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この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である 偉大なる生存の報告 Part313
▼ページ最下部
思想哲学宗教一般としては、仏教などのほうが優れた側面があるし、
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
前スレ:https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1699761925...
同じ主題で立ててる理由:https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1699761925/5...
狂犬たちののたうち回り具合にもよるが、この主題でまだ3~5Partぐらいは稼ぐかな。
俺自身の書き込みは数十レス止まりにしろ、一度はちゃんとスレが満了した上で次スレに
移っているのだし、スレをちゃんと使い切っていないように見える責任はあくまで、
大量ゴミレス荒らしなんかを試みている者たち自身にあるものとするわけである。
同じ主題で立ててる理由:https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1699761925/5...
狂犬たちののたうち回り具合にもよるが、この主題でまだ3~5Partぐらいは稼ぐかな。
俺自身の書き込みは数十レス止まりにしろ、一度はちゃんとスレが満了した上で次スレに
移っているのだし、スレをちゃんと使い切っていないように見える責任はあくまで、
大量ゴミレス荒らしなんかを試みている者たち自身にあるものとするわけである。
(https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1699761925/18...の続き)
おまえらは、西洋的価値観に頭を支配されきっている一つ覚えの徒だから、
なんらかのイデオロギーや宗教に世の中が完全支配されることを前提としてしか
ものを考えられないのだろうが、俺は違う。世の中の全てを特定の思想信教のような
作為によって徹底支配してかかろうなどとすること自体を避けるのが東洋の叡智でもあることだし、
自分自身が特に信奉している儒学や仏教や古流の武芸といえども、その範疇での利用に留めると誓うものだ。
ちっとも付け焼き刃でもなんでもないし、儒仏の称揚に異を唱えるような者への妥協の結果でもない。
古来より、儒家や仏門とも同等か、場合によってそれ以上の尊重対象とされて来た老荘列の道家思想
などにも即して、これはこれで儒仏の再興にかけてなみの信念を以て取り組んで行くたしなみである。
おまえらは、西洋的価値観に頭を支配されきっている一つ覚えの徒だから、
なんらかのイデオロギーや宗教に世の中が完全支配されることを前提としてしか
ものを考えられないのだろうが、俺は違う。世の中の全てを特定の思想信教のような
作為によって徹底支配してかかろうなどとすること自体を避けるのが東洋の叡智でもあることだし、
自分自身が特に信奉している儒学や仏教や古流の武芸といえども、その範疇での利用に留めると誓うものだ。
ちっとも付け焼き刃でもなんでもないし、儒仏の称揚に異を唱えるような者への妥協の結果でもない。
古来より、儒家や仏門とも同等か、場合によってそれ以上の尊重対象とされて来た老荘列の道家思想
などにも即して、これはこれで儒仏の再興にかけてなみの信念を以て取り組んで行くたしなみである。
大体が俺自身、儒仏なみか、時にはそれ以上に、道家思想こそを拠り所として来た所もある。
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」という、
道家思想を最大限砕いてかかった所にある教条を、今までに何度頼みとしたことか知れない。
これだけだと単なる怠け者の自己正当化にもなりかねないことから、
「何もしないよりは善いことをしたほうがいい」→儒仏の理想が実践できるような
時勢においては、そのために熱心に働き詰めて行くとも固く誓って来たものだが。
現時点でもすでに忠実に実践済みであるのはむしろ前者の道家の教えのほう。
「言葉よりも行い」というのであれば、俺もむしろ道家の徒と見なされた方がいいぐらい。
さような敬意もあった上で、自らの現状までにおける圧倒的勝利の拠り所たり得てくれて来た
道家思想もまた決して蔑ろにすることはなく、むしろそれをこそ全世界に冠たる
「零ゼロのイデオロギー」たらしめることをも推薦してかかるわけである。
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」という、
道家思想を最大限砕いてかかった所にある教条を、今までに何度頼みとしたことか知れない。
これだけだと単なる怠け者の自己正当化にもなりかねないことから、
「何もしないよりは善いことをしたほうがいい」→儒仏の理想が実践できるような
時勢においては、そのために熱心に働き詰めて行くとも固く誓って来たものだが。
現時点でもすでに忠実に実践済みであるのはむしろ前者の道家の教えのほう。
「言葉よりも行い」というのであれば、俺もむしろ道家の徒と見なされた方がいいぐらい。
さような敬意もあった上で、自らの現状までにおける圧倒的勝利の拠り所たり得てくれて来た
道家思想もまた決して蔑ろにすることはなく、むしろそれをこそ全世界に冠たる
「零ゼロのイデオロギー」たらしめることをも推薦してかかるわけである。
無為無策 (^。^;)
実戦面では道家に最も近い所にいる俺が、儒仏のほうをより標榜し、
道家思想はついで程度にしか取り上げて来なかったのは、
そもそもが老荘列のような道家思想の原典が非常に些少な上に、
その内容まで奇想天外、なんでもありな代物だからだ。
「荘子」盗跖篇における大盗賊による孔子の撃退話などももちろんだが、
基本的に全ての論説が最大級の皮肉、天邪鬼で埋め尽くされていて、
それ自体に権威性を伴わせようなどという意図が微塵も感じられない。
その思想だけを排他的な拠り所にしていた三国志時代の漢中郡なども、
無為無策に過ぎるが故に魏に蹂躙された挙句の征服を被っていたし、
道家思想こそを独裁的な支配原理として国是に据えたりするのもおかしく、
ただ「無為」という側面だけを重んじるのが忠実な実践となるもの。
その実践は、無為を強いるのではなく、国是のイデオロギーは無為であった結果、
イデオロギー的な覇権性を排した個人個人の思想信条の、身の程をわきまえた
実践が適宜執り行われて行く所に窮まる。それは自由主義というイデオロギーを
支配原理に据えたからといって実現されるものでないのも、すでに知れたところである。
道家思想はついで程度にしか取り上げて来なかったのは、
そもそもが老荘列のような道家思想の原典が非常に些少な上に、
その内容まで奇想天外、なんでもありな代物だからだ。
「荘子」盗跖篇における大盗賊による孔子の撃退話などももちろんだが、
基本的に全ての論説が最大級の皮肉、天邪鬼で埋め尽くされていて、
それ自体に権威性を伴わせようなどという意図が微塵も感じられない。
その思想だけを排他的な拠り所にしていた三国志時代の漢中郡なども、
無為無策に過ぎるが故に魏に蹂躙された挙句の征服を被っていたし、
道家思想こそを独裁的な支配原理として国是に据えたりするのもおかしく、
ただ「無為」という側面だけを重んじるのが忠実な実践となるもの。
その実践は、無為を強いるのではなく、国是のイデオロギーは無為であった結果、
イデオロギー的な覇権性を排した個人個人の思想信条の、身の程をわきまえた
実践が適宜執り行われて行く所に窮まる。それは自由主義というイデオロギーを
支配原理に据えたからといって実現されるものでないのも、すでに知れたところである。
日本において、国是たるイデオロギーに相当するものが無為自然、
イデオロギーゼロであらしめることを司って来たのが、他でもない神道なんだよ。
天皇も日本国の君主でいながら、実権政治は摂関や将軍らに概ね任せきり、
祭司長を兼任して来ている神道にもまた、仏教や儒教やヒンズー教や
アブラハム教などが持ち合わせているような、体系的な教義などはない。
その称号たる「天皇」もまた、道教の「天皇大帝」に由来すると言われているし、
神道こそは日本版の道教である上に、中国の道教よりも道家思想の忠実な実践に徹している。
近代以降には、国家神道による独裁支配で他の思想信教を排斥するような過ちをも
犯したけれども(そもそもが国家神道自体、キリスト教の真似事に過ぎないのだが)、
古来の日本神道は仏教や儒学や武士道、武道などとの積極的な融和にも取り組み、
それらが相当な所まで日本社会における大派閥を形成することを許しながらも、
国の独裁支配を目論むことまでは抑止する牽制者としての役割を果たして来たもの。
それこそが、それ自体が過度の権威性を帯びて、他の思想信教を排斥する独裁者と
なることをも拒んでかかる、純正な道家思想の国是への適用ともなっているのだし、畢竟、
このスレの主題の実践なんてのは、少なくともここ日本においては古来の神道の復権だけでも済むのである。
イデオロギーゼロであらしめることを司って来たのが、他でもない神道なんだよ。
天皇も日本国の君主でいながら、実権政治は摂関や将軍らに概ね任せきり、
祭司長を兼任して来ている神道にもまた、仏教や儒教やヒンズー教や
アブラハム教などが持ち合わせているような、体系的な教義などはない。
その称号たる「天皇」もまた、道教の「天皇大帝」に由来すると言われているし、
神道こそは日本版の道教である上に、中国の道教よりも道家思想の忠実な実践に徹している。
近代以降には、国家神道による独裁支配で他の思想信教を排斥するような過ちをも
犯したけれども(そもそもが国家神道自体、キリスト教の真似事に過ぎないのだが)、
古来の日本神道は仏教や儒学や武士道、武道などとの積極的な融和にも取り組み、
それらが相当な所まで日本社会における大派閥を形成することを許しながらも、
国の独裁支配を目論むことまでは抑止する牽制者としての役割を果たして来たもの。
それこそが、それ自体が過度の権威性を帯びて、他の思想信教を排斥する独裁者と
なることをも拒んでかかる、純正な道家思想の国是への適用ともなっているのだし、畢竟、
このスレの主題の実践なんてのは、少なくともここ日本においては古来の神道の復権だけでも済むのである。
https://bbs77.meiwasuisan.com/thought/1642233777...
しかし残念ながら、近代以降、今に至るまで、日本神道は上に書いたような、
「国是からの作為の排斥役」としての本分を損ねたままでいるのである。
ただイデオロギーゼロを達成できないのみならず、統一教会みたいな、
「できる限り日本人を苦しめて、国益を搾取し米韓へと誘導する」なんていう、
日本人にとっては究極悪と断じるほかないような教義を持ち合わせた、
在日カルトなんざによる一党独裁支配までをも許してしまったのだった。
近代以降に、神道そのものが国家神道として排他的な国是に据えられたのみならず、
そこで仏教や儒学のような古来、共存共栄を実現して来た思想信教を排斥しておきながら、
洋学やキリスト教のような、世の中を完全支配下に置くことを目的とした思想信教
なんざを許容してしまったがために、敗戦で神道そのものが弱体化して後には、
日本社会がドグマの作為に支配されることを助長する従犯にまでなってしまったのである。
しかし残念ながら、近代以降、今に至るまで、日本神道は上に書いたような、
「国是からの作為の排斥役」としての本分を損ねたままでいるのである。
ただイデオロギーゼロを達成できないのみならず、統一教会みたいな、
「できる限り日本人を苦しめて、国益を搾取し米韓へと誘導する」なんていう、
日本人にとっては究極悪と断じるほかないような教義を持ち合わせた、
在日カルトなんざによる一党独裁支配までをも許してしまったのだった。
近代以降に、神道そのものが国家神道として排他的な国是に据えられたのみならず、
そこで仏教や儒学のような古来、共存共栄を実現して来た思想信教を排斥しておきながら、
洋学やキリスト教のような、世の中を完全支配下に置くことを目的とした思想信教
なんざを許容してしまったがために、敗戦で神道そのものが弱体化して後には、
日本社会がドグマの作為に支配されることを助長する従犯にまでなってしまったのである。
国家神道自体がキリスト教の猿真似だから、「そもそも神道ではない」と断じてもいい
ぐらいなのだが、その国家神道としての看板を下ろして後にも、今の神道がその後遺症から
脱却できているようなことは全くなく、むしろ戦前以上に地獄の国情を招く事態に陥っている。
それはやはり、かつての過ちを認めた上で、さらにその過ちを全て改めるのでなければ、
脱却できる病理ではない。すなわち、神道が一党独裁の支配者とならないのはもちろんのこと、
世の中への一党独裁を目論むような思想信教こそを排斥の対象とし、そこまでいかない範囲で
国の運営の助役となるようなそれらに限って許容して行くような、本来の役割に戻るのである。
ぐらいなのだが、その国家神道としての看板を下ろして後にも、今の神道がその後遺症から
脱却できているようなことは全くなく、むしろ戦前以上に地獄の国情を招く事態に陥っている。
それはやはり、かつての過ちを認めた上で、さらにその過ちを全て改めるのでなければ、
脱却できる病理ではない。すなわち、神道が一党独裁の支配者とならないのはもちろんのこと、
世の中への一党独裁を目論むような思想信教こそを排斥の対象とし、そこまでいかない範囲で
国の運営の助役となるようなそれらに限って許容して行くような、本来の役割に戻るのである。
今の神道にも、イデオロギーでいえば独裁主義的な思想傾向を帯びてしまっている関係者が
相当数いるらしくて、とてもそんな連中が上記のような改悛に勤められるとも思われない。
やはりそういう連中は、戦前の国家神道への憧憬があるか、そうでなくとも国家神道的な
独裁性を帯びている場合がほとんどである。戦前においても「本来、日本は神道一本だった」
というような認識ばかりを強調する風潮があったものだし、その原理主義的根性自体が
近代以降に新造された、キリスト教由来の紛い物であることも認めなかったりする。
少なくとも、日本の文明化は仏教や儒学との協同であった時代がほとんどを占めているし、
いま「神道」と捉えられているような文化性もまた、そこでこそ洗練されて行ったもの。
文明化以前は、良くも悪しくもアイヌなみの土人状態であったわけで、そこには
特定の思想信教による独裁などに意義が見出せるほど大きな社会もまだ存在しなかった。
相当数いるらしくて、とてもそんな連中が上記のような改悛に勤められるとも思われない。
やはりそういう連中は、戦前の国家神道への憧憬があるか、そうでなくとも国家神道的な
独裁性を帯びている場合がほとんどである。戦前においても「本来、日本は神道一本だった」
というような認識ばかりを強調する風潮があったものだし、その原理主義的根性自体が
近代以降に新造された、キリスト教由来の紛い物であることも認めなかったりする。
少なくとも、日本の文明化は仏教や儒学との協同であった時代がほとんどを占めているし、
いま「神道」と捉えられているような文化性もまた、そこでこそ洗練されて行ったもの。
文明化以前は、良くも悪しくもアイヌなみの土人状態であったわけで、そこには
特定の思想信教による独裁などに意義が見出せるほど大きな社会もまだ存在しなかった。
いま、独裁主義的な神道関係者が、かつて存在していたかのように思い込んでいるような、
都市国家を自分たちだけで司っていた神道なんてものは実在しないし、そんなものを今の世に
復興させようなどと考えたところで、新興宗教による支配を目論むのと変わらない事態になる。
神道の復興のために必要なのはそんなことではなく、数多の善良な異文化同士の共存共栄を司る、
イデオロギーゼロ社会の調整役へと立ち戻ることのほう。そんなのどうでもいい、神道独裁の
日本社会を作り上げたいなんていう連中は、神道や皇室のためにも罷免されるべきなのである。
都市国家を自分たちだけで司っていた神道なんてものは実在しないし、そんなものを今の世に
復興させようなどと考えたところで、新興宗教による支配を目論むのと変わらない事態になる。
神道の復興のために必要なのはそんなことではなく、数多の善良な異文化同士の共存共栄を司る、
イデオロギーゼロ社会の調整役へと立ち戻ることのほう。そんなのどうでもいい、神道独裁の
日本社会を作り上げたいなんていう連中は、神道や皇室のためにも罷免されるべきなのである。
おまえが動いたら動くわww
にしても天気が悪い
で????
イスラエル大使館近くで車突っ込む 運転の右翼団体構成員逮捕
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231116/k1001425977...
ネット上ではそれなりにささやかれている説だが、
これは非道なガザ攻撃を続けているイスラエルへの同情を取り付けるための、
CIAあたりによる自作自演ではないだろうかと、俺もそう見込んでいる。
戦後の日本における街宣右翼、利権右翼はCIA工作員の児玉誉士夫らが
編成したものが多くを占めていて、むしろ右翼や日本の伝統への人々の
嫌悪感を募らせるために、わざとガラの悪いチンピラばかりを募っているとも。
その下部構成員自身は、別に自分たちがCIAの傀儡として利用されているなどという
自覚があるわけでもなく、自分たちでは本気で保守の愛国者だと思い込んでいたりする。
(三島由紀夫の「奔馬」あたりにも、その内実を告発するような表現がある)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231116/k1001425977...
ネット上ではそれなりにささやかれている説だが、
これは非道なガザ攻撃を続けているイスラエルへの同情を取り付けるための、
CIAあたりによる自作自演ではないだろうかと、俺もそう見込んでいる。
戦後の日本における街宣右翼、利権右翼はCIA工作員の児玉誉士夫らが
編成したものが多くを占めていて、むしろ右翼や日本の伝統への人々の
嫌悪感を募らせるために、わざとガラの悪いチンピラばかりを募っているとも。
その下部構成員自身は、別に自分たちがCIAの傀儡として利用されているなどという
自覚があるわけでもなく、自分たちでは本気で保守の愛国者だと思い込んでいたりする。
(三島由紀夫の「奔馬」あたりにも、その内実を告発するような表現がある)
日々、神社への参詣も欠かさず、毎朝皇居に向かって敬礼していたりしながらも、
上からの指令でやっていることは皆、米韓やユダヤの思惑通りなものばかりでいる。
そのような似非右翼が跋扈していることを、神道関係者たちも別に非難もせず、
逆に自分たちまでもが取り込まれて、似非右翼的な思想だ、日ユ同祖論だにかぶれたりしている。
似非右翼にしろ統一自民にしろ慶応閥にしろ、やってることが完全に売国、国賊でいながら、
むしろ自分たちこそは保守の愛国者であるなどと見せかけるためのカモフラージュ材料として、
いいように利用されているのが今の神道であるが故に、イデオロギーゼロの調整役などとは真逆な、
最低最悪の詐欺イデオロギーによる一党独裁支配の助役化してしまっているという他ないわけである。
上からの指令でやっていることは皆、米韓やユダヤの思惑通りなものばかりでいる。
そのような似非右翼が跋扈していることを、神道関係者たちも別に非難もせず、
逆に自分たちまでもが取り込まれて、似非右翼的な思想だ、日ユ同祖論だにかぶれたりしている。
似非右翼にしろ統一自民にしろ慶応閥にしろ、やってることが完全に売国、国賊でいながら、
むしろ自分たちこそは保守の愛国者であるなどと見せかけるためのカモフラージュ材料として、
いいように利用されているのが今の神道であるが故に、イデオロギーゼロの調整役などとは真逆な、
最低最悪の詐欺イデオロギーによる一党独裁支配の助役化してしまっているという他ないわけである。
愛国有志とガザの関係を述べよ
CIAのやることだから、自作自演だったところで何の証拠も残してない。
イスラエル大使館への突入を試みた右翼も、自分ではただ、
子供たちを虐殺する悪魔国家への抗議のつもりだったりしてな。
犯行に至らしめるための誘導も、極力証拠が残らないようにする。
いつも言うことを聞かされている上部組員が「イスラエル許すまじ」
的なことを言ってたので、それに倣って自分からやったとかいう風に。
イスラエルへのテロといえば、日本赤軍とも同じ所業になるわけだが。
頭が悪くてそんな昔の事件なども知らず、無鉄砲に試みたりしててな。
右翼が生粋の馬鹿だらけなのはおまえらもよく知る所だろう? つ鏡
イスラエル大使館への突入を試みた右翼も、自分ではただ、
子供たちを虐殺する悪魔国家への抗議のつもりだったりしてな。
犯行に至らしめるための誘導も、極力証拠が残らないようにする。
いつも言うことを聞かされている上部組員が「イスラエル許すまじ」
的なことを言ってたので、それに倣って自分からやったとかいう風に。
イスラエルへのテロといえば、日本赤軍とも同じ所業になるわけだが。
頭が悪くてそんな昔の事件なども知らず、無鉄砲に試みたりしててな。
右翼が生粋の馬鹿だらけなのはおまえらもよく知る所だろう? つ鏡
ではそもそも噂でかたるなボゲ
おまえはバカ右翼以下w
で????
現行の日本神道は、本来担っていたイデオロギーゼロの調整役という立ち回りからは
あまりにもかけ離れた天人五衰の域に陥ってしまっているために、しばらくは、
自分たち自身が表社会で出しゃばるような真似は極力避けて、儒仏武その他、
良質かつイデオロギーゼロの取り決めを守るような文化体系の日本社会における
和合的な隆盛を後方から見守る女房役に徹するのでもなければなるまい。
その期間、最低でも100年以上。
いま神道の関係者であるような人間は全員死に絶え、暗黒時代の腐敗から
完全に脱却し抜いてから初めて、また神道そのものの隆盛もまた見込まれよう。
決してその100年の間にも、衰亡などは来たさないように仕向ける。
神社もまた寺並みの社会的保護対象としながら、あまり一般人は立ち入るべき
でもないような神秘の領域としての隠棲、謹慎に勤めるように促す。
神社の森なども、明治以前なみの鬱蒼さを取り戻して、本当にそこに神霊がいそうだと、
誰しもが感じられるほどの荘厳さが復元されて初めて、霊威の復調も十分となるもの。
誰一人としてその全てを支配下に置いているような作為が認められなくなってこそ、
イデオロギーゼロの牙城たるが故に、人間の寿命である100年以上の期間を要するわけだ。
あまりにもかけ離れた天人五衰の域に陥ってしまっているために、しばらくは、
自分たち自身が表社会で出しゃばるような真似は極力避けて、儒仏武その他、
良質かつイデオロギーゼロの取り決めを守るような文化体系の日本社会における
和合的な隆盛を後方から見守る女房役に徹するのでもなければなるまい。
その期間、最低でも100年以上。
いま神道の関係者であるような人間は全員死に絶え、暗黒時代の腐敗から
完全に脱却し抜いてから初めて、また神道そのものの隆盛もまた見込まれよう。
決してその100年の間にも、衰亡などは来たさないように仕向ける。
神社もまた寺並みの社会的保護対象としながら、あまり一般人は立ち入るべき
でもないような神秘の領域としての隠棲、謹慎に勤めるように促す。
神社の森なども、明治以前なみの鬱蒼さを取り戻して、本当にそこに神霊がいそうだと、
誰しもが感じられるほどの荘厳さが復元されて初めて、霊威の復調も十分となるもの。
誰一人としてその全てを支配下に置いているような作為が認められなくなってこそ、
イデオロギーゼロの牙城たるが故に、人間の寿命である100年以上の期間を要するわけだ。
CIAが、日本古来の神道文化を損ねるためにわざと動員して来た、
街宣右翼、利権右翼の部類の人種を完全に神道から切り離し、
神道に最も近寄ってはならない部類の人種であると認定した上で、
全員出家処分、そこからさらに100年以上、浄化に専念する必要があろう。
それでようやっと、神道がイデオロギーセロの要たる上に、
そこからさらに独自の隆盛を果たせるぐらいであるのに違いない。
「日本については、神道を復興さえすれば十分」とは言ったけれども、
そこにもまたそれなりの障壁が山積しているのに違いなわけだ。
街宣右翼、利権右翼の部類の人種を完全に神道から切り離し、
神道に最も近寄ってはならない部類の人種であると認定した上で、
全員出家処分、そこからさらに100年以上、浄化に専念する必要があろう。
それでようやっと、神道がイデオロギーセロの要たる上に、
そこからさらに独自の隆盛を果たせるぐらいであるのに違いない。
「日本については、神道を復興さえすれば十分」とは言ったけれども、
そこにもまたそれなりの障壁が山積しているのに違いなわけだ。
スレの本題からは逸れるけど、きんきう速報についての話につき。
これとか、ジャニタレの結婚率の低さとか鑑みるに、
結婚ってやっぱり、男ならオッサンがすべきものなんだよな。
年齢的な意味ではなく、女への色仕掛けなんかはもう諦め去ってる男がすべきこと。
未だにそんな段階にいるような男と結婚したいなんて、女のほうも望むべきではない。
じゃあ、女もおばさん化してからでもいいのかというと、
おばさんの体力ではまともに子供も産み育てられないので、そうともいかない。
いま結婚適齢期とされている20代後半でも、万全の体力で子供を育て上げるのには遅すぎるぐらい。
ツイフェミあたりが聞いたら、ブチ切れて頭の血管が破裂しそうな、
単なる真実提示のお話でござんした。では本題のほうに戻る。
これとか、ジャニタレの結婚率の低さとか鑑みるに、
結婚ってやっぱり、男ならオッサンがすべきものなんだよな。
年齢的な意味ではなく、女への色仕掛けなんかはもう諦め去ってる男がすべきこと。
未だにそんな段階にいるような男と結婚したいなんて、女のほうも望むべきではない。
じゃあ、女もおばさん化してからでもいいのかというと、
おばさんの体力ではまともに子供も産み育てられないので、そうともいかない。
いま結婚適齢期とされている20代後半でも、万全の体力で子供を育て上げるのには遅すぎるぐらい。
ツイフェミあたりが聞いたら、ブチ切れて頭の血管が破裂しそうな、
単なる真実提示のお話でござんした。では本題のほうに戻る。
日本社会が、具体的にイデオロギーゼロを実現したらしい歴史的事跡を探ってみるに。
たとえば、南宋の朱子が新儒学を興隆させ、それまで科挙試験の科目ともなっていた
易詩書礼春五経の入門書として、論語大学中庸孟子の四書を推薦したはいいものの、
その後、中国では科挙試験の科目までもが四書止まりとなる学術的堕落に陥り、
特にそれだけだと創唱宗教の聖典ともなりかねないような論語孟子の金科玉条化を通じて、
凝り固まった思想信教としての「儒教」が中国や朝魚羊を支配下に置くようになったのだった。
日本でも平安時代には、孔子や孟子を崇め立てる儀式などを執り行っていたらしいが、
武家時代の到来と共に、儒教が絶対的な至上扱いをしている文治一辺倒の理想などからは
世相がかけ離れて、とてもとても儒教が日本社会の支配者などとなるわけにはいかなくなった。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝からして、平氏に強要されてとはいえ実父の義朝を処刑した身の上だし、
父の信虎が酒席でも好んで刀を抜くような狂刃漢だったことから、大変な不和に陥った
武田信玄なども、そのせいで生涯、父子の序を説く論語をまともに読むこともできなかった
という逸話が残っているほど、武家と儒教文化は本来、水と油のように相性が悪いものである。
たとえば、南宋の朱子が新儒学を興隆させ、それまで科挙試験の科目ともなっていた
易詩書礼春五経の入門書として、論語大学中庸孟子の四書を推薦したはいいものの、
その後、中国では科挙試験の科目までもが四書止まりとなる学術的堕落に陥り、
特にそれだけだと創唱宗教の聖典ともなりかねないような論語孟子の金科玉条化を通じて、
凝り固まった思想信教としての「儒教」が中国や朝魚羊を支配下に置くようになったのだった。
日本でも平安時代には、孔子や孟子を崇め立てる儀式などを執り行っていたらしいが、
武家時代の到来と共に、儒教が絶対的な至上扱いをしている文治一辺倒の理想などからは
世相がかけ離れて、とてもとても儒教が日本社会の支配者などとなるわけにはいかなくなった。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝からして、平氏に強要されてとはいえ実父の義朝を処刑した身の上だし、
父の信虎が酒席でも好んで刀を抜くような狂刃漢だったことから、大変な不和に陥った
武田信玄なども、そのせいで生涯、父子の序を説く論語をまともに読むこともできなかった
という逸話が残っているほど、武家と儒教文化は本来、水と油のように相性が悪いものである。
(>>39の続き)
ただ、そのような極度の武断主義者たちによって、元寇と共に日本社会の儒教一色化が
防がれたし、朱子学を重んずる徳川家康が江戸幕府を開いて泰平の世を実現した後にも、
信仰的な儒教に支配された明清時代の中国や李氏朝魚羊が極度の政治腐敗に陥っていた
のとは裏腹に、切腹や斬り捨て御免のような武家ならではの勇壮なたしなみによって、
政治腐敗による壊乱を決して許さない世相を守り続けることができたのである。
武家時代は当然、武家が日本全国を支配下に置いていた時代ではあるけれども、
鎌倉期から室町期にかけては、熾烈な勢力争いが繰り返され続けることを通じて、
世の中全体が特定のイデオロギー的な支配に染め上げられることが避けられたし、
(中華属国の国王として全国に君臨しようとした足利義満の試みなども挫かれた)
そこで醸成されていた修羅道寄りの武士道と、人道寄りの朱子学の両道的な拮抗によって、
江戸時代の日本が儒教のドグマ的な支配下に置かれることもなくて済んだのだった。
あくまで、国を司るイデオロギー的なものが中空であり続けられた背景にはやはり、
万世一系の皇統をいただく朝廷や神道の、体裁程度だけでもの存続が欠かせなかったものだし、
そこにまで官位からの干渉を試み始めていた織田や豊臣が覇権を握り続けようものなら、
国が一党独裁的なイデオロギー支配に陥ることにもなってしまっていたかもしれない。
信長秀吉を家康公以上に敬愛する人間が多い今日なども、それに近い危機を帯びているものである。
ただ、そのような極度の武断主義者たちによって、元寇と共に日本社会の儒教一色化が
防がれたし、朱子学を重んずる徳川家康が江戸幕府を開いて泰平の世を実現した後にも、
信仰的な儒教に支配された明清時代の中国や李氏朝魚羊が極度の政治腐敗に陥っていた
のとは裏腹に、切腹や斬り捨て御免のような武家ならではの勇壮なたしなみによって、
政治腐敗による壊乱を決して許さない世相を守り続けることができたのである。
武家時代は当然、武家が日本全国を支配下に置いていた時代ではあるけれども、
鎌倉期から室町期にかけては、熾烈な勢力争いが繰り返され続けることを通じて、
世の中全体が特定のイデオロギー的な支配に染め上げられることが避けられたし、
(中華属国の国王として全国に君臨しようとした足利義満の試みなども挫かれた)
そこで醸成されていた修羅道寄りの武士道と、人道寄りの朱子学の両道的な拮抗によって、
江戸時代の日本が儒教のドグマ的な支配下に置かれることもなくて済んだのだった。
あくまで、国を司るイデオロギー的なものが中空であり続けられた背景にはやはり、
万世一系の皇統をいただく朝廷や神道の、体裁程度だけでもの存続が欠かせなかったものだし、
そこにまで官位からの干渉を試み始めていた織田や豊臣が覇権を握り続けようものなら、
国が一党独裁的なイデオロギー支配に陥ることにもなってしまっていたかもしれない。
信長秀吉を家康公以上に敬愛する人間が多い今日なども、それに近い危機を帯びているものである。
創価系のアンチは消沈状態な一方で、統一系と国賊神道系は居残り。
どこと言わず、日本中のカルト勢力が総攻撃を仕掛けていたのだと知れる。
どれだけ法人税免除で美味い思いをして来たものか。
子供の落書きのようにつたない信仰自体はともかくとして、
銭ゲバのための必死さまでをも見くびってはなるまい。
どこと言わず、日本中のカルト勢力が総攻撃を仕掛けていたのだと知れる。
どれだけ法人税免除で美味い思いをして来たものか。
子供の落書きのようにつたない信仰自体はともかくとして、
銭ゲバのための必死さまでをも見くびってはなるまい。
思えば創価学会も、仏教勢力として確信的に国家権力に干渉して来たあたりが、
東大寺や比叡山や一向宗を上回るほどのアンチイデオロギーゼロっぷりだったな。
それを可能とした背景には、宗教団体への一律な法人税免除という悪法がある。
近世までの日本においては、肉食妻帯金儲けも一切断ち切っての戒律厳守で、
山寺での精進修行に励むような仏門宗派に限って免税特権を付与した一方、
その条件を満たさないような宗派に対しては普通に税金を課していたのだが。
(創価源流の日蓮宗は両方いたのでそれぞれに相応な税制が講じられていた)
政教分離なんてものを政治理念として掲げた所で、あらゆる宗教団体が宗教というだけで
免税措置を受けられるような状態では、まともな戒律や精進修行もないような世俗主義の
宗派ほど金満で肥え太り、直接間接織り交ぜての政治干渉に及んでくることが避けられない。
必要なのはそんな机上の空論を掲げることではなく、宗教団体なんかが政治権力に
干渉するような真似が原理的に不可能となるような、税制からの実力行使を講じることである。
それでこそ、国是がイデオロギーゼロであることもまた守られるのに違いないのだし。
東大寺や比叡山や一向宗を上回るほどのアンチイデオロギーゼロっぷりだったな。
それを可能とした背景には、宗教団体への一律な法人税免除という悪法がある。
近世までの日本においては、肉食妻帯金儲けも一切断ち切っての戒律厳守で、
山寺での精進修行に励むような仏門宗派に限って免税特権を付与した一方、
その条件を満たさないような宗派に対しては普通に税金を課していたのだが。
(創価源流の日蓮宗は両方いたのでそれぞれに相応な税制が講じられていた)
政教分離なんてものを政治理念として掲げた所で、あらゆる宗教団体が宗教というだけで
免税措置を受けられるような状態では、まともな戒律や精進修行もないような世俗主義の
宗派ほど金満で肥え太り、直接間接織り交ぜての政治干渉に及んでくることが避けられない。
必要なのはそんな机上の空論を掲げることではなく、宗教団体なんかが政治権力に
干渉するような真似が原理的に不可能となるような、税制からの実力行使を講じることである。
それでこそ、国是がイデオロギーゼロであることもまた守られるのに違いないのだし。
俺が色々、批判的なことを言った時に、
「おまえはそれ以下www」と反発してかかる論法を、
おまえらも数限りなく積み重ねて来たものだが。
それもまた、悪因苦果による苦悩の原因になって来たものだな。
俺のことが怖くて恐くて仕方がなくなるほどもの。
そのような細密な人間心理全般への配慮もまた、
放辟邪侈を至上と見なす、自由主義というイデオロギーの
誰しもへの強制を通じて、損なわれて来たものだなあ。
人様をどこまでも見下してかかる自由の行使で、自分までもが
それ並みに見下されることへの恐怖を際限なく募らせての苦悩とか。
イデオロギーゼロの常人なら始めから抱くこともないような
苦悩までもが、自由主義というイデオロギーによって付与される。
未熟者の自滅行為まで許すような心理的自由への、世を挙げての抑止なども、
それを犯してしまいかねないような連中のためにあって然るべきなのだが。
こういうこと話すとアカの思想改造とかにからませての難癖が容易に
想定される輩でもあることだし、自由主義の副作用もまた生半可なものではないな。
「おまえはそれ以下www」と反発してかかる論法を、
おまえらも数限りなく積み重ねて来たものだが。
それもまた、悪因苦果による苦悩の原因になって来たものだな。
俺のことが怖くて恐くて仕方がなくなるほどもの。
そのような細密な人間心理全般への配慮もまた、
放辟邪侈を至上と見なす、自由主義というイデオロギーの
誰しもへの強制を通じて、損なわれて来たものだなあ。
人様をどこまでも見下してかかる自由の行使で、自分までもが
それ並みに見下されることへの恐怖を際限なく募らせての苦悩とか。
イデオロギーゼロの常人なら始めから抱くこともないような
苦悩までもが、自由主義というイデオロギーによって付与される。
未熟者の自滅行為まで許すような心理的自由への、世を挙げての抑止なども、
それを犯してしまいかねないような連中のためにあって然るべきなのだが。
こういうこと話すとアカの思想改造とかにからませての難癖が容易に
想定される輩でもあることだし、自由主義の副作用もまた生半可なものではないな。
「自由」という言葉は本来、禅語で、
イデオロギーとしての自由主義が殊更に物質的な自由ばかりを
追い求めているのとは逆に、禅門における自由は、人間精神そのものの自由自在さを、
物質的な自制などと共に克ち得て行くことだと、これまでに何度が論じたことがあるのだが。
人間精神、心そのものもまた、ただひたすら無鉄砲に自由であろうなどとしたところで、
ADHD的な差し障りを帯びて、「止まる自由」を損ねてしまうといった弊害を帯びるもの。
所謂スポーツという運動体系なども、ことさらに「動く運動」ばかりを競うものであるために、
その手の運動に秀でる人間はみなADHD系の性向を帯びて、よく立ち止まって深くものを考える
能力を損ねるのみならず、しっかりと自分自身がひとところに止まって狙いを定めるような、
「止まる運動」にかけても人並みより劣ってしまうような弊害を帯びてしまうものである。
(各種のスポーツ運動に秀でる黒人が、狙いを定める動きの多い軍事行動には秀でないように)
それと同じように、心もまた動くことの自由ばかりを追い求めれば、止まることの自由が
蔑ろにされて人並み以下に陥るという現象が付き物であるために、心の自由の追求のためにこそ、
心そのものの動きをあえて制止してかかるような、制限的な取り組みが必要ともなるのである。
イデオロギーとしての自由主義が殊更に物質的な自由ばかりを
追い求めているのとは逆に、禅門における自由は、人間精神そのものの自由自在さを、
物質的な自制などと共に克ち得て行くことだと、これまでに何度が論じたことがあるのだが。
人間精神、心そのものもまた、ただひたすら無鉄砲に自由であろうなどとしたところで、
ADHD的な差し障りを帯びて、「止まる自由」を損ねてしまうといった弊害を帯びるもの。
所謂スポーツという運動体系なども、ことさらに「動く運動」ばかりを競うものであるために、
その手の運動に秀でる人間はみなADHD系の性向を帯びて、よく立ち止まって深くものを考える
能力を損ねるのみならず、しっかりと自分自身がひとところに止まって狙いを定めるような、
「止まる運動」にかけても人並みより劣ってしまうような弊害を帯びてしまうものである。
(各種のスポーツ運動に秀でる黒人が、狙いを定める動きの多い軍事行動には秀でないように)
それと同じように、心もまた動くことの自由ばかりを追い求めれば、止まることの自由が
蔑ろにされて人並み以下に陥るという現象が付き物であるために、心の自由の追求のためにこそ、
心そのものの動きをあえて制止してかかるような、制限的な取り組みが必要ともなるのである。
故に、禅門において追求されている心の自由の獲得のために、
殊更に精神の放逸ばかりが認められるなどということもなく、
そういった「動く自由」こそを心の自由の全てだなどと思い込んでいる人間からすれば、
心そのものに抑制をかけて行くように思える精進修行までをも強いられることになるわけである。
それこそ、イデオロギーの自由主義によって、自由一般への渇望を過度に滾らせた
人間のみならず、自由主義などに世の中が覆われていない社会の人間といえども、
大多数がその自得はおろか、自得に取り組むことすらままならぬ部類の自由ともなる。
なぜなら、人間という生き物の大多数は、働きアリや働きバチのような労働によって
動き回り続けることを強いられることを通じて、人間社会というものもまた成り立っているが故に、
その内側に取り込まれている大多数の人間は決して、「止まる自由」の十分な享受には与れないからだ。
そのため、止まる自由と動く自由、両面における最大級の心の自由の獲得を追求する
禅門の取り組みなども、本当は誰しもが心がけて然るべきものであるにもかかわらず、
世の中のほとんどの人間はまともに付き合うこともできない領域の存在であることを自覚して、
社会全体への征服的な野心などは、道元禅師などと同じように棄ててかからねばならないのである。
殊更に精神の放逸ばかりが認められるなどということもなく、
そういった「動く自由」こそを心の自由の全てだなどと思い込んでいる人間からすれば、
心そのものに抑制をかけて行くように思える精進修行までをも強いられることになるわけである。
それこそ、イデオロギーの自由主義によって、自由一般への渇望を過度に滾らせた
人間のみならず、自由主義などに世の中が覆われていない社会の人間といえども、
大多数がその自得はおろか、自得に取り組むことすらままならぬ部類の自由ともなる。
なぜなら、人間という生き物の大多数は、働きアリや働きバチのような労働によって
動き回り続けることを強いられることを通じて、人間社会というものもまた成り立っているが故に、
その内側に取り込まれている大多数の人間は決して、「止まる自由」の十分な享受には与れないからだ。
そのため、止まる自由と動く自由、両面における最大級の心の自由の獲得を追求する
禅門の取り組みなども、本当は誰しもが心がけて然るべきものであるにもかかわらず、
世の中のほとんどの人間はまともに付き合うこともできない領域の存在であることを自覚して、
社会全体への征服的な野心などは、道元禅師などと同じように棄ててかからねばならないのである。
ビートたけし、年金額の低さに不平
https://sirabee.com/2023/11/19/20163199968...
