えとしては
不適なものであることを示唆している。『礼記』内則第十二では子が孝行として珍味の
油脂を親に提供する描写が多々あるが、油は富の象徴であればこそ、むしろ自分が
然るべき相手に贈呈するものとして用いることこそが相応しいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・九三‐象伝より)

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280 2013/11/18(月) 18:40:33 ID:wWSJcHDerY
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6052822.htm...
なぜ日本の刀は両手であつかうか、という問いに間接的に答えを言っても分からないようだから、ズバリ答えを言うけどね・・・。

示現流の話で、

示現流は、初太刀での一撃必殺を旨としており、正面から初太刀を受けると真剣でもへし折られ、仮に折られなかったとしてもそのまま押し込まれてやられてしまう可能性が高く、かわすのが困難なためである。
実際、幕末期に示現流と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいた事は有名である。

と言う話があるように、両手で上段から切り込むと、片手で対処する所か両手でも簡単に対処出来ないんだと言う事・・・そういう答えが戦国時代には、もう出てるから両手で使うのが結論な訳です。

まあ、日本の刀剣の技術と言うのは両手で上段からの一撃に集約されるんだよ。

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281 2013/11/19(火) 07:41:19 ID:kHKCGO/mfY:au
あのね、示現流の生まれた薩摩では、「抜刀即処罰」だったから。
(謀反を極度に恐れる秦人島津の意向で)

だから薩摩拵の鐔には、刀と鞘を紐で繋ぎ合わせて
抜けないようにする穴が二つ開けられてもいる。

そんな薩摩人の、軽い棒きれ主体の剣術稽古の流れを汲んでいるのが
今の竹刀剣道でもあるわけでね。飛び込み打ちだらけな上に、
手の内も疎かなあんな剣の振り方では、真剣の威力は絶対に活かせない。

薩摩軍が幕府軍を圧倒したのは、一にも二にも、大坂豪商から借りた金で
グラバーから購入した新型兵器がものを言わせたからであってね、
連中の田舎剣法なんかが役立ったからじゃない。剣術にまつわる幕末の
武勇伝なども、それを隠蔽するための誇張である場合がほとんどだから、
新撰組の活躍のような話の具体性にも欠けている。

北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬も、
スミス&ウェッソンの拳銃で奇襲相手を射殺したことがあるだけだ。
二重身で自分自身が「大きな的」になってしまう北辰一刀流の技法も、
竹刀と防具での持久戦には有効だが、撫で斬り一つで命を落としかねない
真剣勝負では、そのままの姿勢での早々とした逃亡に有効となるばかりだ。
(新当流や新陰流が基本とする一重身でこそ斬撃も最強となるが、
走って逃げたりするためには体勢の転換が必要ともなる)

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282 2013/11/19(火) 09:43:55 ID:kHKCGO/mfY:au
その、一重身での斬撃が、利き手だけでの振りの時に最強となる。
適切な手の内で振れば、鈍重な木刀でも爆音のような風切り音を立てるようになる。

ただし、十回も振れば、三日は筋肉痛に悩まされることになる。
両手なら千回でも難なく振れるような人間であっても。

自分の筋力が自分の腕を自業自得で壊すんだから、鍛錬でどうにかなるもんじゃない。
宮本武蔵も二刀流を常用していたわけでなし。

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283 2013/11/19(火) 15:00:12 ID:fV3DEkt7Wc
実の親こそを尊重対象とし、すでに亡き先祖をも神仏として
尊んでいくようにすることでこそ、そうする本人たち自身が、
仁政徳行にかけての最善を尽くして行けるようになる。

自らの衣服飲食を悪しくしてまでの先祖崇拝を心がけていた夏の禹王こそは、
破足になるほどもの東奔西走と共に治水事業に尽力し、洪水を治めて五穀の豊穣に
貢献したというのだから、鬼神への崇敬や孝行こそは、「困ったときの神頼み」
でしかいられなくなるような災厄を未然に防いで行く要にすらなることが分かる。

自らの親先祖を尊ぶからには、他人がその親先祖を尊ぶことをも認めなければ
ならない。それがまた、人間社会の多様性を尊ぶ大人びた価値観の醸成にも
繋がって行くわけで、それぞれに個性を帯びた人間同士が、お互いに分業し合って
世の中を盛り立てて行く上での円滑さを推進していくことにもなるわけである。

情念に即してみても、親には親しみたい気持ちになりやすいものだし、公共性に
即して考えてみても、上記のような理由に即して、親先祖への崇敬が非常な有意義さ
を帯びていることが分かるのである。何ら問題とすべきでない健全性の極致こそは
親先祖への崇敬の心がけであるとすらいえるわけで、優れた親先祖に恵まれたおかげで
そのような心がけを自然と受け入れられる人間ほど、幸せな人間も他にないといえる。

親の素行がろくでもなかったり、自分自身が次男三男で長男ほど可愛がられなかったり
すれば、孝養や先祖崇拝を心がける意識も育みにくいものだけれども、だからといって
それを疎かにすれば、自分自身の徳性や品格を損ねるばかりのこととなるのみである。
孔子のような妾腹の私生児であろうとも、先祖供養や御家事情の整理に務めることで
聖人君子としての大成を克ち得た実例があるわけだから、決して自分の親先祖の
敬いがたさにかまけて放蕩したりすることが正当化までされてはならないといえる。

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284 2013/11/19(火) 15:07:21 ID:fV3DEkt7Wc
親先祖への崇敬は、「困ったときの神頼み」の対象になるような神への信仰などと競合
するものではない。信敬する目的からして、自力作善と他力本願という真逆の代物である
わけだから、始めから前者を選択する者は後者を比較対象とすらせず、後者を選択する
者もまた前者を引き合いに出したりすべきでない。自分が望むような効験を親先祖への
崇敬が発揮してくれないからといって、そこに価値がないなどと思い込むべきでもない。

大体が、「困ったときの神頼み」を信条とするような人間こそは、親先祖の依存対象
としての脆弱さに見切りを付けてそうなってしまっていたりするわけだから、親を
依存ではなく自己修練のための材料として見ることなども始めから全く想定すらして
いないのである。親先祖に対する姿勢が成人後に至るまで、どこまでも未熟な子供
止まりのままでしかないからこそ、親先祖への本格的な崇敬に務めることが自らの
成長に与するなどということも、全く度外視したままでいしかいられないわけである。

人間としての健全さが親先祖への崇敬によって極められるのと同じように、人間として
の志しの低さもまた、親を依存の対象としてしか見られない所でこそ致命的に固着して
しまうのである。人類という種族もまた、これからも多少は進化したり退化したりして
行く生き物であるわけだが、その人類が、前世代への崇敬にすら及べるときにこそいま
以上に進化し、前世代への依存止まりのままでしかいられない時にこそ退化してしまう
に違いないわけだから、生物として見た場合にも、両者の優劣は見え透いているといえる。

親先祖を尊ぶ道こそは、今以上の向上の道、尊ばないでいる道こそは、
さらなる堕落の道。心情的にすら、人間は親を親しめるように出来ている
のというのに、どうして前者の向上の道を選ぶことが勧められないでいようか?

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285 2013/11/19(火) 15:09:01 ID:kHKCGO/mfY:au
「今夫れ山は、一拳石の多きなるも、其の広大に及びては、
草木之れ生じ、禽獣之れに居り、宝蔵焉れに興る」
「山も一部分を見ればただの石ころの集まりだが、それが広大であるものだから、
多数の草木が生じ、動物たちもそこに住まい、鉱脈に数多の財宝を含有するのである。
(山の一部分を見て『ただの石だ』などと決め付けるだけの了見の狭さ
でいれば、親先祖を尊ぶことなどもなかなか難しいことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)

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286 2013/11/19(火) 17:36:16 ID:kHKCGO/mfY:au
別に、鹿児島生まれでも鹿児島育ちでもないが、
俺にも多少は薩摩人の血が流れてるから、薩摩の問題は他人事でもない。

薩摩人の血筋自体は、特濃の縄文系で、律令制時代には皇宮の警備役も務めた
由緒正しいものなのだから、それを恥に思ったりする必要もないわけだけれども。

如何せん、武家時代には島津という極悪非道の手合いにたぶらかされて、
死兵や食客のような過度の捨て身さや、身内にだけは極端に甘い閉鎖意識を
植え付けられたりしているものだから、そこは決して褒められたもんじゃない。

そのような問題があるせいで、今じゃ財界人はおろか、朝鮮パチンコ利権にすら
頭が上がらない、玉抜き状態の薩摩っぽ警察が出来上がってしまってるわけだから、
連中に男としての名誉を取り戻させてやるためにも、決して甘い姿勢で扱ってやったりはしない。

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287 2013/11/19(火) 18:45:23 ID:3.Z.3qBASU
両手の流派にも片手の型がある。
馬上なら片手、戦場では片手剣だろうと両手剣だろうと槍が有利、
嘘のような本当の話として手裏剣術の手裏剣を刀で野球のバントように受けるというのもある。
(人間が投げるので手裏剣でも野球と同じく速度は時速150キロを超えないんだろう)
両手は防御に有利とか、受け流された後が片手は不利とか、
いろいろの説があるが両手剣になった理由はわからない。

