大久保公園周辺で急増中の“立ちんぼ”「最近の状況は異常」


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053 2023/05/01(月) 02:08:54 ID:08rtL890Bk
>>32
歌舞伎町 歴史
元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と元大村藩主大村氏邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。1893年、淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成される。この地に東京府立女学校が開校し周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅もあり発展していった。1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、新しい町は歌舞伎町と名付けられた。結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまった。

大久保 歴史
島崎藤村他文人も住民であり]、当時の大久保は「樹木に囲まれた閑静な住宅街で、文筆家や芸術家の集まる土地」で「大久保文士村」とも呼ばれた。そのほか歴代総理や、軍人、官僚も住み、市民の文化住宅も並び、しかし、東京大空襲で街のほぼ全域が罹災。家を失った住民は街を離れた。1950年の朝鮮戦争の際にGIが情交するための場所としてこの一帯を選び・・・

百人町 歴史
江戸時代には伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があった。維新後払い下げとなり、百人組が副業に育てていたツツジ園も衰退、売却され、一帯は宅地化された。敗戦まで陸軍の施設や、隣接した現在集合住宅団地のある戸山には陸軍の演習場の戸山が原があった。「外人村」と呼ばれる一画には、初期の日本楽壇に貢献した外国人音楽家たちが住み、百人町は新宿界隈とともに「音楽の町」「楽器の町」として知られ映画撮影所の町でもあった。しかし戦後は「若者の町」としてあらゆる流行の発信源となった原宿・渋谷に圧倒されるようになり、「音楽の町」としては衰退。
戦後の1945年から1946年にかけて、住宅営団によって百人町越冬住宅が450戸建設されていたほか、戸山が原には集合住宅団地が建設され、一帯は住宅地と化した。日雇い労働者や在日朝鮮人などは空き地や山手線、総武線(各駅停車)のガード下を不法占拠して住みつくようになり、現在の大久保界隈の元になるバラック街が形成された。 1950年にロッテ新宿工場が操業を開始・・・

この街に生まれ育った江藤淳は1965年に百人町を訪れてショックを受けている。

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