近頃この人は、芸人なのに面白いことを言おうとすらしなくなって、
(だいぶ前からフガフガ言うだけで何も面白くないとは言われてたが)
殊更に世の中への不平を垂れ流すような真似ばかりになってしまってる。
いい加減、大脳新皮質が死に絶えて、ユーモアの思いつきようも
なくなってしまったのかも知れないが、ただ今いってるような不平不満も、
一応は自分だけでなく、芸能界なり世の中全体なりを憂えて言って
いることだという程度の義侠心は保とうとしているようでもある。
それにしたって、本人の世代である団塊特有の見識の狭さの範囲でしか
ものを考えられないせいで、今の老人にとっての年金の少なさや、
芸能界内の待遇の悪さみたいな、世の中全体からすればごく一部の利益のための
問題性を取り上げるにとどまり、老人や芸能界の優遇のためにより
酷い思いをさせられているような人々にまでは配慮が及ばないままでいる。
https://sirabee.com/2023/11/19/20163199968...
近頃この人は、芸人なのに面白いことを言おうとすらしなくなって、
(だいぶ前からフガフガ言うだけで何も面白くないとは言われてたが)
殊更に世の中への不平を垂れ流すような真似ばかりになってしまってる。
いい加減、大脳新皮質が死に絶えて、ユーモアの思いつきようも
なくなってしまったのかも知れないが、ただ今いってるような不平不満も、
一応は自分だけでなく、芸能界なり世の中全体なりを憂えて言って
いることだという程度の義侠心は保とうとしているようでもある。
それにしたって、本人の世代である団塊特有の見識の狭さの範囲でしか
ものを考えられないせいで、今の老人にとっての年金の少なさや、
芸能界内の待遇の悪さみたいな、世の中全体からすればごく一部の利益のための
問題性を取り上げるにとどまり、老人や芸能界の優遇のためにより
酷い思いをさせられているような人々にまでは配慮が及ばないままでいる。
後期高齢者になるまで休む間もなく働き詰めて来た者ともなれば、
天才扱いの億万長者といえども、しっかりと立ち止まって、全体に視野を
行き渡らせて考慮を働かせられるような、心の自由にまでは与れないもの。
天才でも金持ちでもなければなおのことで、世の中の大多数の人間はいつの時代も、
進むも止まるも思いのままな心の自由などには十分に与れないままに終わる。
それ故の暴走による破綻を食い止めるための有志こそが、特別に禅門などでの
最大級の心の自由の会得にも取り組むべきなのであり、誰しもが取り組むべきとか、
誰も取り組む必要などないとかの一つ覚えで片づけてはならないのである。
天才扱いの億万長者といえども、しっかりと立ち止まって、全体に視野を
行き渡らせて考慮を働かせられるような、心の自由にまでは与れないもの。
天才でも金持ちでもなければなおのことで、世の中の大多数の人間はいつの時代も、
進むも止まるも思いのままな心の自由などには十分に与れないままに終わる。
それ故の暴走による破綻を食い止めるための有志こそが、特別に禅門などでの
最大級の心の自由の会得にも取り組むべきなのであり、誰しもが取り組むべきとか、
誰も取り組む必要などないとかの一つ覚えで片づけてはならないのである。
ビートたけしもそうである団塊世代には、左翼老人が多く、
野人のような粗暴さでいながら、米軍基地建設反対などの、
平和主義を掲げた運動に多く勤しんできているわけだが。
団塊こそは、心の動きが激しすぎてろくに止まっていられない、
ADHD系の比率が最も高い部類の戦後世代でもあることだし、
黒人などとも同様、体育会系でいながらミリタリーは性に合わない、
苦手だという人種がその大部分を占めているものである。
それ自体があまり悪いことのようには思われないかも知れないが、
「平和を愛するから」ではなく、「軍事が嫌いだから」という理由で、
平和主義的な運動に取り組んでいるだけの人間の挙げられる功績なんてのも
たかが知れたもので、実際問題、軍事も多く絡む国際問題の現実などを
まともに直視もしないままでの盲目な平和への訴えなどがかえって、
米中北の対立などを後押ししたり、日本の若者の左翼アレルギーからの
平和へのくそみそな軽視をも助長して来たきらいがあるのである。
野人のような粗暴さでいながら、米軍基地建設反対などの、
平和主義を掲げた運動に多く勤しんできているわけだが。
団塊こそは、心の動きが激しすぎてろくに止まっていられない、
ADHD系の比率が最も高い部類の戦後世代でもあることだし、
黒人などとも同様、体育会系でいながらミリタリーは性に合わない、
苦手だという人種がその大部分を占めているものである。
それ自体があまり悪いことのようには思われないかも知れないが、
「平和を愛するから」ではなく、「軍事が嫌いだから」という理由で、
平和主義的な運動に取り組んでいるだけの人間の挙げられる功績なんてのも
たかが知れたもので、実際問題、軍事も多く絡む国際問題の現実などを
まともに直視もしないままでの盲目な平和への訴えなどがかえって、
米中北の対立などを後押ししたり、日本の若者の左翼アレルギーからの
平和へのくそみそな軽視をも助長して来たきらいがあるのである。
要するに、盲目で独善的な平和主義というものもまた、ろくなものではない。
「兵は不祥の器~なるも、已む得ずしてこれを用うるには、恬惔なるを上とす」
という老子の教えの如く、消極的な兵事への配慮ぐらいは尽くしておくのが平和の
実現への最善なるあり方のため、そこにも一概なイデオロギーなどがあるべきではない。
同様な事例はたとえば、欧米の環境活動家などが提唱しているような、
知性や配慮に欠けた環境保護主義などについても言えることである。
https://bbs77.meiwasuisan.com/thought/1696046607/14-1...参照
「兵は不祥の器~なるも、已む得ずしてこれを用うるには、恬惔なるを上とす」
という老子の教えの如く、消極的な兵事への配慮ぐらいは尽くしておくのが平和の
実現への最善なるあり方のため、そこにも一概なイデオロギーなどがあるべきではない。
同様な事例はたとえば、欧米の環境活動家などが提唱しているような、
知性や配慮に欠けた環境保護主義などについても言えることである。
https://bbs77.meiwasuisan.com/thought/1696046607/14-1...参照
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700400389...
まるで俺を支持するような体裁で立てられているスレだが、
「新宗教などを立ち上げる気は一切ない」と明言しているこの俺を、
あくまで宗教家として片づけようとしているあたりが、まだ不埒な所だな。
・自分たちと同じカルトの沼に笠も引きずり込みたい。
・儒学や仏学や玄学を洋学並みに純然たる学問として認める気はない。
・無宗教的な実権者として活躍することなんか絶対に許さない。
そういった魂胆が透けて見える。
あと、あくまで巧言令色で人々をたぶらかして信者を囲い込む
カルト教祖としての素質などを自分たちが俺に要求しているからこそ、
そのような取り組みに欠けている俺を叩かざるを得ないだけだろうが。
相手が望んでもいないことを相手に要求して、それが叶わないから叩くとかいう、
カルト信者か精神病患者かその両方でもなければあり得ない域の独り善がりさよ。
まるで俺を支持するような体裁で立てられているスレだが、
「新宗教などを立ち上げる気は一切ない」と明言しているこの俺を、
あくまで宗教家として片づけようとしているあたりが、まだ不埒な所だな。
・自分たちと同じカルトの沼に笠も引きずり込みたい。
・儒学や仏学や玄学を洋学並みに純然たる学問として認める気はない。
・無宗教的な実権者として活躍することなんか絶対に許さない。
そういった魂胆が透けて見える。
あと、あくまで巧言令色で人々をたぶらかして信者を囲い込む
カルト教祖としての素質などを自分たちが俺に要求しているからこそ、
そのような取り組みに欠けている俺を叩かざるを得ないだけだろうが。
相手が望んでもいないことを相手に要求して、それが叶わないから叩くとかいう、
カルト信者か精神病患者かその両方でもなければあり得ない域の独り善がりさよ。
(>>55の続き)
先がた持病もあって、振武館宗家を跡目に相続した
黒田鉄山氏の名付け基にもにもなっている、永田鉄山陸軍中将。
黒田氏も戦後生まれだし、戦後直後に帝国軍人の名前を付けるとか、
名付け親の祖父泰治氏もよほどの反骨精神の持ち主だったと見える。のだが。
ただ、この永田鉄山はどちらかといえば軍部の中でも穏健派で、
東条英機らが推し進める大陸侵攻にも反対し続けていたのが、
弱腰だとの反感を買って、内ゲバからの暗殺の憂き目に遭ったものである。
今となっては、永田中将の意向が通っていれば、日本軍も不相応に戦線を
拡大しての自滅のような事態にも陥らず、アメリカにも勝つとまで行かずとも、
負けずに講和程度で済んだのではないかとも見受けられるわけである。
(「歴史にたらればは禁物」なんてのは洋学の歴史学の悪癖なので無視)
ただ、当時の日本は「軍国主義」だったから、軍部にしろ国民の世論にしろ、
そのような消極的な施策を多数が支持する方向に持って行くのも不可能だった。
世の中が軍国主義というイデオロギー一色に染まった結果、自滅を来たした
典型例であるわけで、最後の剣客、黒田泰治氏もそのような過ちを二度と
犯さない思いをも込めて、永田中将の名を孫に付けたのだろうとも思われる。
先がた持病もあって、振武館宗家を跡目に相続した
黒田鉄山氏の名付け基にもにもなっている、永田鉄山陸軍中将。
黒田氏も戦後生まれだし、戦後直後に帝国軍人の名前を付けるとか、
名付け親の祖父泰治氏もよほどの反骨精神の持ち主だったと見える。のだが。
ただ、この永田鉄山はどちらかといえば軍部の中でも穏健派で、
東条英機らが推し進める大陸侵攻にも反対し続けていたのが、
弱腰だとの反感を買って、内ゲバからの暗殺の憂き目に遭ったものである。
今となっては、永田中将の意向が通っていれば、日本軍も不相応に戦線を
拡大しての自滅のような事態にも陥らず、アメリカにも勝つとまで行かずとも、
負けずに講和程度で済んだのではないかとも見受けられるわけである。
(「歴史にたらればは禁物」なんてのは洋学の歴史学の悪癖なので無視)
ただ、当時の日本は「軍国主義」だったから、軍部にしろ国民の世論にしろ、
そのような消極的な施策を多数が支持する方向に持って行くのも不可能だった。
世の中が軍国主義というイデオロギー一色に染まった結果、自滅を来たした
典型例であるわけで、最後の剣客、黒田泰治氏もそのような過ちを二度と
犯さない思いをも込めて、永田中将の名を孫に付けたのだろうとも思われる。
>>56
主義はいつも、自分のためだろう。
自意識過剰の女ほど「私は~」「私が~」の大攻勢でいたりする、
その方向性を少なからず帯びている人間が偏重するもの=主義。
強火で調理したほうがいい料理もあれば、弱火のほうがいい料理もあるが、
「私は強火で調理する主義なの!」で、なんでも強火で調理して、
水気が飛んでパサパサの鶏肉しか食えなくて鶏肉嫌いになったりする。
我欲による主義の偏重で、無駄に選択肢を狭めて行く実例。
人間、主義主義者、イデオロギストなんかでなくたって、
多くの囚われと共に生きて行くことを強いられがちなもので、
むしろそこからの脱却にこそ取り組んで行くべきなのに、
イデオロギストであることでそれを断固拒絶し、逆に
自分らしさと見なした囚われで何もかもを塗り固めて行こうとする。
仏道が重んじられている時代には、在俗といえども避けられる志向性。
今やそれもなく、女子や小人がこれでもかとイデオロギズムによる
自分らしさの楼閣を築き上げて行くのがトレンドと化してしまってるがな。
主義はいつも、自分のためだろう。
自意識過剰の女ほど「私は~」「私が~」の大攻勢でいたりする、
その方向性を少なからず帯びている人間が偏重するもの=主義。
強火で調理したほうがいい料理もあれば、弱火のほうがいい料理もあるが、
「私は強火で調理する主義なの!」で、なんでも強火で調理して、
水気が飛んでパサパサの鶏肉しか食えなくて鶏肉嫌いになったりする。
我欲による主義の偏重で、無駄に選択肢を狭めて行く実例。
人間、主義主義者、イデオロギストなんかでなくたって、
多くの囚われと共に生きて行くことを強いられがちなもので、
むしろそこからの脱却にこそ取り組んで行くべきなのに、
イデオロギストであることでそれを断固拒絶し、逆に
自分らしさと見なした囚われで何もかもを塗り固めて行こうとする。
仏道が重んじられている時代には、在俗といえども避けられる志向性。
今やそれもなく、女子や小人がこれでもかとイデオロギズムによる
自分らしさの楼閣を築き上げて行くのがトレンドと化してしまってるがな。
>>65
人様に主義主張を押し付けて、拒まれたら叩くことにも後ろめたさの一つ
抱かないでいられるような、病的な執着対象としての主義主張などはない。
強いて言えば、そういった囚われを逐次
見つけ次第なくしていく、主義の否定の重畳こそが我が主義である。
そこで精神の平穏を保っていられる感覚が、おまえらには理解できないのだろうが、
人間はむしろ、こちらでこそ最大級の平穏を克ち得るようにできているものである。
内なる精神不安を補うために多動たり、他者への征服意欲や蹂躙欲求までをも滾らせる、
それもまたありがちな人間模様ではあるが、本質的に苦悩の塊であればこそ、
俺ももう二度とそこには戻りたくないと心から思うものである。
人様に主義主張を押し付けて、拒まれたら叩くことにも後ろめたさの一つ
抱かないでいられるような、病的な執着対象としての主義主張などはない。
強いて言えば、そういった囚われを逐次
見つけ次第なくしていく、主義の否定の重畳こそが我が主義である。
そこで精神の平穏を保っていられる感覚が、おまえらには理解できないのだろうが、
人間はむしろ、こちらでこそ最大級の平穏を克ち得るようにできているものである。
内なる精神不安を補うために多動たり、他者への征服意欲や蹂躙欲求までをも滾らせる、
それもまたありがちな人間模様ではあるが、本質的に苦悩の塊であればこそ、
俺ももう二度とそこには戻りたくないと心から思うものである。
おまえのいう「こっち」っていうのは、どうやら現代社会の全てらしいが、
そこまで自分たちの覇権が確立されていると思い込んでいるのも、
イデオロギストを兼ねるような自意識過剰ならではの勘違いだな。
実際問題、それは事実ではない。
今の日本では憲法に勤労義務が規定されているが、不労罪はない。
従業員を雑巾のように使い潰しては捨て去りたい悪徳経営者どもへの
保護のためにも、立法基準たる憲法に即した法整備ができないままでいる。
だからこそ俺も摘発を受けたりすることなく、言いたい放題のままでいる。
江戸時代なら不労罪があったから処罰されてたが、今だからこそ平気でいられる。
この世の全てを征服下に置いているというおまえの考えが、所詮は虚妄に過ぎない
からこそそのようである、ありのままの真実をおまえのほうが受け入れるべきなのだ。
そこまで自分たちの覇権が確立されていると思い込んでいるのも、
イデオロギストを兼ねるような自意識過剰ならではの勘違いだな。
実際問題、それは事実ではない。
今の日本では憲法に勤労義務が規定されているが、不労罪はない。
従業員を雑巾のように使い潰しては捨て去りたい悪徳経営者どもへの
保護のためにも、立法基準たる憲法に即した法整備ができないままでいる。
だからこそ俺も摘発を受けたりすることなく、言いたい放題のままでいる。
江戸時代なら不労罪があったから処罰されてたが、今だからこそ平気でいられる。
この世の全てを征服下に置いているというおまえの考えが、所詮は虚妄に過ぎない
からこそそのようである、ありのままの真実をおまえのほうが受け入れるべきなのだ。
昔なら、超俗からの物言いにも正規の僧籍などを必要としたものだが、
今だからこそただの無職ニートでも言いたい放題でいられる。
50代以上の旧世代が国富の8割以上を独占し、
40代以下の次世代はまともに自活もできない事態に追い込まれているような
世相だからこそ、高齢まで親の脛かじりを続けようとも、親の懐も痛まない。
俺こそは、おまえらよりも遥かに、今の世の中に順応し尽くした存在。
おまえらのほうがアウトローのつまはじき者止まりであるがために、
たとえ総理大臣を配下に置けたところで、ろくな結果も招けないのである。
今だからこそただの無職ニートでも言いたい放題でいられる。
50代以上の旧世代が国富の8割以上を独占し、
40代以下の次世代はまともに自活もできない事態に追い込まれているような
世相だからこそ、高齢まで親の脛かじりを続けようとも、親の懐も痛まない。
俺こそは、おまえらよりも遥かに、今の世の中に順応し尽くした存在。
おまえらのほうがアウトローのつまはじき者止まりであるがために、
たとえ総理大臣を配下に置けたところで、ろくな結果も招けないのである。
最終回が放映された進撃の巨人、ほぼ全世界でテレビ視聴率一位を獲得。
おそらく、一番視聴率が低いのがこの日本なぐらい。
世界ではもう死に絶え始めてるような旧世代の年寄りばかりが、
主たるテレビ視聴者であり続けている結果。
未だに日本で世界一扱いのロックバンドといえばビートルズだが、
アメリカなどではすでにリアルタイム世代の年寄りがほとんど死に絶えてるので、
いま主要な年配世代にとってのリアルタイムだったボンジョビやガンズのほうが世界一扱いだと。
(全世界でも、ボーカルがインド系だったクイーンのほうが人口面からの支持で世界一という)
ChatGPTの作者も30代だし、世界ではもう旧世代の覇権など終わっている。
日本だけがまだな代わりに、脛かじりの高齢ニートが言いたい放題できる。
そこが世界に追いつくというのならそれもそれだが、おまえらにとってはご愁傷様だな。
おそらく、一番視聴率が低いのがこの日本なぐらい。
世界ではもう死に絶え始めてるような旧世代の年寄りばかりが、
主たるテレビ視聴者であり続けている結果。
未だに日本で世界一扱いのロックバンドといえばビートルズだが、
アメリカなどではすでにリアルタイム世代の年寄りがほとんど死に絶えてるので、
いま主要な年配世代にとってのリアルタイムだったボンジョビやガンズのほうが世界一扱いだと。
(全世界でも、ボーカルがインド系だったクイーンのほうが人口面からの支持で世界一という)
ChatGPTの作者も30代だし、世界ではもう旧世代の覇権など終わっている。
日本だけがまだな代わりに、脛かじりの高齢ニートが言いたい放題できる。
そこが世界に追いつくというのならそれもそれだが、おまえらにとってはご愁傷様だな。
なら後者を実践しとけ、タコw
はよしろな~
はよしろな~
50代まで、信長秀吉に抑圧されてのパシリ働き。
家臣たちの前であえて土下座させられるような真似まで
強いられておいて、60間近の関ヶ原でやっと名誉挽回。
60でようやく征夷大将軍として天下を取るも、即座に二代秀忠に跡目を譲って隠居。
そんな家康公の生涯にこそ、幼稚な死にたがりなどには決して真似も
出来ない域の、卓越したハードボイルドさを感じられるもの。
この、疋田文五郎の描写はフィクションであるにしろ、
実際にこういうこともあったかもしれないし、これまた若いうちから
乱交放題な好色オスなぞには決してあり得ない域の凄みを感じられる。
(長年剣術修行に一筋でいたからこそ、老翁となっても精力絶倫なままなのだし)
あまりにも、若いうちに犠牲にしているものが多すぎるために、
あえてそうなりたいとまでも思わないにしろ、すでに成り行きで自分も似たような
生き方を現時点までしてしまっていることだし、嫌でもそこにあやかるしかない。
もちろん別に嫌でもないから、その実現にも全力で臨んで行く所存だな。^^
家臣たちの前であえて土下座させられるような真似まで
強いられておいて、60間近の関ヶ原でやっと名誉挽回。
60でようやく征夷大将軍として天下を取るも、即座に二代秀忠に跡目を譲って隠居。
そんな家康公の生涯にこそ、幼稚な死にたがりなどには決して真似も
出来ない域の、卓越したハードボイルドさを感じられるもの。
この、疋田文五郎の描写はフィクションであるにしろ、
実際にこういうこともあったかもしれないし、これまた若いうちから
乱交放題な好色オスなぞには決してあり得ない域の凄みを感じられる。
(長年剣術修行に一筋でいたからこそ、老翁となっても精力絶倫なままなのだし)
あまりにも、若いうちに犠牲にしているものが多すぎるために、
あえてそうなりたいとまでも思わないにしろ、すでに成り行きで自分も似たような
生き方を現時点までしてしまっていることだし、嫌でもそこにあやかるしかない。
もちろん別に嫌でもないから、その実現にも全力で臨んで行く所存だな。^^
いやイデオロギーって思いっきり「為」だからw
>>80
そりゃあ、10年後や20年後にも、日本における世界一扱いの
ロックバンドがビートルズのままであり続けてるか否かによるなあ。
もはや世界でも唯一と化してしまってるわけだが。
>>81
進撃の巨人はたしかに漫画アニメだが、
それがイスラム20億を含む全世界で同時に一番人気を獲得した、
おそらく歴史上初の文学作品だっていうのは、現実だ。
(イスラム圏は西洋文化をシャットアウトしているため)
そこの区別が付いてないあたり、それこそ言ってることが自己紹介じゃないか?
日本の本当にすごい所は、どんなに紛う方なき真実だろうとも、目を背ける。
おそらく世界でも日本と北朝魚羊の人間だけが受けている徹底洗脳のせいでなあ。
(韓国人もパクるためには結構いい所にまで察知を及ばせているので)
>>82
普通の老人はそうだろうねえ。
>79の疋田文五郎もそうだし、ヨガ行者には70代で20代並みの体力を
持ち合わせたままでいたアイアンガー師みたいな人物も実在することだし、
(だからこそ漫画のフィクション描写でも現実に通ずるものとして引用している)
あくまで特殊な訓練を受けて来た部類の老人に限ることだね。
>>83
イデオロギーなんて虚構だつったら、そりゃその通りだけれども。
すでに俺自身が>>62で述べていることだし、だからこそ、イデオロギーは
「虚勢恬淡寂寞無為(荘子)」であることを至上とすべきだと言ってるわけでな。
そりゃあ、10年後や20年後にも、日本における世界一扱いの
ロックバンドがビートルズのままであり続けてるか否かによるなあ。
もはや世界でも唯一と化してしまってるわけだが。
>>81
進撃の巨人はたしかに漫画アニメだが、
それがイスラム20億を含む全世界で同時に一番人気を獲得した、
おそらく歴史上初の文学作品だっていうのは、現実だ。
(イスラム圏は西洋文化をシャットアウトしているため)
そこの区別が付いてないあたり、それこそ言ってることが自己紹介じゃないか?
日本の本当にすごい所は、どんなに紛う方なき真実だろうとも、目を背ける。
おそらく世界でも日本と北朝魚羊の人間だけが受けている徹底洗脳のせいでなあ。
(韓国人もパクるためには結構いい所にまで察知を及ばせているので)
>>82
普通の老人はそうだろうねえ。
>79の疋田文五郎もそうだし、ヨガ行者には70代で20代並みの体力を
持ち合わせたままでいたアイアンガー師みたいな人物も実在することだし、
(だからこそ漫画のフィクション描写でも現実に通ずるものとして引用している)
あくまで特殊な訓練を受けて来た部類の老人に限ることだね。
>>83
イデオロギーなんて虚構だつったら、そりゃその通りだけれども。
すでに俺自身が>>62で述べていることだし、だからこそ、イデオロギーは
「虚勢恬淡寂寞無為(荘子)」であることを至上とすべきだと言ってるわけでな。
とみ新蔵氏の作品は、本物の武芸をできる限り忠実に描写することに
特化している作品ばかりだし、それをただのフィクションだなどと片づけて、
こういった本物の超人的な健康長寿と分断して考えたりするほうが、むしろ失礼なものだ。
進撃の巨人も、異世界SF物ではあるにしたって、現実の戦争などでもありがちな
修羅場の実相をよく忠実に描写した作品だからこそ、中東やウクライナのような、
今まさに戦争のさなかにあるような地域でも熱狂的な支持を受けているもの。
フィクションにも、現実の物事をより分かりやすく、面白く表現することを目的としたものと、
完全に現実逃避ばかりを目的としたものとの両方がある。自分が後者ばかりが好きだからといって、
全てのフィクションをそうだなどと決めつけるのも、自意識過剰の思い上がりによる僭越が過ぎるといえよう。
特化している作品ばかりだし、それをただのフィクションだなどと片づけて、
こういった本物の超人的な健康長寿と分断して考えたりするほうが、むしろ失礼なものだ。
進撃の巨人も、異世界SF物ではあるにしたって、現実の戦争などでもありがちな
修羅場の実相をよく忠実に描写した作品だからこそ、中東やウクライナのような、
今まさに戦争のさなかにあるような地域でも熱狂的な支持を受けているもの。
フィクションにも、現実の物事をより分かりやすく、面白く表現することを目的としたものと、
完全に現実逃避ばかりを目的としたものとの両方がある。自分が後者ばかりが好きだからといって、
全てのフィクションをそうだなどと決めつけるのも、自意識過剰の思い上がりによる僭越が過ぎるといえよう。
W杯優勝、紛れもない世界一のスポーツ大国である
アルゼンチンの大統領が、あろうことか"チェンソーマン"に。
未だに、日本の否定派似の30代男性(諌山創)が、ビートルズやボブディランを
上回るような広域人気の世界的ムーブメントを巻き起こしたことも知らないでいる
旧世代の老人らが、自分で体を動かすからこそ最も実地的な文化だと決め込んでいる
スポーツが現実だというのなら、これもまた現実であることを思い知るべきである。
イタリアのメローニ首相などもだが、日本の漫画アニメはポリコレ色が薄いことから、
反ポリコレを謳う欧米の勢力が旗印にする上での、現実的な利用価値もまたあるもの。
奇遇にもチェンソーマンもまた、愛のない女からの支配を乗り越える物語だったことだし、
そういう物語性を世界中の人々もまた渇望していて、フィクションの範囲に留まることなく
それが現実化までするのであれば、これまた大きな羨望を以て迎えられるに違いないのだ。
アルゼンチンの大統領が、あろうことか"チェンソーマン"に。
未だに、日本の否定派似の30代男性(諌山創)が、ビートルズやボブディランを
上回るような広域人気の世界的ムーブメントを巻き起こしたことも知らないでいる
旧世代の老人らが、自分で体を動かすからこそ最も実地的な文化だと決め込んでいる
スポーツが現実だというのなら、これもまた現実であることを思い知るべきである。
イタリアのメローニ首相などもだが、日本の漫画アニメはポリコレ色が薄いことから、
反ポリコレを謳う欧米の勢力が旗印にする上での、現実的な利用価値もまたあるもの。
奇遇にもチェンソーマンもまた、愛のない女からの支配を乗り越える物語だったことだし、
そういう物語性を世界中の人々もまた渇望していて、フィクションの範囲に留まることなく
それが現実化までするのであれば、これまた大きな羨望を以て迎えられるに違いないのだ。
いちいちキチガイのあげあし取って喜んでどうすんだ
バカか
バカか
いうほど揚げ足を取れてるか?