それで「肩を痛めるから」というのはある種のもっともらしい発想であるけど、
想像にすぎない。
孫子に曰く「占いや経験による想像は、具体的な情報に劣る」。
山師、占い師になりたくなければ発想による突破は戒めるべき。

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288 2013/11/19(火) 19:10:02 ID:kHKCGO/mfY:au
片手持ちの超音速振りで腕を壊しかけたのは、この俺だから。

大太刀並みの重さがあるこの種の木刀を、両手で千回振ったりもしている。

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289 2013/11/20(水) 01:14:50 ID:63PE5Tp0FY:au
投擲力を削ぐために、あえて両手で投げさせる。

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290 2013/11/20(水) 14:21:38 ID:Xdi1Ml1nKw
いくら新旧約聖書信仰レベルの邪道に堕してしまっている人間といえども、
本人自身が邪道を棄てて正道に立ち戻ろうとする意欲があったならば、
それも可能となることのはずである。しかし、そのような意欲がないのならば、
邪道を邁進するとまで行かずとも、多少是認する程度の心持ちでいるだけの
ことすらもが、治療不能な難病並みに正されることも困難になってしまうである。

現代における致命的な問題も、邪道を邁進すらしてしまっている
ような連中がいること以上にも、邪道を多少是認する程度の心持ちを
あえて正して行こうとするような気概までは抱けないままでいる
人間が多数に上ってしまっていることでこそあるといえる。

聖書信仰の本場である欧米においてですら、聖書を狂信するほどもの蒙昧さの
ままでいるような人間はすでに少数となっている。教会など結婚式でもなければ
行かないような、日本人並みの信仰意識の希薄さでいる人間なども多く現れて
いる中で、やはり聖書信仰を完全に破棄してしまおうとまで考えられるような
人間まではいないままでいる。アンチキリスト主義の人間ですらもが、聖書
文化本位のままででしかものを考えられないままでいるのは同じであるために、
それを完全に破棄した先にあるものなどを、想像することもできないままでいる。
(実際に、想像もできないままに破棄してしまったのが共産主義でもある)

江戸時代生まれの人間などもとっくの昔にいなくなった今、日本人もまた、
生まれた頃から国内でキリスト教が許容されているものだから、あえてそれを
破棄したりすることのほうが不自然に思えてしまう。クリスマスにことかけての
商業キャンペーンの躍起さに嫌気が差して、クリスマスの終了を望んでいるような
人間も多少はいるが、それも所詮はジョーク止まりのままでいる。昔から日本で
親しまれている仏教や神道の体裁を取りながらも、パッと出の新興宗教である
ような信教のほうが、よっぽど不信感を持って受け止められていたりする。

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291 2013/11/20(水) 14:42:37 ID:Xdi1Ml1nKw
せむし程にも背中が曲がっていたりすれば、それを矯正をしようとも心がけられるが、
多少姿勢が悪かったり骨格が歪んでいたりするだけなら、そもそも矯正する気すら
起こらないままでいたりする。カルトの狂信者による異教弾圧などまではすでに
認められない風潮へと全世界が移行している今、あえて宗教問題に根本的なメスを
入れようなどと考える人間までは現れない事態ともなっている。それこそ、気に
ならない程度の姿勢や骨格の歪みだけが残存している状態といえるわけで、ただ、
その歪みが気にならないながらにも致命的なものであるというのが問題である。

ヨガや座禅や合気道などの東洋体術は、姿勢や骨格の矯正ばかりを目的としたもの
ではないけれども、そのような効果も同時に持ち合わせている。また、一度正された
姿勢や骨格を長年にわたって保全して行けるものでもあるから、老齢に至るまで健康
なままでいられたりする。それと似たような効果を、社会運営に対して持ち得るのが、
権力道徳学としての儒学や、正統仏教の実践込みの流布だといえる。それが実現に
移されることで、自然と社会の歪みの元凶となっている聖書信仰や洋学主義が
立ち消えになり、世界も破滅の危機程度は脱していけるようになる。聖書信仰が
許容されていたりするのを別に不自然に思わなくとも、儒学や正統仏教を本格的
に取り入れて行く以上は、自然と聖書信仰や洋学主義を立ち消えにしていかざる
を得なくなり、そうなった後の世の中がそれはそれはすがすがしい健全さをも
帯びていることを知らされるものだから、そこで人々も初めて、以前の社会に
致命的な問題が潜在したままであったことを計り知ることが出来るのである。

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292 2013/11/20(水) 14:52:03 ID:63PE5Tp0FY:au
問題は、儒学や正統仏教を受容して行き始める、その瞬間にあるといえる。
聖書信仰や洋学ばかりが大々的に許容されている今の世相のままでそれらを
受容し始めたりしたならば、大火と大水がぶつかり合っての水蒸気爆発のような
文化衝突が発生しかねない。それを防ぐためには、今の世界にのさばっている
側である聖書教団や洋学界が最大限に折れて、儒学や正統仏教を受け入れても
大問題が生じたりしないで済む程度の体裁を整える必要がある。聖書信仰や洋学を
当たり前のように許容している現代人にとっては、それが突拍子もなく不可解な
事態となるに違いないわけだが、それでもあえて自分たちの「雌化」を宣言し、
文化の「雄」たる儒学や正統仏教との雌雄を決しておく必要があるのである。

「沈潜なれば剛克」
「沈み潜むものは、剛毅さによって超克する。
(洪範九疇・第六・三徳。邪教信仰に溺れ沈んでしまっている聖書信者に対して
剛毅な超克を施しているここでの自分の態度なども、洪範九疇の教えに適っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)

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293 2013/11/21(木) 14:42:08 ID:7gevn6LeRw
「酒は百薬の長」とは、半ば酒飲みの言い訳でもあるような物言いだけれども、
まあ、人間社会を穏便に営んで行く上での潤滑剤程度の役割は持ち得るものである。
そのあたり、「金カネ」などとも共通する点であり、金がこの世にあって然るべき
程度には、酒もまたこの世での市民権を得るに値するものだといえる。

飲酒を禁ずるような本格の仏門は、同時に出家者の商業活動をも禁ずる。
廃仏毀釈以降の日本では、僧侶が商業活動抜きで生計を立てて行くことなども
できなくなったものだから、聖道門の死守も不可能なこととなってしまった。
それでいて、僧侶の飲酒だけは眉をひそめるような人間がいたりもするが、
そもそも今の社会が、仏門から本格出家の選択肢を奪い去っていることを忘れて
しまっているからこその発想であるわけだから、そこは反省すべき所だといえる。

それで、本格の出家修行の選択肢を奪われた今の坊主こそが、本業中の本業と
しているのが葬式での読経や戒名の作成である。これも決して、仏門として
最たる正業とすべきものなどではない。釈迦も「葬式などはバラモンに任せて、
自分たち出家者は携わるべきでない」ということを言っているわけだが、日本
ではバラモンと同じ祭祀階級である神官が死の穢れを忌んであまり葬儀に携わろう
としなかったものだから、仏門の僧侶が葬儀すらをも代行することが伝統的に多い
状態であり続けて来たという特殊事情があるだけで、葬式などは本来、存命中の
精進にこそ励むべき仏門にとっては、易行の内にしか入らないものだったのである。
(葬式仏教を伝統的に主導して来たのも、易行道の浄土門である)

酒飲む坊主こそは、葬式業務で金も稼ぐ。「酔生夢死(近思録)」などという
言葉もあるとおり、酒と金に溺れる安易さこそは、ある意味、死にも漸近する
ものだといえる。生きてる内にこそ最善を尽くす心がけこそは、本人を酒や
金権の誘惑からも遠ざけるものなのだから、それこそを志すべきだといえる。

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294 2013/11/21(木) 14:45:30 ID:7gevn6LeRw
孟子も、他人の葬式に赴いては、そこで供物の料理を貪り食ってくる
愚夫の逸話を引き合いに出していたりする通り。死は、本人やその親族に
とっては悲痛の至りであるわけだけれども、他人からすれば単なる催し物
扱いですらいられるものである。そうであるにことかけて、人様の死を
商売材料にしようなどとまでするような輩がいれば、これはもうハゲタカも
同然の所業であるといえるわけだけれども、実際のところ、他人の死という
のはその程度の扱いに処することができるというのも事実なわけである。

人の死を重んずるというのなら、せいぜい自らの親族の葬儀を、至心と共に
厳粛に執り行っていくべきだといえる。そしてそれ以上にも、生きてる内からの
忠孝その他の徳行に励んで行くことこそが、酒や金やその他の遊興材料からの
誘惑を遠ざけたり、断ち切ったりする決定打ともなるに違いないのである。

自らが人としての最善を尽くすわけでもなく、ただ他人の死あたりを見て自らの
惰生の慰めにしたりすることほど、落ちぶれた人間の有様も他にないであろう。
たとえ大富豪としてそうであったとした所で、そんな有様でまではないでいる
貧乏人ほどにも、精神の健全さがだれずに済まないでいることがないだろう。

「子、喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かざるなり。
子、是の日に於いて哭すれば、則ち歌わず」
「先生は、服喪中の人間の側では、満腹になるほどの飲食を避けられた。
人の葬儀で哭泣の儀を行った日には、歌を唄ったりすることを控えられた。
(凶事に際しての羽目をはずした振る舞いを控える。それは、『凶事こそは
すばらしい』などとする不埒な神経とは似て非なるものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・九)

