近代東アジアを明治年号で鑑みるスレ
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009 2023/02/26(日) 01:18:35 ID:MTrHuv9oxw
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。
新大陸原産の作物は水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。
溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。
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