自分で勝手に一つ覚えの極論から極論へと振り切れてるだけなのに。
愛もないのに(愛がないから)相手への支配欲ばかり募らせてる女なんて、
生姜焼きにでもして食っちまえというのが、わりと好色男も多そうな
南米国の多数派までもが支持する、これからの現実誘導の指針だとさ?
まあ、現実には「出家か収容所か」などのより実地的な仕置きへと移行したりも
するだろうし、現実が厳密にフィクションそのものであるべきだなんてことはないが、
誰しもがこうあってほしい、あるいはこうあって欲しくないから反面教師にしようと
思うようなフィクション作品を、よりよい現実のための参考にしたりもするわけだ。
それもせずに、フィクションをただただ現実逃避の材料にばかりしたりするような
姿勢のほうがむしろ不健全なものだし、その先にあったのがあの京アニの事件でもあった。
そういう心がけしかできない者こそは、どんなに嫌でも青葉サイドの人間ではないか。
自分で勝手に一つ覚えの極論から極論へと振り切れてるだけなのに。
愛もないのに(愛がないから)相手への支配欲ばかり募らせてる女なんて、
生姜焼きにでもして食っちまえというのが、わりと好色男も多そうな
南米国の多数派までもが支持する、これからの現実誘導の指針だとさ?
まあ、現実には「出家か収容所か」などのより実地的な仕置きへと移行したりも
するだろうし、現実が厳密にフィクションそのものであるべきだなんてことはないが、
誰しもがこうあってほしい、あるいはこうあって欲しくないから反面教師にしようと
思うようなフィクション作品を、よりよい現実のための参考にしたりもするわけだ。
それもせずに、フィクションをただただ現実逃避の材料にばかりしたりするような
姿勢のほうがむしろ不健全なものだし、その先にあったのがあの京アニの事件でもあった。
そういう心がけしかできない者こそは、どんなに嫌でも青葉サイドの人間ではないか。
よくできていて、なおかつ現実との付かず離れずなリンクも絶妙な作品こそが、
全世界を巻き込むほどの一大ムーブメントを巻き起こすわけで、
進撃や鬼滅やチェンソーマンなどはやはり、その条件を満たしているもの。
近ごろその域から外れてしまって暴走してるのが、たとえばガンダムシリーズとかで、
元々はバブル全盛期にテクノロジー大国としての日本の将来に警鐘を鳴らす目的で、
巨大ロボット(正しくはモビルスーツ)が介入して行く未来の戦争の恐ろしさを、
出来る限り露骨な非道さなども絡めながら作り込まれ始めた作品なのだが。
バブル崩壊からの、在日カルトによる中央権力の乗っ取り以降、
日本は産業スパイの大攻勢でテクノロジー大国からも引きずりおろされ、
派遣や研修生の奴隷使役による中抜きピンハネや老人介護ばかりが主要産業と
化してしまい、さらにそこでの人権軽視による死傷者も多発させるとかいう、
ガンダム制作陣の想像を桁外れに下回るような未来しか現状、到来してはいない。
全世界を巻き込むほどの一大ムーブメントを巻き起こすわけで、
進撃や鬼滅やチェンソーマンなどはやはり、その条件を満たしているもの。
近ごろその域から外れてしまって暴走してるのが、たとえばガンダムシリーズとかで、
元々はバブル全盛期にテクノロジー大国としての日本の将来に警鐘を鳴らす目的で、
巨大ロボット(正しくはモビルスーツ)が介入して行く未来の戦争の恐ろしさを、
出来る限り露骨な非道さなども絡めながら作り込まれ始めた作品なのだが。
バブル崩壊からの、在日カルトによる中央権力の乗っ取り以降、
日本は産業スパイの大攻勢でテクノロジー大国からも引きずりおろされ、
派遣や研修生の奴隷使役による中抜きピンハネや老人介護ばかりが主要産業と
化してしまい、さらにそこでの人権軽視による死傷者も多発させるとかいう、
ガンダム制作陣の想像を桁外れに下回るような未来しか現状、到来してはいない。
あまりにも現実とのリンクを失いすぎたために、若者や子供からの羨望対象
としての支持も失い、昔好きだったジジババの慰み物としてばかり生き延び、
転売ヤー御用達なガンプラのクオリティだけは進化を続けているという有様。
どちらかといえば、上で書いた内での不健全な部類に当たる、
現実逃避目的のフィクションへの転向を強いられながらやって行ってる状態。
前にやってた新シリーズも一応、観てはみたがやっぱりそれ止まりなものだったし、
これが世界的な支持を得ずに、ロボットではなく完全なファンタジー上の巨人が
出て来る進撃のほうが一大人気を博したのにも、納得せざるを得ないところがある。
全高20m前後の人型ロボットとかいう、実用化できそうでできない未来技術に
もどかしい夢を馳せるよりは、第一次大戦時程度の技術水準の異世界や、
大正時代や平成中期の日本が舞台+徹頭徹尾ファンタジー要素とかいうほうが、
今の世界の現実にもリンクさせやすい背景設定だからこそ、国内外でウケている。
フィクションも現実ありきであることのほうをより好むのが、大多数の人間なのである。
としての支持も失い、昔好きだったジジババの慰み物としてばかり生き延び、
転売ヤー御用達なガンプラのクオリティだけは進化を続けているという有様。
どちらかといえば、上で書いた内での不健全な部類に当たる、
現実逃避目的のフィクションへの転向を強いられながらやって行ってる状態。
前にやってた新シリーズも一応、観てはみたがやっぱりそれ止まりなものだったし、
これが世界的な支持を得ずに、ロボットではなく完全なファンタジー上の巨人が
出て来る進撃のほうが一大人気を博したのにも、納得せざるを得ないところがある。
全高20m前後の人型ロボットとかいう、実用化できそうでできない未来技術に
もどかしい夢を馳せるよりは、第一次大戦時程度の技術水準の異世界や、
大正時代や平成中期の日本が舞台+徹頭徹尾ファンタジー要素とかいうほうが、
今の世界の現実にもリンクさせやすい背景設定だからこそ、国内外でウケている。
フィクションも現実ありきであることのほうをより好むのが、大多数の人間なのである。
よくここで貼っている>>79画の疋田文五郎は実在の剣豪で、
画像右、作品主人公の柳生兵庫助も実在の新陰流宗家だ。
両者が直接対決した記録はないが、兵庫助の祖父で、
宮本武蔵以上の達人だったとも言われている
柳生石舟斎宗厳を試合で敗ったという公式記録も残っている。
この描写も、文五郎が編み出した記録が残っている
剣術奥義の忠実な描写になっていて、種明かしを見ればそれと分かるが、
この時点ではまだ兵庫助もその種には気づいていないほどにも難解。
種明かしを読んでみた所で、やっぱり達人でないと
使いこなすこともできない奥義なのだとも知れる。
と
み新蔵氏自身が剣術修行に明け暮れてきた身の上である上に、
80近い今でも旺盛に執筆活動を続けているような超人だからこそ、
近ごろの現実ではほとんどあり得ないような、古き良き現実の描写になっているのだろうな。
画像右、作品主人公の柳生兵庫助も実在の新陰流宗家だ。
両者が直接対決した記録はないが、兵庫助の祖父で、
宮本武蔵以上の達人だったとも言われている
柳生石舟斎宗厳を試合で敗ったという公式記録も残っている。
この描写も、文五郎が編み出した記録が残っている
剣術奥義の忠実な描写になっていて、種明かしを見ればそれと分かるが、
この時点ではまだ兵庫助もその種には気づいていないほどにも難解。
種明かしを読んでみた所で、やっぱり達人でないと
使いこなすこともできない奥義なのだとも知れる。
と
み新蔵氏自身が剣術修行に明け暮れてきた身の上である上に、
80近い今でも旺盛に執筆活動を続けているような超人だからこそ、
近ごろの現実ではほとんどあり得ないような、古き良き現実の描写になっているのだろうな。
>>90
俺が文系を自称した覚えなんてないし、
洋学の文系こそは、まずこの世から権威を剥奪してかかるべき最優先対象だぞ。
東大跡地の寺であれば、駒場キャンパスの教養学部跡地で、とりあえず
存在性ぐらいは知っておくべき教養中の雑学講習扱い止まりにまで左遷されるもの。
(もちろんそれだけでなんの学位にもならない)
まず以て、完璧フィクションの新旧約聖書が一番の元手である洋学の文系なんざが、
世界や日本の支配層を占めているのが、この世の不幸の最たるものだよな。
文系の発想はできる限り、フィクションによる現実逃避のために。
そこに満たないものは、文系だったところで劣等な大衆文学以下の扱い。
そういう大前提があるからこそ、文系として高尚ぶっている者ほど、
現実を見るのであればフィクションは見るなともなる。
そういった最低劣な外道としての、自己紹介を続けているのは誰ぞや?
俺が文系を自称した覚えなんてないし、
洋学の文系こそは、まずこの世から権威を剥奪してかかるべき最優先対象だぞ。
東大跡地の寺であれば、駒場キャンパスの教養学部跡地で、とりあえず
存在性ぐらいは知っておくべき教養中の雑学講習扱い止まりにまで左遷されるもの。
(もちろんそれだけでなんの学位にもならない)
まず以て、完璧フィクションの新旧約聖書が一番の元手である洋学の文系なんざが、
世界や日本の支配層を占めているのが、この世の不幸の最たるものだよな。
文系の発想はできる限り、フィクションによる現実逃避のために。
そこに満たないものは、文系だったところで劣等な大衆文学以下の扱い。
そういう大前提があるからこそ、文系として高尚ぶっている者ほど、
現実を見るのであればフィクションは見るなともなる。
そういった最低劣な外道としての、自己紹介を続けているのは誰ぞや?
いまだに自分が悪い、自分たちのほうが悪いという自覚のかけらも
なさそうなあたり、上等にカルト級の迷妄の真っ只中にあると知れる。
それこそは、フィクションによる現実逃避に全力全霊であり続けて来た
後遺症ないし、未だにそれを辞めようともしていない者のそれである。
普通、刑務所での子作りなど許されないのを見ても分かる通り、
罪をまだ償ってもいない犯罪者には。子孫をつなぐ権利もないと
されるのが人間社会一般の常識。償うどころかまだ罪の自覚もない
というのならばなおのことで、そこにまともな家庭を築き上げる
余地などがなかったのもまた必定。俺ではなく、おまえこそが。
警察司法も野放し状態な、超国家規模の権力犯罪だったところで、
本質的にそうであることには変わりないのだし、言い逃れの材料にはならない。
世界規模で世の中を持ち直させて行くための胎動の一環だというのなら、
なおのこと、今まで許されていたものも許してはならないのだ。
なさそうなあたり、上等にカルト級の迷妄の真っ只中にあると知れる。
それこそは、フィクションによる現実逃避に全力全霊であり続けて来た
後遺症ないし、未だにそれを辞めようともしていない者のそれである。
普通、刑務所での子作りなど許されないのを見ても分かる通り、
罪をまだ償ってもいない犯罪者には。子孫をつなぐ権利もないと
されるのが人間社会一般の常識。償うどころかまだ罪の自覚もない
というのならばなおのことで、そこにまともな家庭を築き上げる
余地などがなかったのもまた必定。俺ではなく、おまえこそが。
警察司法も野放し状態な、超国家規模の権力犯罪だったところで、
本質的にそうであることには変わりないのだし、言い逃れの材料にはならない。
世界規模で世の中を持ち直させて行くための胎動の一環だというのなら、
なおのこと、今まで許されていたものも許してはならないのだ。
「なぜ岸田内閣の支持率が上向かないのか不思議」 経団連・十倉雅和会長は政策を評価
https://www.tokyo-np.co.jp/article/29122...
これも東大経済学部という、法学部に次ぐ文系最トップ級の学歴の持ち主だが。
だからといって、自分たち経営者側と、世間一般大多数の労働者側が、
利害相反の搾取関係にあるという現実を受け入れられてなどはいないものだから、
自分たちにとって都合のいい政策をどんどん打ち出してくれる岸田政権が、
どうして国民からの大きな反発や不支持ばかりに見舞われているのかも、本当にわからないままでいる。
経済学部だから、マルクス思想などもさわり程度には学んできているのだろうが。
マルクスの、資本家と労働者が搾取関係にあるという、現実の社会法則への指摘と、
「その問題解消のためには、共産革命による商業の廃絶が必要である」という、
極論すぎて実態に沿わないフィクションな主張とを味噌糞な批判的研究の対象とした結果、
自分たちと労働者の搾取関係なんてものもまた、存在しないかのように思い込んでいるのだろう。
搾取するどころか、むしろ自分たちのほうが労働者に恵んでやっている側なのだから、
どうして自分たちを利する政策を、一般国民たちも共に喜ぼうとしないのか、となる。
もはや認知症すら疑われているような蒙昧状態ではあるけれども、
カルトのみならず、カルトなみにフィクションでの現実逃避を促しているような邪学
などにかぶれるだけでも、これほどもの痴態に陥るものなのだと思い知るべきなのである。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/29122...
これも東大経済学部という、法学部に次ぐ文系最トップ級の学歴の持ち主だが。
だからといって、自分たち経営者側と、世間一般大多数の労働者側が、
利害相反の搾取関係にあるという現実を受け入れられてなどはいないものだから、
自分たちにとって都合のいい政策をどんどん打ち出してくれる岸田政権が、
どうして国民からの大きな反発や不支持ばかりに見舞われているのかも、本当にわからないままでいる。
経済学部だから、マルクス思想などもさわり程度には学んできているのだろうが。
マルクスの、資本家と労働者が搾取関係にあるという、現実の社会法則への指摘と、
「その問題解消のためには、共産革命による商業の廃絶が必要である」という、
極論すぎて実態に沿わないフィクションな主張とを味噌糞な批判的研究の対象とした結果、
自分たちと労働者の搾取関係なんてものもまた、存在しないかのように思い込んでいるのだろう。
搾取するどころか、むしろ自分たちのほうが労働者に恵んでやっている側なのだから、
どうして自分たちを利する政策を、一般国民たちも共に喜ぼうとしないのか、となる。
もはや認知症すら疑われているような蒙昧状態ではあるけれども、
カルトのみならず、カルトなみにフィクションでの現実逃避を促しているような邪学
などにかぶれるだけでも、これほどもの痴態に陥るものなのだと思い知るべきなのである。
経済学は、理系寄りの文系だなどと称されることもあるが、
所詮は理科学としての条件を満たしていないために、文系止まりのものである。
文系だから、そこで学ぶ内容への意見の是非も、学ぶ側の主観に左右される。
結果、マルクス思想みたいな、正しい面もあれば間違った面もある思想を
一概に全否定した結果、経営者と労働者の搾取関係みたいな、中卒でも実感して
いることが多い普遍法則すらも、東大を出ることで見失うようなことになる。
俺が書いたこの図などもまた、今の経済学の範疇で取り沙汰されるのであれば、
マルクスのように批判的研究の材料扱い止まりとされて、余計にここから
目を背けた蒙昧な活動を助長するようなことにもなりかねないもの。
(近ごろだとピケティのr>gなどもそれに似た扱いを受けていたりする)
しかし、たとえば理系であれば、理工学部で学んだ内容を全く無視しながら、
土建や電機の設計施工などを試みようものなら、命を危ぶむほどの大事故にまで
直結しかねないものだから、嫌でも必ず勉強内容に沿って行かなければならない。
文系でそのような厳守的勉強を強いれば、それは即、宗教的だということで
非難排撃の対象となってしまうのが、洋学における基本原則なのだが。
所詮は理科学としての条件を満たしていないために、文系止まりのものである。
文系だから、そこで学ぶ内容への意見の是非も、学ぶ側の主観に左右される。
結果、マルクス思想みたいな、正しい面もあれば間違った面もある思想を
一概に全否定した結果、経営者と労働者の搾取関係みたいな、中卒でも実感して
いることが多い普遍法則すらも、東大を出ることで見失うようなことになる。
俺が書いたこの図などもまた、今の経済学の範疇で取り沙汰されるのであれば、
マルクスのように批判的研究の材料扱い止まりとされて、余計にここから
目を背けた蒙昧な活動を助長するようなことにもなりかねないもの。
(近ごろだとピケティのr>gなどもそれに似た扱いを受けていたりする)
しかし、たとえば理系であれば、理工学部で学んだ内容を全く無視しながら、
土建や電機の設計施工などを試みようものなら、命を危ぶむほどの大事故にまで
直結しかねないものだから、嫌でも必ず勉強内容に沿って行かなければならない。
文系でそのような厳守的勉強を強いれば、それは即、宗教的だということで
非難排撃の対象となってしまうのが、洋学における基本原則なのだが。
儒学や仏学や玄学にかけては、そうではない。
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」なみに、
論理的に自明な判断だけを厳格に積み重ねて行った人文学的論考を、
理系の勉強材料なみに厳守する対象として学んで行くものである。
それは別に、正しいか間違っているかに関わらず信じ込むようなカルト的狂信に
基づいているのではないし、むしろそうであってはならない。あくまで論理的、物理的に
正しいからこそ守る、間違っているようなら即座に改めるシラフさと共にのみ務まるもの。
(念仏などは、カルトではないがこの条件を満たしてはいないから、やはり信仰止まりである)
それでもやはり、洋学の理系なみに数学的帰納法への準拠や反証可能性の確保を
厳格に守ったものとは限らないから、洋学の経済学などと同様、「理系か文系か」
という二者択一を迫られるのであれば、文系のうちに入れられることになるわけだが。
かといって、洋学の文系のようなぞんざいな扱い方をしていいわけでもない。
洋学の文系や理系とは全くの別物な、文理統合の正学としての権威こそを付与すべきなのだ。
(結果、文理分裂止まりな洋学全体の権威が比較的、損なわれることになるのだろうとも)
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」なみに、
論理的に自明な判断だけを厳格に積み重ねて行った人文学的論考を、
理系の勉強材料なみに厳守する対象として学んで行くものである。
それは別に、正しいか間違っているかに関わらず信じ込むようなカルト的狂信に
基づいているのではないし、むしろそうであってはならない。あくまで論理的、物理的に
正しいからこそ守る、間違っているようなら即座に改めるシラフさと共にのみ務まるもの。
(念仏などは、カルトではないがこの条件を満たしてはいないから、やはり信仰止まりである)
それでもやはり、洋学の理系なみに数学的帰納法への準拠や反証可能性の確保を
厳格に守ったものとは限らないから、洋学の経済学などと同様、「理系か文系か」
という二者択一を迫られるのであれば、文系のうちに入れられることになるわけだが。
かといって、洋学の文系のようなぞんざいな扱い方をしていいわけでもない。
洋学の文系や理系とは全くの別物な、文理統合の正学としての権威こそを付与すべきなのだ。
(結果、文理分裂止まりな洋学全体の権威が比較的、損なわれることになるのだろうとも)
書き貯め放出
(>>59の続き)
永田中将が訴えていたような、消極的な軍事政策こそが支持されて
実現に移されるためには、世の中が軍国主義などであってはならないし、
軍事全般をアレルギー的に否定してかかる盲目な平和主義などでもいけない。
たとえば元寇撃退時の、防衛戦にかけてこそ「驀直進前」の奮闘を見せた
鎌倉武士のあり方などはその理想に近かったが、その戦闘方針を教示したのも
本職の武士ではなく、無学祖元という禅僧であった。そこには軍国主義ほど
武断一辺倒でもなければ、戦後左翼ほどにアレルギー的な軍事嫌いでもない、
中正に適った超俗の視点からの微妙繊細な見識による采配があったわけである。
廃仏毀釈で超俗の精進を否定した近代の日本ではあり得なかったことだし、
もちろんそれは戦後に至るまでそのままであり続けているところである。
(>>59の続き)
永田中将が訴えていたような、消極的な軍事政策こそが支持されて
実現に移されるためには、世の中が軍国主義などであってはならないし、
軍事全般をアレルギー的に否定してかかる盲目な平和主義などでもいけない。
たとえば元寇撃退時の、防衛戦にかけてこそ「驀直進前」の奮闘を見せた
鎌倉武士のあり方などはその理想に近かったが、その戦闘方針を教示したのも
本職の武士ではなく、無学祖元という禅僧であった。そこには軍国主義ほど
武断一辺倒でもなければ、戦後左翼ほどにアレルギー的な軍事嫌いでもない、
中正に適った超俗の視点からの微妙繊細な見識による采配があったわけである。
廃仏毀釈で超俗の精進を否定した近代の日本ではあり得なかったことだし、
もちろんそれは戦後に至るまでそのままであり続けているところである。
「禅門での修行などは、いつの時代も世間一般大多数の人間に務まるものではない」
とも上で述べたけれども、故にこそ禅師からの教示の尊重などは、多数派の意見を
蔑ろにしてまで少数や個人の意見を支持するようなこともなければならない。
故に、多数決が原則の民主主義が絶対であるようなら、それが叶うこともない。
戦前の軍国主義もまた、国民の大多数が(プロパガンダに乗せられてとはいえ)
熱狂的な支持で暴走を激化させて行ったものだし、そこに歯止めをかけるための、
降伏処理の日本側の主導者となったのもまた、玄峰老師という当時随一の禅僧だった。
禅門勢力は決して世の多数などを占めない上に、自分たちからもそれを拒むぐらいだが、
故にこそ多動で盲目な大衆のそれをはるかに上回るような見識の深さで、世の中を
着実な平和や繁栄へと導けるものでもあるし、民主主義も自由主義も独裁主義も、
軍国主義も平和主義も世の中への完全支配を許さないとした上でさらに、それ自体もまた
独裁支配などを目論んだりすることがない禅門の意向に耳を傾けるようなところにこそ、
イデオロギーゼロの世の中ならではの、慧眼による最善の施策の実現が見込まれるのである。
放出ここまで
とも上で述べたけれども、故にこそ禅師からの教示の尊重などは、多数派の意見を
蔑ろにしてまで少数や個人の意見を支持するようなこともなければならない。
故に、多数決が原則の民主主義が絶対であるようなら、それが叶うこともない。
戦前の軍国主義もまた、国民の大多数が(プロパガンダに乗せられてとはいえ)
熱狂的な支持で暴走を激化させて行ったものだし、そこに歯止めをかけるための、
降伏処理の日本側の主導者となったのもまた、玄峰老師という当時随一の禅僧だった。
禅門勢力は決して世の多数などを占めない上に、自分たちからもそれを拒むぐらいだが、
故にこそ多動で盲目な大衆のそれをはるかに上回るような見識の深さで、世の中を
着実な平和や繁栄へと導けるものでもあるし、民主主義も自由主義も独裁主義も、
軍国主義も平和主義も世の中への完全支配を許さないとした上でさらに、それ自体もまた
独裁支配などを目論んだりすることがない禅門の意向に耳を傾けるようなところにこそ、
イデオロギーゼロの世の中ならではの、慧眼による最善の施策の実現が見込まれるのである。
放出ここまで
>>118で、「念仏はやはり学問とまでは行かない信教止まりだが、カルトではない」
と注釈した所について、もう少し釈明しておけば。
念仏もまた、
「たとえ間違っていたとしても信じる(親鸞聖人の法然上人への言)」である一方、
「間違っていたせいで地獄に堕ちるのだとしてもかまわない(同)」というほどにも、
信仰そのものが虚妄を排し去っての、今現在の現実を受け入れたものになっている。
カルトやカルト的思想はこれに違い、
現状への満足などは決してなく、まるで目の前に人参をぶら下げられた馬が、
眼前の人参を求めて走り回るようにして、永続的な現状への不満と、
永遠に達成されることのない理想への渇望だけで成り立ち続けるものである。
「自分が信じているものが間違っていたとしても信じる」というほどにも狂信的で
ある一方、信じているものに即して自分が幸福へと導かれることの方は決して疑わず、
信仰対象に根源的な誤りがあった結果、地獄の苦難に落としいられようものなら普通に、
「なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか?」などという不平をも募らせて行く。
その根本的な破綻性こそが、カルトやカルト的思想への中毒者が欲求不満のせいで、
他者への侵害的な征服欲求などをも募らせてしまう原因となるものであり、
それが致命的であったからこそ江戸時代に、キリシタンや日蓮宗不受不施派などは
禁制をも被ることとなった一方、一向宗含む念仏宗派は許容が続けられたのである。
と注釈した所について、もう少し釈明しておけば。
念仏もまた、
「たとえ間違っていたとしても信じる(親鸞聖人の法然上人への言)」である一方、
「間違っていたせいで地獄に堕ちるのだとしてもかまわない(同)」というほどにも、
信仰そのものが虚妄を排し去っての、今現在の現実を受け入れたものになっている。
カルトやカルト的思想はこれに違い、
現状への満足などは決してなく、まるで目の前に人参をぶら下げられた馬が、
眼前の人参を求めて走り回るようにして、永続的な現状への不満と、
永遠に達成されることのない理想への渇望だけで成り立ち続けるものである。
「自分が信じているものが間違っていたとしても信じる」というほどにも狂信的で
ある一方、信じているものに即して自分が幸福へと導かれることの方は決して疑わず、
信仰対象に根源的な誤りがあった結果、地獄の苦難に落としいられようものなら普通に、
「なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか?」などという不平をも募らせて行く。
その根本的な破綻性こそが、カルトやカルト的思想への中毒者が欲求不満のせいで、
他者への侵害的な征服欲求などをも募らせてしまう原因となるものであり、
それが致命的であったからこそ江戸時代に、キリシタンや日蓮宗不受不施派などは
禁制をも被ることとなった一方、一向宗含む念仏宗派は許容が続けられたのである。
まず以て、現時点でまだ俺を怨もうとしている時点で、頭がおかしい。
カルトでもアメリカでもどっかの医者でも、
真に怨みを向けるべき相手はいくらでもいるというのに、
ただ心情的に怨みやすい相手を怨んで、怨みづらい相手は怨むまいとしている、
その時点でまだ頭がいかれたままでいるという他ない。
具体的に言えば、喜多川にグルーミングされたままでいるジャニタレなどと同じ心理状態。
仮に、本当に自分のほうに落ち度があるのなら、その怨みも受け容れて、
統一自民みたいな平謝りで済ますこともなく、ちゃんと責任も取るべきだが。
そうでない上に、巨悪の冤罪を押し付けられて無実の責任を取らされるぐらいなら、
逆に死への覚悟をも以て、断固として拒絶してかかる以外に道義的余地もありはしない。
「それでも二人を結びつける愛」とかも、あった所で真の愛ではない。
それこそ、巨悪にいいように玩ばれて利用されるだけの、偽りの愛でしかないのだからな。
カルトでもアメリカでもどっかの医者でも、
真に怨みを向けるべき相手はいくらでもいるというのに、
ただ心情的に怨みやすい相手を怨んで、怨みづらい相手は怨むまいとしている、
その時点でまだ頭がいかれたままでいるという他ない。
具体的に言えば、喜多川にグルーミングされたままでいるジャニタレなどと同じ心理状態。
仮に、本当に自分のほうに落ち度があるのなら、その怨みも受け容れて、
統一自民みたいな平謝りで済ますこともなく、ちゃんと責任も取るべきだが。
そうでない上に、巨悪の冤罪を押し付けられて無実の責任を取らされるぐらいなら、
逆に死への覚悟をも以て、断固として拒絶してかかる以外に道義的余地もありはしない。
「それでも二人を結びつける愛」とかも、あった所で真の愛ではない。
それこそ、巨悪にいいように玩ばれて利用されるだけの、偽りの愛でしかないのだからな。
よもや、そいつらはどうせ、どうにかすることもできないような
連中なのだから、代わりに俺を怨んでいるというのなら。
所詮は俺もまた、そいつらをどうすることもできない止まりのままで
生涯を終えるに違いない相手なのだと、見込んでいるということ。
その範囲内での「結果」なんてものは、何もしないままでいる以上の
何の価値もないのに違いないし、それこそこちらから願い下げってもんだな。
連中なのだから、代わりに俺を怨んでいるというのなら。
所詮は俺もまた、そいつらをどうすることもできない止まりのままで
生涯を終えるに違いない相手なのだと、見込んでいるということ。
その範囲内での「結果」なんてものは、何もしないままでいる以上の
何の価値もないのに違いないし、それこそこちらから願い下げってもんだな。
地獄の亡者の阿鼻叫喚に、こちらが割を食う形で付き合ってやった所で、
こちらのためにも、相手のためにもなることはあり得ないでな。
大体わかったのは、もう何もかもおしまいだっていう察しもあった上で、
やり場のない怒りを八つ当たり、逆恨み止まりでもいいから
ぶつけておきたい衝動に駆られてるらしいってことだな。
現時点まで、ただの一度も直接口をきいたこともないなんていう時点で、
鷹司孝子を軽く上回るような関係の険悪さであることも確定してるわけだし、
そこでさらに毒を吐くぐらいなんだから、もうそちらも諦めきってるってことだろう。
さりとて、落ち度はあくまでそちら側のみにある。
この世に呪いに該当するような現象もあろうとて、それはあくまで、
正念をくじかれた者のみが精神現象的にもこの世に発現させ得るものだし、
その条件を満たさない自分たちには人に、呪いをかけて逝くような資格もないからこそ、
今ここで不満をぶつけられるだけぶつけておこうっていう算段なんだろう。
一応、見てぐらいはおいてやるから、自称負け犬スレのほうでせいぜい吠えとくことだな。
こちらのためにも、相手のためにもなることはあり得ないでな。
大体わかったのは、もう何もかもおしまいだっていう察しもあった上で、
やり場のない怒りを八つ当たり、逆恨み止まりでもいいから
ぶつけておきたい衝動に駆られてるらしいってことだな。
現時点まで、ただの一度も直接口をきいたこともないなんていう時点で、
鷹司孝子を軽く上回るような関係の険悪さであることも確定してるわけだし、
そこでさらに毒を吐くぐらいなんだから、もうそちらも諦めきってるってことだろう。
さりとて、落ち度はあくまでそちら側のみにある。
この世に呪いに該当するような現象もあろうとて、それはあくまで、
正念をくじかれた者のみが精神現象的にもこの世に発現させ得るものだし、
その条件を満たさない自分たちには人に、呪いをかけて逝くような資格もないからこそ、
今ここで不満をぶつけられるだけぶつけておこうっていう算段なんだろう。
一応、見てぐらいはおいてやるから、自称負け犬スレのほうでせいぜい吠えとくことだな。
いい加減、スレの主題に話を戻して行くとしてーー
イデオロギーゼロの世の中といえども、多様な思想信教の流布を損ねるような真似はせず、
それぞれの志向性が分をわきまえた活動に取り組むことは大いに許容して行くのが、
イデオロギーゼロそのものによる征服的支配などよりも忠実なそれの実践になるのだと、
>>8などでもすでに述べたところだけれども。
特に信教については、殊更に侵害的であるか否かで、そこでも許容されるか否かが決まり、
念仏や普通の題目までは可だが、極度に和を欠いた日蓮宗派やキリシタンなどについては、
さすがに禁制の対象としていった江戸時代の施策あたりが、その模範例にもなっているといえる。
キリシタン禁制後にも、洋学、蘭学という形での西洋の学術の振興は続き、
その許容度もまた時代によって絶妙な調整が働かされるといった有様だった。
東芝創業者のからくり時計や、平賀源内のエレキテルよろしく、先進的な電機文明への
探求もごくごく一部では試みられながらも、それがあまりにも矮小に過ぎたことが、
文明発展の面で日本が西洋に後れを取る原因になってしまったなどと考えられているが。
イデオロギーゼロの世の中といえども、多様な思想信教の流布を損ねるような真似はせず、
それぞれの志向性が分をわきまえた活動に取り組むことは大いに許容して行くのが、
イデオロギーゼロそのものによる征服的支配などよりも忠実なそれの実践になるのだと、
>>8などでもすでに述べたところだけれども。
特に信教については、殊更に侵害的であるか否かで、そこでも許容されるか否かが決まり、
念仏や普通の題目までは可だが、極度に和を欠いた日蓮宗派やキリシタンなどについては、
さすがに禁制の対象としていった江戸時代の施策あたりが、その模範例にもなっているといえる。
キリシタン禁制後にも、洋学、蘭学という形での西洋の学術の振興は続き、
その許容度もまた時代によって絶妙な調整が働かされるといった有様だった。
東芝創業者のからくり時計や、平賀源内のエレキテルよろしく、先進的な電機文明への
探求もごくごく一部では試みられながらも、それがあまりにも矮小に過ぎたことが、
文明発展の面で日本が西洋に後れを取る原因になってしまったなどと考えられているが。
西洋側の発展はといえば、それは単なる学術振興だけによって実現されたものではない。
大航海時代以降、全世界へと侵略征服の魔の手を広げ、世界中を土人状態以上の荒廃に
陥れながら巨万の富を自分たちの元へと集積し、それを元手とした研究開発によって、
産業革命のような劇的な発展をも遂げたわけで、決して学術発展だけで成し得たことではない。
世界中の人々の平穏な生活を侵害してまで、自分たちの元に富を集積して行った弊害もまた生半な
ものではなく、その最終章として、英欧もまた世界中からの移民に乗っ取られようとしているし、
工業生産やIT産業の依存先となった中国やインドの世界的覇権にも呑み込まれようとしている。
それと似たような因果応報を、日本もまた近代以降に欧米の猿真似で侵略征服などを
繰り広げてしまった程度には被っているけれども、それ以前に、侵略行為なども途絶して、
金満や洋学への依存も最小限に止めて行く国の営み方をよく研鑽し抜いていた程度には、
文明発展による因果応報の災禍以降の、世界のあり方を模索して行く主役ともなり得るものである。
近代文明に依存しきりでもなければ、殊更な反文明主義に振り切れるのでもなく、
文明や洋学を無覆無記に該当するような、無害な範囲だけで適切に取り扱って行く指針。
西洋かぶれにも懐古趣味にも振り切れない、中庸精神の復興と共にそれも培われて行くのである。
大航海時代以降、全世界へと侵略征服の魔の手を広げ、世界中を土人状態以上の荒廃に
陥れながら巨万の富を自分たちの元へと集積し、それを元手とした研究開発によって、
産業革命のような劇的な発展をも遂げたわけで、決して学術発展だけで成し得たことではない。
世界中の人々の平穏な生活を侵害してまで、自分たちの元に富を集積して行った弊害もまた生半な
ものではなく、その最終章として、英欧もまた世界中からの移民に乗っ取られようとしているし、
工業生産やIT産業の依存先となった中国やインドの世界的覇権にも呑み込まれようとしている。
それと似たような因果応報を、日本もまた近代以降に欧米の猿真似で侵略征服などを
繰り広げてしまった程度には被っているけれども、それ以前に、侵略行為なども途絶して、
金満や洋学への依存も最小限に止めて行く国の営み方をよく研鑽し抜いていた程度には、
文明発展による因果応報の災禍以降の、世界のあり方を模索して行く主役ともなり得るものである。
近代文明に依存しきりでもなければ、殊更な反文明主義に振り切れるのでもなく、
文明や洋学を無覆無記に該当するような、無害な範囲だけで適切に取り扱って行く指針。
西洋かぶれにも懐古趣味にも振り切れない、中庸精神の復興と共にそれも培われて行くのである。
羽生結弦の祖母「ゆづはまだまだ子供」
https://news.yahoo.co.jp/articles/be17335dc1ae5f127b8f0...