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295 2013/11/22(金) 14:46:29 ID:Fk8oluNwvc
己れに責めて自らを修めることこそは、仁政徳行の九割以上だといえる。
結果として行われる事業などは残りの一割未満に過ぎないわけで、ちょうど
それは、長年の工事によって完成した水路に水を引くようなものだといえる。
水を引き始めればこそ、用水路として農業用水や生活用水の確保にも貢献し
始めることになるわけだけれども、努力が必要となるのは、用水路が完成
するまでの期間でこそあるように、君子が社会的な事業に取り組み始めること
もまた、それ以前の縁の下での努力が結実する瞬間にこそなるのだといえる。

単純な期間だけでいえは、君子にとっても修身の期間より、社会事業への
取り組みの期間のほうが長期に渡ったりするわけだけれども、人生で最も
成長の伸びしろのある二十代ごろまでに勉学精進を積んで、そこから何十年
にも渡る事業参画に臨んで行くわけなので、社会に出てからの行いなどは、
青年期に積み重ねた素養の専らな消費に終始するものになるのだといえる。

人生、四十も過ぎれば毎日が坂道を転げ落ちるようにあっという間に過ぎて
行くと嘆く人も数多い。それもやはり、壮年期以降はもはや、若い頃に
培った素養を機械的に消費するこばかりに日々を費やすようになるからである。
もちろん年取ってからの勉学などに励むことも一興ではあるが、それももう、
若い頃の勉学ほどの効果を期待できたりするものではない。朱子も晩年には
老眼で字がよく見えなくなったことを嘆いていたりしたように、すでに本格的な
勉学に励めるほどの身体や頭脳の壮健さも残っていなかったりする。それでも
年取ってからの勉学や精進に価値があるとすれば、それは、若い頃に培った
素養の維持や多少なりともの伸長、そして後代の若手への親身な教育の
ための一環としたりすることに、意義があり得るからだといえる。

人間、二十代ごろまでは専らな自修に務めておくべきだし、それ以降にも、
能力維持や後輩育成のための副次的な自修ぐらいは嗜んでおくべきだといえる。
さすれば、人間が全く自修を必要としなくて済む瞬間、むしろ自修などしない
でおいたほうがいい瞬間などは一瞬たりともないということがいえるわけで、
そのような素行を促す異見などにも、微塵の価値もないことが確かだといえる。

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296 2013/11/22(金) 15:00:41 ID:Fk8oluNwvc
自修など全く必要なし、ただ主人の言われるがままでいればいいとされて
いたのが、かつての奴隷身分である。洋の東西を問わず、奴隷は奴隷で存在
していたわけだけれども、奴隷のような生き方こそが人としての生き方として
是とされていた地域とまでなれば、それは聖書圏ぐらいのものだといえる。

別に聖書信者が必ずしも自主性が欠如しているわけでもなく、異教徒などを
相手には逆に自分たちこそが主人であるかのような振る舞いにすら及ぶわけ
だけれども、ことに、神への帰依にかけては全くの自主性を欠いた奴隷も同然の
精神状態でなければならないとする。そこで自修皆無の奴隷根性を培えばこそ、
粗暴な振る舞いと虚構の真摯さをも両立させて来られわけで、奴隷根性が善用
こそされずとも悪用される可能性がある根拠も、斯くの如くであるといえる。

項羽軍の残党の季布が、剃髪の奴隷身分にまで身をやつして逃れていたことに
感銘を受けて、本人を臣下に取り立てた劉邦や、奴隷の惨めさを哀れんでついには
奴隷制を撤廃した北条泰時などは、本当に奴隷という存在を惨めで卑しいもの
だと実感していたからこそ、そのような敢行にも及んだのに違いない。逆に、
リンカーンあたりは、有色人種である日本人との金貿易のおかけで南北戦争
で優位に立てたからこそ、黒人奴隷の解放宣言を行ってしまった可能性などが
あるわけで、人種差別意識の持ち主でもあったらしい発言も残している手前、
本当に黒人奴隷を哀れむ気持ちがあったのかどうかまでは疑問だといえる。

世界的に奴隷制が撤廃されている昨今においてですら、聖書信仰が未だに
大々的に許容されているからには、奴隷のような自主性皆無、自修皆無の
心持ちを非とすることまではまだ行き届いていないことが明らかだといえる。
上に書いたとおり、人間がむしろ自修を捨て去るべき瞬間などは一瞬たりとも
あり得ないわけだから、奴隷制が現存しているか否かなどにも関わりなく、奴隷
のような性向が由とされるような風潮全般を払拭して行くようにすべきだといえる。

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297 2013/11/22(金) 15:32:15 ID:zU3v35bLhs:au
「人を責むるは斯れ難く無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、
是れ惟れ艱きかな。我が心の憂え、日月逾え邁ぎて、雲に来たらざるが如し」
「人を責めるのは簡単なことだが、己れを責めて水が流れ落ちるように自らを
改めるのは、なんと難しいことだろう。私の心は、日月が過ぎ去ってもうここ
に戻って来ないかのような憂いに苛まれている。(春秋戦国時代の覇者となった
秦人の言葉。前半の格言は見事なものだが、後半では自分がひどく憂いに苛まれて
いることを吐露している。それは、自分が他人ばかりを責めて自己を責めることを
疎かなままにしてしまっているからである。これは完全な自業自得の憂いであるため、
自責によって自ら憂いを克服するのでなければ、神にすらどうすることもできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)

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298 2013/11/23(土) 15:06:32 ID:/jR0Hj2EXk
俗に言う「頭に血が上る」という状態、思考過多のせいで
心臓から送り出される血液が頭部にばかり集中するような状態となれば、
同時に鼻呼吸が億劫となって口を開けて呼吸するようになったり、
手先や足先にまでの血の巡りが悪くなって冷え性になってしまったりする。
夏場には熱中症の原因ともなり、最悪の場合それが原因で死にすら至る。

パソコンや携帯電話の多用が激化している昨今、上記のような症状の内の
一部や、全ての症状に悩まさていれるような人間も相当数に上り始めている。
頭を使うことが必ずしも悪いことではないけれども、頭に血が上るような状態
でものを考えたり言ったりすることは、頭脳活動としても粗悪な部類に入る。

頭に血が上らない状態での思考、しっかりとした鼻呼吸やいい姿勢と共なる
頭脳活動こそは、よく見通しの効いた知見の醸成にも貢献し得るものである。
なぜかといって、そのような状況での思考こそは、熱中症的な苦しみとも共に
ないものだから、苦し紛れの投げ槍さを十全に抑制したものともなるからである。

すでに頭に血が上る症状が深刻化しているようならば、行水での心臓活動の
制御だとか、腹式呼吸での全身への血行の促進などの措置を講じねばならない。
いずれも慣れていない人間には非常な億劫となるわけだけれども、その障壁を
乗り越えた先にこそ熱中症などにも悩まされない涼やかな思考が獲得され、脳だけで
なく全身の健康までもが促進されるわけだから、そうするに越したことはないといえる。

鼻呼吸や正しい姿勢、行水での心臓制御や腹式呼吸といった諸々の対策を講じながら
思考や言行を執り行ったならば、自らが粗悪な外物に惑わされたりすることがなくなる
のみならず、何ものにも惑わされないで居る所にこそ充実感までもが得られるようになる。

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299 2013/11/23(土) 15:10:53 ID:/jR0Hj2EXk
頭に血が上って口が開いてしまっているような状態では、むしろ何ものかに囚われること
のほうに心の安定を見出してしまうことになる。平常状態が熱中症的な苦痛に見舞われた
ままの状態でいるわけだから、何らかの拠り所を得てそこで思考を禁止ないし束縛
されることが、どこまでも湯立とうとする本人の脳活動を安定させるわけである。

そんなことにならないで済むのも上に書いたとおりであり、すでに湯だってしまって
いる脳の苦痛を惑乱によって紛らわしたりすることこそは、人としての過ちの最たる
ものですらあるといえる。そこからあらゆる確信犯の罪過が派生して行きもする
わけだから、すでに犯された罪を罰すること以上にも、そのような根本の部分から
の愚昧の矯正や予防こそを最大級の仁政上の課題ともして行かねばならない。

近ごろでは、邪教の神への帰依などだけでなく、結婚後に夫が妻に征服されたりすること
までもが同様な悪影響を及ぼしている場合が多々ある。男が世の中で臨む仕事も、頭に
血を上らせるようなデスクワークならば、女のほうもフェミニズムで思い上がりを増長
させていたりするものだから、日々の仕事で頭がフラフラになった夫が、家庭でも妻に
精神的に征服されることで心の安定を得ていたりする、非常に不健全な状態が頻発している。

しかも、それで夫婦円満みたいな扱いすら受けていたりする。夫が何ものにも囚われない
涼やかな頭脳でいられて、妻こそがそれを頼りにするというのが、元来、円満な夫婦の
あり方であるわけだけれども、それとは逆の状態で夫婦関係が固着してしまうような
場合もままある。そのような事態の打開のためにはやはり、天下に冠たる主君あたりが、
率先して模範的な夫婦のあり方などを体現して行く必要があるわけである。

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300 2013/11/23(土) 15:14:34 ID:ViIf4rTeCo:au
「父没して父の書を読むこと能わざるは、手沢存じて爾ればなり。
母没して杯圈を飲むこと能わざるは、口沢の気存じて爾ればなり」
「父が没したときにその遺書を読むことができない気持ちになるのは、手に取るとまだ
生きているかのような思いがこみ上げて来るからである。母が没したときに遺品の器で
ものを飲み食いする気になれなくなるのは、口に運ぶとまだ生きているかのような
思いがこみ上げて来るからである。(実の父母を敬愛する孝子ならではの悲哀)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)

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301 2013/11/24(日) 14:56:19 ID:BREAq97BO.
個々人の寿命は限られているが、家系や国の寿命は半永久的である。もちろん
断絶や崩壊の危険性すらをも帯びてはいるわけだけれども、原理的には恒久的
でもあり得るという点だけは、個々人の命とは一線を画している所だといえる。

恒久的であり得て、なおかつ一時的には個々人がその構成者たるものでもある。
偽善ではなく、自分自身のためにこそ家や国のために尽くす価値があるし、
なおかつそれが半永久的な事物の保全のための貢献ともなるわけだから、
そこにこそ、人間としての無上の生きがいが備わるのだともいえる。

実際、人間はそこでこそ、俗人としての最大級の満足を手に入れることが
できるようになっている。どれぐらい満足であるかといえば、自分個人が
限りある命の持ち主であることすらをも達観できるほどに、満足となれる。

仏門などで出家して諸行無常の真理を諦観するのも一つの手ではあるけれども、
別にそのような手段に頼らずとも、ただ家や国のために最善を尽くすだけでも、
「限りある命であるといえども生まれて来てよかった」と思えるほどの満足を
手に入れられるようになる。(それを大々的に容認されるのが本家や嫡子や
長男などに限られるからこそ、分家や庶子や末子の人間が口減らしのために
出家して、そこで超俗の悟りを得たりすることにもまた価値があるわけである)

世のため人のためにわが身を呈するということは美談としての聞こえはいいが、
捨て身ですらあらねばならなかったりするのはむしろ異端なことだといえる。
天下国家のためにこそ我が家を守り、我が家の礎としての自らの養生にも努める
というのが基本であり、自分が捨て身とならねばならなかったりするのはごく
一部の危機的な状況に限られている。そしてそのような状況もまた来たさないに
越したことはないわけだから、天下国家のためといえども、好き好んで捨て身と

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302 2013/11/24(日) 15:03:51 ID:BREAq97BO.
なることなどに意義が備わるようなことはないといえる。(最初期に特攻隊と
して戦没した関行男海軍中佐なども、「こんな無謀な戦法にまで頼り始めたんじゃ
日本もおしまいだが、命令だから仕方がない」という意味の遺書を残している)

国や家を保つことも、その手段が不正であれば潰えかねないし、なおかつその
ような真似に及んだ自分までもが>>297のような憂患に苛まれることともなる。
政商呂不韋の私生児として不正に秦国の王となって中原を制覇し、法家支配と
いう異端の手管による帝国支配を試みた秦始皇帝もまた、不老不死への渇望
ばかりに苛まれる晩年を送った。贅沢な飲食が祟っての中年での死去後にも、
秦帝国は安泰なままでは済まず、佞臣や宦官の専横やそれによる社会荒廃、
ついには全国での武装蜂起による反乱すらをも招いての崩壊に見舞われた。

そういうことがあり得るから、国や家のために尽くすことを厭ったりする
人間もいるわけで、それはそれで慎重を尽くす必要のあることだといえる。
ただただ犬のように主君や親にへつらったりすることがその条件を満たしたり
するわけもないから、自主性と仁慈の心を兼ね併せた君子としての素養を
自分自身が磨き上げて行くことを本分ともしていかねばならないのである。

「君子は以って身を修めざる可からず。身を修めんと思わば、
以って親に事えざる可からず。親に事えんと思わば、以って人を
知らざる可からず。人を知らんと思わば、以って天を知らざる可からず」
「君子はわが身を修めなければならない。身を修めようとすれば、親に
仕えねばならない。親に仕えようとすれば、人というものを知らなければ
ならない。人というものを知るためには、天すらをも知らなければならない。
(身を修めるための適切な手順を踏んで行けば、それが天にも通ずることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)

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303 2013/11/25(月) 15:04:50 ID:iQin.SA2V6
犬か猫かでいえば、犬のほうが病気や怪我に苛まれやすい。それは、
性格的にも体質的にも犬のほうが外物に感化されやすい生き物であり、
警戒心や猜疑心も猫ほど強くはなく、危険を顧みず他者に飛び付くような
猪突猛進さをも帯びているからである。それはちょうど、他力本願系の
信教に帰依する人間のあり方にも近似している有り様であり、戒律による
後付けでの自殺や自傷の禁止のような対策を講ずるのでもない限りは、
そのような性向を帯びてしまっているような人間こそが常人以上にも、
妄りに己れを傷つけて破滅に追いやられることが免れられないわけである。

犬もそれなりに愛らしい生き物であり、なおかつ人間でいえば奴隷か狂信者
のような性格を帯びている生き物であるものだから、その犬をして、奴隷制や
カルト宗教を正当化する材料にすらして来た点がなきにしもあらずである。
欧米キリスト教徒も犬が大好きであり、犬への虐待を人間への虐待並みに非難
されるべきものとしている国すらもが多々ある。一方で、「シュレーディンガー
の猫」のように、あからさまに猫への虐待を題材にした量子論上の思考実験を
持て囃していたりもする。猫も猫で可愛い生き物だから飼われていたりする
わけだが、自己本位的で猜疑心の強いその性格が好かれているということは
あまりないようである。見た目は可愛いが性格は悪いという扱いを前提として
飼うべきなのが猫とされて、それでも飼いたければ飼うという程度の扱いでいる。

むしろ、そのような猫の性格こそを、従順で恐れ知らずな犬の性格などよりも
評価すべき時が今だといえる。誰も彼もが犬のようなへつらいまくりで
恐れ知らずな状態でいるからこそ、人類全体も自殺行為然とした妄動によって
破滅へと陥りつつあるわけだから、全身を自分の舌で舐め回して毛繕いする
ほどもの自己本位さや、始めて見るようなものは何でも警戒するほどの猜疑心
を持つ猫の性格に倣うことでこそ、人類も難を避けられるようになるに違いない。

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304 2013/11/25(月) 15:09:22 ID:iQin.SA2V6
犬が原始時代の頃から、狼から品種改良されて人間に飼いならされて来たのは、
主に狩猟や牧畜の補助をさせるのが目的であって、愛玩が目的ではなかった。
飼育するにしても外飼いが基本であって、室内で飼ったりし始めたのは近ごろの
ことである。猫も家のネズミ捕りなどの実用目的があって飼い馴らされて来て
もいるが、古代エジプトの頃から愛玩されて来ていることでも知られている。

人間の伴侶としてより実用性があるのが犬であるように、犬のような恐れ知らず
の性向で以って科学技術や未開地の開発に取り組んだ欧米キリスト教徒こそは、
近現代の世界における文明発展の主導者的な役割をも果たしたのだった。しかし、
それはやはり多大なる危険性を弊害として帯びたものだったから、そのような
欧米人のやりたい放題が野放しであり続けた結果、破滅の危機にも至ったのである。

実用的な動物、愛らしい動物としての犬を全否定すべきだなどということは
もちろんないが、人間でいえば奴隷や狂信者然としたその性格などは、むしろその
弊害であるのだと考えたほうがよい。元来は狼のように気高い性格だったりもした
ものを、あえて強制的に従順なものへと人間が改定してしまった結果として、犬も
そのような性格となってしまったのだから、むしろ反省材料とすらすべきである。

犬の内にも柴犬のように、あまり芸を覚えたりするのが得意でない品種がいる。
仮にそういう品種改良が可能であるというのならば、従順化させられ過ぎた犬にも、
もう少し気高さを抱かせてやれるような改良を施してやるべきだといえる。

「能く衆を以いて正しければ、以って王たる可し。〜
天下を毒して、而かも民之れに従う。吉にして又た何の咎あらん」
「正義に根ざして衆人を率いて行けるのであれば、王となるがよい。その
せいで天下に毒害のような苦しみをもたらしてしまったとしても、相変わらず
民たちが王を信頼して従い続けるようであれば、吉祥であり、咎もあり得ない。
(むしろ毒害に苦しんででも民が聖王に従うような姿こそが吉なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・師・彖伝より)

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305 2013/11/25(月) 21:52:16 ID:2xHJmmCGwo
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃったのかw

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306 2013/11/26(火) 13:02:59 ID:OiXIWH35/A
信じることが必ずしも叶えられたりしないのはもちろんのこと、人が信じたがるような
ことこそはかえって叶えられにくいのが現実というものである。別にそれは不思議な
ことでもなんでもない。叶えられにくかったり叶えられなかったりするものを人間の
ほうが信じたがるわけだから、しごく当たり前な自業自得の定理だといえる。