そりゃそうなんだろうけど、そのやんちゃで幼稚っぽい所まで含めて、
当人の女性人気の糧であり続けてきたわけで、そこから脱却した所にあるのは、
今の日本人の多くが「おっさん」などと呼んで唾棄する、魅力なし扱いな男のみなんよ。
結婚するにも、子を持つにも値しない域の、少年的な側面を持ち越したままの
男こそを女たちが欲して、男たちもまたそれに合わせて幼稚化して来てるのだし、
女たちの不埒な色男嗜好のほうに鉄槌を下さないことには、どうにもならないものだね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be17335dc1ae5f127b8f0...
そりゃそうなんだろうけど、そのやんちゃで幼稚っぽい所まで含めて、
当人の女性人気の糧であり続けてきたわけで、そこから脱却した所にあるのは、
今の日本人の多くが「おっさん」などと呼んで唾棄する、魅力なし扱いな男のみなんよ。
結婚するにも、子を持つにも値しない域の、少年的な側面を持ち越したままの
男こそを女たちが欲して、男たちもまたそれに合わせて幼稚化して来てるのだし、
女たちの不埒な色男嗜好のほうに鉄槌を下さないことには、どうにもならないものだね。
(>>129の続き)
洋学のうちの、文系の学術については、あまりにも劣悪なものが多すぎることから、
軒並みその権威を剥奪して行くに越したことはないとも言い切れるものだが。
理系については、今現在の社会インフラのほか、先進医療で数多の人々の命運を支えて
いるような状態にもあるために、とうてい即座に破棄し去っていいような状態にはない。
そのため当面は保護の対象としながら、人々の依存度を少しずつ下げて行くことが、
医療保険による国の借金の山積で傾いている日本などにとっての指針となるであろうが。
だいたいが、洋学の文系派閥がすでに理系の派閥を抑圧していたりもすることだし、
逆に日本などでは、医学系以外の理系の学術振興がより復調される可能性も高い。
理系の洋学研究は、参加者たちにASD系的な沈鬱志向を強いるものであることから、
アメリカのように国策でそういう人種をシリコンバレー等で保護するぐらいの真似に
及ぶのでもなければ、洋学の権威を認める範疇においても委縮しかねないものである。
洋学のうちの、文系の学術については、あまりにも劣悪なものが多すぎることから、
軒並みその権威を剥奪して行くに越したことはないとも言い切れるものだが。
理系については、今現在の社会インフラのほか、先進医療で数多の人々の命運を支えて
いるような状態にもあるために、とうてい即座に破棄し去っていいような状態にはない。
そのため当面は保護の対象としながら、人々の依存度を少しずつ下げて行くことが、
医療保険による国の借金の山積で傾いている日本などにとっての指針となるであろうが。
だいたいが、洋学の文系派閥がすでに理系の派閥を抑圧していたりもすることだし、
逆に日本などでは、医学系以外の理系の学術振興がより復調される可能性も高い。
理系の洋学研究は、参加者たちにASD系的な沈鬱志向を強いるものであることから、
アメリカのように国策でそういう人種をシリコンバレー等で保護するぐらいの真似に
及ぶのでもなければ、洋学の権威を認める範疇においても委縮しかねないものである。
近年の日本などでは、アキバ系のオタク文化への評価などと共に理系を保護しようなどと
試みられた所もあったが、そんなものも焼け石に水としかならず、慶応閥の文系リア充
あたりにいいようにピンハネのカモにされ尽くした挙句、その総数から減って行ったのだった。
文系の洋学には、学究者の徳性を育む効果もなければ、現実社会の実相を俯瞰する
広い視野を得させる効果もなく、ただひたすら弱肉強食下での勝ち組となることへの野心
ばかりを蓄えさせる代物であるのだと、近年日本などでも多くの事例から察せられるものだが。
それは結局、文系の洋学もまた、江戸期に禁制扱いとなった日蓮宗派やキリシタンなどと同様、
イデオロギーゼロの社会に順応できないほどもの侵害性を帯びているということでもあるし、
ただ権威を剥奪するだけでも十分な改善が期待できないようなら、禁制の対象と
することまでをも考慮の内に入れておく必要があるだろう。
さながらそれは、前漢の武帝が儒学を完了登用のための純正科目に指定したのと引き換えに、
法家や縦横家の素養などをそこから排除したのとも似た機縁となるであろうが。そこから
結果的に中国は儒教一辺倒への道をひた走り始めることともなったわけで、そこで対照的に
儒学の権威が絶対化し過ぎたりすることにも十全な警戒を尽くして行くのでなければなるまい。
試みられた所もあったが、そんなものも焼け石に水としかならず、慶応閥の文系リア充
あたりにいいようにピンハネのカモにされ尽くした挙句、その総数から減って行ったのだった。
文系の洋学には、学究者の徳性を育む効果もなければ、現実社会の実相を俯瞰する
広い視野を得させる効果もなく、ただひたすら弱肉強食下での勝ち組となることへの野心
ばかりを蓄えさせる代物であるのだと、近年日本などでも多くの事例から察せられるものだが。
それは結局、文系の洋学もまた、江戸期に禁制扱いとなった日蓮宗派やキリシタンなどと同様、
イデオロギーゼロの社会に順応できないほどもの侵害性を帯びているということでもあるし、
ただ権威を剥奪するだけでも十分な改善が期待できないようなら、禁制の対象と
することまでをも考慮の内に入れておく必要があるだろう。
さながらそれは、前漢の武帝が儒学を完了登用のための純正科目に指定したのと引き換えに、
法家や縦横家の素養などをそこから排除したのとも似た機縁となるであろうが。そこから
結果的に中国は儒教一辺倒への道をひた走り始めることともなったわけで、そこで対照的に
儒学の権威が絶対化し過ぎたりすることにも十全な警戒を尽くして行くのでなければなるまい。
仮に、洋学(特に文系)がその権威を剥奪されて、儒学や仏学のような
正学が学歴の依拠材料としての正規教育科目に据えられ直すのだとしても、
そこで現代なみの学歴主義に基づくような、頑なな差別などがあってはならない。
近代以降の日本社会における学歴主義というのも、時代を追うごとに深刻化しながら、
世の中全体を低迷に陥らせる一大原因になって来たところがある。
戦前までは、小学校中退の牧野富太郎が東大の研究室に入り浸りながら
超絶飛び級で理学博士号を取得するようなこともあれど、戦後にはなくなった上に、
時を重ねるごとに、高度の洋学教育など必要もないような業界に至るまで、
全ての人事をまず学歴準拠で取り仕切るような事態をより深刻化させていったもの。
一橋卒の大塚久美子よりも、高卒の父親のほうが会社経営の手腕も普遍的に上だったと
すでに確認されたりもしているものだけれども、それ以前にまず、世の中の人事が
学歴ばかりで左右されなかった時代の日本のほうが活況を呈していた一方、ほとんど学歴だけで
全国民の価値が計られるようになると共に「失われた30年」が到来したという実情もまたある。
それはおそらく、儒学に基づく学歴至上主義の世相などが到来した場合にも招かれるに
違いない停滞であるのに違いないのは、儒教時代の中朝の様相などを鑑みても知れることである。
正学が学歴の依拠材料としての正規教育科目に据えられ直すのだとしても、
そこで現代なみの学歴主義に基づくような、頑なな差別などがあってはならない。
近代以降の日本社会における学歴主義というのも、時代を追うごとに深刻化しながら、
世の中全体を低迷に陥らせる一大原因になって来たところがある。
戦前までは、小学校中退の牧野富太郎が東大の研究室に入り浸りながら
超絶飛び級で理学博士号を取得するようなこともあれど、戦後にはなくなった上に、
時を重ねるごとに、高度の洋学教育など必要もないような業界に至るまで、
全ての人事をまず学歴準拠で取り仕切るような事態をより深刻化させていったもの。
一橋卒の大塚久美子よりも、高卒の父親のほうが会社経営の手腕も普遍的に上だったと
すでに確認されたりもしているものだけれども、それ以前にまず、世の中の人事が
学歴ばかりで左右されなかった時代の日本のほうが活況を呈していた一方、ほとんど学歴だけで
全国民の価値が計られるようになると共に「失われた30年」が到来したという実情もまたある。
それはおそらく、儒学に基づく学歴至上主義の世相などが到来した場合にも招かれるに
違いない停滞であるのに違いないのは、儒教時代の中朝の様相などを鑑みても知れることである。
「金持ちしか子供を作らなくなったから少子化になってしまった」と、
この前ひろゆきも言ってたけれども、「金持ちでなければ人にあらず」という風潮と同様、
「高学歴でなければ人にあらず」という風潮もまた世に蔓延した結果、低学歴はもはや
妻子も持てない域の貧窮に追い込まれても仕方がないという常識が定着してしまったもの。
今や、新卒採用でそこそこの会社に就職できるのでもなければ、闇バイトにでも手を出した
ほうがまだ稼げるというのが当たり前と化してしまったことから、Z世代の若者たちも、
ろくに世の中への不満も漏らすことなく、粛々と強盗や特殊詐欺に勤しむ事態ともなっている。
いつの時代も「~でなければ人にあらず」の域の過当競争が蔓延する世の中は自業自得での
衰滅に苛まれるものであり、貧富の格差がその原因になるのはある程度察知されているために
それなりの施策が講じられたりもする一方、学歴差別のほうはまだその試みすら疎かなままである。
みんな勉強ができないよりはできたほうがいい。大学に行く選択肢もないよりはあったほうが
いいということで、泡沫級の低ランク大学なども乱立させた結果、逆に誰しもが、まずは学歴で
その真価を図られるような差別性が蔓延して今に至る。これもまた「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
の結果であり、生きて行く上で必要もないような勉強に全てが支配されるのも不健全なのである。
この前ひろゆきも言ってたけれども、「金持ちでなければ人にあらず」という風潮と同様、
「高学歴でなければ人にあらず」という風潮もまた世に蔓延した結果、低学歴はもはや
妻子も持てない域の貧窮に追い込まれても仕方がないという常識が定着してしまったもの。
今や、新卒採用でそこそこの会社に就職できるのでもなければ、闇バイトにでも手を出した
ほうがまだ稼げるというのが当たり前と化してしまったことから、Z世代の若者たちも、
ろくに世の中への不満も漏らすことなく、粛々と強盗や特殊詐欺に勤しむ事態ともなっている。
いつの時代も「~でなければ人にあらず」の域の過当競争が蔓延する世の中は自業自得での
衰滅に苛まれるものであり、貧富の格差がその原因になるのはある程度察知されているために
それなりの施策が講じられたりもする一方、学歴差別のほうはまだその試みすら疎かなままである。
みんな勉強ができないよりはできたほうがいい。大学に行く選択肢もないよりはあったほうが
いいということで、泡沫級の低ランク大学なども乱立させた結果、逆に誰しもが、まずは学歴で
その真価を図られるような差別性が蔓延して今に至る。これもまた「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
の結果であり、生きて行く上で必要もないような勉強に全てが支配されるのも不健全なのである。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700858297...
このスレの8などで多少述べていた、俺個人の洋学から正学への転向にかけての体験談で、
完全に心の重心から乗り換えることには大変な逡巡があったことをも独白しているのだが。
それこそは、当時の俺を含む今の日本や世界の大多数の人々が、
洋学至上主義と学歴至上主義の相乗への心理的屈服を強いられている証拠にもなっているといえる。
世の中には勉強嫌いや低学歴の人間も多かれど、それが即座にコンプレックスを抱かされる
原因となり、人並み以上に卑屈であったりすることを強いられる要因ともなる。それが、
洋学も学歴も必要ないような業務を、プライドを持って取り組んだりすることをも阻害し、
この世のあらゆる仕事をいい加減で適当なものならしめての荒廃をも招いてしまう。
(結果、学歴ぐらいでしか人の真価を量ることもできない事態がより強化される)
今だと正規教育扱いの洋学がその主たる元凶となっているが、儒教時代の中朝などでは、
儒学が全く同様な問題を招いていたことだし、学歴至上主義による征服は必ずそれを招くもの。
老子も「絶学無憂」を謳い、荘子や列子も儒家の勉強志向をこっぴどく非難するような
論弁を遺しているが、それをただ反知性主義の正当化材料にしたりするのは誤りで、
この世が学歴至上主義で覆い尽くされたりしないようにするための牽制材料として
尊重することこそが、イデオロギーゼロの達成のためにも純正な利用方法となるであろう。
このスレの8などで多少述べていた、俺個人の洋学から正学への転向にかけての体験談で、
完全に心の重心から乗り換えることには大変な逡巡があったことをも独白しているのだが。
それこそは、当時の俺を含む今の日本や世界の大多数の人々が、
洋学至上主義と学歴至上主義の相乗への心理的屈服を強いられている証拠にもなっているといえる。
世の中には勉強嫌いや低学歴の人間も多かれど、それが即座にコンプレックスを抱かされる
原因となり、人並み以上に卑屈であったりすることを強いられる要因ともなる。それが、
洋学も学歴も必要ないような業務を、プライドを持って取り組んだりすることをも阻害し、
この世のあらゆる仕事をいい加減で適当なものならしめての荒廃をも招いてしまう。
(結果、学歴ぐらいでしか人の真価を量ることもできない事態がより強化される)
今だと正規教育扱いの洋学がその主たる元凶となっているが、儒教時代の中朝などでは、
儒学が全く同様な問題を招いていたことだし、学歴至上主義による征服は必ずそれを招くもの。
老子も「絶学無憂」を謳い、荘子や列子も儒家の勉強志向をこっぴどく非難するような
論弁を遺しているが、それをただ反知性主義の正当化材料にしたりするのは誤りで、
この世が学歴至上主義で覆い尽くされたりしないようにするための牽制材料として
尊重することこそが、イデオロギーゼロの達成のためにも純正な利用方法となるであろう。
学歴至上主義に限らず、特定の思想信教によるイデオロギー支配が
深刻化してしまっている所には必ずや、文武両道の嗜みの不全化が存在する。
洋学はそれ自体が文弱による机上の空論に特化しているために、
そのような事態を世の中にもたらす傾向が特に顕著であるけれども、
洋学の原産地である西洋にはスポーツという運動文化もまたあり、
儒教時代の中朝などと比べればまだ体育を重んじている傾向もある。
しかし、西洋における運動体系は、体育会系にしろ軍事行動にしろ、
少なからず頭を使わずに体だけを動かすことを要求する志向性を帯びているために、
たとえ洋学とスポーツを共に受容したからといって、真の文武両道たるわけではなく、
ただ単に二足の草鞋を履いているだけの域に止まることとなる。
今の日本だと、体育会系でスポーツマンを兼ねる医者や商社マンなども多かれど、
それが学歴至上主義の蔓延の歯止め役になるどころか、むしろ助長役に
なってしまっていたりすることからもわかるように、そういう人種は文弱の領域では
純粋に文弱たる上に、スポーツ競技の感覚で社会的な弱肉強食をも激化させるような
より一層の悲惨さを招くことしかできないために、少しも文武両道として尊ぶには値しない。
深刻化してしまっている所には必ずや、文武両道の嗜みの不全化が存在する。
洋学はそれ自体が文弱による机上の空論に特化しているために、
そのような事態を世の中にもたらす傾向が特に顕著であるけれども、
洋学の原産地である西洋にはスポーツという運動文化もまたあり、
儒教時代の中朝などと比べればまだ体育を重んじている傾向もある。
しかし、西洋における運動体系は、体育会系にしろ軍事行動にしろ、
少なからず頭を使わずに体だけを動かすことを要求する志向性を帯びているために、
たとえ洋学とスポーツを共に受容したからといって、真の文武両道たるわけではなく、
ただ単に二足の草鞋を履いているだけの域に止まることとなる。
今の日本だと、体育会系でスポーツマンを兼ねる医者や商社マンなども多かれど、
それが学歴至上主義の蔓延の歯止め役になるどころか、むしろ助長役に
なってしまっていたりすることからもわかるように、そういう人種は文弱の領域では
純粋に文弱たる上に、スポーツ競技の感覚で社会的な弱肉強食をも激化させるような
より一層の悲惨さを招くことしかできないために、少しも文武両道として尊ぶには値しない。
スポーツ化した戦後の剣道や柔道を必修科目としている警察官が、
並外れた低能だらけと化してしまっていたりすることからも分かるように、
頭をちゃんと使わない体育会系の運動こそは、知性を鈍麻させるという弊害もある。
真の文武両道と呼ぶべきなのは、古来の武芸や仏道修行なみに、
身体の端々に至るまで知恵を巡らせて完璧な制御下に置く部類の運動と、
それに基づく叡智の獲得のほうであり、それは机上の空論止まりな脳化の知性と、
頭を使わずに体だけ動かしていようとするような運動の両立などとは全くの別物である。
それは実際、大変に困難な嗜みであるために、世の中の大多数の人間には務まらない。
武士も武芸者も仏僧も、いつの時代も世の多数派だったりまではしないでいながら、
そういった取り組みに専念し、人並み以上の崇敬対象としての地位を得ていたわけで、
故にこそ、世の中全体を執拗な支配下に置く全体主義の体現などでもあり得ないのである。
文化系一辺倒や体育会系一辺倒に権威を付与すると、さほどの域にもないような愚か者が
大勢力化しながら世の中全体を強権的な支配下に置くような真似を試み始めるために、それを禁止し、
難儀で少数しか十分に上達できない真の文武両道を、だからこそ権威の拠り所として行くのである。
並外れた低能だらけと化してしまっていたりすることからも分かるように、
頭をちゃんと使わない体育会系の運動こそは、知性を鈍麻させるという弊害もある。
真の文武両道と呼ぶべきなのは、古来の武芸や仏道修行なみに、
身体の端々に至るまで知恵を巡らせて完璧な制御下に置く部類の運動と、
それに基づく叡智の獲得のほうであり、それは机上の空論止まりな脳化の知性と、
頭を使わずに体だけ動かしていようとするような運動の両立などとは全くの別物である。
それは実際、大変に困難な嗜みであるために、世の中の大多数の人間には務まらない。
武士も武芸者も仏僧も、いつの時代も世の多数派だったりまではしないでいながら、
そういった取り組みに専念し、人並み以上の崇敬対象としての地位を得ていたわけで、
故にこそ、世の中全体を執拗な支配下に置く全体主義の体現などでもあり得ないのである。
文化系一辺倒や体育会系一辺倒に権威を付与すると、さほどの域にもないような愚か者が
大勢力化しながら世の中全体を強権的な支配下に置くような真似を試み始めるために、それを禁止し、
難儀で少数しか十分に上達できない真の文武両道を、だからこそ権威の拠り所として行くのである。
真の文武両道は、大多数の人間には務まらない上に、十分な理解もできない。
>>110で引き合いに出した疋田文五郎秘伝の剣術奥義なども、
常人にはまともに活用もできない上に、その凄さも十分には分からない。
まず重心を下げる沈の姿勢での剣術技巧が、実戦性を重んずる流派に重用されて来た
古来の武芸の常識があった上で、裏技としての直ぐ立ちでの攻撃の凄さが強調されているのを
聞き知らされたりした所で、そもそも実戦性を無視して始めから直立で競技している
今の剣道などを剣技の基本だと思い込んでいる現代人からすれば、全くの意味不明となる。
相手の裏の裏の裏をかいて行くような、知恵比べの極北に存在する奥義などを、
常人が理解できないのは当たり前のことであって、必要なのはそこにまで理解を及ばせる
ことではなく、理解できないものをそうであるままに敬い尊べるだけの篤実さなのである。
>>110で引き合いに出した疋田文五郎秘伝の剣術奥義なども、
常人にはまともに活用もできない上に、その凄さも十分には分からない。
まず重心を下げる沈の姿勢での剣術技巧が、実戦性を重んずる流派に重用されて来た
古来の武芸の常識があった上で、裏技としての直ぐ立ちでの攻撃の凄さが強調されているのを
聞き知らされたりした所で、そもそも実戦性を無視して始めから直立で競技している
今の剣道などを剣技の基本だと思い込んでいる現代人からすれば、全くの意味不明となる。
相手の裏の裏の裏をかいて行くような、知恵比べの極北に存在する奥義などを、
常人が理解できないのは当たり前のことであって、必要なのはそこにまで理解を及ばせる
ことではなく、理解できないものをそうであるままに敬い尊べるだけの篤実さなのである。
仏道などもまた同じことで、仏の知恵は、自分たちだけではまともに平穏に世の中を
営んで行くことも出来ない衆愚を本当に救い取るものであればこそ、衆愚側には原理的に
その理解が不能なもの。なればこそそれが選挙で多数に支持されて政権を得るようなこともない。
誰も聞いてパっと理解できるぐらい分かりやすいものがこの世の平和や繁栄を実現できる
ぐらいなら、とっくにそうなっている。その試みの極みこそは、この世を特定の一つ覚えな
イデオロギーで塗り固めるという企てでもあったわけで、それが最良の部類であるはずの
自由主義や民主主義によってもうまくいかなかったことを以て、人間社会が安易な
分かりやすさばかりでやって行けるものではないことを観念する機縁ともすべきなのである。
営んで行くことも出来ない衆愚を本当に救い取るものであればこそ、衆愚側には原理的に
その理解が不能なもの。なればこそそれが選挙で多数に支持されて政権を得るようなこともない。
誰も聞いてパっと理解できるぐらい分かりやすいものがこの世の平和や繁栄を実現できる
ぐらいなら、とっくにそうなっている。その試みの極みこそは、この世を特定の一つ覚えな
イデオロギーで塗り固めるという企てでもあったわけで、それが最良の部類であるはずの
自由主義や民主主義によってもうまくいかなかったことを以て、人間社会が安易な
分かりやすさばかりでやって行けるものではないことを観念する機縁ともすべきなのである。
そりゃあ、梵語版の訳者が洋学者だったりするからじゃないかね?
仏教徒ですらないなんてことは、日本人の仏教学者ならほぼないにしろ、
あくまで研究対象を徹底的な侮蔑、懐疑の標的にして行くことを本位としている
洋学のペースでの訳だったりすると、玄奘三蔵や鳩摩羅什のような本格の仏者が
敬意を込めて漢訳した仏典の再翻訳と比べて、文体の不埒さが読解を邪魔する頻度も高くなる。
そのような、洋学ペースの仏教というものを忠実な実践に移そうとしていた
新興宗教の教団があってね、オウム真理教っていうんだけど、知ってるかな?
「尊師」という言葉も、東大教授の仏教学者である中村元の、原始仏典からの訳語で、
実は仏語じゃない。本来は学校教師とか政治家とか弁護士とか医者とかの、
在俗の指導者を敬って呼ぶ言葉。そんな言葉をあえて仏門の指導者に当てはめたりする
ような真似の積み重ねが、洋学主導の仏典翻訳を読みがたいものにもしてしまうわけだね。
仏教徒ですらないなんてことは、日本人の仏教学者ならほぼないにしろ、
あくまで研究対象を徹底的な侮蔑、懐疑の標的にして行くことを本位としている
洋学のペースでの訳だったりすると、玄奘三蔵や鳩摩羅什のような本格の仏者が
敬意を込めて漢訳した仏典の再翻訳と比べて、文体の不埒さが読解を邪魔する頻度も高くなる。
そのような、洋学ペースの仏教というものを忠実な実践に移そうとしていた
新興宗教の教団があってね、オウム真理教っていうんだけど、知ってるかな?
「尊師」という言葉も、東大教授の仏教学者である中村元の、原始仏典からの訳語で、
実は仏語じゃない。本来は学校教師とか政治家とか弁護士とか医者とかの、
在俗の指導者を敬って呼ぶ言葉。そんな言葉をあえて仏門の指導者に当てはめたりする
ような真似の積み重ねが、洋学主導の仏典翻訳を読みがたいものにもしてしまうわけだね。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700858297...