中でも、絶対に原理的に叶えられないようなもの、道義的に叶えられてはならないようなものこそは、
旺盛な淫奔の気を込めて信じられるものだから、より狂信の対象ともなりやすい。現実の厳しさに
うちひしがれているような人間が、現実への反意を込めて信じようとしたりもするからこそ、
その信心だけは「苦悩の裏返し」として極度に強烈なものともなるわけである。

表向きだけは敬虔であるかのように見せかけることもできるが、誤謬信仰の原動力となっているのは
むしろ淫心や不健全な苦悩のほうであるわけだから、決して褒められたものではない。だからこそ、
より信仰を透徹させられたりもするわけだが、だからこそなおのこと褒められたものではない。

宗教といえども、自力作善の聖道門が主体である東洋においては、信仰そのものが道徳的なものである
などと認知されて来たような事実もない。上記のような理由があるものだから、強固な信仰ほど不健全で
ある場合が多いし、正しいものを信ずる正信といえども、自力作善の覚束ない愚夫がすがるものだから、
いかなる信仰といえども、ただそれだけで道徳的な価値があるとまでは認められなかったわけである。

それはもう、世界的に見直されるのみならず、新たな世界の常識にすら据えられるべき宗教観だといえる。
何かを信じることがただそれだけで道徳的だなどとは、賭博者を聖賢の座に据えるも同然の暴挙である
わけだから、不徳を道徳と見なす転倒夢想ですらあるという他ない。そのような主張の下で狂信
までもが是認された結果、人々が狂信を原因とした苦悩や淫奔に苛まれることともなるわけだから、
百害あって一利もないのがそのような主張ごとの狂信の容認であるといえる。

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307 2013/11/26(火) 15:03:17 ID:OiXIWH35/A
道徳的な従属というものも、それはそれである。臣下の君主に対する、子の親に対する、妻の夫に対する
従属こそは、まさにそのような徳義に適った従属関係であるといえるが、それは決して、淫心などに
よって従属意識が促進される類いの関係ではないものだから、さして嗜みやすいものともならない。
特に、子の親に対する孝心は、職場での上下関係や横並びの友人関係、乱交を主目的とした男女関係
などによって容易く損なわれてしまうものであるため、これを尊んで行くことこそは第一の徳目ともなる。
磐石だからではなく、むしろ脆弱なものだからこそ、それを自力で盛り立てて行く必要があるわけである。

子の親に対する孝心こそは、堅持にかけては脆弱でありやすい代わりに、淫心などに基づき得ない。
淫心を帯びられないからこそ、健全な上下関係の源泉たり得もする。君臣関係は利権が原因で
淫奔にまみれやすいし、夫婦関係もまた濁愛が原因で淫乱となりやすいものだから、まず親子の
上下関係を第一とすることで、そのような問題をも共に予防して行くようにする必要がある。

淫心を込めて物事を狂信することの不徳さがわきまえられればこそ、淫心と無縁である孝心の価値までもが
正確に見直されていくこととなる。心を込めて従属することにかけて、神への狂信などほどには陶酔的な
ものでもあり得ない、にもかかわらずではなくだからこそ、孝心に価値があると考え直されるのでなければ、
なかなか忠孝の文化の本格的な復活も難しいままとなるから、徳治の復興のためにはそれが必須ともなる。

「其の能を矜れば、厥の功を喪う」
「能があるからといって誇り高ぶるようなら、結局はその功を失うことになる。
(誇り高ぶったせいで功並みの罪を犯してしまうから、結局はプラスマイナスゼロとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明中より)

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308 2013/11/27(水) 12:54:16 ID:QAllXML1qY
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「華厳経」菩薩問明品第十に「正覚者はあたかも機関の木人の如し」という記述がある。これが「列子」
湯問篇第五などとも並ぶ、世界でも最古級の人型ロボットの描写であり、このような教えが尊ばれて
来たこともあって、日本でも近代以前から精巧なからくり人形の作成などが多数試みられて来ている。

悟りの境地がロボットのようだなどとは、現代人にはかえって恐怖感すら抱かせかねない表現である。
人間という生き物の有機的な精巧さは、現代技術の粋を結集した最先端のロボットなどと比べても
飛びきり優れたものであるわけだから、にもかかわらず、悟ったせいでロボットになって
しまうというのならば、それはかえって退化となるのではないかとすら考えられて、
不安感をも催させた挙げ句に、悟りを忌避させることにすらなりかねないわけである。

何と言っても、ロボットには「命」がない。現状のロボットには自我もなければ情念もないため、
人間の伴侶としても犬猫ほどの本格的な親しみを抱くことすらできない。だからロボットはまだまだ
だと現代人は考えてしまうわけで、にもかかわらず仏教思想などは、そのようなロボットのような
あり方へと大悟者が至るとしているわけだから、そこが薄気味悪いようにすら思われるわけである。

一方で、「機関」ですらない無可動の木像や石像である仏像が、古くから仏教徒たちに親しみを
込めて尊ばれて来てもいる。中途半端に機械的な精巧さを凝らしたロボットなどよりも、ただ
見せかけを人間に似せているだけの仏像のほうが、より割り切って親しめるという所もあるわけである。
一方で、そのような仏像にも当然、生物学的な意味での命は宿されていないわけで、にもかかわらず
そこに親しむということはやはり、自分の命を第一とするような連中(秦人やキリスト教徒など)
からすれば、違和感や忌避感を抱かされることとなるに違いないわけである。

命なき所、有機性なき所のものへの親しみを促す仏門のあり方を、キリスト教のような邪教のみならず、
神道やヒンズー教のような他の真っ当な信教すらもが忌避の対象として来た。人は死ねども魂は不滅であり、
その魂こそを尊ぶという体裁をあえて採るわけで、むしろそう考えたほうが納得がしやすい人間は

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309 2013/11/27(水) 12:57:32 ID:QAllXML1qY
日本のような半仏教国にすら大勢いるのである。だからこそ、その手の教えを方便ではなく真義と
している神道が、お寺の横には必ず神社が設置されるほどもの頻度で併信されて来たのである。

仏教も方便としてその手の教えを認めることはあるが、真義としては、死んでからはおろか、
生きてる内から本当は自我も情念も虚構でしかないのだとする。だからこそ、死んで灰になること
などは石が砕かれて石灰になったりするのともさして変わらぬことなので、恐れるまでもないことだと
しているわけで、そこにこそ生死の苦悩を真に克服する道すらもが開かれていることにも違いは
ないわけだが、なかなか本当にそのような方便抜きの仏法を悟れる仏教徒もいないと来ている。

誰も彼もが仏法の真理そのものを本懐とする必要はないし、それによる悟りを得たりまでする
必要もないわけだが、ことに、大火事を消し止めたり予防したりするための消火栓程度のものとしては、
仏法を社会レベルで予備的に尊重して置くぐらいのことはあるべきだといえる。人間の魂は不滅で
死後にもあり続ける程度の教えであれば、仏門とも共存できるし、特段大きな害をこの世に及ぼすこと
もないが、人間の命そのものからして不滅のものであり得て、命を失った死滅状態などとは一線を
画したものであるとまでする邪教ともなれば、これはもはや仏門との共存が全くの不可能とすらなる。
その手の邪教が甚だしい害悪を及ぼし始めたりするようなことがないようにするためにこそ、方便
抜きの真理そのものを把捉した教理としての「仏辺の仏法」すらをも尊んでおくようにしたほうがよい。

六道輪廻や極楽往生のような衆生辺の方便を駆使したものとしての仏法は今でもかなり親しまれているが、
「大悟者はもはやロボットも同然である」というレベルの仏辺の仏法ともなれば、もはや打ち捨て
られたも同然の事態となってしまっている。「仏作って魂入れず」ならぬ「仏にそもそも魂なし」
という、仏法の根本の部分の有り難みまでもが見直されるようになるのは、一体いつのことであろうか。

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310 2013/11/27(水) 13:20:10 ID:7cuM9GvzQs
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃってるなww

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311 2013/11/27(水) 13:25:32 ID:DK93pX5gYQ:au
「衆生必ず死す、死すれば必ず土に帰る、此れを之れ鬼と謂う。骨肉は下に斃れ、陰れて野土と為る。
其の気は上に発揚し、昭明と為る。薫蒿、凄愴たるは、此れ百物の精なり、神の著らるるなり」
「一切衆生はいつかは必ず死ぬ。死ねば必ず土に返るが、これを『鬼』という。骨肉は朽ちて下に降り、
隠れて野の土となる。生気は逆に上に昇って昭明となる。生気が上昇して天に充満し、人々の心を
悼み慎む趣きにさせることこそは、万物の精気が神威となって現れる有り様であるといえる。
(仏教伝来にも先駆けた諸行無常の察知。それでいて死の先にある薫蒿凄愴こそを神威とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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312 2013/11/27(水) 21:18:38 ID:W9gIyfCrAc
冬に咲くカンツバキという花がある
なかなかこれが綺麗にさいているのだ
さて散歩でもして下丹田でも鍛えてくる。じゃあまた。

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313 2013/11/29(金) 15:49:33 ID:Rm/jNl3Gc.:au
ウチには昔から豪華な生物事典があるのに、
俺は動物事典(哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、鳥類、虫類、恐竜類)
ばかりを読んで、ろくに植物事典のほうを読まなかった。そのせいで、
今でも植物には詳しくない。個々の名称はおろか、基本的な生態系すらあまり分からない。

今でもあまり、再勉強する気にはなれない。なぜなのかを自分なりに考えてみたんだが、
今の時代、誰も彼もが動物的ながっつきばかりに執心していて、
植物的な静寂さをほとんど蔑ろにしてしまっているからではないか
という結論に至った。だからこそ、植物知識を学んだりすることにも大した価値がないと。

植物の花を好んだりする通り、女こそは本来、植物のように
静寂な存在であるべきものだ。世の中の半分を占めている女が
植物のような静寂さを守れるようになったなら、俺ももう少しぐらいは、
植物を学んでみる気になるかもしれない。

「植木と骨董に凝り始めたら男は終わりだよ(鬼平犯科帳)」とも言うがな。

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314 2013/11/29(金) 18:34:54 ID:HnGXs.wRWU
己れの内に省みるものこそは万事万物を計り知る一方、我を忘れてまでの外物への希求に及ぶものこそは
かえって万事万物への配慮を損ね、以て部分の我田引水をも容認してしまうといった一般法則が存在する。

そのような問題性を孕んでいるものだから、かつての君子階級の上位者なども、外交問題を陪臣に任せる
などの便宜を図っていた。今などはむしろ、外語能力にも長ける外交官こそがステータス的な扱いをされて
しまっていたりする時代だけれども、むしろそのような「汚れ仕事」を自分自身が担わないからこそ、
主君や上位の士大夫が威厳と仁徳とを保てるとされていた時代もまたあったのである。

そしてそのような時代こそは、真に世の中の泰平が保たれていた時代でもあった。
人びとの諸国の往来も関所で厳重に管理されて、それぞれの国の主君もまた、
外遊を自粛してまでの内省に務めていた時代においてこそ、外交問題が紛争
にまで発展したりすることもない、平和な時代が確立されていたのだった。

世の中全土を挙げての外向意欲が、内向意欲の分量を上回ってしまった時にこそ、
世の中も決定的に乱れることとなる。封建時代であれば、主君級の上位者までもが外遊を好き好み過ぎた
せいで、誰しもがそれに倣って世の中が乱れるようなことになるし、民主主義の時代においても、万人が
横の繋がりである交友関係ばかりにかかずわらされたりした結果として、そのような問題が巻き起こる。

外向こそは、内向以上にも安易に楽しいものであり、諸々の情緒を著しく感化させるものである。
なればこそ、内省を損ねてまでの外遊が我を忘れさせて、部分の利権との癒着を深刻化させて
しまったりするのだから、外向が内向よりも楽しいにもかかわらずではなくだからこそ、
内向を上回るような外向を控えるようにしなければならないといえるのである。

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315 2013/11/29(金) 18:38:48 ID:HnGXs.wRWU
外遊以上の内省が十分であればこそ、自己が確立されて、「外物の内」に組み込まれることなどに
安心感を追い求めたりする必要もなくなる。女子供や小人にはなかなか難しいことであるにしたって、
大人の男にはそれを可能とする能力が確かに備わっていて、そこでこそ「不惑」となれるようにも
生体から出来上がっている。そのような益荒男こそが世の中で主導的な立場に立つ程度の条件が整えられて
すらいれば、世の中が傾くようなことまではなくて済むのだから、そんなに困難なことであるとも言えない。

天下国家が傾くレベルの我田引水災禍は、それすらもが損なわれた時にこそ来してしまうものなのだから、
随分と容易な条件までもが損なわれた結果として、世の中も破滅に見舞われるのだといえる。聖道門の
仏門に世の中を挙げて帰依するような難儀を損ねてしまったからだったりするわけでもないからこそ、
そこで世人が自業自得の災禍に見舞われることもまた、何らの言い訳のしようがないわけである。

人間社会から外交を絶やしたりするのも不可能なことだし、そもそも人と人との関わりが
あればこそ「人間」なのでもある。君臣父子夫婦のように、より尊ばれて然るべき人間関係
もあるわけで、その手の関係の尊重はかえって、修己治人の促進にすら繋がるものである。
(男女室に居るは天下の大倫なり。孟子・万章章句上・二)

内省を損ねるような人間関係からして限られていて、それこそは粗悪な類いの人間関係でもある。
礼節も知らないような蛮族との交遊、身分の違いを度外視し過ぎた横繋がりの校友、ただただ
性交ばかりを目的とした異性交遊など、それなりに自分からの積極的な働きかけがあるのでなければ
成立し得ないような関係ばかりがそれに当たるのだから、その手の交遊関係のせいで内省を損ねて
しまったり、そのせいで深刻な我田引水に与してしまったりすること自体、全くの自業自得であるため、
何らの言い訳のしようもないということが言えるわけである。

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316 2013/11/29(金) 18:42:16 ID:Rm/jNl3Gc.:au
人間が極度に外物に囚われた結果として、部分の我田引水に与してしまう心理法則を最大級に悪用
しているのが、聖書信仰のようなカルト宗教だったりするわけだけれども、その聖書信仰の発祥地である
中東においては、とっくの昔からすでに聖書信仰が絶やされて、代替にイスラム教が信仰されている。
そのイスラム教はといえば、自力仏教並みの戒律厳守の下での内省を重んじるものであり、それでこそ
汎神アラーの御心にもかなうとしている。外交の極みである行商が活発な砂漠地帯だからこそ聖書信仰をも
生み出してしまった一方で、そのような弊害を十二分に相殺するための戒律主義の信教に新たに帰依もした。
そのおかげで中東という地域の罪過はすでに十分に打ち消されているわけだが、相も変わらず聖書信仰に
耽り続けている西洋は、どうであろうか。未開の蛮族故の無知さを盾にした過失犯としての言い訳なども、
いい加減筋が通らない時期に来ているのではないか。

「吾れ女じに礼を語りて、女じを以て礼に周流して遍からざる無からしむ」
「私があなたに礼を教えて、あなたが何事にかけても遍く礼に則らずにはいられないようにしてあげよう。
(礼節こそは普遍的なものであり、何事にかけてもその内に止まらねばならないものである。
そしてそれこそは『住心』たり得て、恒常的に自然とそのようでいられる所ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)

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317 2013/11/30(土) 13:58:57 ID:vw0OY9woZ2
「善も積まざれば以って名を成すに足らず(易経・繋辞下伝)」であるため、
「謙は益を受く(書経・大禹謨)」などを典拠とした善行を心がけるにしたって、
それも一時的なものなどであっていいはずはない。謙譲は謙譲のための謙譲であり、
その見返りなどをいちいち期待していたりしてもならないぐらいの心持ちであり続ける
ことでやっと、天道にかなった功徳までもが得られるようになるに違いないのだから。

どれぐらいそのような心がけを徹底しなければならないかといえば、そもそも自分の
代だけでは大した成果にも繋がらないぐらいの覚悟でなければならない。成果が挙がる
にしたって何代も先のことであり、自分の代では成果の兆しも垣間見られないままに
終わることすらをも厭わないぐらいの積善に対する姿勢であって初めて、何代か後に
そのような成果が得られたり、全くの僥倖で自らの代でも成果が垣間見られたりする
ことがあったりなかったりするぐらいのものだと受け入れられるのでなければならない。

それは実際、女子と小人には到底受け入れられるあり方などでもありはしない。
自分一身の利害を超えた、天下国家に通ずる程もの心意気を実践にも移せるだけの
素養を持つのは君子たる大人の男のみであり、なおかつそのような逸材の男たちが
何代も世襲で功徳を積んで行くぐらいであって初めて目に見える程もの成果が生じ得る
わけだから、そのような心意気を君子の男と共に何代にも渡って尊んで行けるだけの
体制が世の中のほうでも保たれて行くのでなければ、積善が天道にすら根ざして
目に見える成果を生ずるなどということも、なかなか期待できなくなるのである。

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318 2013/11/30(土) 14:06:27 ID:vw0OY9woZ2
大人の男も、必ずしも世襲での積善を心がけるほどもの気高さでいられるわけでは
ないが、一応、女子供などと違って、大人の男にはそれだけの気高さを抱けるだけの
先天的な能力が備わっている。身分の低さなどが原因でそのような気高さを持て余して、
自分個人の栄華にしか興味がない女などから「男は幼稚」などと揶揄されたりしている
場合などがあるわけだけれども、天下に冠たる君子階級としての権能などと共にであれば、
確かにその手の能力が天下の繁栄にすら貢献するほどもの威徳を発揮し得るわけだから、
大人の男にそれ程もの気高さが備わり得ることを非難するようなことがあってもならない。