ここでもある程度詳述したことだが、人間、心中に宿している敬意の総量が、
侮蔑の総量を上回っている状態で、初めて十全な精神の安定を確保し、
100年以上の平和や繁栄をこの世にもたらす聖賢たり得るもので、
当然、仏道もまたその条件を満たしている者のみが上達に与れるものである。
まず以て、他力本願の念仏に帰依するためにさえ、その条件を満たす必要があるし、
真っ当な仏道ほど、おしなべてその満了を必須とする精神文化も他にないものである。
禿頭に糞掃衣(袈裟)という、古来の奴隷を模した仏僧の装束もまた、
心中の敬意が侮蔑を上回っている人間でもなければ敬えないものなればこそ、
あえてそうして来ている所があるし、実際、ハゲを馬鹿にする風潮と、
仏門への崇敬意識もまた反比例関係で今の世に偏在しているものである。
ここでもある程度詳述したことだが、人間、心中に宿している敬意の総量が、
侮蔑の総量を上回っている状態で、初めて十全な精神の安定を確保し、
100年以上の平和や繁栄をこの世にもたらす聖賢たり得るもので、
当然、仏道もまたその条件を満たしている者のみが上達に与れるものである。
まず以て、他力本願の念仏に帰依するためにさえ、その条件を満たす必要があるし、
真っ当な仏道ほど、おしなべてその満了を必須とする精神文化も他にないものである。
禿頭に糞掃衣(袈裟)という、古来の奴隷を模した仏僧の装束もまた、
心中の敬意が侮蔑を上回っている人間でもなければ敬えないものなればこそ、
あえてそうして来ている所があるし、実際、ハゲを馬鹿にする風潮と、
仏門への崇敬意識もまた反比例関係で今の世に偏在しているものである。
仏者でなくとも、否定派などのように、並外れた苦労を積み重ねてきた男もまた時に
ハゲるものだが、そこへの敬意を抱けないような人間で溢れ返っているような
世の中では、苦労を馬鹿にして楽したもんがちな悪徳までもがまかり通り、
何もかもが適当にあしらわれた挙句の、世相の荒廃を招いたりもしてしまうものである。
近世まで仏門帰依が入念だった日本人と、その頃もうすでに儒教支配が仏門を
侵害していた中朝の民度の高低を見ても分かる通り、ハゲをも敬えるか否かという、
仏門帰依にかけても重大な関門となる要素がそのまま、世を挙げての栄枯盛衰をも
決定的に左右するものだし、どんなに洋学が絶大な文明発展をもたらすのだろうとも、
それと共に人々の敬意を仏滅級に損ね、ハゲをあざ笑い唾棄する風潮などへと
持ち込むのであれば、多少ほどにも世の中をより安楽ならしめることもないのである。
ハゲるものだが、そこへの敬意を抱けないような人間で溢れ返っているような
世の中では、苦労を馬鹿にして楽したもんがちな悪徳までもがまかり通り、
何もかもが適当にあしらわれた挙句の、世相の荒廃を招いたりもしてしまうものである。
近世まで仏門帰依が入念だった日本人と、その頃もうすでに儒教支配が仏門を
侵害していた中朝の民度の高低を見ても分かる通り、ハゲをも敬えるか否かという、
仏門帰依にかけても重大な関門となる要素がそのまま、世を挙げての栄枯盛衰をも
決定的に左右するものだし、どんなに洋学が絶大な文明発展をもたらすのだろうとも、
それと共に人々の敬意を仏滅級に損ね、ハゲをあざ笑い唾棄する風潮などへと
持ち込むのであれば、多少ほどにも世の中をより安楽ならしめることもないのである。
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているかどうかは、
ハゲの偉人をも崇敬できるかどうかでも判別することができるし、
大勢の前でのスピーチで緊張するかどうかなどでも、概ねの判別が可能である。
日本人などには緊張する人間が多い一方、欧米人にはほとんどいないともされる。
英語の「あなた」と「あなたたち」はどちらも「You」で一括りにされているように、
言語面から相手の多寡を区別する習慣がないから緊張などしないというのもあるのだろうけれども。
「他者というのはとりあえず敬っておくべき可能性のあるもの」というほどにも、
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているのであれば、大人数に対峙した時点ですでに、
可能性の面からの畏怖が増大して、否が応でも緊張する者である一方、侮蔑のほうが敬意の
総量を上回っているようならそうではないから緊張などしないといったこともあるだろう。
ハゲの偉人をも崇敬できるかどうかでも判別することができるし、
大勢の前でのスピーチで緊張するかどうかなどでも、概ねの判別が可能である。
日本人などには緊張する人間が多い一方、欧米人にはほとんどいないともされる。
英語の「あなた」と「あなたたち」はどちらも「You」で一括りにされているように、
言語面から相手の多寡を区別する習慣がないから緊張などしないというのもあるのだろうけれども。
「他者というのはとりあえず敬っておくべき可能性のあるもの」というほどにも、
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているのであれば、大人数に対峙した時点ですでに、
可能性の面からの畏怖が増大して、否が応でも緊張する者である一方、侮蔑のほうが敬意の
総量を上回っているようならそうではないから緊張などしないといったこともあるだろう。
「大勢の前で緊張する」というのは、自分一人よりも多数派の相手に対して自動的に
尊重意識を抱いていることから、心中からの民主主義が盤石な状態であるともいえるために、
むしろ好ましいことなのだとも以前に述べたところであるが。
さような人々で世の中全体が形成されているようであれば自然と、
全体を自分一人の考えでどうにかしてやろうとするような独裁性もまた立ち消えとなり、
民主制などをわざわざ敷くまでもなく、民主的な社会が実現されるであろうから、
イデオロギーの民主主義などよりもそちらの実現のほうを心がけるべきなのだともいえるのである。
真っ当な仏道にしろ神道にしろ儒家にしろ道家にしろ、非カルトの純正な精神文化はみな、
心中の敬意を侮蔑以上ならしめることを本分としているために、それらの忠実な実践者が、
この世にイデオロギー支配級の独裁性を以て君臨しようとするようなことも決してないのである。
尊重意識を抱いていることから、心中からの民主主義が盤石な状態であるともいえるために、
むしろ好ましいことなのだとも以前に述べたところであるが。
さような人々で世の中全体が形成されているようであれば自然と、
全体を自分一人の考えでどうにかしてやろうとするような独裁性もまた立ち消えとなり、
民主制などをわざわざ敷くまでもなく、民主的な社会が実現されるであろうから、
イデオロギーの民主主義などよりもそちらの実現のほうを心がけるべきなのだともいえるのである。
真っ当な仏道にしろ神道にしろ儒家にしろ道家にしろ、非カルトの純正な精神文化はみな、
心中の敬意を侮蔑以上ならしめることを本分としているために、それらの忠実な実践者が、
この世にイデオロギー支配級の独裁性を以て君臨しようとするようなことも決してないのである。
ハゲでも敬おうと思えば敬えるし、大勢の前で演説させられたりすれば緊張するーー
何のことはない、ごく普通の一般的な日本人にありがちな姿だけれども、
そこにこそ古来の良質な精神文化による教化の精髄があったものだし、
西洋化や大陸化によってあえて棄損したりもすべきではなかった所である。
ただ、ほとんどの日本人が未だそのような良俗の把持者でいながら、
近代以降には自由化や民主化を通じて、俺は俺は、私は私はな我欲の発露の達者ほど
評価されて重用される風潮が蔓延し始めたために(選挙政治もその代表格である)、
日本人の中では特級に下衆な悪党や、在日ばかりが権力中枢を牛耳るようになってしまった。
だからこそ、一般的な日本人もまた他者に臆したりしない我欲の強さを持ち合わせるべきだ
などとされて、日本人らしい貞節な性向の持ち主を陰キャなどと呼んでこき下ろし、
他者を踏み台にしてでものし上がろうとするような不埒さの持主ほど陽キャ扱いで
持て囃すといった取り組みが庶民に至るまで強要されているのが現状なのだが。
本当に必要なのはそんなことではなく、権力中枢ほど「意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九・四)な虚静さの持主しか立ち入れないようにして行くことである。
何のことはない、ごく普通の一般的な日本人にありがちな姿だけれども、
そこにこそ古来の良質な精神文化による教化の精髄があったものだし、
西洋化や大陸化によってあえて棄損したりもすべきではなかった所である。
ただ、ほとんどの日本人が未だそのような良俗の把持者でいながら、
近代以降には自由化や民主化を通じて、俺は俺は、私は私はな我欲の発露の達者ほど
評価されて重用される風潮が蔓延し始めたために(選挙政治もその代表格である)、
日本人の中では特級に下衆な悪党や、在日ばかりが権力中枢を牛耳るようになってしまった。
だからこそ、一般的な日本人もまた他者に臆したりしない我欲の強さを持ち合わせるべきだ
などとされて、日本人らしい貞節な性向の持ち主を陰キャなどと呼んでこき下ろし、
他者を踏み台にしてでものし上がろうとするような不埒さの持主ほど陽キャ扱いで
持て囃すといった取り組みが庶民に至るまで強要されているのが現状なのだが。
本当に必要なのはそんなことではなく、権力中枢ほど「意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九・四)な虚静さの持主しか立ち入れないようにして行くことである。
国としてのイデオロギーを無為自然、イデオロギーゼロならしめるのもまた、
そのための重大な方針転換となるだろうし、もちろんただそれだけには止まらず、
いま権力機構に巣食っているような、日本在住者の中でも特級に我欲たらたらな下郎ほど、
権力には近づけないようにするための具体的な施策もまた講じられるべきである。
その一つには、この日本こそが近世という比較的近年まで存続させることができていた、
封建社会の支配者すらをも引責自殺に追い込める強度の監察制度の再興なども挙げられる。
古くは魏志倭人伝にも「刺史のような職あり」という記述でその存在が指摘され、
その後も勘解由使や目付などと名称だけは変わりながら存続していた、厳格な監察職。
大陸では刺史から州牧などへと名称を変えながら、北宋の代で士大夫と地主や豪商の
癒着が横行し始めると同時に致命的な形骸化を来たしたのが、蒙古のごとき蛮族による
侵略征服と共に、政治腐敗からの文化荒廃を決定づける最大級の要因ともなったもの。
日本でも、近代以降は同様な事態を招いたし(そもそも地主が政治家を歴任し始めた)、
西洋に至っては始めからそんな職分はなく、フランス革命まで王侯=大地主でもあった。
さような傾向のある社会ほど国家権力=ごみ溜めという常識までもがまかり通り始める
ものであるけれども、イデオロギーゼロや監察職の充実と共に廃せる風潮なのでもある。
そのための重大な方針転換となるだろうし、もちろんただそれだけには止まらず、
いま権力機構に巣食っているような、日本在住者の中でも特級に我欲たらたらな下郎ほど、
権力には近づけないようにするための具体的な施策もまた講じられるべきである。
その一つには、この日本こそが近世という比較的近年まで存続させることができていた、
封建社会の支配者すらをも引責自殺に追い込める強度の監察制度の再興なども挙げられる。
古くは魏志倭人伝にも「刺史のような職あり」という記述でその存在が指摘され、
その後も勘解由使や目付などと名称だけは変わりながら存続していた、厳格な監察職。
大陸では刺史から州牧などへと名称を変えながら、北宋の代で士大夫と地主や豪商の
癒着が横行し始めると同時に致命的な形骸化を来たしたのが、蒙古のごとき蛮族による
侵略征服と共に、政治腐敗からの文化荒廃を決定づける最大級の要因ともなったもの。
日本でも、近代以降は同様な事態を招いたし(そもそも地主が政治家を歴任し始めた)、
西洋に至っては始めからそんな職分はなく、フランス革命まで王侯=大地主でもあった。
さような傾向のある社会ほど国家権力=ごみ溜めという常識までもがまかり通り始める
ものであるけれども、イデオロギーゼロや監察職の充実と共に廃せる風潮なのでもある。
魏志倭人伝に監察官制度の記述があるということは、
儒学や仏教の到来以前からそれがあったということ。
弥生系の日本人が箕子朝魚羊からの渡来者であるという俺の予測が正しければ、
孔子による体系化以前に存在した古代儒教の影響を受けていた可能性もなくはないが、
それもまた体系的な思想性まではまだ持ち合わせてはいなかったわけで、監察制度の充実で
国の自浄作用を保とうとする試み自体、特定の思想信条を発祥とするとも言えないものである。
もう1000年来政治腐敗が蔓延し続けている中国においても、監察制度がまだ実効性を
保っていた漢代などには不祥事にかけての引責自殺が多発し、以て政治の清浄さもまた
保たれていたと「漢書」などにあるのだけれども、その漢帝国がどういう経緯でそんな
自浄作用を保てていたのかを鑑みるに、高祖劉邦から五代文帝に至るまでの道家的な
儒学や仏教の到来以前からそれがあったということ。
弥生系の日本人が箕子朝魚羊からの渡来者であるという俺の予測が正しければ、
孔子による体系化以前に存在した古代儒教の影響を受けていた可能性もなくはないが、
それもまた体系的な思想性まではまだ持ち合わせてはいなかったわけで、監察制度の充実で
国の自浄作用を保とうとする試み自体、特定の思想信条を発祥とするとも言えないものである。
もう1000年来政治腐敗が蔓延し続けている中国においても、監察制度がまだ実効性を
保っていた漢代などには不祥事にかけての引責自殺が多発し、以て政治の清浄さもまた
保たれていたと「漢書」などにあるのだけれども、その漢帝国がどういう経緯でそんな
自浄作用を保てていたのかを鑑みるに、高祖劉邦から五代文帝に至るまでの道家的な
無為自然統治からの結果だろうということが、文帝の代で世相の清浄さが極まったとされる
(前漢の国力が最高潮に達したのは七代武帝から十代宣帝にかけての頃だといわれる)
ことからも察せられるわけで、やはりイデオロギーゼロこそがその源泉になるのだと思われる。
箕子朝魚羊や邪馬台国では、未だ体系的な政治腐敗を試みるならず者による侵害なども
なかったことから、自然と監察制度の充実なども見られたのだけれども、漢帝国などでは、
すでにそういう連中が山ほどいたために、ある程度は道家思想のような故意によってそれらを
撃退して行く必要があった。今の世界などもどちらかといえば漢帝国のほうに事情が似ているわけで、
イデオロギーゼロの実現のためにこそ、腐敗の対消滅目的の無為自然の強調が必要ともなるであろう。
(前漢の国力が最高潮に達したのは七代武帝から十代宣帝にかけての頃だといわれる)
ことからも察せられるわけで、やはりイデオロギーゼロこそがその源泉になるのだと思われる。
箕子朝魚羊や邪馬台国では、未だ体系的な政治腐敗を試みるならず者による侵害なども
なかったことから、自然と監察制度の充実なども見られたのだけれども、漢帝国などでは、
すでにそういう連中が山ほどいたために、ある程度は道家思想のような故意によってそれらを
撃退して行く必要があった。今の世界などもどちらかといえば漢帝国のほうに事情が似ているわけで、
イデオロギーゼロの実現のためにこそ、腐敗の対消滅目的の無為自然の強調が必要ともなるであろう。
12月に入り、いつも俺が聴いているネットラジオ局も毎年恒例な
怒涛のクリスマスソング特集を始めたので、聴くのをやめたのだが。
日本の12月はもはや、クリスマスに乗っ取られた状態にある。
件のラジオ局でもその他のメディアでも、スーパーでもデパートでもその他の商店でも、
「年末商戦=クリスマス」という既成概念が固定化されて、当たり前のように丸々1か月間、
延々とクリスマス一色で何もかもを塗り固めてしまおうとする。
日本におけるクリスマス文化の強制と、ライオンズやロータリーのような政商クラブの
全国への侵出がほぼ時期を一にしているし、おそらくは連中の仕業が発端なのだろうが。
日本の伝統行事にも、全国民に丸一か月間帰服を強いるようなものは存在しない。
いま禅門で行われている臘八接心でも1日から8日までの8日間だし、千日回峰のような
より長期の修行もまた一個人が自己責任で執り行うものでしかない。
怒涛のクリスマスソング特集を始めたので、聴くのをやめたのだが。
日本の12月はもはや、クリスマスに乗っ取られた状態にある。
件のラジオ局でもその他のメディアでも、スーパーでもデパートでもその他の商店でも、
「年末商戦=クリスマス」という既成概念が固定化されて、当たり前のように丸々1か月間、
延々とクリスマス一色で何もかもを塗り固めてしまおうとする。
日本におけるクリスマス文化の強制と、ライオンズやロータリーのような政商クラブの
全国への侵出がほぼ時期を一にしているし、おそらくは連中の仕業が発端なのだろうが。
日本の伝統行事にも、全国民に丸一か月間帰服を強いるようなものは存在しない。
いま禅門で行われている臘八接心でも1日から8日までの8日間だし、千日回峰のような
より長期の修行もまた一個人が自己責任で執り行うものでしかない。
国家規模の大集団が丸一か月程度の帰服を強いられる行事といえば、
たとえばイスラム教のラマダンとかがあるし、それは紛れもなく、
国家社会を完全な服従支配下に置くことを目的とした思想信教のみが試みるものである。
クリスマスもまたキリスト教に組み込まれている行事であるために(発祥は別だが)、
それと似たような志向性をともないながら、日本のような非キリスト教国にまで侵入して来ている。
別に昼夜を問わず座禅を続ける臘八接心のような苦行性を帯びているわけでもないが、
やはりそれはイデオロギーゼロの社会的達成のためには廃絶されなければならないもの。
寺社級の部分的組織で閉鎖的に行われるのならともかく、世の中全体を征服下に置くような
干渉性と共に執り行われることは、一見無害で簡易なものだろうとも禁制とせねばならない。
たとえばイスラム教のラマダンとかがあるし、それは紛れもなく、
国家社会を完全な服従支配下に置くことを目的とした思想信教のみが試みるものである。
クリスマスもまたキリスト教に組み込まれている行事であるために(発祥は別だが)、
それと似たような志向性をともないながら、日本のような非キリスト教国にまで侵入して来ている。
別に昼夜を問わず座禅を続ける臘八接心のような苦行性を帯びているわけでもないが、
やはりそれはイデオロギーゼロの社会的達成のためには廃絶されなければならないもの。
寺社級の部分的組織で閉鎖的に行われるのならともかく、世の中全体を征服下に置くような
干渉性と共に執り行われることは、一見無害で簡易なものだろうとも禁制とせねばならない。
イデオロギーゼロを企図する社会が、丸一か月間世の中全体を征服下に置くような
行事の横行を認めないことには、大メディアの解体などと同様に、
世の中の過度の中央集権化を防ぐ効果もまた見込まれる。
人口25万人やそこらの小都市である徳島市に、100万人以上の観光客を集める阿波踊りなども、
もはや全体の制御ができずに、毎年のように諸問題を頻発させている状態にあるように、
地方のイベントなどがあまりにも大規模すぎることには致命的なほどの負担がかかるもの。
年末商戦の一律なクリスマス化なども、大企業や政商クラブが全国規模のネットワークを
駆使してキャンペーンのテンプレなども流布しているからこそ維持されているものであり、
まるで金太郎飴のようにどこを切っても似たようなもの止まりであることが、
地方の特色性を損ねる文化荒廃の一大原因にもなっているものである。
地方に限らず、今の東京の渋谷や秋葉原などもまた、再開発で外見だけは未来都市然となりながらも、
文化的には画一化が進んでつまらない街へと化してしまっているように、事業が大規模である
ということがかえって、角を矯めて牛を殺すような弊害を世の中にもたらすものであるが故に、
あまりにもイベント行事が大規模化しすぎることなどにも歯止めをかけて行くべきなのである。
行事の横行を認めないことには、大メディアの解体などと同様に、
世の中の過度の中央集権化を防ぐ効果もまた見込まれる。
人口25万人やそこらの小都市である徳島市に、100万人以上の観光客を集める阿波踊りなども、
もはや全体の制御ができずに、毎年のように諸問題を頻発させている状態にあるように、
地方のイベントなどがあまりにも大規模すぎることには致命的なほどの負担がかかるもの。
年末商戦の一律なクリスマス化なども、大企業や政商クラブが全国規模のネットワークを
駆使してキャンペーンのテンプレなども流布しているからこそ維持されているものであり、
まるで金太郎飴のようにどこを切っても似たようなもの止まりであることが、
地方の特色性を損ねる文化荒廃の一大原因にもなっているものである。
地方に限らず、今の東京の渋谷や秋葉原などもまた、再開発で外見だけは未来都市然となりながらも、
文化的には画一化が進んでつまらない街へと化してしまっているように、事業が大規模である
ということがかえって、角を矯めて牛を殺すような弊害を世の中にもたらすものであるが故に、
あまりにもイベント行事が大規模化しすぎることなどにも歯止めをかけて行くべきなのである。
近頃だと、クリスマス以上にハロウィンがその問題性の深刻さを露呈しているし、
元々が西洋かぶれな旧世代であるうちの親ですら、あの乱痴気騒ぎなどを見せられて、
地方の伝統の祭りの意義深さなどを見直し始めている始末ではあるのだが。
如何せん、世の中の利権の大半以上は、そんな祭よりもクリスマスやハロウィンや
バレンタインのほうを偏重し、大メディアもまたその辺のイベントの特集ばかりを
組んで広告し、地方の祭りなどまるでないもののように扱っているのが現状である。
古来の祭りは地域密着すぎて、無責任な金儲けの具材などにしようものなら苦情が
巻き起こるのにも違いないから、舶来物の由緒なきイベントのほうをあえて重用する。
それで日本社会が潤うのならまだしも、中央集権、東京一極化で地方の衰退を招き、かえって
国力を低迷させる原因にまでなってしまっているのだから、功利面でも褒められたものではない。
諸藩の独立性が高い、緩やかな連邦制とでも呼ぶべき状態だった幕藩体制の日本だと、
江戸がやはり日本一の大都市ではあったにしろ、人口密度日本一は金沢だったりもしたというし、
その頃の地方に至るまでの国力の養生こそが、近代以降の日本の世界的な躍進の原動力となった一方、
その貯金を崩し切って、地方どころか大阪京都あたりまで冷遇下においた挙句に
人口減のマイナス成長にまで至らしめてしまったのが今という時代なのである。
元々が西洋かぶれな旧世代であるうちの親ですら、あの乱痴気騒ぎなどを見せられて、
地方の伝統の祭りの意義深さなどを見直し始めている始末ではあるのだが。
如何せん、世の中の利権の大半以上は、そんな祭よりもクリスマスやハロウィンや
バレンタインのほうを偏重し、大メディアもまたその辺のイベントの特集ばかりを
組んで広告し、地方の祭りなどまるでないもののように扱っているのが現状である。
古来の祭りは地域密着すぎて、無責任な金儲けの具材などにしようものなら苦情が
巻き起こるのにも違いないから、舶来物の由緒なきイベントのほうをあえて重用する。
それで日本社会が潤うのならまだしも、中央集権、東京一極化で地方の衰退を招き、かえって
国力を低迷させる原因にまでなってしまっているのだから、功利面でも褒められたものではない。
諸藩の独立性が高い、緩やかな連邦制とでも呼ぶべき状態だった幕藩体制の日本だと、
江戸がやはり日本一の大都市ではあったにしろ、人口密度日本一は金沢だったりもしたというし、
その頃の地方に至るまでの国力の養生こそが、近代以降の日本の世界的な躍進の原動力となった一方、
その貯金を崩し切って、地方どころか大阪京都あたりまで冷遇下においた挙句に
人口減のマイナス成長にまで至らしめてしまったのが今という時代なのである。
「流行語大賞」というイベントにしたって、
日本全体、誰しもがその言葉に慣れ親しんでいたかのような体裁での、
画一化な形式で発表しているものだから、野球偏重などが批判を浴びているわけで、
これが「老人流行語大賞」とでも銘打たれていれば少しも文句なんか出ないのである。
でも、それは嫌だし許せない連中がやっているからこそ、そうしない。
世の中を自分たちの思惑通りの一色に塗り固められなければ気が済まないような、
不埒さの持ち主たちによるイベントだから、分不相応なゴリ押しありきとなっている。
現代の大メディアが絡むところ、いくらでもそのような悪念が潜在しているし、
何ならまったく覇権的な恣意のない広告活動など、全国規模では皆無なぐらいのもの。
ゆえに、全国全土全年齢に年月レベルでの従属を強いるような試み自体、
見てくれの害悪度の高低などとも無関係に、排除されて行くべきなのである。
日本全体、誰しもがその言葉に慣れ親しんでいたかのような体裁での、
画一化な形式で発表しているものだから、野球偏重などが批判を浴びているわけで、
これが「老人流行語大賞」とでも銘打たれていれば少しも文句なんか出ないのである。
でも、それは嫌だし許せない連中がやっているからこそ、そうしない。
世の中を自分たちの思惑通りの一色に塗り固められなければ気が済まないような、
不埒さの持ち主たちによるイベントだから、分不相応なゴリ押しありきとなっている。
現代の大メディアが絡むところ、いくらでもそのような悪念が潜在しているし、
何ならまったく覇権的な恣意のない広告活動など、全国規模では皆無なぐらいのもの。
ゆえに、全国全土全年齢に年月レベルでの従属を強いるような試み自体、
見てくれの害悪度の高低などとも無関係に、排除されて行くべきなのである。
「政を為さば~必ずや名を正さん」(子路第十三・三)
今のユーキャン流行語大賞を、仮に「老人流行語大賞」などと呼べば、
それは自動的に「名を正す」ということになるし、それによって、
自分たちの思惑で世の中を征服下に置きたがるようなプロパガンダの意図も挫かれることになる。
野球好きの老人のためだけにやっているようなイベントなどを、
全国全土に当たり前のように強制流布している現状などにも非難の目が向けられて、
これまた自動的に、その規模を縮小して行くような必要にも駆られて行くであろう。
孔子が政治を任されれば、まず実行に移すとまで明言していた施策なだけあって、
それさえ厳格に執り行えば自動的に、今ここで論じているようなことも実現されてしまう。
つまり、純正な儒学の実践もまた、イデオロギーゼロの実現に資するものである。
儒者と仏僧と道者が同じ酢を吸えば、やはり全員が酸っぱがるように(三聖吸酸)、
その目指すところは同じであり、イデオロギーゼロを体制の根幹に据えるのもまたその内となるのである。
(もちろんカルト化した仏教や儒教などにはその条件を満たさないものもある)
今のユーキャン流行語大賞を、仮に「老人流行語大賞」などと呼べば、
それは自動的に「名を正す」ということになるし、それによって、
自分たちの思惑で世の中を征服下に置きたがるようなプロパガンダの意図も挫かれることになる。
野球好きの老人のためだけにやっているようなイベントなどを、
全国全土に当たり前のように強制流布している現状などにも非難の目が向けられて、
これまた自動的に、その規模を縮小して行くような必要にも駆られて行くであろう。
孔子が政治を任されれば、まず実行に移すとまで明言していた施策なだけあって、
それさえ厳格に執り行えば自動的に、今ここで論じているようなことも実現されてしまう。
つまり、純正な儒学の実践もまた、イデオロギーゼロの実現に資するものである。
儒者と仏僧と道者が同じ酢を吸えば、やはり全員が酸っぱがるように(三聖吸酸)、
その目指すところは同じであり、イデオロギーゼロを体制の根幹に据えるのもまたその内となるのである。
(もちろんカルト化した仏教や儒教などにはその条件を満たさないものもある)
笠地蔵のスレは、立てて盛り上げようと思えばできるんだよなあ。
ただ、ここではそれをなるべく避けているだけで。Q.E.D.
ただ、ここではそれをなるべく避けているだけで。Q.E.D.
プチ強制sage
来たのかな、と
来たのかな、と
赤の他人のお見合い話なんぞが
逆鱗に触れたのはどこの誰ぞや?
山姥か?
山姥か?
[YouTubeで再生]
新作のゴジラ映画が、世界規模ではシンゴジラ以上の人気を獲得。
邦画なんでポリコレ色が薄い上に、長年呪縛となって来たジャニーズの影もない
というプレーンさがそれだけでもウケやすそうな所に、作品の出来もいいと。
かつ朝ドラ「らんまん」でも人気を博した神木・浜辺コンビが主役でもあり。
この映画はまだ観てないけれども、神木隆之介はジャニタレみたいに
変に色男ぶってないのが、出演作品を非常に観やすくしてくれている。
ちゃんとジャニーズ出演作品には性加害を元凶とした不埒さが影を落として
いるが故に観づらくて不興を買って来たのだとも気づかされる。
らんまんのインタビューで、神木は友人で共演者の「志尊と身長を代わって欲しい」
なんて平気でいうぐらいに身長コンプレックスを惜しげもなく公言してたし、
超絶厚底のシークレットブーツを履いて人前に出て来るキムタクの
イキリ加減などとも対照的なところである。
元子役という、非常に失敗しやすい立場をわきまえて貞淑な活動に
徹しているようでもあるし、大メディア級の広告を介するコンテンツが、
多少大人しさを帯びただけでもこれだけマシになるのかと実感させられるもの。
人間、イキリなんてものは本来、未成年で卒業すべきなのであり、それができずに
とっちゃん坊やでいるような輩にいい思いをさせてやるようなことは避けるべきなのである。
新作のゴジラ映画が、世界規模ではシンゴジラ以上の人気を獲得。
邦画なんでポリコレ色が薄い上に、長年呪縛となって来たジャニーズの影もない
というプレーンさがそれだけでもウケやすそうな所に、作品の出来もいいと。
かつ朝ドラ「らんまん」でも人気を博した神木・浜辺コンビが主役でもあり。
この映画はまだ観てないけれども、神木隆之介はジャニタレみたいに
変に色男ぶってないのが、出演作品を非常に観やすくしてくれている。
ちゃんとジャニーズ出演作品には性加害を元凶とした不埒さが影を落として
いるが故に観づらくて不興を買って来たのだとも気づかされる。
らんまんのインタビューで、神木は友人で共演者の「志尊と身長を代わって欲しい」
なんて平気でいうぐらいに身長コンプレックスを惜しげもなく公言してたし、
超絶厚底のシークレットブーツを履いて人前に出て来るキムタクの
イキリ加減などとも対照的なところである。
元子役という、非常に失敗しやすい立場をわきまえて貞淑な活動に
徹しているようでもあるし、大メディア級の広告を介するコンテンツが、
多少大人しさを帯びただけでもこれだけマシになるのかと実感させられるもの。
人間、イキリなんてものは本来、未成年で卒業すべきなのであり、それができずに
とっちゃん坊やでいるような輩にいい思いをさせてやるようなことは避けるべきなのである。
「シンゴジラ」はすでに観ているんだけれども、
あれも監督である庵野のオールドオタクならではの鉄オタ的な
イキリ回りが作品全体を覆っていたようには思われる。
ただ、それはエヴァンゲリオンというカルト的人気を博した作品で、
相応の支持を得ていたものであるために結構なヒットにも結び付いた一方、
もうこれだけでお腹いっぱいだから、同様な実写リメイクの試みを
ウルトラマン、仮面ライダーと繰り返して行くほど尻すぼみになったもの。
麻生政権+電車男あたりから始まった、オタク文化にもそれなりの保護を試みる
という方向性の残滓で、メイド喫茶やAKB劇場でにぎわせた秋葉が風俗街化
したのなどと同様、そんなに良好な影響ばかりを与えたとも言えないもの。
自分もオーディオなどに入れ込んでいたオールドオタクだから、
最初はオタク文化が世間からの厄介者扱いを払拭して行くことに多少の好意を
抱いたりもしたものだが、それも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だったわけで、
渋谷の中心街にまでアニメの広告が爛々と輝いているような画一化のせいで、
日本社会がまたある種の閉塞を帯びてしまっていることも認めざるを得ない。
比較的、自分が親しみを抱いて来たオタク文化といえども、
やはり全国全土を征服する域の大メディアによる助けなどは必要ないと知るものである。
あれも監督である庵野のオールドオタクならではの鉄オタ的な
イキリ回りが作品全体を覆っていたようには思われる。
ただ、それはエヴァンゲリオンというカルト的人気を博した作品で、
相応の支持を得ていたものであるために結構なヒットにも結び付いた一方、
もうこれだけでお腹いっぱいだから、同様な実写リメイクの試みを
ウルトラマン、仮面ライダーと繰り返して行くほど尻すぼみになったもの。
麻生政権+電車男あたりから始まった、オタク文化にもそれなりの保護を試みる
という方向性の残滓で、メイド喫茶やAKB劇場でにぎわせた秋葉が風俗街化
したのなどと同様、そんなに良好な影響ばかりを与えたとも言えないもの。
自分もオーディオなどに入れ込んでいたオールドオタクだから、
最初はオタク文化が世間からの厄介者扱いを払拭して行くことに多少の好意を
抱いたりもしたものだが、それも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だったわけで、
渋谷の中心街にまでアニメの広告が爛々と輝いているような画一化のせいで、
日本社会がまたある種の閉塞を帯びてしまっていることも認めざるを得ない。
比較的、自分が親しみを抱いて来たオタク文化といえども、
やはり全国全土を征服する域の大メディアによる助けなどは必要ないと知るものである。
あくまでどうしようもないゴミ男だと決めつけておきながら、
どうしてお見合いだけは成功するような論調でいるんだろうねえ?
ひょっとしておまえらが仕組んでる?
まあ、墓場のような結婚生活を自分たちが送らされているからこその、
「そこだけは成功しちまえwww」という怨念の発露かもしれないがなあ。
どうしてお見合いだけは成功するような論調でいるんだろうねえ?
ひょっとしておまえらが仕組んでる?
まあ、墓場のような結婚生活を自分たちが送らされているからこその、
「そこだけは成功しちまえwww」という怨念の発露かもしれないがなあ。
オタク文化やポルノに限らず、なんでも「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず(風姿花伝)」
という所があり、何もかもを万人に露出的に押し付けて行こうとするプロパガンダ的な
姿勢自体が自明に、文化荒廃を呼び込む害悪性を帯びているものである。
寺社なども古来より一般人立ち入り禁止の秘奥区域の存在によって神秘性を保って来たものだし、
それはただ単に雰囲気だけのことではない。一般人には見学者として立ち会うことも許されないほど
センシティブな秘法ーーごく分かりやすい所でいえば人権無視級に厳しい精進修行などもまた
介することで初めて達せられる奥義などもまた実在するために、秘することにも実用的な価値があるもの。
今でもそういう禁域を守っている流派などもなくはないけれども、今や勿体ぶって隠し立てを
しているような所に価値を見出そうともしない、潜在意識からオッカムの剃刀の論理に囚われた
単細胞の衆愚が大多数と化してしまっているが故に、その意義もさほど尊ばれることはない。
それは別に戦後に限ったことではない。
フェロノサと岡倉天心が法隆寺の秘仏を強制的に暴き出し、神社合祀令で日本中の自然が大破壊を
被っていた明治以降にはすでに始まっていたことであり、その元凶にはやはり、何もかもを顕教に
諫言することにしか価値を見出さない西洋的価値観に基づく悪癖があったのである。
という所があり、何もかもを万人に露出的に押し付けて行こうとするプロパガンダ的な
姿勢自体が自明に、文化荒廃を呼び込む害悪性を帯びているものである。
寺社なども古来より一般人立ち入り禁止の秘奥区域の存在によって神秘性を保って来たものだし、
それはただ単に雰囲気だけのことではない。一般人には見学者として立ち会うことも許されないほど
センシティブな秘法ーーごく分かりやすい所でいえば人権無視級に厳しい精進修行などもまた
介することで初めて達せられる奥義などもまた実在するために、秘することにも実用的な価値があるもの。
今でもそういう禁域を守っている流派などもなくはないけれども、今や勿体ぶって隠し立てを
しているような所に価値を見出そうともしない、潜在意識からオッカムの剃刀の論理に囚われた
単細胞の衆愚が大多数と化してしまっているが故に、その意義もさほど尊ばれることはない。
それは別に戦後に限ったことではない。
フェロノサと岡倉天心が法隆寺の秘仏を強制的に暴き出し、神社合祀令で日本中の自然が大破壊を
被っていた明治以降にはすでに始まっていたことであり、その元凶にはやはり、何もかもを顕教に
諫言することにしか価値を見出さない西洋的価値観に基づく悪癖があったのである。
秘するもの、禁域を帯びたもののの価値を認める風潮が全国に通用し、
何でもかんでも暴き出してなんぼなんていう下衆さに囚われている者は
心底見下されるのが当たり前な世の中の実現こそは、多くの思想信条がお互いへの
十全な尊重意識を持ち合わせて、順当な距離感を保つ融和のための基本条件ともなる。
しかし、西洋的価値観は宗教的か学術的かを問わずそれを許さない侵害性を
帯びているために、今のように無制限に受容している状態では決して済まされない。
江戸時代の洋学、蘭学なみに十分な警戒意識と共に制限的に受容されて、
時には大きな改変を迫られるようなこともありながらであって初めて、
他の思想信条を当たり前のように侵害して行く不埒さもまた廃されて、
お寺の秘仏を暴き出すような蛮行に義務感を抱くようなこともなくなるものである。
西洋文化というもの自体、法人税の免除目当てでやってるような新興宗教が
課税対象になった途端に雲散霧消するのと同じように、他者への侵害性を損ねられたら
もはややって行けないような劣悪さを帯びてしまっている側面もまたあるのには違いない。
うるささと共に人々を魅了して来たロック音楽などが、音量を絞ることを迫られれば、
ソフトな音楽以上に魅力をなくしてしまうが如く、西洋文化もまた侵害性の牙を
抜かれた途端に萎縮して、中には衰弱死するようなジャンルもまた出かねない。
(ロックという音楽分野自体が実際、すでにそれに近い様相を呈しているが)
何でもかんでも暴き出してなんぼなんていう下衆さに囚われている者は
心底見下されるのが当たり前な世の中の実現こそは、多くの思想信条がお互いへの
十全な尊重意識を持ち合わせて、順当な距離感を保つ融和のための基本条件ともなる。
しかし、西洋的価値観は宗教的か学術的かを問わずそれを許さない侵害性を
帯びているために、今のように無制限に受容している状態では決して済まされない。
江戸時代の洋学、蘭学なみに十分な警戒意識と共に制限的に受容されて、
時には大きな改変を迫られるようなこともありながらであって初めて、
他の思想信条を当たり前のように侵害して行く不埒さもまた廃されて、
お寺の秘仏を暴き出すような蛮行に義務感を抱くようなこともなくなるものである。
西洋文化というもの自体、法人税の免除目当てでやってるような新興宗教が
課税対象になった途端に雲散霧消するのと同じように、他者への侵害性を損ねられたら
もはややって行けないような劣悪さを帯びてしまっている側面もまたあるのには違いない。
うるささと共に人々を魅了して来たロック音楽などが、音量を絞ることを迫られれば、
ソフトな音楽以上に魅力をなくしてしまうが如く、西洋文化もまた侵害性の牙を
抜かれた途端に萎縮して、中には衰弱死するようなジャンルもまた出かねない。
(ロックという音楽分野自体が実際、すでにそれに近い様相を呈しているが)
その中核中の中核には、そもそも「文化」と呼ぶべきものすら存在しないのである。
マスゴミ「憧れるのをやめるな」
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700041833...