元来、大人の男がそのような気高さを抱き始めたのは、長年の努力によって初めて
実を結ぶ農耕が発祥したことあたりを起源としている。「田に力をそそぐ」と書いて
「男」とする通り、そこに長年の努力を積み重ねて行く大人の男の気性の起源もまた
あったのだろうと考えられる。現在確認されている内でも最古の農耕の痕跡は、
今から約15000年前の中国長江流域付近のものであり、シリアのダマスカス付近で
世界最古の商業都市が形成され始めた約10000年前よりもかなり以前にまで遡る。
まず、田畑での耕作に精を入れる大丈夫然とした男たちが現れて、それにより世の中が
大規模化して行き、女子供だけでなく、末業にばかり従事する小人男などまでをも
養って行ってやれるだけの世の中の大規模化が促進されて行った。それからだいぶ
時代が経過して、農業などは一部の人間が機械を用いて従事していればそれだけで済む
ようになった今日などには、農業などさして尊ばれる職業でもなくなってしまったが、
そもそもの人類文明の起源から言って、むしろ大丈夫たる男が文明発展を主導して行った
結果として、商人の男などもそれなりに生計を立てて行けるようになったという事実が
あるわけだから、自分たちが文明発展を主導することのできない女子供だけでなく、
資本主義などの暴挙と共にであれば文明の主導者ですらあり得る小人の男もまた、
大先輩たる君子然とした男を蔑ろにするようなことがあってはならない。

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319 2013/11/30(土) 14:09:43 ID:COX4fUZLZo:au
自分一身の成功ばかりを本当に第一とはしていないからこそ、君子たる男の成果というのも、
目に見えてよく分かるようなものは氷山の一角止まりとなっている。そのあたり、さしたる
成果でもないにもかかわらず、虚飾や誇大広告の限りを尽くすことであたかも甚大で
あるかのように見せかける小人の事業などとは対照的なものですらあるといえる。
別に、目に見えている成果が全て虚構なわけでもないにしたって、真に尊ばれるべき
偉大な業績というのは、何百年から何千年という規模で歴史を鑑みるぐらいの気長さと
共にでなければとうてい全容を計り知ることもできないようなものばかりなのだから、
「蛇の道は蛇」ならぬ、「君子の道は君子のみぞ知る」ということもまた言えるのである。

「謙は尊くして光り、卑しくして踰ゆる可からず。君子の終わりなり」
「謙譲は貴い身分の人間を輝かせ、卑しい身分の人間にすら侵し難さを帯びさせるもので
あるから、君子は(身分の如何などに関わりなく)終身謙譲を本是として行くのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・彖伝より)

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320 2013/12/01(日) 14:41:10 ID:Fd4XMLavkg
致命的な罪過ほど、より甚大な損害を世の中に加えるものであるために、
大局からの破滅を呼び込むという形での罪状の露呈もまた避けられなくなる。

秘密結社や諜報機関などの体裁を借りた西洋人による秘密裏の重権力犯罪
もまた、最終的には西洋全体の国勢の弱体化という形での自滅の危機を招いた。

未だその罪状のほとんどがひた隠しにされたままではあるものの、その手管
のほとんどは、古くは「史記」などにも記録されている典型的な権力犯罪の
手段であり、そのような手段を用いた結果として破滅の危機に陥ってしまって
いるとしか考えられないような事態に、確かに西洋諸国が陥ってもいる。

フランス革命や第一次世界大戦や日米開戦や、近ごろの中東諸国の紛争など
の裏でも、米欧やイスラエルなどの権力犯罪者が数多の工作を積み重ねて
いるだろうことが、「史記」における蘇秦や張儀といった悪徳外交家(縦横家)
の跳梁跋扈の記録からも見て取れる。さらに、そのような工作要員を養成する
ための組織として、各種の秘密結社や諜報機関などが利用されて来ただろう
こともまた、「史記」における孟嘗君や春申君や平原君といった権力者による
数多の食客の囲い込みの記録からも察することができる。さらに、ケネディ
大統領や朴正煕大統領が暗殺された後のアメリカや韓国において、もはや
政府までもが諜報機関の傀儡状態と化してしまっているだろうこともまた、
「史記」における政商呂不韋やその私生児である贏政(後の秦始皇帝)ら
による秦王国の乗っ取り過程の記録などと照らし合わせてみれば分かる。
(呂不韋もまた膨大な人数の食客を養う工作機関の親分格であった)

以上のような諸々の権力犯罪行為は、東洋ではそれこそ「史記」の記録などを
頼りに厳重な警戒の対象とされて来た。中国では前漢武帝の代に、悪徳外交家や
食客の跋扈を正当化するような諸学(縦横家や雑家など)が正式に異端の邪学
に認定されたし、戦国時代などに著しい権謀術数災禍を呼び込んでしまった

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321 2013/12/01(日) 14:44:08 ID:Fd4XMLavkg

日本においても、江戸時代以降には諜報員が諜報犯罪にまで及ぶことが
固く禁じられたために、諜報犯罪を専門とする忍者が廃業に追い込まれて、
武術鍛錬の精錬さで諜報活動の汚濁をも相殺する目付のみが残存するなどした。

そのような権力犯罪に対する厳重な戒めがあればこそ、日本も中国も経済面
や人口面における総力で西洋社会を圧倒することができた。政商や食客や
縦横家による権力犯罪を固く取り締まる代わりに、治水や灌漑といったような
土木事業によって農産を底上げしたり、参勤交代を通じて着実な商業のみを
促進させたりしたことで、権力犯罪や金融犯罪のような曲芸ばかりに頼って
正攻法を蔑ろにし続けて来た西洋諸国をも圧倒することができたのである。

そのような正攻法に頼り続けてきた対抗馬がいればこそ、なおのこと、西洋諸国
がまだ表向きにもしていないなような、凶悪な権力犯罪の数々によって自他を
損ねる害悪を撒き散らして来ただろうことが自明ともなっている。「火のない
所に煙は立たぬ」であり、数多の植民地支配によってですら国力を増強してきた
はずの西洋諸国が、ほんの百数十年前まで鎖国状態を貫いて来た極東の国々
などに勢力面で凌駕されたことにも、それなりの理由があるはずなのである。

罪過はかえって、己れを損ねるものである。短期的な利益には結びついても、
長期的にはより多大なる損害をもたらしてしまうものであるという道理を
見失ったままでいたものだから、西洋人も、罪を隠しおおせていることなどを
いいことに、どこまでも罪過を増長させるようなマネにすら及んでしまっている。

頭も隠して尻も隠した所で、隠れている所が破滅の元凶であるからには、そこ
にこそメスを入れるしかなくなるわけだから、罪を隠しおおせることなどもまた、
より甚大なる破滅を助長する悪魔の誘惑でしかなかったことが確かだといえる。

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322 2013/12/01(日) 15:30:25 ID:sHjnQjixyQ:au
「人の牆有るは、以て悪を蔽わんとすればなり。牆の隙壊あるは、
誰の咎ぞや。衛りて之を悪しくせば、吾れ又た焉れより甚だし」
「人家に垣根があるのも、都合が悪いことを人目から蔽うためだ。その垣根
に壊れて隙間ができてしまったとしても大した罪にはならないが、もしも
国を守るような重大な権能を帯びた人間が、隠れた所で悪事を働いたりした
ならば、その害悪は垣根が壊れている場合以上にも甚だしいものとなるだろう。
(賄賂によって懐柔されそうになった魯の使節叔孫の拒絶の言葉。隠れた所で
罪が犯されるのは、早急に罪が暴かれる場合以上もの害を招くという格言)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)

「蔽い隠す」ということは、基本、都合の悪いことを隠すために行われるものだという格言。
ただ、男女の性交のような必要悪によって子宝に恵まれたりもするわけだから、
それを蔽い隠したりすることが密教的な意味合いを以て尊ばれるべき場合までもがある。

上記の記録における「賄賂」のような、不必要悪までもが蔽い隠された場合にこそ、
隠蔽行為も致命的な害悪を招き始めることとなる。予算非公開のCIAが、韓国人を日本国内での
破壊工作に従事させたりした見返りとしてアメリカへの入国を斡旋してやった結果、
今のアメリカが韓国系の不法移民の増加問題に苛まれたりしているように。

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323 2013/12/02(月) 14:42:02 ID:GVTDfIwDdY
塩は、良くも悪しくも活力の源である。「悪しくも」というのは、
戦争時などにおける兵士の最も手っ取り早い活力源に塩がなったりもするからで、
それが「勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱」ということにすらなりかねないからである。

塩の闇商人だった黄巣こそが大唐帝国崩壊の引き金を引いたのも、兵士の活力の有無が戦局の如何にすら
直結していた近代以前の社会において、まさにその活力の源となる塩が当人によって独占されていたから
でこそあった。広大な内陸国で、海産塩や岩塩の採れる地域も限られている上に、古くからの農地開発
などによって人口力も底上げされて来ているという事情があればこそ、中国史上でも最隆盛を誇った
大唐帝国もまた、塩の闇商人の暴慢などという意外な理由によってあっけなく滅んでしまったのである。

これらのような事例を鑑みるに、適切に扱われれば世の中の平和や繁栄にすら貢献する一方で、
扱い方を誤れば亡国級の争乱すらをも招きかねないのが塩であると言える。人間社会の根本基盤の
一つとなる塩を、水や穀物や鉄鋼といったその他の必需資源と共に、国こそが厳重な管理下に
置いて行く必要があり、そのためには国家社稷といったものを国民総出で尊んで行けるだけの
体制でもなければならない。間違っても、闇商人だの悪徳政商だの、それらの暗躍を正当化
するカルト宗教だのによって、国家の権威が蔑ろにされるようなことがあってはならない。