本当の流行語大賞は「憧れるのをやめましょう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/667fff61d7c3667662bed...
自分たちの自己顕示による征服支配の試みを挫くような不都合さを帯びているようなら、
自分たちこそがゴリ押しして来た野球の、その中でも第一のゴリ押し対象だった
大谷の名言ですら推薦対象から外してかかるのだから、そもそも野球ですらない。
ナチスや共産党による独裁支配などと同じく、最低限の文化性すら劣後しての、
独裁のための独裁、支配のための支配にこそ、プロパガンダ志向は集約される。
洋学やキリスト教もまた、潜在的なプロパガンダ志向を帯びているが故に、
それを無制限に受容し抜いた先にあるのは、人間文化そのものの否定であるからこそ、
この世の文化文明の豊潤さの保全のために、そこへの制限を怖れてはならないのである。
マスゴミ「憧れるのをやめるな」
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700041833...
本当の流行語大賞は「憧れるのをやめましょう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/667fff61d7c3667662bed...
自分たちの自己顕示による征服支配の試みを挫くような不都合さを帯びているようなら、
自分たちこそがゴリ押しして来た野球の、その中でも第一のゴリ押し対象だった
大谷の名言ですら推薦対象から外してかかるのだから、そもそも野球ですらない。
ナチスや共産党による独裁支配などと同じく、最低限の文化性すら劣後しての、
独裁のための独裁、支配のための支配にこそ、プロパガンダ志向は集約される。
洋学やキリスト教もまた、潜在的なプロパガンダ志向を帯びているが故に、
それを無制限に受容し抜いた先にあるのは、人間文化そのものの否定であるからこそ、
この世の文化文明の豊潤さの保全のために、そこへの制限を怖れてはならないのである。
「酒は吸うように飲んで節約せよ(手で隠したらわからんだろ)
(日本のお猪口はちびちび吸うように飲むための道具)」
(四書五経・礼記・郷飲酒儀第四十五より)
近世までは改変のひどい似非儒教による支配、
日本への併合以降も似非神道による支配とかいう、
極度に劣悪な部類の文化的教化ばかりを受けて来た朝魚羊半島こそは、
今でも最も過激派な部類のキリスト教や共産主義の極東における牙城と化しているように、
西洋文化は文化として似非、虚構であることを本質としているものである。
今でも北魚羊の報道などでよく見られる、無機質で薄ら寒い全体主義志向こそは、
他者への侵害性をほとんど不可分なまでに帯びてきた、全ての西洋文化の行き着く先である。
故にこそ、文化的な多様性を謳う自由主義諸国といえども、
ポリコレへの忖度で似たような全体主義に陥り、ハリウッドのエンタメも
世界的人気度で日本産に負けるほどの低迷に見舞われたりしているのである。
共産主義、マルクス主義は旧東側諸国だけが確信的に取り入れたものだけれども、
マルクスが弁証法を借用したヘーゲル哲学は、欧米全体が共通で受容しているもの。
そのヘーゲルの主著である「精神現象学」に、「この試みの先には大きな穴がある」
という旨の記述があるのだけれども、その晦渋な観念主義志向の記述を現実に落とし込んだ
先にあったのもそういった、「もはや文化ですらない不毛」という大穴だったわけである。
(日本のお猪口はちびちび吸うように飲むための道具)」
(四書五経・礼記・郷飲酒儀第四十五より)
近世までは改変のひどい似非儒教による支配、
日本への併合以降も似非神道による支配とかいう、
極度に劣悪な部類の文化的教化ばかりを受けて来た朝魚羊半島こそは、
今でも最も過激派な部類のキリスト教や共産主義の極東における牙城と化しているように、
西洋文化は文化として似非、虚構であることを本質としているものである。
今でも北魚羊の報道などでよく見られる、無機質で薄ら寒い全体主義志向こそは、
他者への侵害性をほとんど不可分なまでに帯びてきた、全ての西洋文化の行き着く先である。
故にこそ、文化的な多様性を謳う自由主義諸国といえども、
ポリコレへの忖度で似たような全体主義に陥り、ハリウッドのエンタメも
世界的人気度で日本産に負けるほどの低迷に見舞われたりしているのである。
共産主義、マルクス主義は旧東側諸国だけが確信的に取り入れたものだけれども、
マルクスが弁証法を借用したヘーゲル哲学は、欧米全体が共通で受容しているもの。
そのヘーゲルの主著である「精神現象学」に、「この試みの先には大きな穴がある」
という旨の記述があるのだけれども、その晦渋な観念主義志向の記述を現実に落とし込んだ
先にあったのもそういった、「もはや文化ですらない不毛」という大穴だったわけである。
たとえ、多様性を謳う修辞を利かせようとも、
その内に覇権主義的な不埒さがある以上は、こうなってしまう。
反ポリコレのロシアと、ポリコレ先進国のイスラエルなどもまた、
国を挙げて侵略、虐殺級の暴行などに及べば、全く同じ穴の狢でしかない。
しかもそれは、ポリコレを偏重するような意識こそが招来するものでもある。
必要なのは、核の炎で全世界を焼き殺すことも可能なほどの文明を持ち合わせている
人類が決して持ち合わせてはならない域の、精神の根源からの不埒さを棄てることである。
それさえ実現されたならば、ポリコレなんぞを謳わずとも、そこで被虐者扱いを
されているような人々への過度の蹂躙などもまた自然と立ちやむもの。
戦争での破壊行為などに限らず、イデオロギーやカルト信仰やプロパガンダで
他者を平和裏の征服下に置いてやろうとするような試みから控えて行けば、
それで自然と、そんなものでどうにかしてやろうとしたがるような問題から消え去る。
全ては自分たちの不埒さが招いているマッチポンプに過ぎないのだと知るべきなのである。
その内に覇権主義的な不埒さがある以上は、こうなってしまう。
反ポリコレのロシアと、ポリコレ先進国のイスラエルなどもまた、
国を挙げて侵略、虐殺級の暴行などに及べば、全く同じ穴の狢でしかない。
しかもそれは、ポリコレを偏重するような意識こそが招来するものでもある。
必要なのは、核の炎で全世界を焼き殺すことも可能なほどの文明を持ち合わせている
人類が決して持ち合わせてはならない域の、精神の根源からの不埒さを棄てることである。
それさえ実現されたならば、ポリコレなんぞを謳わずとも、そこで被虐者扱いを
されているような人々への過度の蹂躙などもまた自然と立ちやむもの。
戦争での破壊行為などに限らず、イデオロギーやカルト信仰やプロパガンダで
他者を平和裏の征服下に置いてやろうとするような試みから控えて行けば、
それで自然と、そんなものでどうにかしてやろうとしたがるような問題から消え去る。
全ては自分たちの不埒さが招いているマッチポンプに過ぎないのだと知るべきなのである。
『ゴジラ-1.0』の成功は、アクション映画の観客が宿題ではなく娯楽を求めていることを物語っている。
https://www.bbc.com/culture/article/20231205-godzi...
何かにかけて世の中の征服支配を渇望する志向性の蔓延の先には、もはや「娯楽」すらもがなくなる。
スターリンや毛沢東や金正恩の説教に耳を傾けるのが国一番の幸福とされるが如く、
アメコミや大長編ドラマへの苦行じみた勉強が楽しみ扱いになる。
勉強は勉強ですべき一方、そんな事柄とは無関係なはずの領域にまで勉強級の苦行を強いる。
近年に限らず、もうアメリカのエンタメなどはかなり前からそれに似た傾向を帯びているようで、
メジャーリーグの試合観戦のために大渋滞や大行列を何時間も我慢し続けるようなことも常識化している。
そこで支配者たちは、大衆に「憧れるのをやめるな」を守るための嬉しがり洗脳などもまた強いる。
本当に面白いものだけを楽しみ、そうでないものには公然と批判の声を挙げるような正直者は、
社会性の低い陰キャだなどといったレッテルを貼っての、つまらなさへの気付きへの妨害に躍起となる。
https://www.bbc.com/culture/article/20231205-godzi...
何かにかけて世の中の征服支配を渇望する志向性の蔓延の先には、もはや「娯楽」すらもがなくなる。
スターリンや毛沢東や金正恩の説教に耳を傾けるのが国一番の幸福とされるが如く、
アメコミや大長編ドラマへの苦行じみた勉強が楽しみ扱いになる。
勉強は勉強ですべき一方、そんな事柄とは無関係なはずの領域にまで勉強級の苦行を強いる。
近年に限らず、もうアメリカのエンタメなどはかなり前からそれに似た傾向を帯びているようで、
メジャーリーグの試合観戦のために大渋滞や大行列を何時間も我慢し続けるようなことも常識化している。
そこで支配者たちは、大衆に「憧れるのをやめるな」を守るための嬉しがり洗脳などもまた強いる。
本当に面白いものだけを楽しみ、そうでないものには公然と批判の声を挙げるような正直者は、
社会性の低い陰キャだなどといったレッテルを貼っての、つまらなさへの気付きへの妨害に躍起となる。
オーウェルの「1984」などでは、極度の監視社会化が、世の中の文化性すら廃するほどの無機質化を
招くように示唆していたけれども、監視自体は古来の目付のような清廉さと共にであれば、むしろ
文化的繁栄の立役者となるもの。そうではなく、監視によって人々の活動を極度の統制下に置こうと
するような支配欲の実現こそが、世の中の文化荒廃級の閉塞を招くのであり、それは監視行為などに
限らず、表向きエンタメを振興して行こうとするような姿勢と共にであろうとも招き得るものである。
相変わらずポリコレ忖度満載なディズニーの新作映画も爆死して、
制作陣は「何がいけなかったのかてんで分からない」とも述べているという。
ポリコレによる画一化が原因なのは分かり切っているのに、それを明言しようものなら自分自身が、
共産主義下の思想改造時のような糾弾を受けて地位を追われてしまうものだから、口が裂けても言えない。
>>115の経団連会長の「なぜ岸田政権が支持されないのか分からない」という痴呆じみた発言なども、
「大衆と利害が相反している経団連の言うことばかり聞いてるからだろ」などと指摘できるような人間が
周囲に一人もいないからこそ、こんなままでいる。自由主義経済を無制限に促進しているはずの勢力といえども、
その姿勢が征服支配的である以上は恐怖政治の様相を呈し、自分たちが望んでいるはずの経済の活性化までもが
滞る本末転倒に陥ってしまう。娯楽といいこれといい、軟派なはずの志向性までもがそうなってしまうのである。
招くように示唆していたけれども、監視自体は古来の目付のような清廉さと共にであれば、むしろ
文化的繁栄の立役者となるもの。そうではなく、監視によって人々の活動を極度の統制下に置こうと
するような支配欲の実現こそが、世の中の文化荒廃級の閉塞を招くのであり、それは監視行為などに
限らず、表向きエンタメを振興して行こうとするような姿勢と共にであろうとも招き得るものである。
相変わらずポリコレ忖度満載なディズニーの新作映画も爆死して、
制作陣は「何がいけなかったのかてんで分からない」とも述べているという。
ポリコレによる画一化が原因なのは分かり切っているのに、それを明言しようものなら自分自身が、
共産主義下の思想改造時のような糾弾を受けて地位を追われてしまうものだから、口が裂けても言えない。
>>115の経団連会長の「なぜ岸田政権が支持されないのか分からない」という痴呆じみた発言なども、
「大衆と利害が相反している経団連の言うことばかり聞いてるからだろ」などと指摘できるような人間が
周囲に一人もいないからこそ、こんなままでいる。自由主義経済を無制限に促進しているはずの勢力といえども、
その姿勢が征服支配的である以上は恐怖政治の様相を呈し、自分たちが望んでいるはずの経済の活性化までもが
滞る本末転倒に陥ってしまう。娯楽といいこれといい、軟派なはずの志向性までもがそうなってしまうのである。
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世界一番人気のビデオゲームGTA最新作のトレーラー動画、一瞬で一億再生超え。
強盗殺人やりたい放題という、低俗の極みな内容であることから批判も
多く受けて来ているが、これ以外で世界的な人気を誇っているゲームにも、
出来る限り銃撃戦をリアルにシミュレートしたFPSなんかが近年は非常に多いし、
日本人が創意工夫に満ちたゲームを打ち出しては世界トップ級の人気を博していた
昔と比べると、ただただグラフィックのリアルさばかりが発展し続けているだけで、
肝心の内容については、人々の原始的な暴力性を追従するばかりへと陥っているように思われる。
ただ、それもまた他者への合法非合法を問わぬ侵害侵略、征服支配こそを本分としている
西洋文化文明に何もかもが集約されているような時代にとっての、必然なのでもある。
表向き、西洋にも平和主義を訴えるような人間は多く、米民主党なども銃規制の推進を
訴えていたりはするけれども、自分は自分は、自分が自分がな我の張り通し合いで
何もかもを塗り固めてかかる西洋的な精神性の下衆さにまで反省が試みられるようなことは
未だかつてなく、譲り合いの精神に長ける日本人などに対してまで、もっと自分を主張
してかかることを勧めたりするようなお節介に及ぶことも日常茶飯事なままであるもの。
世界一番人気のビデオゲームGTA最新作のトレーラー動画、一瞬で一億再生超え。
強盗殺人やりたい放題という、低俗の極みな内容であることから批判も
多く受けて来ているが、これ以外で世界的な人気を誇っているゲームにも、
出来る限り銃撃戦をリアルにシミュレートしたFPSなんかが近年は非常に多いし、
日本人が創意工夫に満ちたゲームを打ち出しては世界トップ級の人気を博していた
昔と比べると、ただただグラフィックのリアルさばかりが発展し続けているだけで、
肝心の内容については、人々の原始的な暴力性を追従するばかりへと陥っているように思われる。
ただ、それもまた他者への合法非合法を問わぬ侵害侵略、征服支配こそを本分としている
西洋文化文明に何もかもが集約されているような時代にとっての、必然なのでもある。
表向き、西洋にも平和主義を訴えるような人間は多く、米民主党なども銃規制の推進を
訴えていたりはするけれども、自分は自分は、自分が自分がな我の張り通し合いで
何もかもを塗り固めてかかる西洋的な精神性の下衆さにまで反省が試みられるようなことは
未だかつてなく、譲り合いの精神に長ける日本人などに対してまで、もっと自分を主張
してかかることを勧めたりするようなお節介に及ぶことも日常茶飯事なままであるもの。
そこを反省もせずに平和なんかを訴えたところで、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる
ようなものでしかなく、犯罪行為にまで及ばない内でも犯罪ゲームが流行るようなことになるし、
無理にそこにだけ規制をかけたりしたところで、本物の犯罪に手を染める人間が増えたりもする。
親に連れられて唐招提寺に見学旅行に来たカナダの少年が、つまらなさ過ぎて金堂に傷をつけた
のと同じような心持ちでいる人間を増やしこそすれど、減らそうともしていない現状において、
その最終的な目的地点に、ロシアやイスラエルが今けしかけているような本物の戦争がないとも言えない。
ほとんどの人間はそれを忌み嫌ってはいるけれども、行いや姿勢は嫌でもそっちに向かった状態でいる。
人間、主張してなんぼ、行動してなんぼなんていうイキリ回りからして幼稚で忌まわしい様態であり、
何もしないのでも、何もしないまま生涯を終えるのでも満足なままでいられるぐらいの達観こそを
第一の尊重対象とし、それでもしなければならないこと、したほうがいいことに限ってやって行く
堅実さが世の中の本流に据えられるのであって初めて、行いもまた戦争や犯罪を目指しもしないことになる。
本物の犯罪は避けたいから犯罪のゲームで済ませるなんていう、ある意味では惨めな域のもどかしさに
世界中の人々が囚われている現状よりかは、武勇の側面などでもより上質な姿が期待できるあり方となる。
ようなものでしかなく、犯罪行為にまで及ばない内でも犯罪ゲームが流行るようなことになるし、
無理にそこにだけ規制をかけたりしたところで、本物の犯罪に手を染める人間が増えたりもする。
親に連れられて唐招提寺に見学旅行に来たカナダの少年が、つまらなさ過ぎて金堂に傷をつけた
のと同じような心持ちでいる人間を増やしこそすれど、減らそうともしていない現状において、
その最終的な目的地点に、ロシアやイスラエルが今けしかけているような本物の戦争がないとも言えない。
ほとんどの人間はそれを忌み嫌ってはいるけれども、行いや姿勢は嫌でもそっちに向かった状態でいる。
人間、主張してなんぼ、行動してなんぼなんていうイキリ回りからして幼稚で忌まわしい様態であり、
何もしないのでも、何もしないまま生涯を終えるのでも満足なままでいられるぐらいの達観こそを
第一の尊重対象とし、それでもしなければならないこと、したほうがいいことに限ってやって行く
堅実さが世の中の本流に据えられるのであって初めて、行いもまた戦争や犯罪を目指しもしないことになる。
本物の犯罪は避けたいから犯罪のゲームで済ませるなんていう、ある意味では惨めな域のもどかしさに
世界中の人々が囚われている現状よりかは、武勇の側面などでもより上質な姿が期待できるあり方となる。
GTAを含む今のビデオゲームを支えている最大手のグラボメーカーのCEOを、
自民党が地方の公民館みたいな場所で接待したことにも批判が上がっていたけれども。
(時価総額では日本一のトヨタをはるかに上回る準GAFA級の企業でもある)
世界中が殺し合いのリアリティを追求し抜いたゲームばかりに熱狂している実情も
ろくに知らないままでいるからこその所業。今や日本では若者も貧乏過ぎて本格的な
ビデオゲーム等にはあまり参入できず、スマホでのソシャゲに食い付いてるような状態だし、
(SONYも市場規模の貧相さから、国内でのPS5の販促に消極的であり続けていたもの)
日本全体が世界から最も乗り越されている部類のジャンルだからこその狂態にも違いないのだが。
ここから日本人までもが、殺し合い級の侵害行為ばかりに全ての志向性が集約されている
世界の潮流にそのまま乗って行くよりかは、今一度平和性にこそ魅力を感じられるような
分野の開拓者としての先導を切って行くべきであるのに違いない。
任天堂あたりは今でもそれを心がけてはいるようだが、如何せん子供向けにとどまる。
いい年しても任天堂のゲームで遊んでるようなのは幼稚、FPSでガンガン殺し合ってこそ
大人という陰惨きわまる序列関係をひっくり返せるぐらいであってこそ、
大人が子供に敬われる世の中の再来もまた叶うはずである。
自民党が地方の公民館みたいな場所で接待したことにも批判が上がっていたけれども。
(時価総額では日本一のトヨタをはるかに上回る準GAFA級の企業でもある)
世界中が殺し合いのリアリティを追求し抜いたゲームばかりに熱狂している実情も
ろくに知らないままでいるからこその所業。今や日本では若者も貧乏過ぎて本格的な
ビデオゲーム等にはあまり参入できず、スマホでのソシャゲに食い付いてるような状態だし、
(SONYも市場規模の貧相さから、国内でのPS5の販促に消極的であり続けていたもの)
日本全体が世界から最も乗り越されている部類のジャンルだからこその狂態にも違いないのだが。
ここから日本人までもが、殺し合い級の侵害行為ばかりに全ての志向性が集約されている
世界の潮流にそのまま乗って行くよりかは、今一度平和性にこそ魅力を感じられるような
分野の開拓者としての先導を切って行くべきであるのに違いない。
任天堂あたりは今でもそれを心がけてはいるようだが、如何せん子供向けにとどまる。
いい年しても任天堂のゲームで遊んでるようなのは幼稚、FPSでガンガン殺し合ってこそ
大人という陰惨きわまる序列関係をひっくり返せるぐらいであってこそ、
大人が子供に敬われる世の中の再来もまた叶うはずである。
近頃、個人的にCGソフトのBlenderをつついたりもしてるんだが、
基本的な操作は思ったほど難しくない。ただ、近年のハイエンドゲームや
洋画で駆使されているような高精細CGの作製には、膨大な作業量が
必要になるのがすぐに分かるんで、やはり生半ではいかないんだなと感じる。
あれは、膨大な人数のインド人や中国人のモデラーを動員することで
初めて形になっているものであって、日本ではそのような下請けの人海戦術を駆使する体制が整っては
いないものだから、ゲームにしろその他の映像作品にしろ、CGクオリティが段違いに低いままでいる。
仮に、ハリウッドなどでは整っているその手の下請けインフラを日本人が駆使できるようになれば、
邦画や国産ゲーム等のクオリティも息を吹き返しての、世界トップ級の人気を取り戻せるだろうけれども、
安易な殺し合いやそれに準ずるような争いばかりに多くの人間が心酔している現状の世界的潮流に
そのまま乗っかてみたところで、別に今作られているもの以上の何かが得られることもないだろう。
(せいぜい美少年美少女キャラの人数が増えるぐらいのことである)
基本的な操作は思ったほど難しくない。ただ、近年のハイエンドゲームや
洋画で駆使されているような高精細CGの作製には、膨大な作業量が
必要になるのがすぐに分かるんで、やはり生半ではいかないんだなと感じる。
あれは、膨大な人数のインド人や中国人のモデラーを動員することで
初めて形になっているものであって、日本ではそのような下請けの人海戦術を駆使する体制が整っては
いないものだから、ゲームにしろその他の映像作品にしろ、CGクオリティが段違いに低いままでいる。
仮に、ハリウッドなどでは整っているその手の下請けインフラを日本人が駆使できるようになれば、
邦画や国産ゲーム等のクオリティも息を吹き返しての、世界トップ級の人気を取り戻せるだろうけれども、
安易な殺し合いやそれに準ずるような争いばかりに多くの人間が心酔している現状の世界的潮流に
そのまま乗っかてみたところで、別に今作られているもの以上の何かが得られることもないだろう。
(せいぜい美少年美少女キャラの人数が増えるぐらいのことである)
別に、戦いを一切否定した上での創作ばかりに勤めるべきだというのでもない。
戦いの中にも、最終的な平和や繁栄の実現こそを企図して行くような仁義を伴わせることで、
人々に冷酷な現実の中においてもその心を失わせない情操を養わせて行くようにするなど。
今のハリウッド映画などでも多少は試みられているが、あまりにも取って付けたような
偽善止まりに終始するあまり、説教臭くて見てられないなどという批判を受ける原因にもなっている。
そこにこそ最大級のエンターテイメント性を盛り込んで、人々を楽しませながら篤実な性向へと
導くことができるのはひとえに、本物の仁慈、菩提心を帯びた者だけであるのだし、今でもまだその素養に
日本人こそが世界一級に長けているといえども、今以上への精進もまた怠ってはならないものである。
現状のCG関係の下請けインフラなどは英語の人間関係で構築されているものだから、
まずは英語を勉強しなければならないなんていう義務感にも駆られかねないが、
NVIDIAのCEOをボロ部屋に招いた岸田も英語ペラペラなことだし、
そんなことよりもはるかに心がけるべきことが他にあるとも知れるわけである。
戦いの中にも、最終的な平和や繁栄の実現こそを企図して行くような仁義を伴わせることで、
人々に冷酷な現実の中においてもその心を失わせない情操を養わせて行くようにするなど。
今のハリウッド映画などでも多少は試みられているが、あまりにも取って付けたような
偽善止まりに終始するあまり、説教臭くて見てられないなどという批判を受ける原因にもなっている。
そこにこそ最大級のエンターテイメント性を盛り込んで、人々を楽しませながら篤実な性向へと
導くことができるのはひとえに、本物の仁慈、菩提心を帯びた者だけであるのだし、今でもまだその素養に
日本人こそが世界一級に長けているといえども、今以上への精進もまた怠ってはならないものである。
現状のCG関係の下請けインフラなどは英語の人間関係で構築されているものだから、
まずは英語を勉強しなければならないなんていう義務感にも駆られかねないが、
NVIDIAのCEOをボロ部屋に招いた岸田も英語ペラペラなことだし、
そんなことよりもはるかに心がけるべきことが他にあるとも知れるわけである。
いま世界的にヒットしてアカデミー賞候補にもなっている新作のゴジラも、
特別変なメッセージ性などもないプレーンさがウケているというけれども、
その自然に入って来てただ面白いという感覚自体、他者への侵害志向を滾らせる
不埒さを十全に抑制してかかるという篤実さによってこそ実現されているものである。
黒澤映画なども、今でこそ歴史的名作扱いで権威性まで認められているものだが、
いざ観てみれば別に説教臭い所などもなく、ただただ面白いエンタメ作品としての条件
までをも満たしているものばかりである。しかしそのストレートな面白さのためにこそ、
監督脚本や出演者たちの、不埒な域の我欲の自制がなければならないのである。
まず以て、変な意図を持たずにシラフで物事を見定められることが、何が面白くて
なにがつまらないのかを厳格に見極めて、面白いものを抽出するための大前提ともなる。
黒澤明も画像のような、古流の居合術由来の剣技などを見た目にも格好いいものと認めて
殺陣に取り入れたりしたのだけれども。今の武道連盟系(元締めは統一教会の弁護士)の
居合道などは、居合からもなるべく実戦性をそぎ落としたいがために、刀を上に抜くような
技法を排し、本物の居合では必須とされているような神速の動きなども禁止している始末。
特別変なメッセージ性などもないプレーンさがウケているというけれども、
その自然に入って来てただ面白いという感覚自体、他者への侵害志向を滾らせる
不埒さを十全に抑制してかかるという篤実さによってこそ実現されているものである。
黒澤映画なども、今でこそ歴史的名作扱いで権威性まで認められているものだが、
いざ観てみれば別に説教臭い所などもなく、ただただ面白いエンタメ作品としての条件
までをも満たしているものばかりである。しかしそのストレートな面白さのためにこそ、
監督脚本や出演者たちの、不埒な域の我欲の自制がなければならないのである。
まず以て、変な意図を持たずにシラフで物事を見定められることが、何が面白くて
なにがつまらないのかを厳格に見極めて、面白いものを抽出するための大前提ともなる。
黒澤明も画像のような、古流の居合術由来の剣技などを見た目にも格好いいものと認めて
殺陣に取り入れたりしたのだけれども。今の武道連盟系(元締めは統一教会の弁護士)の
居合道などは、居合からもなるべく実戦性をそぎ落としたいがために、刀を上に抜くような
技法を排し、本物の居合では必須とされているような神速の動きなども禁止している始末。
だからこそ格好悪く、ヨボヨボの年寄りが金カネで段位を買うのが本位みたいな醜態にも
陥っているのだが、それは本質的に殺し合いの技法であるものに対してまで、場違いな
戦闘アレルギーを持ち込むような不埒な意図が込められているがゆえの自業自得なのである。
戦いのための技法にはそれなりの実戦性を持たせて、その扱い方が殊更に好戦的だったりしない
ように勤めることのほうが真に平和への貢献ともなるのであり、その条件は今の居合道や剣道
なんかよりも、黒澤映画や鬼滅みたいな漫画アニメのほうがまだ満たしているものである。
だからこそ純粋に格好良くて面白い上に、日本の世界的評価を高める貢献者としての
度合いでも、バラマキしか能がない統一自民などをはるかに上回るものとなっている。
いま普通に「武道精神」とか呼ばれているものには、武術をあえて無力化したがるような、
不埒な意図が込められているのがデフォであるために、それと比べると暴力的な側面が
強かったりもして、体力の衰え切った年寄りなどが眉を顰めるような面もあるのだけれども、
それでもこの世における殺し合いの連鎖を断ち切ろうとする側が、増長させようとする側に
立ち向かって行く姿こそを主体的に描き抜いているような点では、今いう武道精神の持主などを
はるかに上回るものであり、現実的な平和や繁栄への貢献度でも上であり、なおかつ純粋に
格好良くて面白い。いいとこづくめといいとこなしの雌雄しか、そこには見当たらないのである。
陥っているのだが、それは本質的に殺し合いの技法であるものに対してまで、場違いな
戦闘アレルギーを持ち込むような不埒な意図が込められているがゆえの自業自得なのである。
戦いのための技法にはそれなりの実戦性を持たせて、その扱い方が殊更に好戦的だったりしない
ように勤めることのほうが真に平和への貢献ともなるのであり、その条件は今の居合道や剣道
なんかよりも、黒澤映画や鬼滅みたいな漫画アニメのほうがまだ満たしているものである。
だからこそ純粋に格好良くて面白い上に、日本の世界的評価を高める貢献者としての
度合いでも、バラマキしか能がない統一自民などをはるかに上回るものとなっている。
いま普通に「武道精神」とか呼ばれているものには、武術をあえて無力化したがるような、
不埒な意図が込められているのがデフォであるために、それと比べると暴力的な側面が
強かったりもして、体力の衰え切った年寄りなどが眉を顰めるような面もあるのだけれども、
それでもこの世における殺し合いの連鎖を断ち切ろうとする側が、増長させようとする側に
立ち向かって行く姿こそを主体的に描き抜いているような点では、今いう武道精神の持主などを
はるかに上回るものであり、現実的な平和や繁栄への貢献度でも上であり、なおかつ純粋に
格好良くて面白い。いいとこづくめといいとこなしの雌雄しか、そこには見当たらないのである。
任天堂実質創業者、山内溥の名言集
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6086434.htm...
このヒトの予見がだいたい当たってた上で、その危惧が現実化した結果、
高精細の「映画みたいなゲーム」と、課金廃人を量産するスマホゲーなんかに
大人向けのゲームが集約されて、任天堂は子供向けに特化するようになったわけだ。
大人のほうが余計にろくでもないゲームだけやってるぐらいだから、
子供が大人を敬うこともなければ、大人になりたがることもない。
そもそも大人がゲームなんかに夢中になることが幼稚だとも言えなくもないが、
世界中がVRの開発を一大事業と見なしたりもしている中で、もうそんなことも
言ってられない事情もあった上でのことなのだから、陰惨窮まるものである。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6086434.htm...
このヒトの予見がだいたい当たってた上で、その危惧が現実化した結果、
高精細の「映画みたいなゲーム」と、課金廃人を量産するスマホゲーなんかに
大人向けのゲームが集約されて、任天堂は子供向けに特化するようになったわけだ。
大人のほうが余計にろくでもないゲームだけやってるぐらいだから、
子供が大人を敬うこともなければ、大人になりたがることもない。
そもそも大人がゲームなんかに夢中になることが幼稚だとも言えなくもないが、
世界中がVRの開発を一大事業と見なしたりもしている中で、もうそんなことも
言ってられない事情もあった上でのことなのだから、陰惨窮まるものである。
もう一つ、この人の発言で特筆すべきだと思うのが、
「(経営が好きなんですねと言われて)好きなんじゃなくて、
得意だからやってる。好きでやるのはロクな事にならない」というので、
これもまた戦後世代の日本人には根こそぎ奪われ去ってしまったような感覚。
何もかもを好き嫌いに還元すれば、嫌な仕事をする人間がいなくなる上に、
世の中全体が私は俺がな我の張り通し合いからの不毛な争いにも見舞われる。
その結果が、戦後世代で占められた日本社会の30年にわたる低迷の上に、
世界規模でもろくでもない殺人ゲーばかりが流行るような事態となっている。
大人向けで創意工夫にあふれた面白いゲームなどもなくなった結果、
ゲーマーも退屈さのせいでストレスを溜め、そのストレスの発散のために、
どぎつい殺人などを主体とした過激なゲームばかりを求めるようになる悪循環。
宮崎駿もアニメ制作を「好きだからって出来るもんじゃない。才能がないと」
と言っていたものだし、それぞれの才覚による適材適所以上に、個人的な好き嫌いばかりが
優先された先にあったのが、たとえばゲーム業界においてはそのような暗転だったのである。
「(経営が好きなんですねと言われて)好きなんじゃなくて、
得意だからやってる。好きでやるのはロクな事にならない」というので、
これもまた戦後世代の日本人には根こそぎ奪われ去ってしまったような感覚。
何もかもを好き嫌いに還元すれば、嫌な仕事をする人間がいなくなる上に、
世の中全体が私は俺がな我の張り通し合いからの不毛な争いにも見舞われる。
その結果が、戦後世代で占められた日本社会の30年にわたる低迷の上に、
世界規模でもろくでもない殺人ゲーばかりが流行るような事態となっている。
大人向けで創意工夫にあふれた面白いゲームなどもなくなった結果、
ゲーマーも退屈さのせいでストレスを溜め、そのストレスの発散のために、
どぎつい殺人などを主体とした過激なゲームばかりを求めるようになる悪循環。
宮崎駿もアニメ制作を「好きだからって出来るもんじゃない。才能がないと」
と言っていたものだし、それぞれの才覚による適材適所以上に、個人的な好き嫌いばかりが
優先された先にあったのが、たとえばゲーム業界においてはそのような暗転だったのである。
死ぬ直前のご老人がちょっとだけ元気になる現象、あれなんだろうね?
何かやり残したことがある未練からの…?
何かやり残したことがある未練からの…?
好き嫌いばかりに全てを還元すれば、世の中つまらなくなる。
「愛してその悪を知り、憎んでその善を知る(礼記)」というほどにも、
愛憎を突き放して物事を考えられる冷徹さこそが、世の秩序を安定させるのみならず、
適材適所な人事によるエンタメ振興で、世の中をより楽しくする原動力ともなる。
高祖劉邦が楚漢戦争後の群臣への論功行賞に悩んでいた時に、
張良が「陛下が最も嫌いな者から恩賞を与えてみてください」と助言し、
劉邦もそれに従って、最も嫌いで裏切り経験もある雍歯への褒賞を最優先したという。
それにより朝廷や諸国もまたよく治まり、誰しもが圧政に苦しんでいた秦代などとは
打って変わって、日夜市中での宴会までもが繰り広げられるようになったという。
街頭での飲酒なんかは基本、世界中で禁止されているし、近年では日本でも渋谷などで
部分的に規制する動きがあるわけだが、世の中じゅうが悪念でまみれているせいで、
路上飲酒なんて認めようものなら暴動にでも発展しかねないような世相では、やむなきこと。
全国総出でのヘイトコントロールが十分な世の中でもなければ認められることではない。
それは、愛憎に囚われない責務を最上級の支配者から最大限に果たし抜いた世の中においてのみ
実現されることで、もはや世界一平和な国であるここ日本ですら損なわれてしまった条件。
「愛してその悪を知り、憎んでその善を知る(礼記)」というほどにも、
愛憎を突き放して物事を考えられる冷徹さこそが、世の秩序を安定させるのみならず、
適材適所な人事によるエンタメ振興で、世の中をより楽しくする原動力ともなる。
高祖劉邦が楚漢戦争後の群臣への論功行賞に悩んでいた時に、
張良が「陛下が最も嫌いな者から恩賞を与えてみてください」と助言し、
劉邦もそれに従って、最も嫌いで裏切り経験もある雍歯への褒賞を最優先したという。
それにより朝廷や諸国もまたよく治まり、誰しもが圧政に苦しんでいた秦代などとは
打って変わって、日夜市中での宴会までもが繰り広げられるようになったという。
街頭での飲酒なんかは基本、世界中で禁止されているし、近年では日本でも渋谷などで
部分的に規制する動きがあるわけだが、世の中じゅうが悪念でまみれているせいで、
路上飲酒なんて認めようものなら暴動にでも発展しかねないような世相では、やむなきこと。
全国総出でのヘイトコントロールが十分な世の中でもなければ認められることではない。
それは、愛憎に囚われない責務を最上級の支配者から最大限に果たし抜いた世の中においてのみ
実現されることで、もはや世界一平和な国であるここ日本ですら損なわれてしまった条件。
ラブ&ピースなんてのは世紀の大ウソで、日本でその実現を試みた統一教会が、
信者間でも全国規模でも憎悪まみれの人間関係ばかりをもたらしたように、
むしろそのせいで、大多数一般の社会構造は憎悪による荒廃のほうが主流となる。
反ベトナム戦争に端を欲したウッドストック世代のロックミュージシャンなどもまた、
ラブ&ピースを一番の理念に掲げていたわけだが、いつまでも自分たちだけで
名声利権を牛耳り続けたために、時代を重ねるほど後継者が育たなくて、
ロックというジャンル自体が尻すぼみの窮状に見舞われ、ブッシュJr.政権による
イラク戦争の強行と共にほぼ死滅したが如く、愛による世の征服を謳う者は、
その酩酊による視野の狭量さのせいで多くの人々の権益を蔑ろにし、
自業自得での衰亡に見舞われることが免れ得ないもの。
それよりはむしろ、最大級の嫌悪の対象となるような相手にまで最低限以上の権益を
保証するような姿勢のほうが、平和や繁栄を着実に実現して行く手立てとなるもの。
愛でも酒でも、まず自分が酔うより、赤の他人や嫌いな相手までその楽しみに与れることを
尊ぶことで、初めて誰しもに行き渡るものであるが故、むしろ本位からは遠ざけるのである。
信者間でも全国規模でも憎悪まみれの人間関係ばかりをもたらしたように、
むしろそのせいで、大多数一般の社会構造は憎悪による荒廃のほうが主流となる。
反ベトナム戦争に端を欲したウッドストック世代のロックミュージシャンなどもまた、
ラブ&ピースを一番の理念に掲げていたわけだが、いつまでも自分たちだけで
名声利権を牛耳り続けたために、時代を重ねるほど後継者が育たなくて、
ロックというジャンル自体が尻すぼみの窮状に見舞われ、ブッシュJr.政権による
イラク戦争の強行と共にほぼ死滅したが如く、愛による世の征服を謳う者は、
その酩酊による視野の狭量さのせいで多くの人々の権益を蔑ろにし、
自業自得での衰亡に見舞われることが免れ得ないもの。
それよりはむしろ、最大級の嫌悪の対象となるような相手にまで最低限以上の権益を
保証するような姿勢のほうが、平和や繁栄を着実に実現して行く手立てとなるもの。
愛でも酒でも、まず自分が酔うより、赤の他人や嫌いな相手までその楽しみに与れることを
尊ぶことで、初めて誰しもに行き渡るものであるが故、むしろ本位からは遠ざけるのである。
近年の日本だと、愛知県や愛媛県のような、県名に「愛」の入っている地方が、
全国でもトップ級の奴隷労働の本場と化してしまっているといった現象も見られる。
個人的に、愛媛の人々とはそこそこの交流経験があるのだが、
実際、県名のせいか「愛」を信条に掲げて生きているような人間も多い。
それは、内輪に対しては大変な親睦を育む原動力ともなっているようで、愛媛県こそは
日本でもトップ級に公立校に至るまでの教育が充実し、県民総出を挙げて頭がよく、
47都府県中最も人口当たりのノーベル賞受賞者数が多い県ともなっているのだが。
その性向が、いざ愛し合いの範疇から外れた途端に並外れた冷酷さへと転じ、
外国人実習生への死傷級のブラック労役のほか、詐欺じみたセミナーなどで他所の人間を
たぶらかして暴利を巻き上げるような知能的悪行にも結び付いている場合が多い。
全国でもトップ級の奴隷労働の本場と化してしまっているといった現象も見られる。
個人的に、愛媛の人々とはそこそこの交流経験があるのだが、
実際、県名のせいか「愛」を信条に掲げて生きているような人間も多い。
それは、内輪に対しては大変な親睦を育む原動力ともなっているようで、愛媛県こそは
日本でもトップ級に公立校に至るまでの教育が充実し、県民総出を挙げて頭がよく、
47都府県中最も人口当たりのノーベル賞受賞者数が多い県ともなっているのだが。
その性向が、いざ愛し合いの範疇から外れた途端に並外れた冷酷さへと転じ、
外国人実習生への死傷級のブラック労役のほか、詐欺じみたセミナーなどで他所の人間を
たぶらかして暴利を巻き上げるような知能的悪行にも結び付いている場合が多い。
今の日本は、全国的には逆に社会規模での仁愛が極度に殺がれている状態だから、
愛を重んずる地方の人々が、総出での教育の充実で平均知能を相対的に高めていたりもするわけで、
そこにある程度は見習うべき所もまたあるのだけれども、それが内輪だけの狭隘さに止まって
いるせいで、よそ者への危害を増長させてしまっていたりするのはやはり考えものである。
社会全体に通用する愛もまた、扱いようによっては好影響をもたらし得るものではあるが、
その弊害もまた大きいものであるために、全てを愛に還元するなどとまで行くのは
避けるべきであり、少なからず限定的である心がけもまたあって然るべきなのである。
愛を重んずる地方の人々が、総出での教育の充実で平均知能を相対的に高めていたりもするわけで、
そこにある程度は見習うべき所もまたあるのだけれども、それが内輪だけの狭隘さに止まって
いるせいで、よそ者への危害を増長させてしまっていたりするのはやはり考えものである。
社会全体に通用する愛もまた、扱いようによっては好影響をもたらし得るものではあるが、
その弊害もまた大きいものであるために、全てを愛に還元するなどとまで行くのは
避けるべきであり、少なからず限定的である心がけもまたあって然るべきなのである。
愛知県などは、近年は大阪神戸を上回る山口組系暴力団の本拠地ともなっているという。
神の愛を謳うキリスト教の創始者であるイエスもまた、当人自身の言動にも反社会的な
要素が多く見られるうえ、自らが冤罪で処刑されるのと引き換えに強盗強姦殺人犯のバラバ等を
無罪放免にさせて世に解き放つという、反社会性極まる暴挙で多くからの支持を得たもの。
愛が世の全てを覆い尽くしたりする所には必ずや、私で公を蔑ろにする反社会性が伴うもの。
最低賃金を下回るようなブラック労働や、信者を破産に追い込むような巨額の教団への献金
などもまた、闇バイトや教団関係者への暗殺をも正当化させかねないような公共の秩序への
挑戦になっている上、それらこそは愛を並外れて偏重する者たちが企てる暴挙でもある。
キリスト教国の南米諸国やブラックアフリカ諸国こそは、世界でもトップ級に凶悪犯罪や
戦乱の蔓延る地域ともなっているし、愛という名目による社会への支配には反社会性が
付き物であるが故に、その恩恵もまたなくはないにしたって控えるべきだと言えるのである。
神の愛を謳うキリスト教の創始者であるイエスもまた、当人自身の言動にも反社会的な
要素が多く見られるうえ、自らが冤罪で処刑されるのと引き換えに強盗強姦殺人犯のバラバ等を
無罪放免にさせて世に解き放つという、反社会性極まる暴挙で多くからの支持を得たもの。
愛が世の全てを覆い尽くしたりする所には必ずや、私で公を蔑ろにする反社会性が伴うもの。
最低賃金を下回るようなブラック労働や、信者を破産に追い込むような巨額の教団への献金
などもまた、闇バイトや教団関係者への暗殺をも正当化させかねないような公共の秩序への
挑戦になっている上、それらこそは愛を並外れて偏重する者たちが企てる暴挙でもある。
キリスト教国の南米諸国やブラックアフリカ諸国こそは、世界でもトップ級に凶悪犯罪や
戦乱の蔓延る地域ともなっているし、愛という名目による社会への支配には反社会性が
付き物であるが故に、その恩恵もまたなくはないにしたって控えるべきだと言えるのである。
今日の昼、NHK-BSでJ.ディーン主演「エデンの東」をやってたんで、
批判的視聴の対象とする目的で初めて観てみたんだが(もちろん受信料抜きで)、
思いのほか上の話とも符合しまくってる内容だったんで、寸評してみよう。
(以下ネタバレ注意)
今風に言えば、母親からの遺伝で強度行動障害系の発達障害を患っている次男が、
敬虔なキリスト教徒である父親に溺愛されている長男を乗り越えて行くお話。
当時はまだ精神病理への理解も進んでいなかった(今も大してだが)ことから、
主人公の無鉄砲さがヤンキーの根本聖典としての熱狂的な支持を得ていたわけだが、
そこにあやかった団塊以下の戦後日本人もろくな人種にならなかったわけで、
ちゃんとあれも病気の一種だったのだと断罪され直す必要があるといえる。
ただ、主人公が反発していた父親の「正しさ」もまた、キリスト教のような
カルト信仰に基づく独善性を帯びていたわけで、そこが五十歩百歩だというのもまた
確かなことだし、団塊からバブル世代あたりにとっての親世代である戦前世代の
日本人もまた、国家神道によってカルト的な独善性を植え付けられていたのを思えば、
当時はそこに十全な配慮の行き届いた裁きを下せなかった側面があるのも分かる。
ただその結果、戦後日本人の多くに似たような行動障害が植え付けられた上に、
それこそがヤンキーとしての格好いい在り方だなどと正当化される原因ともなった。
批判的視聴の対象とする目的で初めて観てみたんだが(もちろん受信料抜きで)、
思いのほか上の話とも符合しまくってる内容だったんで、寸評してみよう。
(以下ネタバレ注意)
今風に言えば、母親からの遺伝で強度行動障害系の発達障害を患っている次男が、
敬虔なキリスト教徒である父親に溺愛されている長男を乗り越えて行くお話。
当時はまだ精神病理への理解も進んでいなかった(今も大してだが)ことから、
主人公の無鉄砲さがヤンキーの根本聖典としての熱狂的な支持を得ていたわけだが、
そこにあやかった団塊以下の戦後日本人もろくな人種にならなかったわけで、
ちゃんとあれも病気の一種だったのだと断罪され直す必要があるといえる。
ただ、主人公が反発していた父親の「正しさ」もまた、キリスト教のような
カルト信仰に基づく独善性を帯びていたわけで、そこが五十歩百歩だというのもまた
確かなことだし、団塊からバブル世代あたりにとっての親世代である戦前世代の
日本人もまた、国家神道によってカルト的な独善性を植え付けられていたのを思えば、
当時はそこに十全な配慮の行き届いた裁きを下せなかった側面があるのも分かる。
ただその結果、戦後日本人の多くに似たような行動障害が植え付けられた上に、
それこそがヤンキーとしての格好いい在り方だなどと正当化される原因ともなった。
気性の激しさ自体は、古来よりの日本人の持ち前といえども、そこに疾患級の
分別のなさが加われば、もはや有害鳥獣に毛が生えたような暴徒止まりとなるわけで、
日本人にとって特別に相性の悪い情操があえて植え付けられたものだともしれる。
この作品の主要なテーマはやはり「愛」であり、主人公の父親の子愛のなさが
親子の軋轢の元凶だったように描かれているけれども、その原因となっていたはずの
キリスト信仰はむしろ愛を重んじている部類の宗教である。にもかかわらずではなく
だからこそ、狂信者が長男ばかりを偏愛して次男を冷遇するような事態をも呈しているもの。
愛を主たるポリシーに据える者ほど、偏愛で疎外の対象を増すものであるが故に、
この世には愛もまた必要なものであるといえども、全ての本尊にまで据えるべきではない。
どうしてもそうせざるを得ないような人間は、人の上に立とうともすべきではない。
WWⅠ中に地元で徴兵事務を任されていた父親が、戦争特需への投資で儲けた
主人公からの金カネをもらうことに拒絶感を示すシーンなどは、主人公の発達ならではの
思慮のなさも問題なら、そんな重大な仕事を請け負うにも値しないほど人間ができてない、
カルト信者としての父親のあり方も問題という、両成敗事案だったわけである(ネタバレ終わり)。
分別のなさが加われば、もはや有害鳥獣に毛が生えたような暴徒止まりとなるわけで、
日本人にとって特別に相性の悪い情操があえて植え付けられたものだともしれる。
この作品の主要なテーマはやはり「愛」であり、主人公の父親の子愛のなさが
親子の軋轢の元凶だったように描かれているけれども、その原因となっていたはずの
キリスト信仰はむしろ愛を重んじている部類の宗教である。にもかかわらずではなく
だからこそ、狂信者が長男ばかりを偏愛して次男を冷遇するような事態をも呈しているもの。
愛を主たるポリシーに据える者ほど、偏愛で疎外の対象を増すものであるが故に、
この世には愛もまた必要なものであるといえども、全ての本尊にまで据えるべきではない。
どうしてもそうせざるを得ないような人間は、人の上に立とうともすべきではない。
WWⅠ中に地元で徴兵事務を任されていた父親が、戦争特需への投資で儲けた
主人公からの金カネをもらうことに拒絶感を示すシーンなどは、主人公の発達ならではの
思慮のなさも問題なら、そんな重大な仕事を請け負うにも値しないほど人間ができてない、
カルト信者としての父親のあり方も問題という、両成敗事案だったわけである(ネタバレ終わり)。
ビルゲイツ「インターネットは世界を合理的にすると思ったが実際は変人の溜まり場になった」
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
「デジタルデトックス」などといって、一定期間ITから距離を置く習慣を身に付けるのが
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
デジタルデトックスにそれなりの求道性を持たせることもまた、
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
ただ、やはり簡単とまでは行かない。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
だいたいが、カルトやカルト的なセミナーほど、まず女を釣ってかかるという特徴もある。
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
[YouTubeで再生]
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
[YouTubeで再生]
合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
ほとんどの現代人は、自分たちがそのような精神的身体的な劣化工作の被害下にあることに
気付いてすらおらず、文武両道の取り組みが苦手なのも生まれ持っての性分だなどと思い込み、
そんな自分の正当化のために、文武両道なんて大した価値がないなどとすら決めつけてかかる。
世の中全体への、特定の思想信条による征服支配は、別にナチスのように明示的なものとは限らない。
むしろ知らず知らずのうちからそこにからめ取られている場合がほとんどであり、自分ではそんな
干渉も受けずに自由に振舞っているつもりでいながら、多くの良質な選択肢を取り上げられての、
ほとんど一つか二つだけの最低劣な領域にのみくすぶり続けることを強いられていたりするもの。
つまり、「偽りの無為自然による統治」というものもこの世にはいくらでも実在するものであり、
まるで人々になんらの拘束、干渉もしていないような風でいながら、その実徹底的な洗脳支配下に
置いてしまうといった部類の作為までをも排することで初めて、真の無為自然による統治ともなる。
太古の昔から、それはやはり世の中の支配層が自主的に心がけるのでなければまず不可能なことで、
所詮は深くものを考える余裕もなくあくせくと働かされる人生を送らされるしかない被治民などに、
選挙権を与えてまで実現を促したところで、決して実現されるようなことはないものなのである。
気付いてすらおらず、文武両道の取り組みが苦手なのも生まれ持っての性分だなどと思い込み、
そんな自分の正当化のために、文武両道なんて大した価値がないなどとすら決めつけてかかる。
世の中全体への、特定の思想信条による征服支配は、別にナチスのように明示的なものとは限らない。
むしろ知らず知らずのうちからそこにからめ取られている場合がほとんどであり、自分ではそんな
干渉も受けずに自由に振舞っているつもりでいながら、多くの良質な選択肢を取り上げられての、
ほとんど一つか二つだけの最低劣な領域にのみくすぶり続けることを強いられていたりするもの。
つまり、「偽りの無為自然による統治」というものもこの世にはいくらでも実在するものであり、
まるで人々になんらの拘束、干渉もしていないような風でいながら、その実徹底的な洗脳支配下に
置いてしまうといった部類の作為までをも排することで初めて、真の無為自然による統治ともなる。
太古の昔から、それはやはり世の中の支配層が自主的に心がけるのでなければまず不可能なことで、
所詮は深くものを考える余裕もなくあくせくと働かされる人生を送らされるしかない被治民などに、
選挙権を与えてまで実現を促したところで、決して実現されるようなことはないものなのである。
洋学やスポーツ振興による文武分裂の文化的退廃は、
日本だと近代以降、すでに150年以上も続いて来たことであり、
もはや誰しもが生まれた頃にはすでに深刻化していたものである。
それ以前に振興されていたような、文武両道の良質な運動文化や学問文化に
深く親しんだ上で、それらが長年にわたって妨害による凋落を被って来たことまでをも、
歴史の研究などで突き詰めることで初めて、劣悪な運動や学術による文武分裂の
文化退廃に歯止めをかけて行ける人材としての、自らの準備もまた初めて整うもの。
そんなことは、少なくとも世の中の大多数の人間に務まることではないし、
最大級にその機会に恵まれた人間が、有志としての気概を最大限に増幅させることで、
やっと務まるかどうかといった所だし、多数決の選挙などがその助けになることももちろんあり得ない。
要するに、乱世における自力での反正などはまず不可能に等しいことであり、
乱世のほうが「もうこんなのイヤだ!」と音を上げて縋り付いてくる所からぐらいしか、
腐敗を極めた時代の転換というのもあり得ないこと、というわけである。
日本だと近代以降、すでに150年以上も続いて来たことであり、
もはや誰しもが生まれた頃にはすでに深刻化していたものである。
それ以前に振興されていたような、文武両道の良質な運動文化や学問文化に
深く親しんだ上で、それらが長年にわたって妨害による凋落を被って来たことまでをも、
歴史の研究などで突き詰めることで初めて、劣悪な運動や学術による文武分裂の
文化退廃に歯止めをかけて行ける人材としての、自らの準備もまた初めて整うもの。
そんなことは、少なくとも世の中の大多数の人間に務まることではないし、
最大級にその機会に恵まれた人間が、有志としての気概を最大限に増幅させることで、
やっと務まるかどうかといった所だし、多数決の選挙などがその助けになることももちろんあり得ない。
要するに、乱世における自力での反正などはまず不可能に等しいことであり、
乱世のほうが「もうこんなのイヤだ!」と音を上げて縋り付いてくる所からぐらいしか、
腐敗を極めた時代の転換というのもあり得ないこと、というわけである。
橋下徹氏大ケガ 宮根誠司と吉村知事とトレーニングした際に…「50歳を過ぎて調子に乗らないように」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3936a48bfeb98f8295703...
この男が大阪府政の改革時に、公営の合気道クラブの存続に難色を示していたのもよく覚えてる。
60、70でもピョンピョン飛び回ってる人たちがいくらでもいる運動クラブに対して、
「なんでこんなものを公費でやらなきゃいけないのか」と。そんな無理解の結果が、
おそらくは医療費の公費負担にも頼っての大怪我の治療であったと。
紛れもなくこの男の信条でもある法治主義と、古流の武芸のような文武両道の運動もまた、非常に相性が悪い。
なぜかというに、ただのスポーツや筋トレはほぼ何も考えずに体を動かすだけだが、武芸は頭も使う上に、
臨機応変に体の使い方を変化させて行く工夫もまた上達のために必要となるから。成文化された法律を
杓子定規に守ってさえいればそれでヨシ!というような怠惰性で凝り固まってしまっているような
者にとっては、並みの人間以上に苦手極まる分野となってしまうものなのである。
ただ、その工夫に工夫を重ねて行く運動こそが60、70の老人にも壮健な運動能力を保たせる一方、
ただの筋トレやスポーツは50やそこらの若僧にも大怪我を負わせるほどの不合理性を帯びている。
文武両道の工夫など到底務まらない心の怠惰の亡者にとってのみ、そうでしかあり得ないだけで、
人間たるもの、本当はそんな低い所ばかりにくすぶってしかいられない生き物ではないのである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3936a48bfeb98f8295703...
この男が大阪府政の改革時に、公営の合気道クラブの存続に難色を示していたのもよく覚えてる。
60、70でもピョンピョン飛び回ってる人たちがいくらでもいる運動クラブに対して、
「なんでこんなものを公費でやらなきゃいけないのか」と。そんな無理解の結果が、
おそらくは医療費の公費負担にも頼っての大怪我の治療であったと。
紛れもなくこの男の信条でもある法治主義と、古流の武芸のような文武両道の運動もまた、非常に相性が悪い。
なぜかというに、ただのスポーツや筋トレはほぼ何も考えずに体を動かすだけだが、武芸は頭も使う上に、
臨機応変に体の使い方を変化させて行く工夫もまた上達のために必要となるから。成文化された法律を
杓子定規に守ってさえいればそれでヨシ!というような怠惰性で凝り固まってしまっているような
者にとっては、並みの人間以上に苦手極まる分野となってしまうものなのである。
ただ、その工夫に工夫を重ねて行く運動こそが60、70の老人にも壮健な運動能力を保たせる一方、
ただの筋トレやスポーツは50やそこらの若僧にも大怪我を負わせるほどの不合理性を帯びている。
文武両道の工夫など到底務まらない心の怠惰の亡者にとってのみ、そうでしかあり得ないだけで、
人間たるもの、本当はそんな低い所ばかりにくすぶってしかいられない生き物ではないのである。
ただ、やはり今の日本全体もまた法治主義だから、
橋下と同じような精神の怠慢を帯びてしまっているが故に、
人間としての可能性を無駄に引き下げてしまっているような人間も非常に多いわけである、
徳治主義の江戸時代などにももちろん法律はあったし、
「十両盗めば斬首」のように、今以上にその取り決めもまた厳酷であったわけだが、
さりとて当時は「法治主義」というものを国是として掲げていた世の中ではなかったから、
そんな状態ならではの怠惰性などが人々に植え付けられるようなこともなく、
誰しもが法律頼みではない工夫、工夫の積み重ねによって社会を営んでいたのである。
確かにそこには、公衆浴場での混浴を何度取り締まってもいつの間にか再開されてるような不法性
もまたそれなりに帯びていたのだが、それ以上に「法律以上」たるための精進もまた多かったのである。
橋下と同じような精神の怠慢を帯びてしまっているが故に、
人間としての可能性を無駄に引き下げてしまっているような人間も非常に多いわけである、
徳治主義の江戸時代などにももちろん法律はあったし、
「十両盗めば斬首」のように、今以上にその取り決めもまた厳酷であったわけだが、
さりとて当時は「法治主義」というものを国是として掲げていた世の中ではなかったから、
そんな状態ならではの怠惰性などが人々に植え付けられるようなこともなく、
誰しもが法律頼みではない工夫、工夫の積み重ねによって社会を営んでいたのである。
確かにそこには、公衆浴場での混浴を何度取り締まってもいつの間にか再開されてるような不法性
もまたそれなりに帯びていたのだが、それ以上に「法律以上」たるための精進もまた多かったのである。
たとえば、労基法に違反するような過重労働は今も昔もある所にはあるといえども、
丁稚出身の松下幸之助が実質創始者である終身雇用制が盤石だった頃には、まだ十二分な
カバーもまた方々に遍在し、重労働に相応な昇給昇進なども可能だったのが、ガチガチの
法治主義者である橋下徹が新進気鋭の政治家として持て囃されたりしているような時代ともなると、
そのカバーのほうだけがなくなって、ブラック労働のほうはゴキブリのように生き延びている始末。
法治主義こそがそのような、法律以上の取り組みによるカバーを失った、合法と違法しかない
世の中を招かざるを得ないものであり、エントロピー増大則のような普遍的な物理法則にもよって、
世相を隆盛以上の荒廃ばかりへと追い込んで行くことが免れ得ないものとなってしまう。故に、
法治主義というものを世に対して征服支配的なイデオロギーならしめることも好ましくないのである。
だいたいが法治主義というもの自体、孔子による儒学の体系化よりも前から幾度も繰り返されては、
その問題性が確認されての徳治への修正が繰り返されて来ているものなのに、それも無視して、
むしろ法治主義のほうが革新的なイデオロギーだなどと思い込んで進取する所からして無知の極みだし、
その程度の知見しか持ち合わせていない分際であるが故の失政もまた当然、免れ得ないものである。
丁稚出身の松下幸之助が実質創始者である終身雇用制が盤石だった頃には、まだ十二分な
カバーもまた方々に遍在し、重労働に相応な昇給昇進なども可能だったのが、ガチガチの
法治主義者である橋下徹が新進気鋭の政治家として持て囃されたりしているような時代ともなると、
そのカバーのほうだけがなくなって、ブラック労働のほうはゴキブリのように生き延びている始末。
法治主義こそがそのような、法律以上の取り組みによるカバーを失った、合法と違法しかない
世の中を招かざるを得ないものであり、エントロピー増大則のような普遍的な物理法則にもよって、
世相を隆盛以上の荒廃ばかりへと追い込んで行くことが免れ得ないものとなってしまう。故に、
法治主義というものを世に対して征服支配的なイデオロギーならしめることも好ましくないのである。
だいたいが法治主義というもの自体、孔子による儒学の体系化よりも前から幾度も繰り返されては、
その問題性が確認されての徳治への修正が繰り返されて来ているものなのに、それも無視して、
むしろ法治主義のほうが革新的なイデオロギーだなどと思い込んで進取する所からして無知の極みだし、
その程度の知見しか持ち合わせていない分際であるが故の失政もまた当然、免れ得ないものである。
近ごろちょっとだけ元気だなあ。
末期の痴ほう老人が寒さも感じなくなってはしゃぎ出すっていう、あれか?
末期の痴ほう老人が寒さも感じなくなってはしゃぎ出すっていう、あれか?
図星だと腹が立つ
大外れだと腹も立たない
大外れだと腹も立たない
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1702781933...