仏法で「無記」と定義される所の、それ自体は善でも悪でもないものの内の一つが塩である。
適切に扱われれば、より一層の善事の推進の糧ともなるため、その場合には塩も「無覆無記」となるが、
扱いを誤れば破滅級の危害をも招きかねないものだから、その場合には塩も「有覆無記」となる。
同様な性質を持つものとして、愛や勇気や臆病といった原始的な感情や、私見を差し挟まない博物的な
科学知識や、それを応用した技術体系などが挙げられる。いずれも現代にこそ持て囃されている部類の

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324 2013/12/02(月) 14:49:13 ID:GVTDfIwDdY
事物であり、そのせいで相対的に善悪の分別などが蔑ろにされてしまっていたりもするわけだけれども、
道徳的な素養が蔑ろにされてまで無記なる事物ばかりが持て囃されているぐらいだから、当然のこととして、
それらも悪用されて有覆無記然とした様相を呈してしまっている。科学技術を駆使した強大な兵器による
無辜の市民への虐殺行為などがその最たる例だが、そこまで行かずとも、もう少し微妙な段階からの
無記なる事物の悪用というものが、平時の内からすら大量に試みられているのが現状である。

塩もまた、最善を尽くす場合と比べれば、相当に粗悪な活用のされ方となってしまっている。
「最善を尽くす場合」というのは、例えば文武両道の武士が十全な道徳的素養と共に塩分摂取や武術の鍛錬を
心がけて、以て公益寄与のための仁政に励んで行ったりする場合のことである。今はといえば、文武両道が
蔑ろにされて人々がみな文科系か体育会系に分裂してしまい、文系の人間は淫らな思考の助長のために
塩分摂取を控え、体育会系の人間はそのような文系の人間の淫らな思い付きを牛馬のような勢いで以て
実行に移すための半奴隷要員として、何のわきまえもなく塩を舐めつつ仕事に取り組むような始末である。
(文系の人間が企てた無計画かつ過大な建築事業を、体育会系の作業員が請け負わされるなど)

塩が行き渡るべき所に行き渡らず、そこにばかり行き渡るべきではないような所にばかり行き渡っている
という点では、現代も、闇商人が塩を寡占していた唐代末期の中国などと全く共通しているため、
そのせいでの唐国崩壊級の危難すらもが、現代においてもまた免れられなくなるであろう。

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325 2013/12/02(月) 14:54:38 ID:sJAJGxQUZg:au
特に、文系支配と体育会系隷従の頻度が高い日本のような国であれば、惨暴が祟っての自滅の後に、
塩を舐めつつ仕事に取り組んでいたような土方だとかが懲罰要員として駆り出されることともなるだろう。
(アメリカなどであれば、脳みそ筋肉の海兵隊員などがそれに借り出されたりもするかもしれない)
文系の支配者がそのようであることを強いて来たればこそ、土方に従事しているような人間も、
無知で粗暴なままだったりする。だもんだから、自分がされたとしても全く構わないような発想で以て、
懲罰対象となった現支配者への粗暴な扱いにも及んだりするかもしれない。ちょうど、秦帝国崩壊後に
数多の権力者たちが、覇王項羽によって虐殺されたように。最終的にはその項羽に勝利したとはいえ、
高祖劉邦も当時はまだ項羽の勢いを凌駕できる程もの威勢を成してはいなかったわけで、
ただただ塩なめて暴れまわる荒くれ者を最終的には御することができたとしても、
一時ぐらいはそのような惨事に至らざるを得ないようなことにすらなり得るわけである。
塩の適切な扱いを蔑ろにして来た者たちの全くの自業自得によってこそ。

「王曰く、来れ、汝じ説。〜爾じに惟れ朕が志しを訓えん。
若し酒醴を作らば、爾は惟れ?糵なり。若し和羹を作らば、爾じは惟れ塩梅なり。
爾じ交々予を修めて、予を棄つること罔かれ。予れ惟れ克く乃の訓えを邁わん(一部既出)」
「殷王高宗が言われた。『近う寄れ、(重臣の)説よ。おまえに我が志しを教えよう。
私が酒を醸そうとするのであれば、おまえはそこに入れる麹だ(必須であるものの譬え)。
私が吸い物を作るのであれば、おまえはそこに入れる塩と梅酢だ(これも必須であるものの
譬えだが、『いい塩梅』などともいう通り、分量の加減が大事なものの譬えともなっている)。
おまえはこれからも私を助けて、私を見捨てるようなことがないでいてくれ。私もおまえの教えを
よく聴いて行くようにするから』(むしろ主君のほうが臣下に対して塩梅の如くであってくれという。
正しい陰陽関係として、下位者こそは塩などの重要物の提供者であるべきだとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

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326 2013/12/03(火) 15:56:30 ID:ha3K6WuttY
愛や勇気や臆病といったような原始的な感情は、それ自体は善でも悪でもない。
ただ、濁念と結託して悪行の原動力と化してしまったりもするものだから、濁念を
離れた所にある絶対真理を尊ぶ仏門などが、場合によっては否認する場合がある。

特に、愛と濁念の結託に対する警戒や牽制が仏門では盛んであり、自力他力に
関わらず、基本は否とされているものである(浄土宗開祖の法然上人すらもが、
遊女の信仰希望者に対して「できることならそのような仕事はやめなさい。ただ、
どうしても必要だったりするのなら、それと共に念仏に帰依しなさい」と言った)。

ただ、「華厳経」にも「可愛楽」などという理念が多々提示されていたりする通り、
十分に節制されて、なおかつ仏菩薩の如き尊ばれるべきものへの敬愛と化している
ような愛については、仏門もまたそれなりに是認している場合がある。諸々の
仏像などがあえて愛嬌のあるような造形で作成されていたりするのも、そういった
目的性があってのことであり、これは情愛を方便に乗せて悟りに至らせたりする
浄土門の段階ですらない、自力作善の聖道門における愛の善用であるといえる。

ただ、そのような節度を保った愛情は、濁愛に塗れているような人間にとっては
かえって淡白すぎてとっつき辛いものとなるのである。戦国期や明治期において、
秦人の末裔であるような一部の日本人が、日本中の寺や仏像を破壊して回ったのも、
生来濁愛まみれである自分たちの価値観が、仏門における可愛楽の淡白さなどを
受け入れることができなかったからなのでもある。確かに、その手の最悪級の濁念
にまみれてしまっているような連中に、聖道門の仏門などは「馬耳東風」であったに
違いないわけで、むしろ濁愛を方便に乗せる浄土門あたりのほうが分相応であった
に違いないわけだけれども、連中たるや、浄土門には自分たちすらもが取り込まれ
かねないことを警戒して、神道や聖道門の仏門への仮面状態での帰依などを通じて、
あえて浄土教を禁教下に置くなどして退けるようにすらしていたのだった。

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327 2013/12/03(火) 16:04:56 ID:ha3K6WuttY
濁愛でもあったりするような、肥大化した愛が、善巧方便に載せられるような
適切な措置も受けずに、全くの無軌道なままに放逸して行く、そこにこそ、
麻薬中毒的な陶酔があるのも確かなわけで、それが悪巧方便の類いのカルト信仰
などと結託した場合に、それはそれはあられもない害悪を招き始めることとなる。

物理的、経済的な実害も甚大なものとなるし、何よりも精神衛生に対する害が
極端に甚だしいものとなる。そこに理想を集約してしまった結果として、濁愛を
排した所にこそある本物の真理や道理が完全に見失われてしまう。見失われた
上で、見つけ直そうともされなくなり、完全誤謬の概念遊びに耽ることばかりで
全てを済ませてしまう、最も有害無益な部類の思考回路が出来上がることになる。

本物の麻薬中毒は、本人を生活や仕事もままならない状態と化してしまったり
するが、濁愛はその程度の能力は本人に保たせたままで、思考回路の奥深くまで
侵食して「駄目な脳みそ」を精製してしまうものだから、ある意味、麻薬中毒など
よりもさらに性質が悪いものだといえる。「宗教はアヘンだ」とマルクスは言ったが、
濁愛を正当化して助長する類いのカルト宗教の害こそは、麻薬以上のものだといえる。

近代医療は、身体や脳器質の疾患に対する治療方法を無数に編み出してきたが、精神
の汚染に対する治療措置は全くと言っていいほど疎かにして来た。それは、汚濁に
まみれた心を持つ俗人がやりたい放題した結果としての病気や怪我こそを商業目的
の治療対象ともして来たからであり、精神汚染への治療までもが推進されていったり
すれば、かえって自分たちが商売上がったりにもなりかねなかったからである。

精神の汚濁の治療は、身体の治療と相容れない所すらあるものだから、結局、
旧来の仏教帰依や儒学統治などに基づく以上の手段というものを、医学を含む
近代科学の発達した現代において、新たに期待できたりするところもありはしない。
深刻さでは、時に身体の疾患すらをも上回ることのある精神の汚濁を癒していくために、
「温故知新」以上に適切な手段があり得ないのも、永久不変の絶対法則なのだといえる。

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328 2013/12/03(火) 16:27:47 ID:dY8wtMwpKs:au
「驕奢淫泆は、邪まよりくる所なり。四者の来たれるは、寵禄の過ぎたればなり」
「奢り高ぶりや淫蕩や放逸は、邪道から来る所である。そのようなものを招いて
しまうのは、寵愛や厚遇が度を越しているからである。(寵愛が悪念や邪道を招く実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)

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