ここなどで、人に「認められて嬉しい!」と思われるだけの人間に
自分がなろうともしないまま、他者への非難に及んでいるような連中の、
天に向かって唾を吐いているがごとき不毛さを論じてはいたけれども、
やはり、長年そんな真似を続けて来ておきながら、その痴態さ加減にまったく
気付かないままでいられているような連中の自己欺瞞までは未だに解かれないでいる。
なぜいつまでもその恥ずかしさに気づかないのかというと、
自意識過剰のあまりにまったく自分が見えていないからだ。
あまりにも他者にとって、人の価値をどうこういう能力も資格もないことが明白である
現状の自らの身の程にまったく気づかないままでいればこそ、そんな自分が他者を
非難することに、相手に対して反省や苦悩を促すような効果があるなどと思い込んでいる。
鏡を見て、それが自分だと理解できる鏡映認知能力もないような状態であるが故に、
IQでいえば60未満、チンパンジー未満、知的障碍者なみの知能と化しているのが紛れもない
わけだけれども、そんな人間もまたどこかで常人のフリをして生活しているのが今の日本である。
ここなどで、人に「認められて嬉しい!」と思われるだけの人間に
自分がなろうともしないまま、他者への非難に及んでいるような連中の、
天に向かって唾を吐いているがごとき不毛さを論じてはいたけれども、
やはり、長年そんな真似を続けて来ておきながら、その痴態さ加減にまったく
気付かないままでいられているような連中の自己欺瞞までは未だに解かれないでいる。
なぜいつまでもその恥ずかしさに気づかないのかというと、
自意識過剰のあまりにまったく自分が見えていないからだ。
あまりにも他者にとって、人の価値をどうこういう能力も資格もないことが明白である
現状の自らの身の程にまったく気づかないままでいればこそ、そんな自分が他者を
非難することに、相手に対して反省や苦悩を促すような効果があるなどと思い込んでいる。
鏡を見て、それが自分だと理解できる鏡映認知能力もないような状態であるが故に、
IQでいえば60未満、チンパンジー未満、知的障碍者なみの知能と化しているのが紛れもない
わけだけれども、そんな人間もまたどこかで常人のフリをして生活しているのが今の日本である。
そもそもが、外患スパイ兼カルトの手先な候補者たちを政権与党としてのさばらせておいて、
今でも世界の9割以上の人間がその存在も知らないような玉遊びやボードゲームの覇者を
国一、二の大英雄として持て囃したりしているほどにも、人を見る目など皆無でいながら、
そんな自分たちの身の程もわきまえずに選挙制を支持し続けているのが今の大多数の日本人でもある。
「たとえ自分に人を見る目などがないのだろうとも、人を評価せねばならない」というのが、
選挙制を導入している民主主義国の万民にとっての本分であるために、自らの評価能力の低さから
目を背けてかかる部類の自己欺瞞というのも、国を挙げて増強されている状態にあるわけだ。
仮に、人間という生き物の恒常的な知能がIQ60未満の知的障碍者なみであるにも関わらず、
場合によってはIQ100以上にまで引き上げることで健常者のフリをしているような状態もまた、
一種の精神障害であると見なせるのであれば、国を挙げてそれを蔓延させている状態だともいえる。
そういう人間こそはこの国で生きろ、模範的な国民としての誇りを抱けというような欺瞞までをも
国を挙げて流布しているわけだから、それ故に、自らが他者を非難さえすれば、それで相手は
必ず凹むなどと思い込んでいる者もいれば、実際にそれで凹んで自殺までしてしまう者もいる。
これは未熟な民主主義とかではなく、民主主義一般が自明に帯びているイデオロギーとしての病理なのである。
今でも世界の9割以上の人間がその存在も知らないような玉遊びやボードゲームの覇者を
国一、二の大英雄として持て囃したりしているほどにも、人を見る目など皆無でいながら、
そんな自分たちの身の程もわきまえずに選挙制を支持し続けているのが今の大多数の日本人でもある。
「たとえ自分に人を見る目などがないのだろうとも、人を評価せねばならない」というのが、
選挙制を導入している民主主義国の万民にとっての本分であるために、自らの評価能力の低さから
目を背けてかかる部類の自己欺瞞というのも、国を挙げて増強されている状態にあるわけだ。
仮に、人間という生き物の恒常的な知能がIQ60未満の知的障碍者なみであるにも関わらず、
場合によってはIQ100以上にまで引き上げることで健常者のフリをしているような状態もまた、
一種の精神障害であると見なせるのであれば、国を挙げてそれを蔓延させている状態だともいえる。
そういう人間こそはこの国で生きろ、模範的な国民としての誇りを抱けというような欺瞞までをも
国を挙げて流布しているわけだから、それ故に、自らが他者を非難さえすれば、それで相手は
必ず凹むなどと思い込んでいる者もいれば、実際にそれで凹んで自殺までしてしまう者もいる。
これは未熟な民主主義とかではなく、民主主義一般が自明に帯びているイデオロギーとしての病理なのである。
十分に飼い馴らされた犬の、命令を受けての襲撃は、
まったく恐れ一つなく猪突猛進であることに特化されているため、
基本的には逃げながらの対応に専念すべきだともいう。
柳生連也「私は飼い主に忠実な犬達なんだなと思ってます」
(以下作品のネタバレ注意)
なるべくなら犬たちには危害を加えたくない一心で、
逃げの一手でいるにもかかわらず、やはり数匹の犬を斬殺してしまいながら、
漸く伊賀者でもある飼い主の元にたどり着き、その首を刎ねた途端に
犬たちはピタリとその攻撃を止め、散り散りに去っていったというお話。
(ネタバレ終わり)
犬はそういう生き物だし、犬並みの品性の持ち主と化してしまっているような、
人としては恵まれない境遇の部類の人種もまた、そうである以上はそうであろう。
「六韜」虎の巻に、あくまで首魁の撃滅に専念せよとあるのも、
きっとそのような乱世ならではの人間心理を突いているからなのだろう。
まったく恐れ一つなく猪突猛進であることに特化されているため、
基本的には逃げながらの対応に専念すべきだともいう。
柳生連也「私は飼い主に忠実な犬達なんだなと思ってます」
(以下作品のネタバレ注意)
なるべくなら犬たちには危害を加えたくない一心で、
逃げの一手でいるにもかかわらず、やはり数匹の犬を斬殺してしまいながら、
漸く伊賀者でもある飼い主の元にたどり着き、その首を刎ねた途端に
犬たちはピタリとその攻撃を止め、散り散りに去っていったというお話。
(ネタバレ終わり)
犬はそういう生き物だし、犬並みの品性の持ち主と化してしまっているような、
人としては恵まれない境遇の部類の人種もまた、そうである以上はそうであろう。
「六韜」虎の巻に、あくまで首魁の撃滅に専念せよとあるのも、
きっとそのような乱世ならではの人間心理を突いているからなのだろう。
(>>219の続き)
これは、すでに丸々一スレ割いて語り込んだことだから、
もうそれほど長く詳述する気はないが。
人間という生き物には基本、「人を見る目」というものはない。
世界史上最大級の天才である諸葛孔明といえども、
弁舌ばかりに長けて実力のない馬謖を戦線に投入しては大敗を喫させて、
やむなくその責任を取って死なせねばならないような事態に見舞われたことが
あったように、基本、人間という生き物には理想的な人事を実現できるだけの
十分な他者への評価能力などは持ち合わせていないのが普通なのである。
故に、自分が特別無能である場合などに限らず、それなりに人から評価されるような
能力なり地位や資格なりの持主だろうとも、別にだからといって自分に人様の能力を
公正に評価して適材適所に配置する能力があるなどと断じてかかるべきではない。
にもかかわらず、選挙制込みの民主主義は人々に、自らの能力に応じた参政人事権のみならず、
最低劣の無能に至るまでのそれをあえて認めてかかるという暴挙に及んでいるものである。
それでは、最大限に有能な人間が、自らの至らなさを自覚しながら慎重を尽くして
人事に取り組んだ場合とはまさに真逆な、この世の大多数を構成している無能こそが
身勝手な恣意で行使したならではの、最低最悪級の人選が政治で横行するのも必然とのみなる。
これは、すでに丸々一スレ割いて語り込んだことだから、
もうそれほど長く詳述する気はないが。
人間という生き物には基本、「人を見る目」というものはない。
世界史上最大級の天才である諸葛孔明といえども、
弁舌ばかりに長けて実力のない馬謖を戦線に投入しては大敗を喫させて、
やむなくその責任を取って死なせねばならないような事態に見舞われたことが
あったように、基本、人間という生き物には理想的な人事を実現できるだけの
十分な他者への評価能力などは持ち合わせていないのが普通なのである。
故に、自分が特別無能である場合などに限らず、それなりに人から評価されるような
能力なり地位や資格なりの持主だろうとも、別にだからといって自分に人様の能力を
公正に評価して適材適所に配置する能力があるなどと断じてかかるべきではない。
にもかかわらず、選挙制込みの民主主義は人々に、自らの能力に応じた参政人事権のみならず、
最低劣の無能に至るまでのそれをあえて認めてかかるという暴挙に及んでいるものである。
それでは、最大限に有能な人間が、自らの至らなさを自覚しながら慎重を尽くして
人事に取り組んだ場合とはまさに真逆な、この世の大多数を構成している無能こそが
身勝手な恣意で行使したならではの、最低最悪級の人選が政治で横行するのも必然とのみなる。
「選挙制で政治家に首輪を付けておくのでなければ、プーチンみたいな暴君が生まれてしまう」?
プーチンだって体裁上は選挙制によって政治家であり続けているのだし、
仮にそれが上辺だけの不正な選挙によるのだろうとも、公正な選挙で
イスラエルの首長となったはずのネタニヤフと五十歩百歩である。
公正な選挙によってこそ、カルトの手先が30年にわたって政権を牛耳り続けて来たことが
この日本でも露呈したし、イギリスでも公正な選挙でインド人やムスリムが首相やロンドン市長
になってるし、アメリカでもまた公正な選挙でトランプなんかが大統領に当選しようとしている。
人を見る目などないはずの人間が、その暗愚さを開き直って直接政治家を選んでかかるような、
IQ60未満チンパン未満な知能による為政がついに完全破綻の域に達しつつあるのが、今である。
民主制によって、人を評価する資格などない部類の人間がその権限を行使することを公認して行く
試みもまた、イデオロギーとして劣悪に過ぎるが故に、好ましいだ好ましくないだ以上に、もはや
続けて行こうにも行けない事態に差し掛かっているのが今という時だし、それで共産制やその他の
専制に移行するのが嫌なのだったら、あとはイデオロギーゼロを選択する以外に余地はないのである。
プーチンだって体裁上は選挙制によって政治家であり続けているのだし、
仮にそれが上辺だけの不正な選挙によるのだろうとも、公正な選挙で
イスラエルの首長となったはずのネタニヤフと五十歩百歩である。
公正な選挙によってこそ、カルトの手先が30年にわたって政権を牛耳り続けて来たことが
この日本でも露呈したし、イギリスでも公正な選挙でインド人やムスリムが首相やロンドン市長
になってるし、アメリカでもまた公正な選挙でトランプなんかが大統領に当選しようとしている。
人を見る目などないはずの人間が、その暗愚さを開き直って直接政治家を選んでかかるような、
IQ60未満チンパン未満な知能による為政がついに完全破綻の域に達しつつあるのが、今である。
民主制によって、人を評価する資格などない部類の人間がその権限を行使することを公認して行く
試みもまた、イデオロギーとして劣悪に過ぎるが故に、好ましいだ好ましくないだ以上に、もはや
続けて行こうにも行けない事態に差し掛かっているのが今という時だし、それで共産制やその他の
専制に移行するのが嫌なのだったら、あとはイデオロギーゼロを選択する以外に余地はないのである。
もちろん、今の主人はその後継者にあたるような連中なわけだが。
これの伯父も、金丸と一緒に天皇訪中をゴリ押しして、
皇室にまで中共忖度を強いていたことが外交文書の公開からも発覚してたり。
ろくでもない連中ほど、世襲によってまで中枢権力を代々牛耳りながら、
腐敗の大元凶となっている現状に多くの人々があきれ返るあまりに、
「世襲政治こそは腐敗の元凶、即刻規制せよ!」などとの声もよく聞かれる。
ただ、世襲自体は江戸時代のような平和で安定的かつ政治腐敗が極限まで
排されていた時代にも今以上に盤石であったものだし、時に引責自殺も辞さないような
清廉な権力機構の世襲はかえって良好な結果を招く一方、汚職続きでもだれも責任を
取らないような腐れ切った権力の世襲はただひたすら壊乱を極めるという、
真逆方向への振り切れの法則があることを、前から俺も指摘して来たものである。
世襲を人事の本位とすることによってこそ、「人を見る目など基本、人間にはない」
という普遍法則に即した無理のない人事が実現されて行くものであるが故に、
昔の人々は世間がなるべく世襲で形成されて行くことをより尊んでいたのである。
ただそれはやはり、あくまで権力機構が清廉さを競い合うほどの風潮と共にある場合に限ってのことであり、
腐敗を競い合うような状態ならもはや権力全体を刷新してしまったほうがマシだということにもなる。
これの伯父も、金丸と一緒に天皇訪中をゴリ押しして、
皇室にまで中共忖度を強いていたことが外交文書の公開からも発覚してたり。
ろくでもない連中ほど、世襲によってまで中枢権力を代々牛耳りながら、
腐敗の大元凶となっている現状に多くの人々があきれ返るあまりに、
「世襲政治こそは腐敗の元凶、即刻規制せよ!」などとの声もよく聞かれる。
ただ、世襲自体は江戸時代のような平和で安定的かつ政治腐敗が極限まで
排されていた時代にも今以上に盤石であったものだし、時に引責自殺も辞さないような
清廉な権力機構の世襲はかえって良好な結果を招く一方、汚職続きでもだれも責任を
取らないような腐れ切った権力の世襲はただひたすら壊乱を極めるという、
真逆方向への振り切れの法則があることを、前から俺も指摘して来たものである。
世襲を人事の本位とすることによってこそ、「人を見る目など基本、人間にはない」
という普遍法則に即した無理のない人事が実現されて行くものであるが故に、
昔の人々は世間がなるべく世襲で形成されて行くことをより尊んでいたのである。
ただそれはやはり、あくまで権力機構が清廉さを競い合うほどの風潮と共にある場合に限ってのことであり、
腐敗を競い合うような状態ならもはや権力全体を刷新してしまったほうがマシだということにもなる。
じゃあ、民主制による政権交代はそれを実現してくれるのかといえば、もちろん
そんなこともなく、ただ腐敗を競い合う政権が交代するだけに終わるようなことになる。
権力機構が清廉を競い合う状態にあるか、腐敗を競い合う状態にあるかは、
そこに在職している人間の才覚の如何以前に、権力機構全体の構造体質がまず決するものであり、
どんなにひどい汚職を重ねようとも、最大級の引責手段は辞職なんていう状態であろうものなら、
(仮にそこで自殺などしようとも、ただの暴挙扱いで、偉業として評価されたりすることもない)
松平定信なみに清廉な為政者が介入しようとも、その腐敗を引き留められることはないのである。
然れども、引責自殺も辞さないような清廉さを帯びた権力機構が、民主制の体裁をも
両立できるのかといえば、まずそんなことはあり得ない。どうせ自分たち自身は無責任な傍観者
でしかないような民衆が、いざとなれば腹を切って薄皮一枚残して首を落とされるような方々を
上から目線で選ぶなど失礼にもほどがあるし、仮にそんな無礼をあえて強行しようものなら、
選挙への立候補者なども絶無と化してしまうのに違いないから、民主制の政治家というのは、
どうあっても引責辞職程度までしか責任を取らなくていい待遇でしかあり得ないのである。
そんなこともなく、ただ腐敗を競い合う政権が交代するだけに終わるようなことになる。
権力機構が清廉を競い合う状態にあるか、腐敗を競い合う状態にあるかは、
そこに在職している人間の才覚の如何以前に、権力機構全体の構造体質がまず決するものであり、
どんなにひどい汚職を重ねようとも、最大級の引責手段は辞職なんていう状態であろうものなら、
(仮にそこで自殺などしようとも、ただの暴挙扱いで、偉業として評価されたりすることもない)
松平定信なみに清廉な為政者が介入しようとも、その腐敗を引き留められることはないのである。
然れども、引責自殺も辞さないような清廉さを帯びた権力機構が、民主制の体裁をも
両立できるのかといえば、まずそんなことはあり得ない。どうせ自分たち自身は無責任な傍観者
でしかないような民衆が、いざとなれば腹を切って薄皮一枚残して首を落とされるような方々を
上から目線で選ぶなど失礼にもほどがあるし、仮にそんな無礼をあえて強行しようものなら、
選挙への立候補者なども絶無と化してしまうのに違いないから、民主制の政治家というのは、
どうあっても引責辞職程度までしか責任を取らなくていい待遇でしかあり得ないのである。
民主制でない体制が、必ずしも腐敗を招かないで済むわけでは決してなく、監察制度を形骸化
させた北宋時代以降の中国や朝魚羊が、腐敗まみれの専制なんていう最悪の政情に陥っていたこと
(さらにいえば欧州なども王権神授説頼みで延々と腐敗まみれの専制であり続けていたこと)
を思えば、それよりはまだ腐敗まみれの民主制のほうがマシなのではないかとも思われがちである。
ただ、民主制は上記のような理由で、政治機構が恒常的に腐敗状態でしかあり得ない一方、
引責自殺を競い合うような制度上からの構造改革によって、それを予防することも事実可能であり、
残念ながらそれは民主制などと共にはまず成り立ち得ないものであるという現実があるのみである。
江戸時代の日本や漢代の中国並みに、権力機構が構造面から腐敗を予防して行く徹底さを
帯びることを担保として民主制を廃し、仮にその構造が瓦解するようなら、民衆による新たな
体制革命も可とするのが、今以上に政治腐敗が予防されて、なおかつその弊害が排される最善の
選択肢となることであろう。なんのことはない、古来の世界史上にままあった慣例ではあるが。
(無論、西欧などごく一部の辺境地域では歴史上、そのような事例が皆無でもあったわけだが)
させた北宋時代以降の中国や朝魚羊が、腐敗まみれの専制なんていう最悪の政情に陥っていたこと
(さらにいえば欧州なども王権神授説頼みで延々と腐敗まみれの専制であり続けていたこと)
を思えば、それよりはまだ腐敗まみれの民主制のほうがマシなのではないかとも思われがちである。
ただ、民主制は上記のような理由で、政治機構が恒常的に腐敗状態でしかあり得ない一方、
引責自殺を競い合うような制度上からの構造改革によって、それを予防することも事実可能であり、
残念ながらそれは民主制などと共にはまず成り立ち得ないものであるという現実があるのみである。
江戸時代の日本や漢代の中国並みに、権力機構が構造面から腐敗を予防して行く徹底さを
帯びることを担保として民主制を廃し、仮にその構造が瓦解するようなら、民衆による新たな
体制革命も可とするのが、今以上に政治腐敗が予防されて、なおかつその弊害が排される最善の
選択肢となることであろう。なんのことはない、古来の世界史上にままあった慣例ではあるが。
(無論、西欧などごく一部の辺境地域では歴史上、そのような事例が皆無でもあったわけだが)
洋学流の思考回路に基づけば、民主制なき所には専制ありとなるのであろう。
江戸時代などもまた、何度も混浴場が禁止されては勝手に横行するようなユルさでいながらも、
平民が公職者たる武士に土下座させられるほどにも官民の上下関係が徹底されていた側面も
あったことを以て、ひとからげに旧態依然とした専制のうちに入れて済ませられるのが現状である。
ただ、官民の上下関係が民主化によってなくなったからといって、この世からあらゆる上下関係が
なくなったなんてことは決してなく、むしろお上が非道な派遣労働の斡旋(口利き)などを
固く禁じて取り締まっていた江戸時代など以上にも、民間での上下関係は極大化し、
企業内での上司と部下、大企業と中小企業などの間での格差は天地の如く開き、
今しがたもトヨタの横暴に振り回されてのダイハツの大不正が発覚したが如き、
民間での昔以上に絶大な腐乱を来たしているのが、昨今の日本の実情である。
だから、俺も皮肉を込めて、今という時代を「民間封建制の時代」などと前から称しているもの。
民主化が別に人間社会の本質的な平等化なんかに貢献したなんてことは全くなくて、ただ、
差別構造が官民間から民間一本に絞られた上に、総合的な差別度はむしろ増したぐらいのものである。
江戸時代などもまた、何度も混浴場が禁止されては勝手に横行するようなユルさでいながらも、
平民が公職者たる武士に土下座させられるほどにも官民の上下関係が徹底されていた側面も
あったことを以て、ひとからげに旧態依然とした専制のうちに入れて済ませられるのが現状である。
ただ、官民の上下関係が民主化によってなくなったからといって、この世からあらゆる上下関係が
なくなったなんてことは決してなく、むしろお上が非道な派遣労働の斡旋(口利き)などを
固く禁じて取り締まっていた江戸時代など以上にも、民間での上下関係は極大化し、
企業内での上司と部下、大企業と中小企業などの間での格差は天地の如く開き、
今しがたもトヨタの横暴に振り回されてのダイハツの大不正が発覚したが如き、
民間での昔以上に絶大な腐乱を来たしているのが、昨今の日本の実情である。
だから、俺も皮肉を込めて、今という時代を「民間封建制の時代」などと前から称しているもの。
民主化が別に人間社会の本質的な平等化なんかに貢献したなんてことは全くなくて、ただ、
差別構造が官民間から民間一本に絞られた上に、総合的な差別度はむしろ増したぐらいのものである。
ゆえに、仮に今の日本社会から民主制が撤廃される代わりに、江戸時代並みに民間での差別構造が
公職者によって厳重に取り締まられるーーなおかつ公職者たちもまた清廉潔白、清貧を旨とする
世の中へと移行するのであれば、それが専制への逆戻りになるなどとは、少なくとも俺は認めない。
日本以上に民主主義の先進国であるアメリカや英仏などを含め、この世の中において民主制が、
少なくとも江戸期の日本などよりも世の中の平等化を実現したなどということは全くなくて、
むしろ所得格差や学歴やそれに基づく代々の血筋からの差別度はより拡大してしまったうえに、
底辺層には家族を築いて一人前の人生を歩んで行く程度の待遇すら保証されないという、
どこを見ても完全によりひどい差別構造を蔓延させてしまっただけなのだと結論付ける外ない。
だからこそ、民主制の撤廃がほんの少しだって、人間社会の平等化にとっての退歩になるなどと
認めることもできない。無論、民主制なみにひどい差別構造を世の中にもたらす専制なども実在する
といえども、それこそ民主制との五十歩百歩、目糞鼻糞であって、人間社会を司る体制としての
品質面で最低最悪級のド底辺からの脱却のためには、その両方からの卒業が必須となるのである。
公職者によって厳重に取り締まられるーーなおかつ公職者たちもまた清廉潔白、清貧を旨とする
世の中へと移行するのであれば、それが専制への逆戻りになるなどとは、少なくとも俺は認めない。
日本以上に民主主義の先進国であるアメリカや英仏などを含め、この世の中において民主制が、
少なくとも江戸期の日本などよりも世の中の平等化を実現したなどということは全くなくて、
むしろ所得格差や学歴やそれに基づく代々の血筋からの差別度はより拡大してしまったうえに、
底辺層には家族を築いて一人前の人生を歩んで行く程度の待遇すら保証されないという、
どこを見ても完全によりひどい差別構造を蔓延させてしまっただけなのだと結論付ける外ない。
だからこそ、民主制の撤廃がほんの少しだって、人間社会の平等化にとっての退歩になるなどと
認めることもできない。無論、民主制なみにひどい差別構造を世の中にもたらす専制なども実在する
といえども、それこそ民主制との五十歩百歩、目糞鼻糞であって、人間社会を司る体制としての
品質面で最低最悪級のド底辺からの脱却のためには、その両方からの卒業が必須となるのである。
江戸時代のような模範的な封建制の時代にも、支配者たる武家の大部分は世襲で、
大金持ちの民間人といえども下士の株を買って底辺の武家になることぐらいしか
許されていなかったのは、特にその辺の問題を偏向的に描き立てている反幕系の
創作が多い、坂本龍馬関係の情報に詳しい人間などがよく知るところだろうが。
そのような、官民の絶対的な上下関係が撤廃された今は、どうであろう?
政官に誰でも好きに介入できる体裁となり、実際に田中角栄みたいな、血筋も学歴もド底辺な
新潟人までもが首相になれるようになった時代にも、政治家なんてただ批判されるばかりで、
割に合わない立場だからと、まともな判断力の持主ほど寄り付かず、官僚も激務のわりに
稼げないからと、大企業の重役などよりもあえてやる価値などない職分扱いされている始末。
結局、官民の体裁上からの断絶などがあろうがなかろうが、政官なんぞなるべくなら誰も
請け負いたくもない立場であることには変わりなく、ただ、断絶の上での公職者への高い地位や
名誉が保証されていた時代には、それ相応の責任を背負って職務に取り組もうとする君子士人もまた
いた一方で、民主化の時代にはそれが丸ごと撤廃され、誰もやりたがらない仕事を嫌々やる上に、
不祥事を起こそうが誰も責任も取らないという、完全下位互換の政府人事のみが招かれたのである。
大金持ちの民間人といえども下士の株を買って底辺の武家になることぐらいしか
許されていなかったのは、特にその辺の問題を偏向的に描き立てている反幕系の
創作が多い、坂本龍馬関係の情報に詳しい人間などがよく知るところだろうが。
そのような、官民の絶対的な上下関係が撤廃された今は、どうであろう?
政官に誰でも好きに介入できる体裁となり、実際に田中角栄みたいな、血筋も学歴もド底辺な
新潟人までもが首相になれるようになった時代にも、政治家なんてただ批判されるばかりで、
割に合わない立場だからと、まともな判断力の持主ほど寄り付かず、官僚も激務のわりに
稼げないからと、大企業の重役などよりもあえてやる価値などない職分扱いされている始末。
結局、官民の体裁上からの断絶などがあろうがなかろうが、政官なんぞなるべくなら誰も
請け負いたくもない立場であることには変わりなく、ただ、断絶の上での公職者への高い地位や
名誉が保証されていた時代には、それ相応の責任を背負って職務に取り組もうとする君子士人もまた
いた一方で、民主化の時代にはそれが丸ごと撤廃され、誰もやりたがらない仕事を嫌々やる上に、
不祥事を起こそうが誰も責任も取らないという、完全下位互換の政府人事のみが招かれたのである。
どちらもつらい仕事を嫌々やらされる上に、今でいう東大ぐらいは軽く出られるぐらいの知性がないと
済まない所もあるから(儒学や仏学を本分としていた時代の公人にも当然、それ以上の知能があった)、
どちらにしたって、世襲込みでもなければできる人間がいなくなってしまうのも同じことで、ただ、
政官に地位と名誉のあった時代には、責任意識の高さと共に世襲されていた一方、民主制の時代には、
どうやって責任を逃れるかを模索する卑屈さばかりと共に世襲が繰り返されているという相違がある。
そこで世襲される血筋もまた、大脳の前頭葉に良質な知恵が蓄積されることに長けた血筋だったり、
側頭葉で悪知恵を凝らすことに長けた血筋だったりして、遺伝子面からもまったく別の生き物となる。
都合の悪いことはすぐに忘れて、心の底から「記憶にございません!」と答弁できるようになるために、
前頭葉の長期記憶能力は人並み以上に萎縮したりと、人として常人未満な負の能力開発込みでの世襲が
繰り返された結果、ちょっとその辺にはいないような兇徒ばかりがそこに代々駐在する血筋になったりと、
負の世襲は紛れもなく権力腐敗をより盤石ならしめる元凶となるために、当然排されるべきには違いないが、
そこだけを排しようたってまず無理なほどに、その時点ですでにその政府はまず手遅れと化しているのである。
済まない所もあるから(儒学や仏学を本分としていた時代の公人にも当然、それ以上の知能があった)、
どちらにしたって、世襲込みでもなければできる人間がいなくなってしまうのも同じことで、ただ、
政官に地位と名誉のあった時代には、責任意識の高さと共に世襲されていた一方、民主制の時代には、
どうやって責任を逃れるかを模索する卑屈さばかりと共に世襲が繰り返されているという相違がある。
そこで世襲される血筋もまた、大脳の前頭葉に良質な知恵が蓄積されることに長けた血筋だったり、
側頭葉で悪知恵を凝らすことに長けた血筋だったりして、遺伝子面からもまったく別の生き物となる。
都合の悪いことはすぐに忘れて、心の底から「記憶にございません!」と答弁できるようになるために、
前頭葉の長期記憶能力は人並み以上に萎縮したりと、人として常人未満な負の能力開発込みでの世襲が
繰り返された結果、ちょっとその辺にはいないような兇徒ばかりがそこに代々駐在する血筋になったりと、
負の世襲は紛れもなく権力腐敗をより盤石ならしめる元凶となるために、当然排されるべきには違いないが、
そこだけを排しようたってまず無理なほどに、その時点ですでにその政府はまず手遅れと化しているのである。
「東大ぐらいは出られる知性」とは言ったけれども、
所詮はその東大が洋学の教育機関止まりでしかないのだから、
逆に、それだけではまだ為政者の資質として不足とすらいえるものである。
洋学の試験勉強などは、ほぼ大脳の側頭葉だけで済ませられる所があるから、
側頭葉だけは並外れて発達しているような、偏った脳構造の人種ばかりが長ずることとなる。
(そのため試験が終われば勉強したことをゴッソリ忘れてしまったり、
「一切記憶にございません」の責任逃れ系忘却能力に秀でたりもする)
儒学や仏学の体得級の勉強のためには、死ぬまで忘れることがない前頭葉の長期記憶域に
その教えをしっかりと刻み付けて行く必要があるために、そんな人種にはまず務まらないもの。
なおかつ、世の中には側頭葉での悪巧みを凝らすような悪党もまた絶えないものだから、
儒仏の教えを現実社会の統治のために有効活用する上では、そんな連中を上回るほどの、
側頭葉の稼働能力もまた用心として持ち合わせておくのでなければならない。
(そのため古来の仏門も、あらゆる学問への通暁者を入門資格者としていたのである)
つまり、洋学の勉強止まりなら、側頭葉頼みのカタワな脳活用だけでも済むが、
儒学や仏学のような正学の勉強のためには、脳のフル活用が本当に必要になるということ。
それは、脳の使い方がヘタな人間にとっては難儀で受け付け難いこととなるが、
逆言すれば、正しい脳の使い方の修練を通じて精神の障害を克服、予防して行く手立てともなる。
所詮はその東大が洋学の教育機関止まりでしかないのだから、
逆に、それだけではまだ為政者の資質として不足とすらいえるものである。
洋学の試験勉強などは、ほぼ大脳の側頭葉だけで済ませられる所があるから、
側頭葉だけは並外れて発達しているような、偏った脳構造の人種ばかりが長ずることとなる。
(そのため試験が終われば勉強したことをゴッソリ忘れてしまったり、
「一切記憶にございません」の責任逃れ系忘却能力に秀でたりもする)
儒学や仏学の体得級の勉強のためには、死ぬまで忘れることがない前頭葉の長期記憶域に
その教えをしっかりと刻み付けて行く必要があるために、そんな人種にはまず務まらないもの。
なおかつ、世の中には側頭葉での悪巧みを凝らすような悪党もまた絶えないものだから、
儒仏の教えを現実社会の統治のために有効活用する上では、そんな連中を上回るほどの、
側頭葉の稼働能力もまた用心として持ち合わせておくのでなければならない。
(そのため古来の仏門も、あらゆる学問への通暁者を入門資格者としていたのである)
つまり、洋学の勉強止まりなら、側頭葉頼みのカタワな脳活用だけでも済むが、
儒学や仏学のような正学の勉強のためには、脳のフル活用が本当に必要になるということ。
それは、脳の使い方がヘタな人間にとっては難儀で受け付け難いこととなるが、
逆言すれば、正しい脳の使い方の修練を通じて精神の障害を克服、予防して行く手立てともなる。
近頃また、東大出身アイドルが努力否定論者を叩いて炎上なんて事案も発生しているが、
おそらくは当人もまたいうほど脳の使い方がうまいわけではなく、ただ洋学の試験勉強には
大変向いている部類の、側頭葉活性型の人種ではあったのだろうとは見受けられる。
そのために、誰でも努力さえすれば東大ぐらい入れるように自分尺度では思われるけれども、
そもそもが大学の入学試験なんてもの自体が相対評価で、受かる人間もいれば落ちる人間も
いるように調整されるものである上に、この世の中には側頭葉の活用にかけてはさほど秀でて
いないような部類の人間もまたいくらでもいて、そういう人々にとっては、洋学の試験勉強だけは
どんなに努力したところで落とされる側に回される他ない、諦めの対象となってしまうのである。
別に、そういう人間が必ずしもあらゆる面で東大生よりも格下だなんてわけでもなく、
側頭葉以外の脳の部位の活用能力ではより秀でていて、ある種の分野で秀でることもあるし、
そうでなくたって脳の使い方が特別、東大生などよりも劣っているとも限らないのである。
側頭葉であれ後頭葉であれ、右脳であれ左脳であれ、脳の活性域が偏っているような人間は
所詮、脳の扱い方がヘタな人間である点では同じ穴の狢で、件の東大出身アイドルなども、
自分もまたその範疇の人種でしかないからこそ、勉強で努力できない部類の人間を嫌悪するような、
他者の個人事情を十分に推し量ることも出来ない心の余裕のなさのままでいるのである。
おそらくは当人もまたいうほど脳の使い方がうまいわけではなく、ただ洋学の試験勉強には
大変向いている部類の、側頭葉活性型の人種ではあったのだろうとは見受けられる。
そのために、誰でも努力さえすれば東大ぐらい入れるように自分尺度では思われるけれども、
そもそもが大学の入学試験なんてもの自体が相対評価で、受かる人間もいれば落ちる人間も
いるように調整されるものである上に、この世の中には側頭葉の活用にかけてはさほど秀でて
いないような部類の人間もまたいくらでもいて、そういう人々にとっては、洋学の試験勉強だけは
どんなに努力したところで落とされる側に回される他ない、諦めの対象となってしまうのである。
別に、そういう人間が必ずしもあらゆる面で東大生よりも格下だなんてわけでもなく、
側頭葉以外の脳の部位の活用能力ではより秀でていて、ある種の分野で秀でることもあるし、
そうでなくたって脳の使い方が特別、東大生などよりも劣っているとも限らないのである。
側頭葉であれ後頭葉であれ、右脳であれ左脳であれ、脳の活性域が偏っているような人間は
所詮、脳の扱い方がヘタな人間である点では同じ穴の狢で、件の東大出身アイドルなども、
自分もまたその範疇の人種でしかないからこそ、勉強で努力できない部類の人間を嫌悪するような、
他者の個人事情を十分に推し量ることも出来ない心の余裕のなさのままでいるのである。
今の学校での勉強、特に高偏差値大学を出る域の高度教育は、
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
現状においても、脳のフル活用に長ける万能超人の増産なんてのは夢のまた夢
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
ストーキングスレ、削除したのかされたのか知らんが、
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
(>>233の続き)
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
儒学や仏学のような正学の振興ですら、世の中に対して征服的すぎると弊害を招くというのに、
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
近頃、平民が士分の株を買って武家になることもあったような
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
ただ古来、日本の職工は相応な名誉、尊厳と共に働いていたために、
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
身分制による差別であれ、それを廃しながらの実質的な差別であれ、
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
本当に重要なのは、身分制の有無ではなく、権力者たちによる征服支配の軽重であり、
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
昔の平民が、身分制によってまでお侍さんへの平伏を強いられていたのは、
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
身分制というもの自体が強権支配の象徴のように思われがちだし、
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
このスレももうすぐ終わり。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
自由主義や民主主義にまで疑念を抱く人間はまだそう多くはないにしろ、
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
そうならないための具体的な施策をあえて挙げるとすれば、
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
公権力が政商の支配下に置かれないようにするための施策として、
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
それは、洋学のような劣悪な異学に基づくイデオロギーによる支配に限った話ではない。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
欧米人や近年の中韓人などは、掃除なんて下賤のやる仕事、
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
新スレは来年にでもと思ったが、
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
[YouTubeで再生]
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
ネットの普及もかえって馬鹿を増産してしまったとビルゲイツも認めているように、
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
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スレッドタイトル:この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である